エルメラ・ボッヂの真贋
ドレス書きたい欲に圧されてドレスだわっしょい!しました。
古美術商を営んでいるボッヂ家の庭は、どこか懐かしい雰囲気だ。
噴水を中央に芝と樹木。足元にはラベンダーが植えられ、歩くたびに香りを届けてくる。通路の両脇には背の高い花や草が風の音を奏でていた。
遠い日に遊んだ、田舎の風景だ。ここを訪れる客人は郷愁に目を細めてそう言う。
「奥様、これでよろしゅうございますか」
そんな絵画のような風景に立つ人がいる。
「ええ。ありがとう」
切り取られた花を受け取って、笑顔で庭師に礼を言ったのは、つい先日ボッヂ家に嫁いで来たばかりの女主人、エルメラだ。
緑の黒髪に緑青の瞳、淡い薔薇色の唇をした彼女は、切れ長の目で弧を描くと花をそっと撫でた。豊かな睫毛が化粧もせぬうら若き女性に色を添えている。
髪は下ろしたままだ。午前服なのでさほど堅苦しさはないが、エルメラから醸し出される静かな気配は庭の雰囲気とあいまって、彼女の若さを否定するように古風に感じさせていた。
「奥様、そのようなことは私がいたします」
そこにメイドがやってきた。急ぐ必要もないのに小走りに、豊満な胸を揺らすような彼女にエルメラが残念そうな顔になる。
「……そう? ガレスの花瓶にはこの花だと思ったのだけれど」
ねえ、と同意を得るように庭師を振り返った。長年ボッヂ家の庭を育ててきた老人は、嬉しそうにうなずいた。
メイドはふっと笑った。好意的な笑顔の裏に優越感と蔑みが隠れている。
「ガレスの花瓶にはすでに活けておきましたわ。奥様が自らなさることではございません」
「レナードは好きにしていいと言ってくれたわ」
「家のことは私にお任せくださいませ」
エルメラは差し出された手に花を預けず、庭師にもう一度礼を言った。メイドを連れて家に戻る。
古美術商だけあって、ボッヂ家の調度品にはアンティークが多くある。
玄関に置かれたガレスの花瓶はその最たるものだ。
ボッヂ家の家宝のひとつでもあるそれは老舗工窯ガレスの最初期に作られ、最大の特徴である赤と青の幾何学模様が描かれている。
当時は白磁の技法が生まれたばかりで、そこにどう鮮やかな色を乗せるか各窯が競っていた。その中でもっともふさわしい赤といわれるプロメテアスルージュを作りだしたのがガレスであった。
ボッヂ家にある花瓶はその第一作ではないかといわれている。そのまま飾っておくだけでも存在感を放つが、花瓶はやはり花を活けてこそだ。ボッヂ家の当主、もしくは妻が、その役目を担うのが習わしであった。
これはボッヂ家の器量を計る大切な仕事である。季節によりどんな花をどう活けるか、まさに主人の器を計るのだ。
「エルメラ」
「あなた!」
レナードは仕事柄あちこちの地方に呼ばれるため、家を留守にすることもある。新婚早々彼は三日も出張していた。
三日ぶりに新妻を抱きしめたレナード・ボッヂはしばらくしみじみと彼女の体温を感じ取っていたが、執事とメイドたちの何食わぬ顔にやむなく体を離した。
「変わりはなかったかい?」
「ええ」
ほんのりと染まった目元にキスをする。その後ろを、荷物を持った男たちが通り過ぎていった。
「お食事の時間まで、どうかおくつろぎになってお待ちください」
父の代から仕えている執事がにこやかにそう言った。レナードが眉を下げる。
「そうさせてもらおうか。行こう、エルメラ」
積もる話もあるだろうが、まずは部屋に行け。執事の言わんとすることを要約するとこうなる。
エルメラとレナードは婚約期間が二年と長かった。おまけにエルメラの故郷は王都から遠く離れた国境にある地方都市。いわゆる遠距離恋愛である。
二人の結婚は家同士のいわば政略結婚だといわれているが、実はレナードの一目惚れであった。故郷を離れて遠く王都に嫁ぐことを、エルメラはためらったのだ。
