第49話:絶景の風呂場を堪能し尻寒くなる冗談
一人になったシンはサイクルジャージを脱ぎ、荷物として持ってきた下着と部屋に用意されて居た浴衣へと着替える。
サイクルジャージの下履き部分サイクルパンツやレーサーパンツと呼ばれる物は、尻の部分にパッドが入っており長時間の走行でもサドルで尻を傷めにくい様になっているのだが、コレが下着と相性が悪いらしく基本的にノーパンで履くのが普通なのだ。
つまりレーパンだけで走っている自転車乗りと言うのは、下着姿で走っているのと同義と言えなくも無いのだが、そもそもサイクルジャージにヘルメットの時点で奇異の目で見られる事の多い日本では、そこに羞恥心を感じる様では今更といえる。
と言うか、そうした姿が恥ずかしいと思うのであれば、自転車乗り用に加工されたジーパンなんかを穿いて普通の上着を来て走れば良いのだ。
ソレをせずサイクルジャージを身に着けて居る時点で、見た目よりも走行の快適さを取っているのだから気にしても仕方がない……と言うのがシンの意見である。
ちなみに高校時代の通学にロードバイクを使っていた頃は、そこまでの距離を走る訳でも無いからと、部活動以外の時間は普通に学生服で自転車に乗っていた。
今も普段の通勤程度の距離ならば、いちいちサイクルジャージを着込む必要の有る程の距離では無いのだが、何となく慣れてしまったが故に自転車に乗る時にはそっちの方が落ち着くと言う理由で着ていたりする。
無論、今日の様に100km走破とかする時にはそれ相応の装備の方が圧倒的に楽なので、彼がそうした装備にも相応に金を掛けて居るのは、無駄な散財と言う程では無いのだろう。
「さて……まずは晩飯前にひとっ風呂浴びて来るかな?」
着替えを終え、部屋に用意された茶菓子の饅頭を口にし、ポットの用意された茶で一服しながら、誰に聞かせるでも無くそんな事を呟いた。
区分としてはリゾートホテルと呼べるだろうここの一番のウリは、巨大な温水プールなのだが、今更ナンパなんかする様な気も無く家族連れでも無い彼はそちらに興味を示す事も無く、プールと比べれば小さな大浴場の方へと意識を向ける。
ここの大浴場は2階建てで1階と2階で浴室の形状も其処から見える風景も違っている、けれども日替わりで男湯と女湯が入れ替わる形式な為に入れるのはどちらか一つだけだ。
そして洞爺湖の雄大な風景を眺めながら入る事の出来る露天風呂も有るが、昔はそこにバーカウンターが有って酒やソフトドリンクを飲みながら湯に浸かる事が出来た記憶は有るが、確か今はそうしたサービスは無くなっている筈である。
もう少し寒い季節か逆に暑い季節ならば外気に触れながら入る温泉も乙な物と楽しめるのだが、今日は大浴場だけで良いだろう……、そんな事を考えながらシンは部屋を後にした。
タオル類の様な入浴に必要と成る道具は全て大浴場の出入り口に揃って居る為、シャンプーやボディーソープなんかに拘りが有るので無ければ手ぶらで入浴ができるのだ。
ヲタクと呼ばれる類の人間は自分の拘りの有る部分にはとことん拘るが、そうでない部分に関してはとことんズボラに成る性質である場合が多い。
シンもご多分に漏れずそうした気質は少なからず有り、流石に何日も風呂やシャワーに入らないとか、洗濯をしないと言った不潔な状態でも、自分が問題無ければどうでも良い……と言う所までは行かないが、ソレらに深い拘りを持つ程では無いのだ。
あっても精々自宅の風呂場で使うシャンプーやボディーソープは特定の銘柄ばかり買うと言う程度の物では有るが、ソレだって好みがあってそうしていると言うよりは、ボトルが既に有って詰替え用の方が安いからと言う程度の事である。
そんな訳でやって来た大浴場、どうやら今日の男湯は2階側の様で窓から見下ろす洞爺湖の景色が楽しめそうだ……と、少しだけ浮ついた気分で脱衣所で全裸になった。
ハンドタオルを片手に踏み込んだ大浴場は、他の客の姿が殆ど無く貸切に近い状態だったので、手早く頭と身体を洗う事にする。
銭湯や温泉と言った不特定多数が入る浴場では、湯船に浸かる前にかけ湯をして下を軽く洗ってからであれば、余程汚れた状態でも無い限りはそのままに近い状態で入浴しても目くじらを立てられる事は無い。
むしろ先に洗うより一度湯船に浸かって身体を温めてからの方が、汚れが浮かんで落ちが良くなるので、入る前に洗うより入ってから洗う方が良い……と言う派閥まである程だ。
