013:漫画・こたつ・大降雪
その夜、白羽は気付いたら自身の住まう屋敷へと帰宅していた。
道中のことは全く覚えていない。手元に愛車のキーがあるということは、いつも通り自分の運転で帰ってきたのだろうが欠片も記憶にない。そのことに気付いて、よく事故を起こさずに帰ってこれたと流石に背筋が冷えた。
「お帰りなさいませ、宗家」
「ん」
門扉で出迎えた使用人にコートとバッグを預けながら曖昧に頷く。
自分でもらしくないと思う。しかしどうにも先日の一件以来、頭が上手く働いてくれない。こんなことは白羽の人生において、未だかつてない。肉体を失い実兄・羽黒の魂に封じられていた時でさえ、暇を持て余して徒に思考を巡らせていたというのに。
「ご入浴とお食事の準備はできておりますが」
「先にお風呂――いえ、ちょっと待ってくださいな」
白羽を追従する使用人に指示を出しかけたその時、自室の方から漂う気配に気付く。白羽のみが感知できるその冷たい魔力に、小さくため息を吐く。
「いつものお客ですわね。先にそっちの対応をしますわ」
「……! かしこまりました。お気をつけて」
一瞬表情を引きつらせるも、すぐに整えて恭しく頭を下げる。流石に瀧宮家に仕えて長いだけあって、この件に関して手慣れている。
「はあ……なんでよりにもよって今なんですの……いえ、あの子にとって『今』なんて関係ないのか……」
強いて言うならば、彼女にとっては全てが「今」である。
気持ちを改め、白羽は自室へと向かう。
* * *
その部屋の周囲は、瀧宮家という強大な組織を束ねる長の居城でありながら、一切のセキュリティが存在しない。監視カメラも、魔術的な探知術式も、なんなら火災報知器やネット回線さえ範囲外。そもそも電気系統その物がその部屋のみで独立して稼働してある。
何故そのようなことになっているかと言うと、時折何の予告もなしに唐突に尋ねてくる白羽の厄介な友人に起因する。
野薔薇凛華。
またの名を、元魔王連合序列第8位〝君主〟――紅蓮の魔王。
彼女に目を付けられ、一方的に付き纏われるようになったのが約10年前。最初こそ公衆電話からの毎日の着信だったが、屋敷を特定され、アポなし突撃されるまでそう時間はかからなかった。
この魔王の最も恐ろしいのは、意志を持った絶対零度と称される冷気を操る能力――ではない。恐ろしいのは、それに付随して自動的に発生する、時間の歪曲である。
彼女の前では時すら凍えて動きを止める。
しかも手が負えないことに、この時間凍結は伝播する。
彼女が存在するだけで、彼女の周囲数十メートルの時空は動きを止める。それだけならば、彼女がその場を去れば再び時は動き出し、特に何もない。せいぜい範囲内の生物が極低温により一瞬仮死状態となり、そこからの復帰時に眩暈や立ち眩みを覚える程度だ。
しかし、それを外部から観測した場合が問題だ。
彼女の時間凍結範囲外からそれを観測した場合、その者の時間も凍結する。さらにその者を観測した者、さらにその者を観測した者――と、時間の凍結は広がっていく。
さながら、窓ガラスに付着した氷の結晶のように。
それが効かないのは、白羽のように時間歪曲系統の異能を扱える者か、時間の流れにすら置き去りにされた一部の人外だけだ。
そしてそれが原因で、この世界は一度滅びかけている。彼女が白羽に会いに瀧宮屋敷を訪れた際、何も知らない屋敷の術者たちが彼女の周囲の時間凍結を観測してしまい、瞬く間に世界中へ伝播した。
幸いなことに、白羽がいち早く来訪に気付いたため彼女の説得に成功し、一度世界の外へ出てもらうことで世界の完全凍結は免れた。
しかしそんなことを何度も繰り返していられないため、白羽はやむを得ず、彼女と会うためだけの部屋を一つ用意し、彼女に自分に会いに来る時はそこで待つよう言いつけたのだ。
各国の魔術組織からは口を揃えて「出禁にしろ」「そもそも野放しにするな」と苦情が来ているが、知ったことかと今日まで突っぱねている。そんな理屈が通じるような相手なら魔王なんぞやっていないのだ。
ともかく。
