閑話:チェルシー・スコットの勉強
今回はドレスの話ではなく、レースなどの話です。
一本の糸がするすると生き物のように身をくねらせながらやがて形あるものになっていく。チェルシーは何度見てもそれが不思議でならなかった。
クラーラの太い指が器用に動き、レースを編んでいる。どこか静謐なその姿は、まるで一幅の絵画のようだ。
つい手を止めて見入っていたチェルシーに、クラーラは「なぁに?」と微笑んだ。
「手が止まってるわよチェルシーちゃん」
「クラーラが綺麗で見惚れてたの」
「あらぁ、今気づいたの?」
クラーラがころころと笑う。この女装男はいつだって綺麗だ。貴族のお嬢様たちも綺麗で可愛いと思うが、クラーラと比べると何かが足りないように感じる。目が肥えているわけではないチェルシーでも、今まで出会った人の中では一番クラーラが綺麗だ。
あの暗くて寒い冬の夜に会ったクラーラでさえ、せつない儚さがあって綺麗だった。
クラーラがチェルシーの手元とテーブルに広げられた教本を見比べて、ひとつうなずいた。
「だいぶ形になってきたわね」
「難しいよ。なんだか大きさが揃ってないし」
「やってるうちに手が慣れて、最初の頃より糸が緩んできちゃうのよねぇ。誰だって習い始めはそうなんだから気にすることないわ」
今、チェルシーはクラーラに教わりながらレースを編んでいる。
クロッシュレース、というらしい。まずは慣れることだ、と初心者のチェルシーは太い糸と太い編み針を使ってモチーフを作っていた。
クラーラは極細の糸だ。同じモチーフのはずなのに、糸が違うだけで別物に見える。
編み図を見てもさっぱりなチェルシーだが、クラーラは一つひとつ丁寧に教えてくれた。
チェルシー・スコットは先日正式にクラーラの弟子になった。
この国の徒弟制はほとんど手弁当で、技は見て盗め、満足な仕事ができないうちは雑用、給料はごくわずか、とさんざんな待遇だ。職人は親から子へと引き継ぐもので、それでもやりたいと入ってくるのならそれなりの覚悟と根性をみせろ、というわけである。
クラーラはスコット家に赴き、チェルシーを弟子にしたいと両親に頭を下げた。
八百屋の娘だ。店は兄が継ぎ、チェルシーは嫁に行くものだと思っていた両親、特に父親は良い顔をしなかった。仕立て屋の弟子といえば聞こえはいいが、ようは針子である。賃金や待遇は最低レベルの労働者だ。
もちろんクラーラもそれはわきまえている。仕立て屋クラーラは王都では有名で腕前は国中に知られているが、しょせん『仕立て屋』なのだ。どんなに敬われていようともそれは変わらない事実であった。
両親に挨拶に来られたチェルシーも驚いた。弟子にならないかと声をかけられたが、今までの延長のようなものだと思っていたのである。
「機械化が進めば仕立て屋が生き残るのは難しいと思います。今はクラーラの名が売れているけれど、それもいつまで続くかわかりませんもの」
クラーラは実に正直に言った。
「ですが、だからこそ、アタクシのすべてをチェルシーちゃんに伝えたいのですわ。彼女は根性があるし、人見知りもしない。そしてなにより、一番大切なことを心得ていますもの」
「一番大切なこと?」
父が怪訝そうに聞き返した。野菜と果物くらいしか扱ったことのないチェルシーが、仕立て屋の何を心得ているのかと思ったのだろう。
「ええ。チェルシーちゃんは、生産者のことを考え、売れていった物に思いを馳せることができますわ。野菜も布と同じく誰かが作っている。そしてどんな料理になるのか、美味しく食べられるようにと思っている。……ドレスを着た少女にどんな素敵なドラマが待っているのか、想像することができる」
クラーラは言葉を区切り、チェルシーを見た。
「自分を取り巻く人々の幸福を願えること。これは仕立て屋にとって大切な素養ですわ」
なぜなら仕立て屋の客は、大半が貴族や上流階級だ。金持ちを妬む心を持っていたら仕立て屋失格である。
チェルシーは顔が熱くなった。たしかにチェルシーは端切れでパッチワークを作る時に手をしっかりと洗い、無駄に汚さないように心がけている。パッチワークが売れた時も「大切にしてもらってね」とこっそり声をかけていた。だがそれはドレス生地の高価な布だからであり、自分の作った物が売れるのが嬉しくて、そしてちょっぴりせつなくてしていたことだ。素養だなんて、そんな大層なこととは思えなかった。
チェルシーがそう言うと、クラーラは黒い瞳を慈しみに光らせた。
「ええ、そうね。でもね、人は慣れるものよ。商売となればそれが日常になる。はじめての感動を胸の奥で鳴り響かせることができるのは、その人の素質だわ」
物は消費されていく。新しいものが出れば古い物は売られ、あるいは捨てられたりするものだ。どんなに心を込めて作っても、それは変わらない。必要な循環でもあった。
