フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュの嫉妬・前
文字数が多くなったので前後に分けます。
月に一度、マクラウドは王都にあるクラストロ公爵邸に帰ってくる。
広大な庭には季節ごとに咲く花が植えられ、彼は翌朝にそれを摘むのだ。
「こんな季節にも咲く花があるのだな」
「はい。これから春ですから、花盛りになっていきます」
「それは良い。退屈しなくてすむだろう」
誰が、とは言わない。
マクラウドはクリスマスローズを切り取ると庭の手入れをしている老庭師に礼を言って剪定鋏を返した。
月に一度。フローラの月命日に、黒衣の人は王家の廟に行く。
長い黒髪をなびかせて、何も言わずに花を供えに行くのだ。
***
フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュがその話を聞いた時、なんともいえない不快感が胸に渦巻いた。
「あの方のお墓は王家の廟の中でも外れにありますものね。そんなところに参る人は目立ちますもの」
「クラストロ公爵様は今でも想ってらっしゃるのかしら……? なんだか悲しいですわね」
「毎月欠かさないそうですわ。黒を纏ってらっしゃるせいか冷たい印象がありましたけど、情の深いお方ですのね」
お嬢様三人組は死してなお色褪せない愛にうっとりと陶酔している。
蒸気機関車見物をきっかけに、フランシーヌはようやく立ち直っていた。
祖父のフランソワが批判の矛先になってくれたことも大きい。当主代理の母とまだ幼い弟は周囲に同情されており、フランシーヌはずいぶん動きやすくなった。
もちろん、何があっても変わらぬ友情を誓ってくれる友人たちの励ましもフランシーヌに勇気を与えてくれた。少しずつ社交に復帰すべく、夜会に行く際も付いて来て、フランシーヌを守ってくれる。
ジョルジュ伯爵家のサロンでお茶会を開いたのは、日頃の礼と情報収集を兼ねてのことだった。
「あの方が……?」
廟の外れにあるとはいえ、真新しいフローラの墓は驚くほど人気がない。悪政を布いた王であろうと多かれ少なかれその死を悼まれるものだったが、フローラは皆無といってよかった。
無知と無関心による人の心を無視した行いの果てに我が子に殺された王妃。我が子が死に至ったのは彼女の言動のせいだ。自分の幸福こそが国の幸せだと信じて疑わなかった彼女は、不幸の元凶として忌み嫌われている。
そんな彼女の墓に、彼女によって不幸を背負わされ人生を狂わせたマクラウドが花を供えている。
うつむいたフランシーヌに、アルベールを思い出させてしまったと慌てた三人は話題を変えた。
「そうですわ、お姉様。今度ご一緒にクラーラの店に行きませんこと?」
「きっとお姉様もびっくりなさいますわ」
「クラーラ様のところなら気兼ねが要りませんもの」
困った時はクラーラだ、とばかりの三人にフランシーヌはくすっと笑った。しっかりしてきたと思ったが、まだまだ子供だ。
いつも明るく物腰のやわらかいクラーラの顔に、冷たく硬質的なマクラウドが過ぎる。
どちらが本当の彼なのだろう。知りたい、と思う心をフランシーヌは止められなかった。
クラーラの店がある高級店街は以前の活気を取り戻していた。
以前と異なるのは貴族以外の、平民の姿が多くなったことだろう。彼らは清潔感はあるが着古した服装で、そしていささか気後れしている様子なのでそうとわかる。それでもどの顔も明るかった。
国全体が豊かになってきている証拠だ。フランシーヌは友人と侍女と連れ立って歩く街並みが活気づいているのに安心した。
クラーラの店のドア横にある小さな窓に飾られているのは、そうした庶民向けのものだった。レースと貴石がついたヘアピンと、ピンクと黄色の小花をまとめてタッセルをつけたハットピン。働く女性のおしゃれや、ちょっとしたプレゼントにできそうな値段だった。家のことを手伝うようになって、フランシーヌもようやく相場というものを理解できるようになっている。