今日も今日とてその野薔薇凛華が白羽に逢いにやって来たということだ。
「……いた」
部屋の扉を開けると、大雪の中に放り出されたかのような冷気に襲われる。
それを自身の時間を歪曲させながら身体強化術の応用で堪え、白羽は部屋の片隅の魔道具に火を入れる。そしてじんわりと暖かくなってきたのを確認したら、厚手の布団がかけられたテーブル型の魔道具に足を突っ込む。
一見するとただのストーブと炬燵だが、どちらも魔王の冷気を退けるほどの炎属性の魔術が施されている。これだけでどっかの伏魔殿が100回は修理できるほどの金額がかけられている。
「グレンちゃん」
「……………………」
そして白羽の部屋がこんなことになっている原因である凛華は、炬燵の反対側に腰かけて読書に勤しんでいた。
薄い水色の髪に藍色の瞳、黒いセーラー服に黒い長手袋と赤いマフラーといういつもの恰好。出遭った当初は同じくらいの年頃に感じたが、今や自分より幼く見えてしまうほどに、変わらない。
結構な読書家で、分厚い哲学書から知能指数が下がりそうな低俗なギャグマンガまで幅広く読み漁る。来る度に何かしらの本を持ち込むため、今や白羽の部屋の本棚は彼女のおススメ本で埋め尽くされてしまった。入りきらなかったものは別室に棚を用意して保管してあるが、最近はさながら図書館のような光景になりつつある。
「グレーンちゃん」
「……………………」
再度呼びかけるも、反応はない。藍色の瞳は一心不乱に手元の本――今日は「5分で作れる時短レシピ」――のページを奔っている。
この状態だといくら呼び掛けても、足や頬を突っついても反応はない。満足するか、読み終えるか、自分で一区切りつくまで止まらない。何をしに来たんだこいつはと思うこともあるが、どうしようもない。
「…………」
「……………………」
炬燵の座る位置を移動して凛華の隣に腰かけた白羽は、ぼうっと、彼女の綺麗な横顔を眺める。長い睫毛が時折瞬きで揺れる。
そう言えば、と思い出す。
彼女は出遭った頃から変わらないと考えていたが、よく見れば色々と変わったと気付く。
それまで味気ない無地のマフラーをしていた凛華へ、細かい作業の鍛錬として試作したマフラーをプレゼントしたら、次からそれを擦り切れるまで着けて来た。今巻いている赤いマフラーは、三代目か四代目のものだ。最初の試作と比べたらかなり綺麗に作れたと思う。
儚げが過ぎて生気の感じられない凛華へ、リップをあげたこともあった。最初は使い方がわからず、口の周りをべったべたにして泣きそうになっていたのを今でも覚えている。ファンデーションやアイシャドウの使い方も少しずつ教えてあげた結果、元から目が眩むような美少女ではあったが、今や彼女はどこに出しても恥ずかしくない傾国級の美少女となった。もっとも、この状態の彼女を見ることができるのは白羽しかいないが。
いつもざんばらだった彼女の髪の毛を整えたこともあった。聞けば、伸びてきたと感じたら束ねてカッターナイフで切り落としていたという。それを聞いて眩暈をおぼえて以来、彼女の散髪は白羽の係だった。
あれも、これも、そこも、ここも。
見れば見るほど、凛華は変わった。白羽が変えた。彼女に振り回されてきたと思っていたが、存外、白羽から凛華へ与えた影響の方が多かったかもしれない。
いつの間にか、魔王と、それを警戒する術者から、ただの友達へと変わっていっていた。
「ねえ、グレンちゃん」
「……………………」
だからそれが、ある種の油断だったのかもしれない。
いや、どのみち避けられないことではあったが。
「白羽、プロポーズされてしまいましたわ」
「誰に!?」
どん! と。
気付けば白羽は凛華に押し倒されていた。
両の手首を抑えられ、睫毛と睫毛がぶつかり合うような距離で、唇で彼女の獣のような荒い息遣いを感じる。藍色の瞳孔の奥から狂気が滲み出るのを、思いのほか白羽は冷静に眺めていた。
「ねえ、誰に!?」
「前にも何度か話したでしょう? 白羽の体を再構築した錬金術師ですわ」
