フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュの再起・2
クラーラの次にフランシーヌの元を訪れたのは、お嬢様三人組だった。
「お久しぶりですわ、フランシーヌお姉様」
「お姉様、お会いしたかったですわ」
「お姉様にお会いできなくて寂しゅうございました」
三人とも、フランシーヌを気づかって地味なドレスだった。リボン、帽子の飾り、さりげなさを装ったレースの色はすべて黒である。
フランシーヌは変わらずに慕ってくれる少女三人の友情にそっと頬を染めた。
「ごめんなさい、外に出る気になれなくて……」
三人はわかっているとばかりにうなずいた。
「お姉様はとてもお辛い思いをされたんですもの。無理もありませんわ」
「わたくしたちもあの日クラーラの店に行ったのですが、それは恐ろしい思いをいたしました」
「今日お会いできたんですもの。次を待つくらいなんでもありませんわ」
さらっと次を約束され、フランシーヌはつい笑ってしまった。
「お姉様、笑いごとではありませんのよ」
「ああ、でも、お姉様がお笑いになったのは嬉しいですわ」
「お姉様の笑顔はわたくしたちの宝物ですもの」
宝物。
フランシーヌは三人の武勇伝を聞き及んでいた。
フランシーヌが笑顔になれる場所、クラーラの店を守るために、あの日三人は自ら乗り込んでいったのだ。
クラーラの店はチェルシーをはじめとする下町の女衆が臨時の病院を開いていた。クラーラがなんとかかき集めた薬や食料を配り、出産した妊婦までいたという。そこに、一度こっぴどくクラーラに追い返されたアルベールの部下が賊を率いて襲撃してきたのだ。
お嬢様三人は賊に対して一歩も引かず、クラーラの店を守り抜いた。あの店で育んだ友情と笑顔こそ、三人の、そしてフランシーヌの宝物であった。
「お話はわたくしも伺っております。なんと頼もしく、やさしいお方が友人なのかと心強く思いました」
フランシーヌの称賛に三人の顔がぱぁっと輝いた。
「わたくしたち、お姉様のお役に立てたんですのね?」
「お姉様もクラーラ様も、わたくしたちの尊敬するお友達ですわ」
「チェルシーさんたちもですわ。お友達が困っていれば助けるのが真の友ですわよ」
三人はあえて明るく語った。恐ろしかったのは本当だし、本音を言えばもう二度とあんな真似はしたくない。だが、同じような状況に陥れば、三人はまた力を合わせて戦うだろう。
三人は貴族の力というものを思い知ったのだ。
あの時、自分たちを助けてくれた銃の持ち主は、おそらくクラストロ家の者だろう。三人の家はそれぞれ高位の貴族だ。その令嬢が、自ら出向いたとはいえクラーラの店で傷を負ったとなれば、クラーラはもちろんのこと、クラストロ家にも咎責が及ぶ。万が一に備えて兵を配備していたとしてもおかしくなかった。
貴族という存在の影響はそれほどに大きい。だからこそ、三人はフランシーヌが心配だった。
「……で、チェルシーさんのお母様が賊を一喝していたんですの」
「大勢の賊を相手にお一人で、ですわ。まさしく母は強しですわね」
「そうそう、クラーラの店で出産なさったアリシアさんは、元気に子育てに励んでいるそうですわ」
男に幻滅したわけではないが、高位貴族の令息がほとんど家に閉じこもっていて王や王都を守る行動をとらなかった。意気地なし、腰抜け、軟弱者、と三人はがっかりしたものである。
そんな男にフランシーヌお姉様は渡せない。少なくとも、お姉様のために命を張れる男でなければなんとしても阻止してやろう。お嬢様たちはそう思っていた。
「そういえば、お聞きになりまして?」
「あのお話でしょう? 蒸気機関車!」
「王宮の庭でお披露目するとか。楽しみですわね」
蒸気機関車の話はフランシーヌも新聞で読んだことがある。未来の乗り物、鉄でできた車が自走するという、夢のような話だ。
「お披露目ですか。もうそこまでお話が進んでいますの?」
蒸気なんてお湯を沸かした時に出てくる煙、程度の認識しかない。息を吹きかければたちまち消えてしまう、そんなものがどうやって鉄の塊を動かすのか、不思議でならなかった。
「そうなんですのよ。もう駅舎という停留所の建物の建設予定地まで決まっているとか」
「蒸気機関車そのものは輸入するそうですわ」
「我が国でも建造するそうですが、それは当分先でしょうね」
蒸気機関のような大型の新技術には、当然複製されないよう特許が取られている。今回は特許料その他込みでの輸入になった。
