012:謎の肉・見舞い・抜け殻
「ユウ坊! ビャク! おるか!?」
ある日のこと。行燈館の自室にいた裕とビャクの元に、ズドドドド! と巨大な足音を響かせながらホムラが訪ねてきた。
「え、ホムラ様!?」
「どうしたの、わざわざ訪ねてくるなんて珍しいね」
裕は洗濯物を畳み、ビャクは火里へ母乳を与えていた。それを見て「おっと、すまん」と一度は退席しようとしたが、ビャクに手招きされて改めて部屋に入り腰を下ろした。
「火里は息災のようじゃな」
「うん。元気すぎて、私もユタカもあまり眠れてないけどね」
言いながらもビャクの顔色は明るい。腕の中で乳を吸う火里が愛おしくて愛おしくて堪らないというのが見て取れる。
「それで、どうしたんですか血相変えて」
裕が尋ねる。
普段から酒をかっ食らっている健康優良神であるはずのホムラは、普段は隠している獣の耳と九本の尻尾をどろんとはみ出させて肩で息をし、顔色もなんだかおかしなこととなっている。子育てで疲労が溜まっているはずの二人よりも情緒不安定なありさまだ。
「……いや、二人が今が大変であることは儂も重々承知しておるし、このタイミングでこの報せを寄こしてきた奴らもどうかとは思うんじゃが……さりとて無視できぬ内容でな……」
「報せ?」
「うむ……これじゃ」
そう言ってホムラがここまで持ってくるのに思わず握りしめてしまっていた和紙の封書を裕に手渡す。受け取った裕も思わず顔をしかめた。この電子情報の時代に手書きで、しかも切手も何もない、マジで宛名しか書かれていない時代錯誤な手紙の包みだった。
「えーと中身は……うわ、案の定達筆すぎて読めない」
宛名を見た時点でなんとなく予測できていたが、開いてみると雪解け水が沢へと流れ込むかのような優美かつ難解な筆運びで記されていた。現代日本の明朝体で育ってきた裕にはとてもじゃないが解読できそうになかった。せいぜい冒頭の二文字が拝啓ということしか分からない。
「ビャクちゃん、読める?」
「えー。私もこういうお手紙ってもうほとんど見ない……か、ら…………」
火里を抱えたままのビャクに裕が手紙を開いて見せる。それを自信なさげに覗き込んで視線を奔らせ――そして見る見るうちに顔面蒼白、持ってきたホムラとそっくりの顔色へと変貌していった。
「あっちゃらぷっへえ!?」
「なんて?」
「どどどどどどどどどうしようホムラ姉様あのふふふふふふふふふ二人がくくくくくくくく!?」
「おおおおおお落ち着けビャクよよよよよよよ慌ててててててても変わららららららららぬ!?」
「…………」
立ち上がり、意味もなく足をバタバタさせるビャクとホムラ。小柄なビャクはともかく、尻尾が九本ある上に人に化けても身長190センチオーバーのホムラがバタバタすると部屋が狭い。なお、ビャクに抱かれたままの火里は名に恥じぬ肝っ玉ぶりを発揮して楽しそうに笑っていた。
「はーい、落ち着いて」
ぱんぱんと裕がかしわ手を打つ。
「それで、何て書かれてたの?」
裕の問いかけに、多少は落ち着きを取り戻した狐二匹は顔を見合わせる。そしてビャクは大きく息を吸い込み、裕に向き直る。
「今日の夕方、私のお父様とお母様が来るみたいなの」
「…………」
裕は意味もなく立ち上がった。
* * *
その日の夕刻。
「聞いて驚け見て驚け! この俺様が! かつて大蝦夷を手中に収めた天下の大妖狐! ケマコシネ=カムイ様だ! くぁあっはっはっはっはっはあ!!」
ドドン! と背後で狐火を無駄に爆発させ、アイヌ服をまとった赤毛碧眼の大男が謎にポーズを決める。そしてその隣に控えていた白髪に和装の女性が静かに一歩歩み出て、頭を下げた。
「初めまして。宇迦之御魂神側仕え狐が一匹、ユキナと申します。以後お見知りおきを」
「は、はあ」
行燈館の玄関で出迎えた裕は曖昧に頭を下げる。
一応義両親にあたる二人のため、失礼のないようにと心構えをしていたつもりだったが、大男――ケマコシネの異様なテンションに圧倒されてしまった。
そして二人の容姿を見て、すっと息を呑む。