ちりりん。
ドアベルを鳴らして店に入ると、二人の声が重なってフランシーヌたちを出迎えた。
「いらっしゃーい」
「いらっしゃいませ!」
今日のクラーラは短くなった髪を編み込んで、飾りのついたピンで留めている。モチーフ違いのものを三つ着けているため、髪飾りとそう変わらない華やかさだ。
青と茶でまとまった、大きな襟のテーラードスタイルのドレスにはレースがほんの少しだけ飾られ、大人っぽさと女らしさを両立させている。
青い口紅とオレンジのチークが色っぽい。
そのクラーラと良い対比になっているのがチェルシーだった。
空色のAラインワンピースはシンプルで、胸元に飾られたいかにも手作りのレースの飾りが素朴で可愛らしい。生地も仕立ても良く、ハーフアップにまとめられた髪にはクラーラと同じヘアピンが着いていた。
化粧はしていないものの血色の良いチェルシーは笑顔を浮かべるだけで充分な可愛らしさがあった。
「まあ、チェルシーさん、可愛らしいこと」
フランシーヌの素直な賛辞にチェルシーは顔を赤くした。彼女もフランシーヌのファンなのだ。
「ありがとうございます。お席にどうぞ」
慣れた様子でチェルシーが喫茶スペースに四人を誘導する。お嬢様三人はフランシーヌを驚かせるのに成功した、とはしゃいでいた。
戸惑っているのはフランシーヌ一人だ。少しだけ疎外感を抱いたフランシーヌに、チェルシーの接客を見ていたクラーラが口を開いた。
「驚かせちゃったかしら? 正式に、チェルシーちゃんを弟子にしたのよ」
「お弟子さんに?」
「今まではコースターなんかの小物を納品してもらってただけだったけどね。アタシのすべてを注ぎこむつもりよ」
「それは……大変そうですわね」
クラーラのデザインと縫製技術だけではなく、接客、礼儀作法、言葉使い、知識に至るまで、チェルシーに伝授する。
どこか呆然として言ったフランシーヌにチェルシーが笑った。笑い方さえ下町娘であった頃とは違っている。
「はい。レディというのがこんなに大変だとは思いませんでした。でもクラーラの恥にならないよう頑張ります!」
誇らしげな、照れくさそうなチェルシーは、クラーラに見込まれたのだ。それが自分ではなかったことに、フランシーヌは自分でも驚くほど愕然となった。
伯爵令嬢が仕立て屋の弟子になるなど、考えなくてもありえない。
そんなわかりきったことにショックを受けた自分に、フランシーヌは戸惑っていた。
「その意気よぉ、チェルシーちゃん。さ、いらっしゃい。お茶の淹れ方を教えてあげるわ」
「押忍、師匠!」
「それはやめなさい」
チェルシー渾身の一発ギャグをペシン、と頭を叩いて止め、クラーラとチェルシーはキッチンに消えていった。なんとか噴き出すのを堪えたお嬢様たちがテーブルに突っ伏す。笑いの発作が治まったところでおしゃべりがはじまった。
「チェルシーさんはお綺麗になられましたわね」
「本当ですわ。クラーラ様の美の秘訣を自ら伝授されるなんて羨ましいですわ~」
「チェルシーさんと社交に出るのが楽しみですわね」
チェルシーはまだ掘り出されたばかりの原石だ。クラーラの手で研磨され、形を整えられ、やがて内側から輝きだすだろう。
友人が成功する未来を素直に喜び歓迎する三人に、フランシーヌは胸が引き絞られるように痛くなった。
「……っ」
このままでは言ってはいけないことを言ってしまいそうで、唇を噛む。腹の底から粘ついた黒い感情が湧き上がってくるのがたまらなく嫌だった。
「お待たせ。……フランシーヌちゃん?」
クラーラが紅茶と菓子を持って戻ってきた。どうやらチェルシーは合格できなかったようでまだキッチンにいる。二人が連れ立っていないことにほっとした。
「クラーラ、様……」
「顔色が悪いわ。少し横になる?」
貴族令嬢の外出には侍女が付くものである。付き人用の長椅子に座っていたフランシーヌの侍女に目配せしたクラーラは、仮縫いと試着用のスペースにフランシーヌを連れていくよう指示した。そちらには寝椅子がある。