まっすぐな心を持ったチェルシー・スコットだからこそ欲しいのだ。そう言われた両親は感激に喉を詰まらせていた。自分たちの育てた娘が認められた、親の喜びだった。
それからチェルシーは毎日クラーラの店に出勤している。給料もきちんと支払われ、空いた時間にはこうしてクラーラ自らの手ほどきを受けた。ちなみにお嬢様三人組はようやくですのね、と喜び、お祝いにとチェルシーに縫い針や刺繍針などを贈っている。
言葉使いや貴族の名前と顔、礼儀作法など、覚えることは山ほどあって大変だが、毎日が充実している。
チェルシーが編んでいるクロッシュレースは花のモチーフ。トルソーに飾られたチェルシーの『制服』の襟飾りになる予定だ。落ち着いた空色のワンピースは古着ではなく、クラーラから贈られた布でチェルシーが一から仕立てたものである。初心を忘れないよう、一年ほどはこれを着ろと言われていた。
「あー、疲れたわ。お茶にするけどチェルシーちゃんは?」
「これ完成させてからにする。手を離したらどこまで編んだか忘れそう」
せっせと指先を動かすチェルシーにくすっと笑い、クラーラは立ち上がって伸びをした。
「若いっていいわねぇ。アタシもう目と肩が痛くって」
はーやれやれ、と肩を叩きながらクラーラがぼやいた。チェルシーのツッコミはない。集中していないと網目がきつくなったり緩くなったりしてしまうのだ。
チェルシーが最も緊張するのは完成後。糸端の始末だ。
解けないように編み目に糸を絡ませていくのだが、これに失敗するとせっかく上手に編めても形が歪んでしまう。形を整えつつ、それでいて解けないようにしなければならなかった。慎重に糸を入れ、糊付けをしてから鋏で切る。
一度うっかり編み目まで切ってしまったことがある。あの時は泣いた。
ゆっくりと鋏に糸を挟み、シャキンと切り落とす。そこでほっと息が漏れた。
「お疲れ様、チェルシーちゃん」
タイミングを見計らっていたのだろうクラーラが紅茶とお菓子を乗せたトレイを持ってキッチンから戻ってきた。
「あ、ありがとうクラーラ」
肩から力が抜けたチェルシーはテーブルに突っ伏しそうになり、あわてて背筋を伸ばした。姿勢の良さもマナーの一つだとクラーラに教えられている。
それを見たクラーラが満足そうにうなずいた。
「だいぶ良くなってきたわね」
「そりゃ毎日毎日やってればね。夢にまで糸玉が出てきたんだよ」
言葉使いについては、二人きりの時には楽にしていいと言われている。店の中なら誰もが平等なのがクラーラの店だ。
「セーターを編むより楽でしょ?」
「それは、まあ……。お花のモチーフならすぐできるしね」
すぐと言っているが、最初にやらせた時には全然わかんないと泣きついていた。成長したものである。
チェルシーが失敗してもクラーラが怒ることはなかった。できるまでやりなさい、と言うだけだ。わからないところは目の前でやって見せてくれる。良い先生といえるだろう。
一日に一個、自分で満足できるものができるまでやらせる。そしてその一個を制服に飾るのだ。成長の過程が目に見えて少し気恥ずかしい。
「クロッシュレースは人気があるし、編めるようになっておいて損はないわ」
クラーラが言う通り、編み針さえあればできるレースは人気がある。教本がいくつもある上に婦人雑誌に編み図が載るほどだ。
「デザインの勉強はしなくていいの?」
仕立て屋ならまずそちらが先のような気がする。
「それはまだいいわ。ウチに来るお客様が来ている服を見て、まずは目を養いなさい。型紙から仕立てるのはできているから、服を見て型紙を起こせるように頑張りましょ。とはいえ基本はそんなに変わらないから焦らなくていいわ」
チェルシーが編んだモチーフを指先で整えつつクラーラは紅茶を飲んだ。太い糸を使うと編み目が見えやすい、それだけ失敗もわかりやすいのだ。
「……ドレスはもちろんだけど、レースや刺繍についても知っていてもらいたいの」
ふ、とクラーラは真剣な瞳になった。
「これからは機械に押されて手編みのレースは減っていくでしょう。でもねぇ……。機械には出せない味わいが手編みにはあるのよ。それを知ってほしいの」
均一化されたものが出回っていく業界で、どう差をつけて生き残るのか。
ただ生き残るのではなく、そこに携わる者がいることをわかっていてほしい。クラーラがチェルシーを見込んだのはそこなのだ。
レースを編ませているのは大変さを少しでも理解してほしいからだった。作ったことがなければ素晴らしい作品を見ても「綺麗」「すごい」くらいの感想しか抱けないだろう。
ただ見るだけならそれでもかまわない。しかし服飾に携わるのならせめて最低限の知識を持ち、敬意を抱いているべきだとクラーラは思っている。
