033:忙殺・マクロ・カカオ80%
久しぶりに行燈館に顔を見せに来た羽黒ともみじが、紫の膝の上でちょこんと座っている火里を覗き込んだ。
「しばらく見ないうちにまたデカくなったな」
「そうですね。もう結構文脈でおしゃべりできるんじゃないですか?」
「はい。行燈館だとみんな結構積極的に話しかけるので、言葉の発達が他の子より早い気がするです」
ねー、と紫が火里に笑いかけると、火里もまた反射的に笑みを浮かべる。
「火里は何が好き?」
「きょーうー!」
「恐竜格好いいですよねー」
「あい! といけあとうす! つおくてしゅき!」
「トリケラトプスいいでよねー」
「おお、本当によく喋るな」
「紫がこれくらいの時はまだパパママくらいしか喋れてなかった気がしますよ」
「そうなんですか?」
「紫ちゃんがパパママ以外で最初に話した言葉ってなんだったんですか?」
と、裕がお茶を入れた湯飲みをお盆で運んでやってきた。その後にお茶請けを抱えたビャクも続く。
「お、悪ぃな」
「いえいえこれくらい」
「火里がいつもお世話になってるからねー」
ちゃぶ台の上にそれぞれ湯飲みが配られ、まずは香りを楽しみながら一口すする。決して高い茶葉ではないが、丁寧に淹れられたことが分かる味わいが感じられた。
「何だったかな、紫の第一声」
「確か、うどんじゃなかったですか? くたくたに煮たうどんが離乳食の中で一番好きだったんですよ」
「おー、それだそれ」
「うどんて……」
お茶請けの煎餅を齧りながら紫が微妙な顔をする。今でこそ煎餅どころか魔導具や魔石までがりがり噛み砕く強靭な顎と歯を持つ悪食娘だが、流石に赤子の頃は普通に離乳食を食べていたのだ。
「まくろ!」
「うん?」
と、火里が不意に声を上げる。
何事かと思って見てみると、羽黒の方を指さしていた。
「まくろ!」
「これは『真っ黒』なのか、羽黒ってちゃんと発音できてないのか、どっちでしょうね」
「ミクロだったらパパの妙なところで小さい器を表してると思うですがね、マクロじゃ違うか」
「なんだと紫てめー、給料下げるぞ」
「そういうところじゃないかなあ……」
苦笑を浮かべながら、ビャクが一度手に取ったチョコレートをお盆に戻す。苦手なカカオ80%以上のものが紛れていたらしい。改めて甘い方のチョコレートを手に取った。
「まくろ、とーちゃと、どっちつおい?」
「お?」
「どうやら羽黒の方だったみたいですね」
「ハクロと父ちゃんのどっちが強いか、かあ。うーん」
ビャクが一瞬言葉に詰まる。裕もここ十年ほどで大概頭がおかしくなるレベルの術者として名を馳せているが、流石に相手が悪すぎる。かと言ってそう真っ直ぐ答えるのは愛する夫に悪い気がする。
「そりゃもちろん羽――」
「父ちゃんですよー」
「紫ちゃん?」
裕が自ら答えようとしたところを紫が遮った。
紫がにやにやと笑いながら火里と裕を見る。
「火里の父ちゃんはめっちゃ強いですからね。パパなんて遠くからズドンとイチコロですよ」
「とーちゃ、つよい!」
「……はは」
「だとよ、父ちゃん。子供の期待には応えろよ?」
「善処します……」
苦笑いを浮かべる裕と、それを面白そうに笑う羽黒。目指す高見はあまりにも遠い。
「でも実際、パパと真っ当に戦って勝てる人ってどれくらいいるですかね」
ふと、紫が何とはなしに呟く。
「パパとママだととっちが強いです?」
「それは比べられないんじゃないかな?」
「方向性が違うよね」
例え羽黒が最大級の害意を以ってもみじに刃を向けたとしても、もみじはそれを平然と受け止め続けるだろう。それこそ、自分が死ぬまで無抵抗に死に続けるだろうと裕は予想する。かと言ってもみじの方が弱いのかと言ったら絶対にそんなことはなく、もし殺し続けている最中に気が変わったりして少しだけ抵抗を見せたら、羽黒など一瞬で血溜まりも残らない。
「じゃあ他の人……ノワールおじさんとかは?」
「なんでそんな難しいカードばっかりなんだ」
「だってその辺くらいしかまともに戦えそうな人いないですし。この前も鬼ごっこしてたですし、地脈ふっ飛ばしながら。パパもパパでそこからしれっと無傷で逃げ切りましたし、本気でぶつかったらどうなるです?」
紫の腕の中で火里がこくりこくりと舟をこぐ。流石に話の中身が難しくなってきたため限界を迎えたらしい様子を見てビャクが紫から火里を受け取り、背中をとんとんと優しく撫でながら奥の寝室へと向かっていった。
発端となった火里がお昼寝タイムに突入しても、議論は続く。
「そもそも前提が色々あるだろ」
「前提?」
「まず魔術や術式を使わず、純粋な肉弾戦ないし身体強化だけで殴り合い、斬り合いをする場合。この時は流石に俺も負ける気はない。10:0で俺が勝つ。だが実際はそんなことは起こりえない」
「あー、まあ。ノワールおじさんですからね」
「次に魔術と術式あり、時間制限とルール有りの試合形式。さらに事前準備無しで急にやれと言われたら、たぶん俺が勝てる。7:3くらいか」
「事前準備有りなら?」
「ノワールが俺に対するメタを張ってくるだろうが、俺も準備できるからな。五分五分だろう。しかし、実際はこれもあり得ない」