執政であるクラストロ公爵は、アルベールの件で謝罪した学園都市国家とどういう手段か同盟を結び、技術アカデミーを設立した。科学と化学を中心に研究者を集め、遅れを取っていた学問の向上を目指すのだという。
この分野の学者たちは錬金術師と詐欺扱いされていたこともあって、アカデミー設立に手を叩いて喜んだ。研究者というのはどうも自分の研究にのめり込むあまり、予算や宣伝広告にはとんと疎く、世間からは何をやっているかわからない胡散臭い連中と思われていたりする。国が旗振り役になってくれれば大手を振って研究できるのだから否やはなかった。
「壮大ですわね……」
フランシーヌはほうとため息を吐いた。
自分が喪に服している間にも、時代は確実に前に進んでいる。取り残されるような寂しさがあった。
「お姉様、見学に行ってみませんか?」
「そうですわ。行きましょう」
「お姉様もぜひご一緒に」
どうやら三人はお披露目に参加するらしい。フランシーヌは顔を曇らせた。
「わたくし招待状を頂いていませんわ」
王宮で開催するからには招待客のみだろう。アカデミーの後援者を募る目的もあるに違いない。現在喪中のジョルジュ家では役に立てそうになかった。
首を振るフランシーヌに三人が笑い出した。
「場所は王宮ですが、入場料を払えば誰でも見に行けるのですわ」
「一人銀貨一枚だそうですの」
「どなたでも気軽に行けますわ」
銀貨一枚が高いか安いかといえば、フランシーヌには呆れるほど安いほうだ。ジョルジュ家で最下層の使用人の給料のほうが高い。
どうやらマクラウドは本気で国中に鉄道を敷くつもりらしい。
頭の固い貴族でも儲け話には食指が動くだろうし、未知を怖がる庶民には実物を見せるのが一番だ。なにより王都の民は新しいものが大好きである。一人で行くのは二の足を踏んでも、みなさまお誘いあわせの上お越しくださいなら喜んで行く。そして行った者から自慢話が広がる。
そうなれば当然屋台が並び盛り上がりを見せるだろう。
国民の気分を高揚させて鉄道歓迎ムードに染め上げようというのだ。あいかわらずの手腕にフランシーヌは舌を巻いた。
「ね、お姉様。ぜひご一緒に」
「わたくしたちが付いていますわ」
「お姉様と一緒ならきっともっと楽しいですわ」
三人の誘いにフランシーヌの心が動いた。社交界に出るのはまだためらいがあるが、誰でも行けるお祭りなら誰もフランシーヌを気にしないかもしれない。
「お母様に伺いを立ててみますわ。それに、蒸気機関車はアドリアンのほうが行きたがるかもしれません」
それもそうか、と三人はうなずいた。
「アドリアン様は男の子ですものね」
「機械のことなら男の子のほうがお詳しいわ」
「男の子はそういうのがお好きですものね」
三人が帰った後、フランシーヌは久しぶりに心が軽くなるのを感じた。
クラーラの時もそうだった。あれから忠告通りきちんと食事をとり、庭を歩くようにしている。見慣れた庭。だが、庭師や使用人、訓練中の騎士がフランシーヌを見ると嬉しそうな顔をする。主家の娘に気安く声をかけることはないものの、足を止めて礼をし、なかには手を振ってくる者までいた。
見慣れた庭。たしかに季節は移り替わっている。日の光が強さを増してあたたかさを実感した。
クラーラが言いたかったのはこういうことなのかもしれない。
どんなに暗く、光明の見えない日々でも、一歩、外に出てみればそこには生命が息づいている。悩んでいるのは、苦しんでいるのは、自分だけではなかった。家中の者たち、使用人だって、悲しく怖かったはずだ。当主が亡くなり、跡取りは未だ八歳。先行きが見えず不安だっただろう。
「わたくし、また自分のことばかりだったわね……」
フランシーヌは本棚の奥に隠していた日記帳を取り出した。
アルベールへの恋心と悲しみを綴ったフランシーヌの黒歴史だ。捨ててしまおうとしたこともあったが、反省を込めて残しておいた。
この日記を書いていた頃と今は同じだわ。フランシーヌは思う。辛く苦しいことがあると人は歩みを止めてしまう。でもそれは、けして悪いことではないのだ。
動けないからこそ、自分を取り巻く世界の素晴らしさに気づくこともできる。
クラーラのドレスを着た時の感動は、今もフランシーヌの胸で鳴り響いていた。
「お母様に、お話したいことがあると伝えてちょうだい。アドリアンも一緒に」
フランシーヌはあえて明るく言ってみた。お嬢様の笑顔を久しぶりに見たメイドが嬉しそうに返事をして部屋を出ていく。