レナードはボッヂ商会の商会長として忙しく、エルメラの故郷にも古美術品の鑑定に行っただけだった。一目惚れしたとはいえ滞在するわけにもいかず、手紙で愛を伝えること二年。ようやく実った恋であった。
そんな恋しい妻を置いて三日も家を留守にした、主人の意を汲む彼はまさに執事の鑑である。
「玄関の花は君が活けたのかい?」
「ええ。この家の庭は素敵ね」
エルメラは自分の正当な権利としてガレスの花を取り換えていた。メイドが用意した花は、彼女の部屋に飾ってある。
妻の言葉にレナードは嬉しそうな顔になった。
「気に入ってもらえて良かったよ。ご実家からアドバイスをもらってね、もっと季節を楽しめるようにロジーと考えたんだ」
ロジーは庭師の老人だ。誇りを持って仕事に励む、年長者の男に意見を言うのは当主といえども骨が折れただろう。男二人が額を突き合わせている姿を想像し、エルメラは微笑ましくなった。
「実家が何か言いまして?」
「いや、君が王都に溶け込めるように、ずいぶん心を砕いてくださった。感謝している」
「そう……」
エルメラはうつむいた。
二年も婚約していたが、文通ばかりでこうして隣にいられたことは滅多になかった。いまだにぎこちなさが残っている。
「……月明りにこそ託せよ、我が恋。君の頬を包めと」
レナードはエルメラの手を取って詩を紡いだ。
「水面に映る花弁は愛し君の面影。我が喜びは君の隣にありて輝く」
エルメラが頬を染めた。たった三日、されど三日だ。寂しかったのは自分だけではなかったらしい。
「会いたかったよ、エルメラ」
「わたくしもよ、レナード」
レナードが彼女の柳腰を抱き寄せ、エルメラは彼の胸で目を閉じる。
詩は紳士淑女のたしなみだ。ボッヂ家は貴族ではないが、上流階級を相手に商売をしているため、貴族と同等の教育を受けている。レナード自身は大学で古典や芸術を専攻した。
そしてまたエルメラも、そうした伝統文化を受け継ぐ家に生まれた。詩を贈り合うのは日常であり、意味を瞬時に理解するのは当然であった。
***
エルメラは日中をほとんど部屋で過ごしている。
刺繍、ピアノのレッスン、読書。故郷の家族に手紙を書いたり、使用人の報告を受けたりと、のんびり過ごしていた。
いや、実際にはとても忙しいのだが、エルメラの雰囲気がのんびりしているので気楽に見えるのだ。
「奥様、このままではいけません!」
そう彼女に訴えてきたのはメイドのティーファだ。ガレスの花瓶にエルメラより先に花を活けていたメイドである。
他のメイドを退けてめでたく奥様付きの地位を獲得した彼女は、事あるごとにエルメラに口出ししていた。
「なにが?」
「なにが、じゃありませんよ。もう半年になるというのに、奥様はどこにもお出かけにならないじゃありませんか」
「必要ないもの」
「せっかくの王都なんですよ? もっと楽しみましょうよ奥様!」
いいと言っているのにティーファはエルメラを外に連れ出した。人妻になったとはいえエルメラはまだ二十歳だ。外に出ればどれほど王都が楽しいところかわかってもらえるだろう。
ティーファが目指したのは高級店街、クラーラの店だった。
「クラーラ……?」
「ええ? ご存知ないんですか? クラーラといえば王都一の仕立て屋、女の憧れですよ」
「ふぅん……?」
エルメラは店の小窓から中を覗き込んだ。
黒髪の毛先を青く染めた、ずいぶん大柄なドレスの女性が少女三人と楽し気にお茶をしている。あれがクラーラだろう。テーラードスタイルのジャケットにマーメイドラインのスカートは茶と青でまとめられ、体格のわりにすっきりと着こなしていた。スカートに入ったスリットから覗くレースが清楚な色気を出している。