ビャクの青い瞳と白い毛色は両親からの授かりものであることは見て取れたが、それよりも目を引いたのが、驚くほど似ているのだ。人化したケマコシネと――ホムラが。
「(中身はともかく、肉体的には血のつながった親子だからか……)」
上背と言い、狐らしい吊り気味の切れ長の目元といい、つんと尖った鼻立ちといい、どうしようもないほど縁ある者同士であることを物語っている。その時になって、裕はようやくホムラが狼狽えていたことを理解できた。おそらく、大昔の例の一件以来、もしかしたらそれ以前から、この二匹は会っていないのかもしれない。
さらに加えて。
「お久しゅうございますユキナ様」
「本当に。一体いつぶりかしらね、ホムラ。でも畏まらなくてもいいのよ。今日私はここに遣い狐として来たわけじゃありません」
「……それでは、多少砕けさせていただこうかの」
格上か、と裕は息を呑む。
ホムラは妖としては別格の次元に位置している。しかし宇迦之御魂神に仕える狐としては、神格こそ与えられているものの決して高いものではないと聞いていた。そして恭しい態度で微笑んでいるものの、目の前のユキナと名乗った白狐の方が格は上らしい。親子という関係を差し引いてもなお、あのホムラが低頭するほどに。
「おい小僧」
と、ケマコシネが威圧するように裕の顔を覗き込む。普段から瀧宮羽黒と行動を共にしているため耐性はあるが、その背丈と合わせて、一般人ならば膝が笑ってしまうほどの迫力がある。というか完全にチンピラである。
「我が愛娘はどこだ? 出迎えに来てねえが」
「あ、すみません。今ちょっと中でおしめ変えてます」
このチンピラからどうやってあの天使が生まれたのか、母親の遺伝子が頑張ったんだろうなとしょーもないことを考えながら答える。本人も直前まで出迎えようとしていたのだが、来訪を知らせるチャイムが鳴った途端、火里が大変元気よくおしめの交換を要求しだしたので、急遽ホムラと二人で出迎えることとなった。
「なぁにぃ? おしめだぁ!?」
と、何が気に食わないのかケマコシネがどすの効いた唸り声を発する。
「なんでテメェが変えてやらねぇ? テメェあれか? 家事育児は女がやるものって噂のモラハラ夫かぁ!?」
「い、いえ、普段は二人でやってますけど、今日はたまたま……」
「たまたまぁ!? 週に一回か二回やるのも『たまたま』だからなぁ、便利な言葉だよなあ!?」
「そ、そんなことは――」
「ケマ?」
と、背骨に氷柱を突き通されたかと錯覚するほどの寒気に襲われる。声のする方に視線をやると、ユキナがにこにこと笑っていた。……目は、全く笑っていないが。
「大層なこと言ってますけど、あなた、おしめ変えたこと一度もないでしょう?」
「お、おう……そりゃ、俺様たちの時はあいつら変化もできねえ仔狐だったから、クソションベン野山に垂れ流し――」
「余計な事言わない!!」
「ぎゃうんっ!?」
すこーん! と背後からフライパンが飛んできてケマコシネの額にクリーンヒット。ケマコシネはフライパンが刺さったまま地面に転がり、どろん! と仔牛ほどもある巨大な赤毛の狐の本性を晒して伸びてしまった。
「えっと、お母様……久しぶり」
フライパンの投擲の主――ビャクが、胸に火里を抱えて玄関から顔を出した。
「ええ。……えっと、ビャク。あなたの母親として会うのは……本当に久しぶりね」
「……うん」
一言一言、言葉を選ぶユキナと、顔を伏せ、くちゅんと鼻先に力がこもるビャク。こちらもこちらで、何とも言い難い空気が漂う。
「えっと、玄関先で立ち話もなんですし、中へどうぞ」
「あ……そうですね。せっかくお見舞い……というか、孫の顔を見に来たのに、ビャクの負担になっちゃダメよね」
言って、ユキナは改めて頭を下げる。
「お邪魔します」
「はい、いらっしゃい……えっと、お義母さん」
「ええ」
半分賭けではあったが、裕のその言葉に心の底から嬉しそうに、ユキナは微笑んだ。
……そして、伸びたままのケマコシネの尻尾をむんずと掴み、ずるずると引きずりながら行燈館の玄関をくぐった。