「ストールを持ってくるわ。コルセットを少し緩めてあげて。帽子は取って、髪もほどきましょう」
「はい」
「クラーラ様、大丈夫ですわ……」
侍女ではなくクラーラに側にいて欲しかった。震える手を伸ばすフランシーヌにクラーラはわずかにためらい、両手で彼女の手を包み込む。
大きな手にすっぽりと隠れてしまったフランシーヌの手は、彼女がまだ少女であることをクラーラに知らしめた。
「無理はしないで。フランシーヌちゃん、ゆっくり息をして?」
「…………」
言われた通りにゆっくりと呼吸するフランシーヌに、クラーラは慈しみを込めた瞳で微笑んだ。
「いい子ね。アタシのために、少しだけ待ってね」
「はい……」
フランシーヌがうなずいたのを確認してクラーラが手を離した。いかにクラーラといえども少女のコルセットを緩めるわけにはいかない。フランシーヌを侍女に任せ、試着室を出た。
クラーラの手が離れ、フランシーヌは目を閉じる。銀の縁取りがされた目尻から一筋だけ涙が伝った。
どうしてこんなに苦しいのか、何がこれほど不快なのか、フランシーヌにはわからなかった。
友人と一緒にクラーラの店に行った娘が辻馬車で帰ってきたことに、母のエロイーズは気を揉んでいた。
フランシーヌは蒼ざめて足元もおぼつかず、侍女に支えられなければ馬車から降りられないほど酷い有り様だった。侍女の報告では店に着き、おしゃべりがはじまってすぐに気分が悪くなったそうだが、あの三人やクラーラがフランシーヌの気分を害することを言うとは思えない。弟子という少女もだ。そのあたりはエロイーズも信用していた。
クラーラが侍女に持たせたメモには、急に顔色が悪くなり体温の低下も見られたことから女性特有の不調ではないか、とあった。体を冷やさないようにベッドには湯たんぽを入れて先に温め、食欲がないようなら無理に食べさせず温めたミルクにブランデーかグラン・マルニエなどを数滴垂らすと良い。気づかいはありがたいが、クラーラを知っているだけに女性のあれこれをアドバイスされるのは微妙な気分だ。
フランシーヌ付きのメイドに湯たんぽの用意をさせ、キッチンにホットミルクを言いつける。持っていくのはエロイーズが自分でやることにした。
「フランシーヌ、入りますよ」
ノックをして声をかけると「どうぞ」と返事があった。中にいたメイドがドアを開ける。
「具合はどうなの?」
フランシーヌはすでに夜着に着替えていた。ベッドではなくソファで横になっている。エロイーズが入ってくると体を起こした。
「少しは顔色が良くなったかしら? ミルクは飲める?」
まだ青白いが体の震えは治まっている。クラーラに借りたストールを膝から肩にかけ直した。憂い顔のフランシーヌは普段の凛々しさが嘘のように可憐だった。他人に弱い姿を見せられない貴族令嬢とはいえもう少し表に出しても良いのでは、とエロイーズは思う。フランシーヌに憧れている令嬢たちには悪いが、娘はただの少女なのだ。いつでも強いわけではない。それをわかってくれる人が現れてくれたら、と母としては願ってしまう。
ゆっくりとした動作でフランシーヌはミルクを一口飲んだ。ほっと息を吐く。弱々しい姿にエロイーズの胸が痛んだ。
何があったの? と問いたくなるのをエロイーズは堪えた。フランシーヌが話したいのなら話してくれるだろう。それとも話ができるよう水を向けるべきだろうか。
「母様……」
フランシーヌは迷っていた。母に相談したい、と思うものの、何をどう言えばいいのかわからない。そもそもなぜあんなにも動揺したのか、フランシーヌは自分でもよくわかっていなかった。
呼びかけたまま言葉を探す娘に、エロイーズは彼女の隣に座った。
厳格な将軍家では、親子であっても一定の距離をとるものだ。幼いうちならともかく、社交デビューを済ませた娘と、手が触れるほど近くには座らないものだった。近くても対面か、隣のソファである。
母の体温を腕に感じたフランシーヌがうつむいていた顔をあげた。
朝露に濡れた新緑の瞳にせつなさが滲んでいる。