仕立て屋というよりちょっとしたサロンのようだ。エルメラの視線に気づいたのかクラーラが振り返り、人懐っこく微笑んだ。
ちりりん。
エルメラがつい見惚れているうちに、ティーファがドアを開けた。
「いらっしゃーい。ようこそクラーラの店へ」
クラーラは現れた女性二人に素早く目を走らせた。
どちらも外出着だが、金髪の女性はやたらぎらぎらしている。気合いが入った化粧に派手なドレスと帽子はそれにしては品がない。
もう片方の女性は黒髪に花飾りのついた帽子、黒を基調としたドレスとしっとりとした雰囲気だった。どこかの奥様とメイドといったところだろう。
「うちははじめてですわね? アタクシが仕立て屋のクラーラですわ」
きょろきょろと店内を見回しているメイドに比べ、ずいぶん落ち着いた奥様だこと。若いからと甘く見たら痛い目見ると判断したクラーラは丁寧に挨拶した。
「はじめまして。エルメラ・ボッヂですわ」
仕立て屋だからとへりくだらず、さりとて傲慢になることもないクラーラに、エルメラは安心したように返事をした。
エルメラの声、正確には発音に、クラーラが好意の眼差しになった。
「まあ、ではボッヂ商会長の?」
「はい」
「来てくださって嬉しいですわ。今、お席を用意します」
クラーラはお嬢様たちのいるテーブルに椅子を持ってきた。相席に驚いたようにエルメラが目を瞠る。
「紹介いたしますわね。こちら、アタクシのお友達ですの」
三人が立ち上がろうとしたのを制し、椅子に座ったままでの紹介になる。
年齢はエルメラが上でも、お嬢様たちは高位貴族の令嬢である。名前を呼ばれて会釈する三人に、エルメラはさらに驚いた顔になった。
驚いたのはお嬢様三人組もだ。初見の客に紹介されるのははじめてではないが、クラーラはこのエルメラという女性に対し、ずいぶん気を使っている。何者なのだろうかとそわそわしていた。
「お茶をお持ちしますわ。侍女さんも同じでいいかしら?」
「ええ、かまいませんわ」
エルメラは笑顔で応じた。少し、この店のことがわかってきている。
高位貴族の令嬢を友人と言い切り、クラーラが紹介したということは、この店では身分問わず誰もがクラーラの客であり、友人なのだ。
なにより三人が『お友達』と言ったクラーラに嫌な顔ひとつしなかったのが素晴らしい。王都にもこんな店があったのか。エルメラは感心した。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……あら」
エルメラは出された紅茶の香りを嗅ぎ、わずかに目を見開いた。クラーラを見る。
「古都のお茶ですわ。お好きかと思いまして」
「まあ……、おわかりになりますの?」
「古都の女性は独特の雰囲気がありますものね」
懐かしい故郷の味に、エルメラは緑青の瞳を潤ませた。
エルメラの故郷は国境の地方都市、かつて亡んだ国の首都があった街だ。
周囲を山に囲まれた盆地は土壌が豊かで、農業が盛んである。また首都であった名残か様々な文化が栄え、人々は今もなおその頃を誇りにしていた。
芸術、料理、言語に至るまで名残を残す街に敬意を払い、古都と呼ばれている。この国もそれなりに古いが、それでも新興国家より古の都を敬うのはどこの国でも同じであろう。
クラーラが気づいたのはエルメラの発音が古都のそれだったからだ。
古くから続く伝統を自然と敬う貴族である三人組は、エルメラに尊敬の眼差しを向けた。王都の住人は基本的に新しい物好きだ。だからこそ、伝統を受け継ぐ文化人に憧れる。
「まあ、古都の方でしたのね」
「ボッヂ家といえば古美術商ですわよね」
「古都の宝を娶るなんて、ボッヂ家のご当主は素敵な方なのでしょうね」
お嬢様たちもボッヂ家の当主が結婚したことを知っていたらしい。口々に祝福され、エルメラは照れくさそうに微笑んだ。