* * *
「くぁあっはっはっはっはっはあ!! なんだテメェなかなかやるじゃねえか!」
裕とビャク、ホムラ、そしてケマコシネユキナ夫妻は居間のテーブルを囲い、行燈館の下宿生たちが急遽用意してくれたちょっと豪華な夕飯を囲んでいた。
「おら、テメェももっと食え!」
「い、いただいてます」
「どうだ、美味いだろ?」
「は、はい」
さらにケマコシネが手土産で持ってきた謎の肉のミンチも、裕が手を加えて一皿として並んでいる。最初は生で食わせようとしてきたのだが、ユキナが口を挟んでくれたため火を通す許可が下りた。
とりあえず、もう一つのケマコシネ土産の行者にんにくと冷蔵庫に転がっていた香味野菜を刻んで混ぜ合わせ、常に大量にストックしている油揚げに詰めて餃子風に焼いた。これが思いのほかケマコシネに受けが良く、裕は一気に気に入られ、ケマコシネ自ら大皿料理を裕の前に取り分けていた。
「ごめんなさいね。まさか手紙が届くのが遅れてたなんて」
「逆によく今日までに届いたよ……」
「むしろどうやって儂のところに届いたのか謎じゃわい。切手も何も貼られてなかったんじゃが……」
「えっと、最近はけーたいでんわ? を使うと送るとすぐに届くと聞いたので」
「「ん?」」
「部下の子たちに教わって、しゃしん? を頑張ってさつえい? したんですよ」
「「んん?」」
「でも最新の技術でも遅れることもあるのねえ」
「(ホムラ姉様、もしかして……)」
「(ああ。他の狐共が気を遣って直接届けに来たんじゃろ……)」
向こうは向こうで頭が痛くなるような話をしている。
「そう言えば、お二人はどうやってこちらまで?」
「ああ。しんかんせん? とかいう長ぇ鉄の車で来たぜ?」
「すごかったですねえ。あんなに速く移動できるなんてびっくり」
「まあ本気を出した俺様の方が速ぇがな! くぁあっはっはっはっはっはあ!!」
「「「…………」」」
どうやって乗って、どうやって辿り着いたんだろう、と三人は無言で視線を合わせた。もしかしたら市内までついてきた狐がいたのかもしれない。だとしたら今回の最大の功労者である。
「それにしても良い屋敷だな、ここは」
と、ケマコシネが油揚げ餃子を齧りながら視線を巡らせる。
「火里ー、こっちおいでです」
「こっちこっち!」
「いや、こっち来い火里!」
「だう!」
「ああ! また紫のところだ!」
「火里は紫が大好きだなあ」
「勝利のブイです」
視線の先には、隣の部屋で下宿生たちと戯れている火里の姿があった。最近ははいはいの速度に磨きがかかり、さらに頑張ればつかまり歩きもするようになった。行動範囲が格段に広がったが、ビャクや裕以外にも常にそばに下宿生の誰かがいて見てくれている状態だ。
「ええ。良い家です」
裕はゆっくりと頷いた。
「よし! おいガキども! 俺様も混ぜろ!」
「……こら、ケマ」
「かつて大蝦夷にその名を轟かせたの俊足の神様が最強のはいはいを見せてやろうじゃねぇか!!」
止めるユキナを振り切り、でかい図体で四つん這いになって隣の部屋へと突撃するケマコシネ。その姿に火里含め下宿生低学年組が腹を抱えて笑い転げた。
「全く……落ち着きがないんだから」
「相変わらずのようじゃの」
「ええ。恥ずかしい限りだわ」
言いながらも、ユキナは温かな笑みを浮かべてはいはいで火里に負けるケマコシネを眺めていた。
「それじゃあお腹も落ち着いたし、いったん切り上げようか」
「あら、ごめんなさい。気を遣わせちゃって。美味しかったわよ、ビャク。……ちょっと残ってしまったけど」
「んーん、大丈夫。元々作り置きのつもりのおかずだから。それに置いとけば食べ盛りたちが片付けてくれるし」
大皿にまだ半分ほど残っている料理に申し訳なさそうにするユキナ。それにビャクが笑いながらちらりと隣の部屋に目をやると、話が聞こえていたのか、食い盛り共が気まずそうに視線をそらした。
「そう言えばお母様たちは今夜のお宿は?」
どうせ宿の予約もできていないのだろうと高をくくったら、意外とユキナは「大丈夫よ」と頷いた。