伯爵夫人は暇ではない。フランシーヌの母はアドリアンの代理当主として伯爵家の責務を担っていた。外で働くことはできないが、そのぶん軍と騎士団、なにより領地との交渉が大変だった。
女だてらに、と後ろ指を指されても、歯を食いしばって堪えねばならなかった。彼女はジョルジュ将軍家の女主人なのである。
嫁いだからにはジョルジュ家に骨を埋めるつもりでいる。実家は子供たちの名声が欲しいのか帰って来いと言ってくるが、愛するアントワーヌの証を彼女は繋いでいきたかった。
「奥様、フランシーヌ様が奥様とアドリアン様にお話があるとのことです」
親子だというのに気軽に会えないのもそのせいである。同じ家で暮らしているのになんとも寂しいものだ。
「夕食後まで待つように言いなさい」
「はい、奥様」
友人と会ったことで何か得るものがあったのかもしれない。伯爵夫人がほっと息を吐いた。
「おっ、奥様っ!」
どたどたと足音がして、いつも冷静な家宰がらしからぬ様子で飛び込んできた。
「何事です?」
内心の驚きを隠し、落ち着いた態度で訊ねた。
そこで我に返ったのか、家宰は深呼吸をした。
「……フランソワ様が。フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュ様がお見えになられました」
「お義父様が?」
つい彼女の眉根が寄った。
アントワーヌの葬儀に参列はしたが、王都の危機に際し何もしなかった人である。義父ではあるが失望していた。
そんな男が今さら何の用だろう。前当主を無下にするわけにもいかず、通すように言った。
「……お久しぶりです、お義父様」
伯爵夫人は入ってきた老人を見て一瞬息を飲んだ。
往年の姿とはかけ離れていて、言われなければ誰だかわからなかっただろう。
身なりこそ整えてあるが酷く窶れ、目は落ちくぼみ、顔色も悪い。馬を飛ばして来たのか肩で息をしていた。それがまた異様だった。
かつてのフランソワであれば領地から王都までの距離で疲れるなどなかったはずである。老いた、という感想しかなかった。
一方のフランソワもまた彼女の姿に驚いていた。
凛とした伯爵夫人、さすがはジョルジュ家の女主人よと謳われたかつての面影は薄れ、今や疲れ切った中年女性そのものである。体裁は整えているが気難し気に皺の寄った眉根や化粧でごまかした肌艶の悪さが彼女の苦悩を物語っていた。
フランソワは彼女に会って何を言うべきか悩んでいた。だが、くたびれた女性の中に、あの日の――アントワーヌとの結婚式の幸福な笑顔がたしかに見え、気づいたら腰を折り、頭を下げていた。
「エロイーズ、すまなかった」
「…………」
絨毯を見つめるフランソワの耳に、彼女が息を飲んだ音が聞こえた。
「それは、何の謝罪でしょう」
「アントワーヌを殺したことだ」
血を吐くような声でフランソワが言った。
「過去の禍で断ち切るべきだったのだ。近衛は、軍人は、情で動くものではない。私が、断ち切っておくべきだった」
「過去を悔やむのは誰にでもできますわ」
エロイーズと呼ばれた彼女は冷たく言い放った。手を伸ばし、机の上に置かれた扇を取る。何かを握りしめていないと感情が爆発しそうだった。
「わたくしはアントワーヌを愛したことも、愛されたことも後悔しておりません。なにより大切な宝をあの方はわたくしに授けてくれました」
フランシーヌとアドリアンのためならエロイーズは何だってできる。お前と一緒にするな、と彼女は言った。
「……どうか。私に戦う場を。フランシーヌとアドリアンのために戦うことを許してくれ」
エロイーズは息を吸い、目を見開いた。静かな足取りでフランソワの前に立つ。
「お義父様、あなたが出て来れば口さがない者たちがここぞとばかりにジョルジュ家を叩いてくるでしょう」
「わかっている」
フランソワとて、息子が殺されて仇も取らずにいた自分が謗られることくらい想像がついた。マクラウドが復活し、彼に阿る者どもは、声高に批判するに違いない。
エロイーズが扇を強く握りしめた。ギュッと革手袋が鳴った。
フランソワの来訪に慌てて出てきたフランシーヌとアドリアンが顔を出す。
フランシーヌが何かを言う前に、エロイーズの扇がフランソワの頭を打った。これが剣であればただではすまないだろう動きであった。
「命を捨てなさい。二度と、守るべきものを誤らぬように! 誓いを破れば今度こそわたくしがあなたを討って差し上げます!」
フランソワは片膝をついた。目の前の女性に剣を捧げる。
「フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュの名に懸けて」