「クラーラさんは、古都についてよくご存知ですのね」
「仕立て屋であれば古都の織り、染め、刺繍はやはり憧れますもの。織物博物館は本当に素晴らしいものばかりで、アタクシも一度は手掛けてみたいものですわぁ」
クラーラはうっとりと頬を染めた。ほうっと吐き出されたため息には熱が籠っている。クラストロの絹はこの国の名産品だが、古都の織物は逸品だ。歴史のぶんだけ格が違う。
なにしろ希少なのだ。クラストロでは職人を集めた工場で品質を一定に保っているが、古都は工房ごとに特色がある。伝統の技を受け継ぐのはたいてい息子だが、腕の良い弟子には師が工房の紋を使うことを許す。そうして互いに切磋琢磨して育ててきたのが古都の伝統だった。
「絹はクラストロが独占してしまいましたけれど、綿や麻に戻っただけだとみんな笑っています。昔はそうでしたからね」
ちくりとエルメラが言った。店に飾られた見本のドレスはクラストロの絹を使っている。これにはクラーラも苦笑するしかない。
「さすがは古都ね。昔のスケールが違うわぁ」
「みなさんそうおっしゃいますわ」
そして古都の女といえば鋭い棘があることでも有名だった。誇り高くたいていのことには寛容だが、ひとたび怒ればスパッと真っ二つにされる。棘というより、刃である。
クラーラはよく研がれた剃刀を押し当てられた気分になり、お嬢様たちもひんやりとしたものを感じてか背筋を伸ばした。
「……それで、本日は何をお求めに?」
場の空気を変えるべくクラーラが水を向けた。
するとなぜかエルメラは困った顔をしてティーファを見た。
「ええ、あの……」
「奥様に王都を楽しんでいただくためですわ」
待ってましたとばかりにティーファが身を乗り出した。ちなみに彼女はお嬢様たちの侍女と同じソファである。
「ご結婚してもう半年も経つのにどこにもお出かけにならないんですもの。いつもお一人でお部屋に籠ってばかりで社交もなさらず。せっかく古都から王都に来たんですよ? 遊ばないと! それにお若いんですからドレスや宝石も一新しましょうよ。王都の仕立て屋といえばクラーラの店ですわ!」
力説するティーファに、逆効果どころか営業妨害だとクラーラは頭を抱えたくなった。
古き良き伝統文化を大切にする女だと認識させたばかりだというのにこの言い草。これではお嬢様たちは最新流行ばかりを追いかける軽薄な令嬢だし、クラーラは高級品を売りつける仕立て屋である。ボッヂ家のメイドの質が問われる事態だ。
案の定、エルメラの口元が吊り上がった。反対に緑青の瞳が冴え冴えとしている。古都女の微笑、と呼ばれる怒りの表情だ。
クラーラは慌てた。こんな女のせいで古都の女に反感を抱かれてはたまらない。
「エルメラさんははじめてですから説明しますわね。クラーラの店ではその方お一人のために、ふさわしいドレスを仕立てますの」
すんっとエルメラの微笑に温度が戻った。
「流行を追うだけではなく、その方だけのただ一着。お人柄だけではなく人生まで表現するドレス。一目見ただけでどのような存在なのかがわかる、そんなドレスを仕立てていると自負しておりますわ」
「……まあ」
こだわりの一着、というのはエルメラの琴線に触れたらしい。乗り気になってきた。
「ええ、ですので、初回でお受けするには、エルメラさんだけでは足りませんわね」
ティーファの顔が歪んだのを横目で見ながらクラーラは続けた。
「と、言いますと?」
「おわかりでしょう? あなたをもっとも愛している、あなたをもっともうつくしくしてくださる方を連れてきていただかなくては」
レナードである。愛する夫を真正面から称賛されて、エルメラはぽっと頬を染めた。
「王都の方はずいぶん大胆ですのね」