冷静に語る。そう言えば、白羽の体に異変が生じると何かしらの手段で通知が行くと言っていたのを思い出す。この部屋の中は白羽の力により時間凍結は打ち消されているものの、通知に気付いた彼が部屋の存在を無理やり観測するとどうなるか分からない。白羽はより一層冷静であろうと努める。
「羽黒お兄様を復活させるという一仕事を終えた後、食事に誘われて、その席で。なんか様子がおかしいと思っていたら、無言で指輪を差し出されましたわ。量が売りのステーキハウスでですわよ? 思わず笑ってしまいましたわ。やっぱり錬金術師にロマンを求めるのは無理でしたわね」
「…………!!」
凛華の顔が、気持ち離れる。もう少しその綺麗で狂った藍色の瞳を間近で見ていたかったと、しょうもないことを考えていたら、凛華は今にも泣きそうな顔で唇を噛んでいた。
白羽の選んだリップの上に、凛華の赤い血が滲む。
「……白、羽ちゃ、んは……」
震える声で、凛華が問う。
「う、う受け……る、の……? その、ぷろ……ぽー、ず……」
「ええ。そのつもりですわ」
思いのほかすんなりと、その答えが出た。
まるで予め決めていたかのようにつるんと言葉がこぼれたが、嘘だ。一瞬前までこれからどうすべきか全くまとまっていなかった。
初めて声に出して、自分に言い聞かせて、それで結局「悪くないな」と、心の中に嵌った。
「…………ぃ、ヤダ…………!」
「グレンちゃん?」
「やだ……白羽ちゃんが、誰かの、も、のになるの……や、だ……!」
ぽたぽたと、藍色の瞳から雫がこぼれる。
「白羽ちゃんが、あし、た……誰かの、物に、なるなら……グレンちゃんのい、命、は、あ、あしたまででいい……!」
「グレンちゃん……」
そこで「自分のものにする」と言わない、言えないのが、彼女――野薔薇凛華だ。一人孤独に何千年、自身の体感では何億、何兆年とそこに存在し続けた異端の魔王。
そんな彼女に「自壊」という選択肢を引き出させたほどに、白羽が与えた影響は大きかった。
やれやれ、と。
白羽は心の中で肩を竦めた。
「何か勘違いをしているようですわね」
「え…………?」
ゆっくりと上半身を起こす。
ぐっと、再び凛華と顔の距離が縮まった。
「白羽は誰の物にもなりませんわよ?」
「え…………」
「あのロマンの欠片もないしょーもない、ほっとけない男が白羽の物になるだけですわ」
白羽は笑う。
愉しそうに、可笑しそうに、獰猛に、静かに、クスクスと、軽薄に――どこまでも愛らしく。
「白羽は白羽が関わってきた全ての者が、自分の物であると思っておりましてよ? 羽黒お兄様も、梓お姉様も、もみじも、紫も、ユウ兄さまも、あの女狐も、真奈も、織迦も、りあむも、この街の住人達も、あの街の術者たちも、あの傍迷惑な邸の方々も、死神も、全部! 全員! 白羽の――大切な物ですわ。もちろん、グレンちゃん、あなたもですわ」
「……っ!」
凛華の手を優しく解き、マフラーをずり下げて唇を青白い首筋に押し当て――歯を突き立てる。
吸血鬼の主従契約なんて大層なものではない。単なる目印。自身の物であるという、我儘な主張の証。
「だから自分の命は明日まででいいなんて、悲しいことは言わないでくださいな。白羽がいつか年老いて、冥府へ旅立ち、輪廻の歯車に押し潰されたとしても、グレンちゃんは白羽の物ですわ」
「…………うん」
ゆっくりと、凛華は白羽の胸元に頬を擦り合わせる。自身が白羽の物であることを体に覚えさせるように。
「グレンちゃんは…………白羽ちゃんの物…………誰にも、渡さない…………」
そう呟き、静かに瞳を伏せた。
* * *
「だずげでぐだざい羽黒お兄様! 梓お姉様!」
『お前本当に学習しねぇな。俺が死んでた一年間なにやってたんだよ』
『何をどうすればそうなんのよ。変な漫画ばっか読んでるからよ』
『自業自得だな』
『もう病気よ、病気』
「だって他にどう切り抜ければいいか分からなかったんですものお!!」
『知らね(ぷちっ)』
『がんば(ぷちっ)』
「うわあああああああああああん!?」
凛華が屋敷から去った後、秒で兄姉に藁をもすがる思いで泣きつくも、速攻で通話を切られた瀧宮当主の姿がそこにあった。