「こういう手作業は歴史と伝統よ。母から娘へ、工夫を重ねながら続いていくもののひとつ。機械化で失われてしまうのはあまりにも惜しいわ」
「クラーラ……」
歴史と伝統と言われてもチェルシーにはピンと来ない。こんな大変なことを機械がやってくれるならそのほうが良いじゃないかと思った。
もちろんクラーラも便利になることを否定しない。そもそも工業化を進めているのはクラストロ公爵家だ。これからの時代の波にこの国が乗り遅れないために必要なことだった。
今までやってきたことを機械に任せることができれば、時間に猶予ができ女性の社会進出が進む。女に学は必要ない、子供は親の手伝いをしていればいいと言っていた者たちも、外に出て働く女性の力の前に黙るしかなくなるだろう。男だから優秀なのではない、努力する喜びを知る者が優秀に育つのだ。
一部の子供のみが教会や私塾で学ぶのではなく、子供は全員平等に教育の機会を与えられる国になる。機械工業化は、その一歩だ。
一方で消えていく伝統があるのはクラーラも苦しかった。
「で、でも、便利になるのは良いことじゃないの?」
「良いことよ。それは間違いないわ」
しかしクラーラは眉を顰めたままだった。
「歴史と伝統とは文化なのよ。人が懸命にそこで生きてきた証だわ。失ってしまえば取り戻すのは容易ではない。編み図だけが残っていても、編んだことがある人がいなくなれば伝えられなくなってしまうわ」
「人が生きてきた証……」
口に出してみてチェルシーは思い出した。そういえばクラーラは店に訪れる客の出身地についてさりげなく話題に出している。地元の話になると急におしゃべりになったり、ほっとしたように打ち解ける客も多かった。
母から娘へ。服や靴を繕ったり、パッチワークの基本をチェルシーは母に習った。便利になればあの時間が消えるのか。そう思うと急に寂しくなる。兄弟姉妹のいるチェルシーにとって、あの時間は母を独占できる、数少ないひとときだった。
――針を使っているんだから。
そう言って、かまってもらおうとぐずる弟よりチェルシーを優先してくれた。
「歴史と伝統って貴族のものだと思ってた」
実感として込み上げてきたものをごまかすようにチェルシーが言った。
「歴史と伝統を守ってこその貴族ですものね。領地の文化、誇りを大切に保存できないようではこの先貴族だって生き残れるかどうかよ」
たとえば紋章一つとってもどんな家なのかわかるようになっている。クラストロは双頭の龍に百合紋だが、領内の貴族には小麦や鎌など農業に関するものが多かった。クラストロ領は元々農業重視なのだ。絹はマクラウドが独占してから盛んになったので、養蚕関連を紋章にしていれば新興勢力だとわかる。
「貴族ってそんなこと考えて生きてるの?」
どこか呆れ気味のチェルシーに、クラーラの顔に笑みが戻った。苦笑いだ。
「そんなわけないわよぉ。歴史と伝統っていうのはね、考えて理解するものじゃぁなくて、身につけていくものなのよ。貴族だったらそれこそ生まれた時からね。領地を体現する代表者が貴族ってものよ」
「あのお嬢様たちも?」
常連のお嬢様三人組は見るからに都会っ子だ。地元を体現しているとは到底思えなかった。クラーラが笑い出す。
「そうよねぇ、あの子たちはそうは見えないわよねぇ。でもあの子たちだって、国元に帰ればお国言葉に戻ったり、郷土料理を食べたりするわよ」
想像がつかずに首をかしげるチェルシーがおかしかったのか、またクラーラが笑った。
「その土地伝統のレースに、刺繍。あの子たちにだって懐かしいと思う文化があるわ。教えてあげるから、今度来た時に話題にしてみなさい」
チェルシーが得意なのはパッチワークだ。それこそ歴史と伝統の集大成ともいえる技だといったらどんな顔をするだろう。端切れではなく、思い出の服やハンカチ、それらを切り取って縫い合わせていく。そしてそれは、何年も何代も使い続けられていく。
時代とは、人だ。人の想いをやわらかく包み、着る人の背中をそっと押す。そういう仕立て屋になってくれたらいい。クラーラはチェルシーに期待していた。古い伝統を学んで新しいものを作る。敏感な感性は若い頃に鍛えるものだ。
「若いっていいわねぇ」
しみじみと言ったクラーラに、今まさに花咲こうとしている若者は首をかしげた。
機械編みが出回ると手編みは高級品になっていきます。地方によっては伝統のレースが消えたりもしたそうです。道具と図案だけあってもできる人が村におらず、専門家が来てあれこれやって復活、という話を読みました。
チェルシーが編んでいるのはアイリッシュ・クロッシュレースです。立体的なお花の形など、可愛くて大好きです。糸端の始末、どうにも不安で糊付けしてたなぁ……と思い出したのでチェルシーもそうさせました(笑)。かがるだけで解けないのに感動した思い出。