しかし悪い気はしない。堂々としたクラーラの気風に、エルメラは好感をさらに上げた。
「本当のことですもの」
ありがとうと笑ったエルメラだったが、しかし顔を曇らせた。
「連れてくるといっても、あの……。レナードは忙しくて、いつこちらに伺えるかわかりませんの」
「新婚ですもの、お仕事張り切ってらっしゃるのね」
良いことである。守るべき愛する人を得て私生活が充実すれば、仕事にも張りがでてくる。公私ともに楽しくてたまらない時だろう。
はにかむエルメラを微笑ましげに見つめるクラーラの邪魔をしたのは、またしてもティーファだった。
「ですが、だからといって奥様を閉じ込めておくなんて、奥様がおかわいそうです」
クラーラは彼女の主張を聞き流した。かわいそうな女が夫の話ではにかんだりするものか。
「でしたらこちらからお伺いしますわ。アタクシあんまりこういうことしないのですけど、打ち合わせは必要ですし。お急ぎではないんですのね?」
「ええ」
「ボッヂ商会のほうでもよろしいかしら? もちろんお仕事の邪魔にならないようにしますわ」
一瞬だけティーファに視線を走らせたクラーラに、エルメラもうなずいた。
「はい。使いを出してくだされば、わたくしも商会に行きますわ」
「――よし」
クラーラは立ち上がって握手を求めた。エルメラも立ち上がり、クラーラの黒い瞳をまっすぐに見つめ返して大きな手に手を重ねた。
人の手のあたたかさはどこであっても変わらない。エルメラはふとそんなことを思った。
***
ティーファ・ジャルジーがボッヂ家のメイドになったのは一年ほど前のことだ。
彼女はどの家に仕えても長続きしなかった。
主な原因は、彼女の容姿にある。
豊かな金髪に蒼い瞳、唇はふっくらと誘うような笑みを浮かべ、美事な曲線を描く体は猫のようにしなやかだ。加えて本人の勤務態度は不真面目ときている。仕えた家の男に媚びを売り、金品をねだる。風紀を乱す、とクビになるのだ。
ティーファがボッヂ家に雇われたのは運命の悪戯などではもちろんなく、単に職業斡旋所の紹介である。前の家から逃げてきた彼女は遠い王都で今度こそ良い男捕まえて結婚退職だと意気込んでいた。そんな彼女の前に現れたのが、ボッヂ家の当主レナードだった。
ティーファは自分の容姿に自信があった。どんな男でもティーファがしなだれかかって甘く囁けば鼻の下を伸ばして言うことを聞いてくれる。商会ではなく奥向きのハウスメイドになったのは残念だったが、一目レナードの目に留まりさえすれば彼は夢中になるだろうと信じていた。ティーファはその時すでにレナードとエルメラが婚約していたことを知らなかった。
私は次期当主の妻。そう思って古臭いしきたりやメイド長の嫌味にも耐えてきたというのに、レナードはあっさりエルメラと結婚してしまったのだ。ティーファのプライドは酷く傷つけられた。
罰を、与えなければならない。
泥棒猫のエルメラも、あんな女にまんまと騙されたレナードにも。
ティーファとレナードが交際していた事実はないし、そもそもティーファの横恋慕による思い込み、からの逆恨みなのだが、自分こそ被害者だと信じている彼女は二人を罰するべきだと執念を燃やしていた。
クラーラの店にエルメラを連れていったのも復讐のためだ。
歴史と伝統くらいしか取柄のない田舎娘が、華やかな王都でも一、二を争う高級店を見れば目が眩むだろう。やりとりの最中になにやらおかしな空気が流れたが、上客を逃したくないクラーラのセールストークにエルメラは見事に引っかかっていた。
貴族であろうと気に入らなければすげなく断るほど気難しいと噂だが、しょせんは仕立て屋だ。金持ちの客と見て、エルメラに媚びを売っていた。
田舎娘が結婚で王都に来て夫の財産を食い潰す。どこにでもある、ありふれた悲劇だ。