戦場にルールなど、まして制限時間も存在しない。その中でどれほど相手に対して事前準備を整えられるかが勝敗の鍵となる。それに関しては羽黒の方に一日の長があるとは言え。
「魔術、術式あり、リミット無し、ルール無用、事前準備万端の場合。まず間違いなく俺が負ける。10:0どころか100:0だ」
「……信じられないです」
紫が悔しそうに臍を噛む。それに対して羽黒は肩を竦めて軽薄に笑った。
「もちろん俺もただで負けるつもりはないし、瞬殺されてやる気はさらさらない。だがことその条件で殺り合う場合、ノワールには圧倒的有利な点がある」
「何ですか?」
「奴には底を尽きることのない魔力がある。つまり休息や兵站といった概念が必要ないんだよ。五日は粘れるだろうが、それが十日、一月と続けば流石に無理だ」
「あ……」
〈漆黒の支配者〉という元魔法士という人物と相対する場合、どうしてもその圧倒的な魔力量とそこから繰り出される数々の魔術に目が行きがちだが、羽黒としてはそれを捌き切るだけの手数に自信はある。しかし問題は、それが延々と終わることなく繰り出され続けるという点だ。
「俺も今や真っ当に人間とは言えんだろうが、それでも疲弊するし腹も減る。だがあいつはその辺のことを丸っと全部魔力で解決しちまう。その結果、戦闘後に強烈な反動が来るだろうが、それすらも魔力に物言わせて少しずつ回復する。誰があんなのに勝てるかよ」
どこぞの狸親父やその息子、政府の仙人、魔女、冥府の官吏さえ、ノワールの物差しにならない。もみじや、彼の魔帝でさえノワールとは相性が悪く、不毛な泥試合になるのは目に見えている。先に戦場となった世界の方が滅ぶ。
「勝てる奴がいるとすれば、俺は一人しか知らない」
「だ、誰です?」
「そういや、お前は会ったことなかったか。――〈災厄〉っていや、俺以上に悪名轟いてたんだがなあ」
羽黒はふと、ポケットから式神に使っている紙とペンを取り出した。そして何やらさらさらとペン先を奔らせると、妙に絵心のある仏頂面を浮かべた黒髪の青年と、黒いセーラー服姿の紫が描かれた。
「ここにノワールとお前がいるとする。ここにいるお前はどうやって倒す?」
「とんちですか? うーん……」
羽黒の意図が読めず、うんうん唸りながら首を傾げる。
しばらく待って答えが出ないと判断した羽黒は紙を手に取り――ビリリと裂いた。
「……!」
「〈災厄〉はこうやって破る」
丁寧に丁寧に紙を細かく千切り、バラバラにされたノワールがちゃぶ台の上に紙吹雪となって散った。
「〈漆黒の支配者〉に対する完全なメタ。それが〈災厄〉だ」
「…………」
「ちなみにこの〈災厄〉だが、単純な殴り合いではお前でも勝てるくらい脆いぞ。魔力量もカッスカスだし、この10年でさらに減ったと聞く。最近は仕事が忙しくて忙殺状態らしいが、そんな状態でもなお、ノワールは手も足も出ない」
まあ実際に〈災厄〉相手に殴り合いに持ち込める奴などほとんどいないのだが。羽黒以外で名を上げるとすれば、冥府の官吏くらいだろう。それもまたある意味のメタだ。
「まあつまり何が言いたいかっていうと――誰が誰より強いかなんて、考えるだけ無駄ってことだ」
「結局そこに落ち着くんですね」
と、今まで黙って話を聞いていた裕が苦笑する。
「水は火に強いけど、コップ一杯の水で山火事は消せない、けれどそれを可能にするのが魔術って、誰の言葉でしたっけ」
「情報の神じゃなかったか」
「ああ、それです」
逸れた内容に主題が移り、羽黒と裕で話し始める。
それをぼうっと聞きながら、紫は頭の隅で思考する。
――誰が誰より強いかなんて、考えるだけ無駄。
それなら、誰よりも強くあろうと足掻いている自分は、なんなのだろう。
父である瀧宮羽黒、母である白銀もみじの娘として、常に注目を集め、時には命を狙われてきた。周囲の視線に応えられるよう常に鍛錬を怠らず、基礎をしっかりと重ね、さらに新しい技術にも挑戦し続けている自負はある。
けれど大好きな父親は、誰かより強くなることに意味はないという。
それならば――
「誰かより強くではなく、大切な誰かを守れるだけの強さがあれば、それでいいんですよ」
と、耳元に優しいソプラノが届く。
顔を上げると、もみじがそっと微笑んでいた。
「羽黒は強いですけど、でも結局、根幹はそこなんですよ」
「ママ……」
「最初は梓さんを、そして白羽さんを、家族を、友人を……私を、守るため、そのたびに必要なだけ強くなっていったんです。その積み重ねが瀧宮羽黒であり、あなたのパパなんです」
「…………」
「紫、今あなたが一番守りたいのは誰ですか?」
問われ、真っ先に浮かんだ顔と名を口にする。
「火里です」
もちろん、あの子を真っ先に守るのはいつだって父親の裕と、母親のビャクだ。それでも、紫もまた火里を守りたいと思っている。
あの愛くるしく、無邪気な赤子を。
家族を。
「でしたら」
もみじが紫の髪を撫でる。
気付けば外は日が沈んだらしく、紫の髪は黒から白へと変貌していた。
「まずは火里を守れるだけ、強くなりましょうね。ゆっくりでいいんです。紫の人生、長いんですから」
「……はい!」
その言葉に、紫はしっかりと頷いた。