「クラーラ様が、弟子をとられたのです」
と、言った。
「わたくしとも仲の良い子ですわ。チェルシー・スコットさんとおっしゃって……、クラーラ様のご近所で、青果店を営んでらっしゃるご家庭のお嬢さんですの」
フランシーヌの声にわずかな蔑みの色があるのに気づき、エロイーズは眉を寄せる。クラーラの近所に住んでいるということは、下町の平民だ。そんなことを今さら蔑むフランシーヌではなかったはず。
フランシーヌがまた目を落とした。ミルクの湯気はだいぶ少なくなっている。
「それを聞いた時……わたくしなんだかとても嫌な気分になったのです。チェルシーさんはお綺麗になって、クラーラ様はとても嬉しそうでしたわ」
言葉にするうちに感情が輪郭を浮かび上がらせてきた。フランシーヌはその感情の名を知っていた。
「……嫉妬したのです。わたくし、そんな自分がとても嫌だったのですわ。……あのような」
アルベールとユージェニーが親しくなっていった時も、フランシーヌは嫉妬した。
だが、あの時はプライドを傷つけられた怒りのほうが大きかったように思う。ユージェニーへの怒り、アルベールには悲しみを募らせた。そしてそんな自分を憐れみ、悲劇にどっぷりと浸かっていた。
「いいえ、あの時よりもっと醜い感情です。黒く澱んだ、おぞましいものです」
「フランシーヌ……」
エロイーズがフランシーヌの手からカップを取り上げ、テーブルに戻した。
「自分の中にあのような感情があったことが苦しいのです。クラーラ様がチェルシーさんを弟子になさったのは、これまでの信頼と裁縫の腕を見込んでのことでしょう。クラーラの名を継ぐのであれば一人前のレディにならねばなりません。わかっていますわ。でも……でも!」
フランシーヌは唇を噛み、それから心情を爆発させた。
「どうしてわたくしではないの? わたくしではなくチェルシーさんがあの方に磨かれてうつくしくなっていくなんて! あの方に目をかけられて、あの方の手で魔法にかけられて、あの方に!」
「フランシーヌ」
友人が別の友人と仲良くなることへの嫉妬か、と途中まで微笑ましく聞いていたエロイーズは、まさかの事態に顔色を変えた。これは女の友情の類ではない。女の情念、それも奥深くに棲息している部分だ。
「フランシーヌ、あなた、まさか……」
エロイーズは言い淀んだ。フランシーヌは言いすぎたことに気づいたのか口を噤み、母と目を合わせないように横を向く。
「……恥ずかしいことを申しました。忘れてください」
「…………」
クラーラは駄目だ。そう言おうとしたエロイーズはやはり言葉を飲み込む。それくらい、フランシーヌも理解しているだろう。
頑なに目を合わせようとしないフランシーヌに不安が募る。クラーラがマクラウドであることはフランシーヌも気づいている。一番辛かった時に守ってくれたのはクラーラであり、マクラウドだった。エロイーズは彼に感謝しつつもあの革命を望んでいたのはマクラウドであることを知っている。アントワーヌを死なせたのはあの男だ。
「……落ち着いたら、クラーラ様にお礼をしなさいね。心配してらしたわ」
結局そんなことしか言えなかった。クラーラは良き友人であり相談相手である。そんなクラーラが認める弟子ができて、ショックを受けているだけだ。そう思おうとした。
あまり深刻にしたらフランシーヌがその気になってしまうかもしれない。あえて軽く言うことで、エロイーズは軌道修正しようとした。
その時は「はい」と言ったものの中々会う決心がつかずにいるうちに、クラーラがフランシーヌを訪ねてきた。
クラーラの来訪を告げられたフランシーヌは思わず立ち上がってしまうほど浮き立った。しかし何を言えばいいのかわからず、かといって会わないということもできない。会いたかったのはフランシーヌも同じなのだ。
フランシーヌは入念に身支度を調えると、クラーラの待つ応接間に向かった。
「クラーラ様、お待たせしました……」
応接間にいたのはクラーラだけではなかった。