対してシンはと言えば正直どちらでも良いとは思っているが、今日の様にそれなりの距離を自転車で走って汗をかいて居るならば洗ってから入った方が良いだろう……とその程度の感覚で先に身体を洗う事にしただけである。
備え付けのシャンプーとボディーソープを使い全身を一通り洗ってから、主浴槽の奥にある窓へと歩み寄り、そこから洞爺湖を見下ろす雄大と言って良い景色が堪能出来た。
部屋の窓から見る景色も素晴らしいが、この風呂から見える景色もまた素晴らしい。
観光シーズンならば夜には花火も上がる風景が見られるが、ちょうど日の入り時刻付近で茜色に染まった湖の風景も美しかった。
「中々良い身体してるねぇお兄さん……いや、元プロゲーマーでマーセのシンと呼んだ方が良いのかな?」
湯船で仁王立ちしたまま風景を眺めていたシンの尻に向かって、唐突に誰かがそんな言葉を投げかける。
ガラス窓に映る姿を軽く見て知らん顔だと思ってから振り返り、改めてその顔を見るが男臭い美形だと言う事と、現役アスリート並の身体を維持している自信のある自分よりも鍛えられた身体をして居る事だけしか分からかった。
いや、もう一つ特筆すべき事が有った、彼は前を隠して居なかったのだが……すごく大きかったのだナニがとは明記しないが、少なくとも一目でシンが敗北を察する程度には。
「失礼、何処かでお会いしましたか? 申し訳無いけれどもお顔に見覚えが無いんですが?」
元とは言えプロゲーマーとして何度と無くメディアに顔を出した事の有る身としては、向こうはこちらを知って居ても自分は相手を知らないと言う事は割と有る。
けれどもだからと言って会った事の有る人物を忘れたと成ると失礼なので、覚えの無い相手に声を掛けられた時には、結局こうした問い返しをする事になってしまうのだ。
「ああ、こちらこそ失礼……先日、真駒内の事件で現場に居合わせた自衛官の一人ですよ。貴方のお陰で命を永らえる事が出来たモノでね、偶然とは言え見かけた以上は一言をお礼をと思いましてね」
にやり……と裏のありそうな笑みを浮かべつつ、そう言う彼は真駒内駐屯地に所属する自衛官で、今日は休暇を利用して家族と一緒に温泉に浸かりに来たのだと言う。
「にしても……本当に良い身体してるねぇ。現役の自衛官でももうちょっとだらし無い身体をしてる奴も居るってのに、アンタ本当にタダの民間人かい? いやまぁマーセとしてランキングに乗る時点でタダモンじゃぁ無いんだろうが」
自分より仕上がった身体をして居る者に言われても座りが悪いだけなのだが、それでも現役の戦士から良い鍛え方をして居ると言われれば悪い気はしない。
「なによりも……締りの良い尻をしてそうだ……どうだい1発やらないか?」
ソレまでの笑みとは違う、もっと下卑た表情を浮かべそう言われた瞬間、シンはその男から慌てて距離を取る。
「ははは……冗談だよ冗談、こんなハッテン場でも無い様な場所で、本気でそう言う誘いをする程非常識じゃないさ」
笑いながらそう否定の言葉を口にするが目が笑って居ない。
「アンタ、家族と一緒に来てるって言ってたが、そう言う趣味の人なのか?」
昔の軍隊なんかだと女性と触れ合う機会がどうしても少なくなる為に、そっちの趣味に走る者は少なからず居たと言う話は聞いた事が有る。
「まぁ正直に言えばどっちもイケる口だが……コレでも女房も子どもも居る身なんでね、マジでそう言うトラブルで懲戒なんて事にゃなりたか無いし、本当に冗談だよ冗談」
アメリカ軍の場合、満期を持って円満除隊した者に対しては再就職の斡旋その他様々な面で優遇されるし、国民の中でも元軍人と言うだけでもある程度の信用が得られる……と聞いた事が有る。
けれども円満除隊では無い【不名誉除隊】と呼ばれる措置が取られた場合には、そうした優遇の類は一切無くソレが表沙汰に成るだけで、下手をしなくても部屋すら借りられない……等重い差別を受けるのが通例なのだそうだ。
日本の場合は其処まで極端な事には成らないとは思うが、再就職の際に提出する履歴書を見れば満期を勤め上げての円満除隊かそうでないかは、見る者が見ればわかると言う。
天下りと言う言葉で公務員の関連業種への再就職に厳しい目を向けられがちな日本で、そうした瑕疵は決して軽いモノでは無いのだ。
故にシンは彼の言う冗談と言う言葉を信用し、安心してゆっくりと湯船の中へと身体を沈めるのだった。