エルメラは婚家を破産寸前に追い込んだ疫病神として実家に帰され、レナードはそんな女と見抜けなかった男と笑い者になる。そしてティーファはそんなレナードをやさしく慰めてボッヂ家を立ち直させる、本物の恋人になるのだ。
しばらくの間はエルメラのお古でガマンしなければならないが、先行投資と思えばいい。せいぜい値の張るものを買わせて悪評を振りまいてやろう。
ティーファは来るべき未来に思いをはせた。
不満があるとすればクラーラが家ではなく商会でレナードと打ち合わせをしていることだが、それはそれで『あの』クラーラをわざわざ店に呼びつけて仕事の邪魔をし、見せびらかしているとでも噂を流せばいいだろう。なにしろあれほど目立つ女装男だ。
もうじきこの家のすべては私のもの。ティーファは自慢の美貌を磨くべく、仕事を抜け出した。
さてそのボッヂ商会では、クラーラが遠い目をして三杯目のお茶を飲んでいた。
エルメラから話を聞いていたらしいレナードが、時間を融通して待っていてくれたのはいいのだ。しかしクラーラがうっかり「遠距離をものともせず愛を成就させたなんて素敵」と口を滑らせるや、レナードはここぞとばかりに二人のなれそめを語り始めた。はじめて会った時の感想から離れている期間のせつなさまで、実に二年分である。胸も腹もいっぱいだ。
「エルメラの黒髪はやさしい夜の帳。しなやかな体は流れる川のごとく清らかであり、私の心は咲き始めた沈丁花の香りに満ち溢れています」
しかもちょいちょい詩を挟んでくる。クラーラとてわかっているが、こうもあからさまに惚気られるのは独り身にはきついものがあった。
夜をほのめかす詩にエルメラが怒るのではと思ったが、頬は赤いもののうっとりと嬉しそうに微笑んでいる。詩ならいいのか。そうか。クラーラは胸やけになりそうだ。
客の話を聞くのも商売のうちである。レナードの惚気話に若干後悔しつつ、来て正解だったとクラーラは気を取り直した。
「エルメラちゃんは幸せ者ね。レナードさんにここまで大切にされて」
「そう……、そう、ですわね」
ちらっとレナードを窺い見たエルメラが恥ずかしそうに肩を竦めた。妻がかわいくてならないレナードがこらえきれない愛しさに口元を緩めている。完全に二人の世界突入だ。
これ以上被弾しては心に大ダメージを受けそうだと判断したクラーラは立ち上がった。
「今日はこのあたりで失礼しますわ」
「ええ」
「クラーラさん、ぜひ次は我が家に遊びにいらしてください」
レナードの誘いにクラーラは素直にうなずけなかった。けしてこれ以上惚気はいらないと思ったからではない。
「……そうね、ぜひ」
あのメイドがしゃしゃり出て来たら、と考えたのだ。だから今日は商会の店での打ち合わせになった。
エルメラがやられっぱなし、ということはないだろうが、だからこそそこにクラーラがいていいものかどうか、判断に迷う。
嫁いで半年。社交にも出ず、家に籠っていたのは理由あってのことだろう。エルメラの邪魔になりはしないだろうか。
「お待ちしていますわ」
クラーラの間に察したのか、エルメラも付け加えた。本人が言うのなら、とクラーラも腹を決める。笑顔で礼を言った。
「ありがとうございます」
家に帰ったクラーラは、着替えもそこそこにソファに倒れ込んだ。
「つっかれた……」
長い足がスカートの裾をめくりあげ、ソファからはみ出しているのも気にせず、むしろプラプラ揺らしている。そのまま踵を擦り合わせて靴を脱いだ。
そこにお茶の支度をしていたレオノーラが入ってくる。
「……クラーラ様?」
「うわっ」
低い呼びかけに、およそレディとはかけ離れた悲鳴をあげてクラーラは飛び上がった。主人のだらけきった姿にきゅっと唇を引き締めたレオノーラは無言でティーセットをサーブする。