エロイーズが泣きだす寸前の顔になった。
「……どうして?」
とうとう膝をついた母に子供たちが駆け寄ってくる。
「母様!」
「お母様!」
両手を広げて我が子を抱きしめたエロイーズは一度歯を食いしばり、それから嗚咽を漏らした。
「どうして? どうしてあの人が……っ」
アントワーヌが死ななければならなかったのだろう。
政略結婚でもアントワーヌとエロイーズはたしかに愛し合っていた。順風満帆ではなかったし、クラストロ家との関係悪化で貴族から厳しく追及されたこともあった。なかなか子に恵まれず、特に軍人の家系で男子ができないことを悩んだこともあった。
エロイーズと離婚して別の女と、という話を耳にしたこともある。
「どうしてあなたが生きていて、わたくしのアントワーヌが死ななければならなかったのよ! どうしてよ! アントワーヌ! ずっと一緒にいるって約束したのに!」
アントワーヌは苦しむエロイーズにそう言って抱きしめてくれた。彼とならどんなに辛くてもやっていける。人生を捧げてついていこうと思ったのだ。
愛されている。
その自信が人にとって、女にとって、どれほどの充足と力を生むことか。エロイーズのすべてを満たしてくれたアントワーヌはもういない。
子供のように泣き喚く母に、フランシーヌとアドリアンはずっと堪えていたものを解き放った。ずっと泣きたかったのに悲しみはどこか遠く、心は乾いていた。母が耐えているのだから自分が泣くわけにはいかない。心を防御して、悲しみを遠ざけていた。
胸の奥にあった熱くやわらかなものが弾ける。
この世でたった一人の父親、世界で一番愛してくれる人を喪った現実を、ようやく身の内に入れることができたのだ。
「お母様……っ、お父様、お父様っ」
「父様、父様ぁ……」
だからずっと苦しかったのだ。地に足がつかない感覚に怯えていた。これを受け入れてしまえば我慢ができなくなるとわかっていたから遠ざけてきた。認めてしまうのが怖かった。
自分の心が見えない苦しみは、狭く窮屈な箱に閉じ込められたような感覚だった。
声を上げて泣く三人に、フランソワは無為に過ごしてきた過去を悔やんだ。クラーラが尻を叩いてくれなければ、この三人を見殺しにしていたかもしれない。
涙ぐんだフランソワの尻が物理的に叩かれた。
「な……」
クラーラだった。
ようやく追いついたところなのか肩で息をしている。案内したメイドと家宰に命じてドアを閉めさせた。
「なにしてるのよ」
尻を擦っているフランソワを囁き声で叱りつけた。
「さっさと抱きしめてあげなさいよ」
「いや、しかし。……邪魔するわけには」
「……あのねえ」
クラーラは頭が痛いとばかりに額を押さえた。
「家族でしょう、お爺ちゃん。どうしてそこで遠慮するの」
泣きなさいよ。家族でしょう。クラーラが言った。
のろのろとフランソワが振り返ると、三人は泣き濡れた顔で待っていた。
「後悔するのはいつでもできるのよ。一人で立ち上げる力がないのなら、みんなで力を合わせればいいじゃなぁい」
しょうがないわねぇ、とクラーラは苦笑いだ。これだからたいした挫折を知らないお坊ちゃま将軍は駄目なのだ。自分の痛みを自分の中で完結させて、誰かに縋ることもできない。そして、同じように誰かの手を取ることもできなかった。
一歩、近づいた祖父に向かい、フランシーヌが手を伸ばした。
「おじいさま」
息を詰まらせたフランソワは、次の瞬間彼女を抱きしめていた。銀色の髪、新緑の瞳は雨に濡れて、嵐に遭ったかのようだ。
「フランシーヌ」
「お爺様」
「アドリアン」
「お爺様」
「エロイーズ」
「お義父様」
吼えるように、フランソワが泣いた。
四人はひとかたまりになり、ようやく安心したのだ。
フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュはもはや何の力もない隠居老人である。
それでも彼が生きてきた経験と思い出は何物にも代えがたい宝だ。
一家の長として、また軍人として、貴族として、アドリアンが学ぶことは多いだろう。フランソワの失敗こそ、誰もが陥りやすい情と利の迷宮だ。アドリアンが迷い、失敗した時に、フランソワの経験はきっと役に立つ。
クラーラはジョルジュ家をしばらく見つめた後、一度瞳を閉じ、部屋を出ていった。
前にも言いましたが、名前を考えるのは毎回難解です。伯爵夫人のままにしておきたかったけど、息子の嫁の名前知らないのまずいだろ、とひねり出しました。