相手をしてくれていたのだろう、祖父のフランソワがいて、なぜか婦人雑誌を眉を寄せながら読んでいる。フランシーヌが来たのを見て恥入るように雑誌を閉じた。
「お久しぶりねぇ、フランシーヌちゃん。元気になったようで安心したわ」
立ち上がって挨拶を交わしたクラーラがにっこりと笑う。
明るいレンガ色のハイウエストドレスに濃茶の縁取り。レースが胸元についている。黒髪は毛先をカールして遊ばせ、小さな貴石の付いたピンで飾っていた。鍔広の帽子にはシフォン生地の花が大きく咲いている。
「先日はご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて何もないわ。女の子は繊細ですものね、気にしないで」
「お主に比べたら誰だって繊細だ」
「お爺ちゃん、何か言ったかしらぁ?」
ぼそっと呟いたフランソワにすかさず言い返したクラーラに、フランシーヌは吹き出しそうになった。
「お爺様、何を熱心に読んでらしたの?」
席に着いてメイドが用意した紅茶を一口飲み、フランシーヌが切り出した。祖父のおかげで気分が軽くなった、礼のつもりだ。
「ああ、旅行記だ」
「旅行記?」
「女だてらに……と言うのは失礼か。一人で諸国を旅しているらしい。世の中は変わるものだ」
「フランシーヌちゃんの暇つぶしにどうかなと思ったんだけどねぇ」
どうやら検閲していたフランソワが夢中になってしまったらしい。
「旅というのはいくつになっても心が躍るものだ。危険を乗り越えて見知らぬ土地を渡り、友を得る……。良いものよ」
「それは旅行じゃなくて冒険でしょう。まったく男って……」
呆れて首を振るクラーラに、きりっと表情を引き締めたフランソワが抗議した。
「しかしこれはいかん。友ならともかく、現地の男と恋などと、風紀が乱れる」
「旅にロマンスはつきものじゃなぁい。それともなぁに、男は良くて女は駄目だとでも?」
「貞節は守るべきだ。フランシーヌは我が伯爵家の大事な姫なのだぞ、良からぬことを吹き込むのは遠慮してもらいたい」
フィクションならともかく旅行記では実体験だ。このような女性がいることすらフランソワには驚きなのに、可愛いフランシーヌが感化されて奔放になったらどうしてくれる。フランソワの言い分ももっともだった。
「読み物なんだからこそ良いんじゃなぁい。ねぇ?」
クラーラがフランシーヌに話を振ると、なぜか拗ねた顔になっていた。
「フランシーヌちゃん?」
「知りませんわ。わたくし、一途な方が好きですもの」
人の気も知らずにフランソワと気安いやりとりをするクラーラに、フランシーヌは苛立っていた。どんな顔をして会えばいいのか、何を話せばいいのかと悩んでいたのに。わたくしを放置して話を弾ませているなんて。わたくしに会いに来てくれたのではなかったのか。
子供っぽく拗ねたフランシーヌに驚きつつ、クラーラは微笑んだ。そんなことを言いだすということは、具体的に好きな人ができたのだろう。
どこの誰か聞くつもりはクラーラにはない。フランシーヌが新たな恋に踏み出せたのがただ嬉しかった。
「そうね。一途な人が一番だわ」
クラーラが微笑み、フランソワが大きくうなずいたのを見て、フランシーヌの胸に後悔がよぎる。
月に一度、亡き人に花を供える男のことを言っても諦めるよう説得されるだけだろう。一途な男が好きならば、彼の想いを邪魔するべきではないのだ。
心の機微に聡いくせに、フランシーヌの想いに気づきもしないクラーラが恨めしくなる。そして同時に、自分はクラーラとマクラウドの、どちらが好きなのだろうとフランシーヌは首をかしげた。
思えばフランシーヌは、マクラウドと言葉を交わしたこともないのだ。彼のことなど何も知らないといってよい。
幻想の男性に勝手に思いを募らせて嫉妬するなど、フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュのすることではないわ。
「ありがとうございます、クラーラ様。わたくし元気が出てきましたわ」