「大峰温泉街のお宿を朝食付きで一泊とってあるの」
「ほう、この時期によく取れましたのう」
ホムラが意外そうに頷く。万一のために昼間にめぼしい宿に確認をしたのだが、どこも秋の行楽シーズン真っただ中で予約でいっぱいだった。やはり優秀な部下狐がついてきているに違いない。
「でもあの様子だとしばらく離れそうにないわね」
ユキナがため息を吐く。見ると、ケマコシネの背の上で火里が大層楽しそうにはしゃいでいた。ケマコシネも満更ではないようだ。
「あ、それじゃあ」
と、話を聞いていた裕が手を叩き、提案する。
「火里とお義父さんは見とくから、三人で温泉入ってきたらどうですか?」
* * *
「なんじゃババア、何しに来たんじゃ」
「風呂屋に来た客に『何しに来た』とはついに耄碌したようじゃのう、ババア」
大峰温泉街――その外れも外れの古くしなびた木造建屋。その歪んで重くなった扉を開けると、外観よりかなり綺麗な番台にちょこんと座った皺だらけの小さな老婆がホムラの顔を見るなり罵声を浴びせた。
しかしホムラもまた負けじと罵声を返す。
「ババアが入りに来るせいで、いつまでもこの店続けねばならん。しまいにゃうちの可愛い玄孫まで跡を継ぐと言い出してしまったぞ。後先短いおんぼろ風呂屋を継ぐなんて、可哀想だと思わんかババア」
「いいことじゃないかババア。継がせてやれ継がせてやれ、なんなら儂が改築の金出してやろうかババア」
「あんたの金じゃないだろうババア。あんたが水か何かのように飲んどる酒も元をただせば穂波の子倅が稼いできた金じゃろうが、老害ババア」
「はああああ??? 老害っちゅーんはただの人間のくせに100年平気で生きていつまでも番台にしがみついとるババアのことを言うんじゃが???」
「…………」
ババアがババアをババアと罵るやり取りに、ぽかんと開いた口が塞がらないユキナ。それにビャクは苦笑を浮かべた。
「大丈夫だよお母様、いつものことだから」
「いつもこんなことしてるんですか……仮にも土地を守護する守狐が」
「仲良しだよねー」
「「仲良しじゃないわ!!」」
「あ、おばあちゃん、大人三人で奥のお風呂、タオルも貸してー」
「あいよ。そっちの二人は一人800円、そっちのババアは5600円な」
「なんじゃその金額!? このババアふざけるなよ!?」
「ババアのこれまでのツケじゃが?」
「ホムラ?」
「ホムラ姉様……」
「…………」
さっと顔をそむけるホムラ。言われるまですっかり忘れていたらしい。
てきぱきとビャクが三人分の入浴料(ホムラのツケ含む)を払い、貸し出し用のタオルを受け取るとぴょんと番台が椅子から飛び降りた。
「ほれ、こっちじゃ」
手招きしながら丸まった背中でちょこちょこと歩く番台。その先は青と赤に分かれた暖簾――ではなく、廊下の突き当りの白い暖簾のかかった扉。
そこをポケットから取り出した鍵で開くと、番台はしわくちゃの顔ににっこりと笑みを浮かべて「ごゆっくり」と頭を下げた。
「楽しみだなあ、こっちのお風呂」
「うむ。なんだかんだ儂も先月以来じゃな」
わくわくといった風に白暖簾をくぐるビャクとホムラ。その後ろをユキナが続く。
扉の奥は温泉施設にしては小さな脱衣所になっていた。四、五人も入れば窮屈に感じてしまうほどの広さに、申し訳程度に鏡と流し台が設えられている。そして店に入った時も感じたが、外装と比べてとても綺麗に清掃されているようだ。
「さ、いこう!」
「ええ」
各々衣類を脱ぎ――といっても、どろんと変化で消しただけだが、ビャクがユキナの手を引く。
そして浴室への扉を開けると、ユキナは「わあ」と思わず声を上げた。
構造としては半露天風呂というのだろうか。洗い場に屋根がかかり、湯船側にかけて竹垣で仕切られている。温泉としてはかけ流しらしく、石造りの湯船にはどろりとした重めの乳白色の湯が張られ、縁から溢れ出ていた。