クラーラがこのような醜態を、素を曝け出せるのは自分たちの前でだけ。その優越感を見せないようクラーラに背を向ける。ばれたら調子に乗るからだ。
「エルメラ様はそれほど怖いお方だったのですか?」
「怖くはないんだけど、やっぱり緊張しちゃうのよねぇ」
何食わぬ顔で姿勢を正したクラーラは、紅茶を一口飲んで息を吐いた。
古都の女は情が強い。わざわざ地名付きでいわれるように、エルメラは一種独特の雰囲気を持つ女性だった。
愛情深いがゆえに我慢強く、寡黙で常に落ち着いている。寛容なようでいて冷静に相手を見極めており、不可となったら容赦なく切り捨てる覚悟があった。
「生まれと育ちがああまで出ている人は滅多にいないわ。レナードさんも凄い女を嫁にしたわね」
生まれと育ちをおおいに利用しているクラーラが言った。
あのエルメラに惚れさせたのだから、レナードの愛は本物なのだろう。
「でも、だからこそ、大変みたい」
「と、言いますと?」
「彼女、自分の性格を自覚してるのよ。門は狭くても懐は広く深い。ようするに人見知りだけど寂しがり屋ってわけ」
みもふたもない分析である。
「半年間も引き籠っていたわけだわ。友達は欲しいけど、自分の行動が夫の足を引っ張るんじゃないか、不安なのよ」
「おやさしい方ですのね」
「ましてや王都よ。古い伝統を誇りにしているけど、それは言い換えれば時代遅れってことになるわ。本当にやっていけるのか、二の足を踏むのも無理はないわね」
クラーラがため息を吐く。レオノーラが釣られたように眉を寄せた。
「ボッヂ家であれば、社交も目上の方が多いでしょう。むしろエルメラ様は歓迎されるのでは?」
「レオノーラ、彼女に必要なのは師ではなく友なの。対等な相手なのよ」
歴史と伝統が大好きな貴族や上流階級や貴族なら諸手をあげてエルメラを歓迎するだろうが、そこには位階という境目がくっきりとついている。お互いに友人と思っても周囲はそうはいかないだろう。
悩むクラーラをしばらく見つめていたレオノーラが、不意に笑った。
「なぁに?」
「いえ。まるでお見合いを斡旋しているようだと思いまして」
言い得て妙である。
きょとんとなったクラーラは次に笑い出した。
「本当ね、その通りだわ。心を許せる親友がそう簡単に見つかるわけないわよねぇ。良い出会いがきっとあるわ。気長に待ちましょう」
よし、とクラーラが立ち上がった。クラーラにできるのは応援なのだ。エルメラの望みはエルメラにしかわからず、彼女が自分で摑みとるものであった。
***
エルメラは新鮮な感動に包まれていた。
クラーラという人物は、入り口こそ広いがいざ中に入ると厳選される。実に商売人らしい人であった。
シビアなのだ。見た目から言葉使い、仕草のひとつに至るまで目を光らせて相手を見極めようとする。ひとつでも良いところがあればそれを伸ばし、成長させることに喜びを見出しているようだ。魔法の手と称される裏の努力をエルメラは垣間見た。
エルメラにはない部分だ。狭量ではないと思っているが、エルメラはどうしても相手を審査してしまう。その上認めた相手としか付き合おうとしない。狭く深くは古都の人々の気風でもあった。
古都では時間など歴史の流れの中ではほんの一瞬。ならばその一瞬を大切な者たちだけと過ごしたほうが良い。そういう考え方なのだ。
エルメラもそう思っていた。くだらない連中と付き合うより、気の合う仲間と過ごしたほうがよほど有益だ。だが、レナードに嫁ぎクラーラと出会い、自分はずいぶんもったいないことをしていたのではいか、と焦燥が生まれた。
今、目の前にいるクラーラを見て、あらためて思う。
「まあぁ……」
目を潤ませたクラーラは感嘆の声を漏らすなり、魅入られたように絹の布を眺めている。