「そう? 良かったわ」
会ってみよう。マクラウド・アストライア・クラストロに。フランシーヌはそう決心した。
***
春が近いとはいえ早朝は肌寒い。
空には靄がかかっていて視界が悪かった。無理を言って出してもらった馬車は、王家の廟の正門前に置いてきた。
フランシーヌは一人で来るつもりだったが、侍女が頑として付いてきた。早朝とはいえ慮外者がいないとは限らない。王家の廟を荒らす者はいないだろうが、野犬や家のない者が供え物を目当てに出没することはあった。
警戒しながら後ろを歩く侍女の忠義に感謝して、フランシーヌはフローラが眠る墓に着いた。
マクラウドはまだ来ていないようだった。フランシーヌは侍女から花を受け取り、墓前に供える。しゃがみこんで墓に刻まれた名前を読んだフランシーヌはフローラとの思い出を取り出した。
何も知らなかった頃は素直に慕い、王妃として尊敬していた女性だ。それを思うとずいぶん不義理をしてしまった。
そして父を殺した仇でもある。フローラの葬儀は国葬だったが参列する貴族は少なく、誰もがジョルジュ家とクラストロ家に遠慮していた。民衆は家に閉じこもり、彼女を悼む声はどこからも聞こえないほどであった。
「…………」
フローラという女性がどういう人であったのか、結局フランシーヌにはわからないままだ。
愛に生き、愛に死んだといえば聞こえはいい。だがその愛で一人の男の心を殺し、愛すべき国民が犠牲になった。自分の愛を正当化しておきながら息子の愛を認めなかった。
愛という幸福な幻想に溺れ、現実の地に足をつけて生きる人を無視していた。いや、フローラの目にはそれらの人々は映らなかったのだろう。彼女の視界にいるのは愛を至高の幸福と信じる者たちだけだった。
それはなんて恐ろしい愛なのだろう。フランシーヌは底冷えする寒さに身を震わせた。透明で熱のない、純度の高い氷のような愛だ。
「お嬢様」
フローラの笑顔を思い出し、ぞっとして自分を抱きしめたフランシーヌに侍女が呼びかけた。
静かな足音が近づき、フランシーヌはハッと立ち上がる。
長い黒髪に黒衣の男。やや青白い顔をしたマクラウドはフランシーヌを見つけるとわずかに目を瞠り、フローラの墓前にある花に視線を移した。歩みに乱れはなく、淑女の礼をとったフランシーヌなどいない者のように通り過ぎる。
こんな時間にいる以上マクラウドに会いに来たのは明白だった。なのに声をかけられないことにフランシーヌは傷ついた。礼を取ったまま、マクラウドに声をかけられるのを待つ。
「楽にしなさい」
「はい。閣下」
マクラウドは思い出に浸るでもなく、あっけないほどあっさりとフランシーヌに向き直った。
「ジョルジュ家の令嬢が彼女に花をくれるとは思わなかった」
「父のことは、許せません。けれど王妃様にはお世話になりました」
フランシーヌはまっすぐに言った。父のことと、フローラへの恩義は別だ。それよりもフローラを「王妃」と呼ぶべきか「フローラ」と名前にするべきか悩んだ。王妃様と言えばとりもなおさずエドゥアールの妻であることを意味する。かといって名前で呼ぶのは心情的に難しかった。
「そうだな。彼女はやさしいから」
マクラウドは頓着しないようだった。そのそっけなさに、本当に今さらながらに自分はとんでもないことをしている自覚が込み上げ、フランシーヌの心臓がドキリと鳴った。
黒い髪は長く、クラーラの短髪とはまったく違う。おそらく鬘だろうと予想しているが不自然さが見当たらなかった。表情と、声まで違う。
貴人の顔をじっくり見るのは不敬にあたるが、こうして間近に見ても似ているとは思うがクラーラと同一人物とは思えなかった。印象がまったく違うのだ。幽鬼のようにこのまま朝日に融けてしまいそうなマクラウドと、光の中で明るく笑うクラーラ。見事な変わりようだ。マクラウドはクラーラではない。
ジョルジュ家を継いだアドリアンは喪中で、未成人であることから母のエロイーズが当分の間当主代理を務めることになっている。騎士団はフランソワが見ているが祖父はすでに引退した身、影響力は皆無だ。