それよりも目を見張るのが、湯船の奥に丁寧な仕事で整備された小さな庭。そこに真っ赤な葉をつけた楓が、枝葉で湯船を覆う屋根のように堂々とそびえていた。さらに月を邪魔しない程度の照明がたかれており、その葉の一枚一枚が夜空に対して映えている。
「これは……とても、とても綺麗ね」
「地元の者もほとんど知らぬ貸し切り風呂ですからな。さあ、ユキナ様、お背中を流させていただきます」
「あら、いいの? それじゃあ私はビャクの背中を流しましょうか」
「やった! それじゃあかわりばんこね!」
それぞれがそれぞれの背中を流し、いそいそと湯船へと身をゆだねる。
「ふう……お湯も好い加減ね……」
「あったまるぅ」
「これで熱燗の一杯でもあれば格別なんじゃがなあ」
「もう、ホムラ姉様はそればっかり。今どき温泉にお酒なんて置いてないよ。危ないんだから」
「ならば今度はこっそり持ち込むか」
「こら!」
いつもと変わらない語り口調に、ビャクが苦笑と共にぴちゃんとお湯をかける。それを笑って受けるホムラを見て、思わず、ユキナが零す。
「本当に……こうして三人で温泉に入れるなんて、夢みたい」
「あ……」
「…………」
その言葉に、ビャクとホムラははっとし、首までお湯の中へと浸ける。
しばし、沈黙。
ユキナが静かに楓を眺めながら口を開く。
「もう千年以上前になるのね。一晩のうちに娘を二人とも喪ったのは」
「お母様……」
「話を伝え聞いた時、悪い冗談だと思った。嘘だと思った。でも何も知らない小狐となったあなたと、この地に何も言わずに自ら封じられたあなたを見て、ああ、本当にいなくなってしまったのだと実感したわ」
「……ユキナ様」
「本当にあっという間の千年でした。あの方も……ケマも何も言わなかったけれど、抜け殻のような時の流れでした。私たちに娘は最初からいなかったと思い込もうとしたことも、何度かあったわ」
でも、とユキナはビャクの髪を――己のそれとそっくりな、雪のように白い髪を撫でる。
「それすら否定してしまったら、今こうして幸せに、再び母となれたあなたと、あの愛らしい孫まで否定してしまうことになるわ」
「お母様……」
「それはあなたについても同じよ、ホムラ」
「……はい」
「あの子のことを否定してしまうと、あの子の犯した罪と、あなたの覚悟を否定してしまうこととなる。それは、あってはならないことよ」
言って、微笑んで、ユキナはそっと手を伸ばす。ビャクにしたように頭を撫でたかったが、ホムラは背が高くて届かない。むず痒さを感じたが、それに応えるようにホムラは頭を低くする。
「どんなに変わっても、あなたたちは私とケマの娘よ。可愛らしく、愚かしく、それ以上に愛しい子供たち」
「うん……」
「はい……」
ユキナがめいっぱい腕を伸ばし、ビャクとホムラを撫でる。
二人は幼子のようにユキナの胸に抱かれ、しばしそうしていた。
「まあそれはそれとして」
「え?」
「うん?」
がしっと、ユキナの白魚のような指が二人の頭をわしづかみにする。
「あなたたち、この数十年ほどずぅーーーーーーーーっと神無月の集まりをサボってるわよね? 去年子供が生まれたビャクはともかく、ホムラ、あなた本当に最近顔すら見せに来ないわね?」
「え、いや、えっと」
「それにはワケが……」
「あら、何か理由が?」
ユキナの凍てつくような視線が容赦なく射られ、二人は温泉に浸かっているにもかかわらずぶるると背筋が震えた。
「……あったり、なかったり……」
「なかったり……あったり……」
単純に忘れていたこともあるし、何より面倒くさかったから。
などととてもじゃないが口が裂けても言えないが、母狐は全てお見通し。湯冷めするような凍える笑みをにっこりと湛えた。
「正座」
「え」
「正座」
「いやここ湯船じゃし、温度も結構熱いし、儂そろそろ上がろうと……」
「正座」
「「は、はい」」
揃って湯船の底に膝を折る。それに対してユキナは優雅に縁の岩に腰を掛け、足を組んだ。
約一時間後、番台から連絡を受けた裕が逆上せた二人を回収しに駆け付けた時、ユキナはマッサージチェアでよく冷えた牛乳を飲んでいた。