フランシーヌの言動が、ジョルジュ家の趨勢を左右する。非公式とはいえ相手はクラストロ公爵その人だ。
迂闊だった。一度、クラーラが警告してくれていたのに、自分の感情に呑まれてしまった。二度目はもうないだろう。
マクラウドは先導するように歩くと、フランシーヌが付いてこないことに気づいて振り返った。黒い瞳はやわらかく、やさしく少女を待っている。フランシーヌはほっとして、彼に続いた。
「ジョルジュ伯爵令嬢が来てくれて彼女は喜んだろう。……僕としても、どうも彼女のことを話せる相手がいなくてね、嬉しいよ」
それはそうだろう。マクラウドにフローラの思い出を話せる度胸のある者などいるはずがない。寂しげな笑みにフランシーヌの唇が滑った。
「どのような……女性だったのですか?」
「フローラは花だよ。枯れることのない恋の花だ」
恐る恐る聞いたフランシーヌに、マクラウドはびっくりするほど明るく答えた。
「花だからこそ、愛という水と幸福の光が必要だった。……憐れな人だ、自分の力では咲いていられない花なんて。それでも与えられる愛を疑いもしない、愛しい花だ」
「……愛を、疑う?」
「疑うだろう? 人は変わっていく生き物だ。時が過ぎれば心も変化してゆく。成長する。あるいは退化か。フローラには、それがなかった」
帝国の血かな、とマクラウドは続けた。青き尊き血のみを取り込み続けた結果、帝国の血は濃くなり、澱んでいった。身体的欠陥のみならず精神的な異常も認められている。それを解消するために近年では近親婚は避けられてきた。
それでは帝国の第三皇子に嫁いだシャルロッテは。フランシーヌは息を飲んだ。百も承知でマクラウドは契約を結んだのだろう。
「だからこそ、安心して愛していられた。……僕は子供の頃体が弱かったんだが、それは母の胎内にいる間に受けた毒のせいだ」
「毒……っ?」
いきなり不穏になった話にフランシーヌはぎょっとした。マクラウドは微笑んでいるが、どこか儚く、せつなげに見える。
「クラストロ公爵夫人になりたかった者は多くいた。そんな貴族たちが使用人を送り込み、あるいは買収して、少しずつ毒を飲ませていたんだ」
マイクロフトは貴族には珍しく一夜の遊びも愛妾も作らない人だった。もっとも、その後のリスクを考えられる貴族はあちこちに種をばらまく真似はしない。お家騒動ほど無駄に財産と勢力を削るものはないからだ。有能な人材を育てて次の世代に引き継ぐほど名君と称される。お家騒動の元をこさえた主君などただの莫迦だ。
体質だと思われていた妻と嫡男の病弱さが毒から来ていたと知った時のマイクロフトの怒りは凄まじかった。実行犯の使用人と共犯の医者はクラストロ流の刑に処され、命令した主犯の貴族に関してはクラストロ家との繋がりを完全に断たれた。そこまですればクラストロ家も無傷ではいられない。公爵夫人と嫡男が毒殺されかけた醜聞は秘されたが、マイクロフトの「獅子身中の虫はいらぬ」のひと言で取り成そうとしていた家も察して手を引いた。社交界から干され、味方もなく、事実上貴族として終わった。
「王宮にあがるようになってからは甘言、讒言、色仕掛けの嵐だ。僕にとってフローラは、愛を信じさせてくれる女神だった」
マクラウドの手が血に染まっても畏れずに微笑みかけ、マクラウドから与えられる愛をひたすら信じてくれた。初恋という甘くやさしいものではない、マクラウドはフローラという女神の信奉者だった。どれほどの苦痛も彼女という花が寄り添って咲いてくれればそれで良かった。
「……それは、今でも」
「そうだよ」
マクラウドは間髪を入れずに答えると足を止め、フランシーヌと向かい合った。
「フローラの裏切りは僕の身も心も切り裂いた。だがもう彼女は死んだ。思い出はやさしいな、フローラは昔と変わらずに僕に微笑んでくれる」
フランシーヌの瞳に同情と憐憫が宿ったのを見てマクラウドは満足げに微笑んだ。