エルメラの嫁入り道具にと、彼女が生まれた時から揃えられたそれらは、現在では生産不可となったはずの古都産の絹織物である。
「母が祖母から譲り受けたものなのですが、結局ドレスに仕立てることはできなかったそうです」
染物や刺繍ならクラストロから絹地を仕入れてくればいいが、織物となるとそうはいかない。古都の職人たちはクラストロへの移住を頑として拒み、木綿や麻などで生産を続けていた。
「そうでしょうね……。これほどの絹に鋏を入れるのは、アタシだって怖いわ」
古都の織物、その最大の特長は、物語があるところだ。
柄物の生地は花や水玉、文様など多彩にあるが、古都産の織物はさらに細かく、連続したパターンでさえ意味を持つ。その意味をきちんと理解し時と場所を選んで着こなさなければひっそりと笑い者にされるのだ。そしてさりげなく、古都の社交界から遠ざけられる。
古都の怖いところはここだ。いつのまにか居場所がなくなっている。伝統を紐解くこともできない小童扱いならまだいいほうで、金任せに調子に乗るとたちまち排除の対象にされてしまうのだ。
むろん、それは生粋の古都人であっても例外ではない。貴族でなくてもごく自然に身に着くよう、教育されるのだ。
「クラーラさんとお会いして、ぜひこれで仕立ててもらいたいと思いましたの」
「えっ」
「えっ?」
声が重なった。見れば、なぜかティーファも生地を覗き込んでいた。いかにエルメラ付きのメイドとはいえ、いささか図々しい。
デザイン画はいくつか描いて見せたが、決定はまだしていなかった。ボッヂ家女主人の王都デビューを飾るドレスである、クラーラも慎重に考えている。
なぜティーファが驚くのかという視線をどう思ったのか、とりつくろうように言い訳した。
「それは少し、奥様には派手じゃありませんか?」
祖母から母へ、母から娘へということは、少なくとも三代前の古臭いデザインだ。ティーファは侮蔑を覆い隠した笑みでそう言った。
隠しきれない悪意がエルメラとクラーラにも伝わった。ようするにティーファはクラストロの最高級絹でドレスを仕立てて欲しかったのだろう。
「ええ。祖母も母もそう思い、ドレスを仕立てるのをためらったそうです」
「まぁね。若い頃ほど大人っぽいデザインを好むものねぇ。でも、こういう華のあるものを着られるのは若さの特権なのよ」
クラーラは手袋を嵌めた手で生地を広げ、エルメラの体に当てた。すかさず言い返されて悔しげなティーファにかまうことなく「鏡を」と指示を出す。
ティーファが鏡を用意している隙に、クラーラが耳に囁いた。
「……どうするの?」
「……なにも」
ティーファの悪意に――企みに気づいていることを確認し合った二人は秘かに笑う。歯牙にもかけていないのがおかしかった。
「どうぞ」
生地には真紅にとりどりの花がそこかしこにちりばめられ、独特の意匠の蝶が見え隠れしている。
今が盛りと咲く花に蝶、つまりは花の蜜を求める者がいる証だ。独身であれば蝶を誘う意味になるが、既婚ではやがて実を結ぶ未来を予感させている。そしてこれが淡いピンク色であれば独身だが、真紅になるとすでに染まっている、つまりは既婚であるといっていることになるのだ。
いうまでもなくエルメラは人妻である。大きな鏡には、一人の男のために花開いた娘が映っていた。
「もう少し、離れてくれる? そうね、ドアのあたりまで」
「え、はい」
鏡はそれ自体も重たいが、割れないよう頑丈な枠に嵌められているため重量がある。ティーファはうんざり顔を隠すことなくえっちらおっちら移動した。
「……うん。やっぱりね」
「はい」
クラーラとエルメラはうなずきあった。
近くで見れば華やかなそれは、遠目に見ると全体的にまとまりがある。そもそもドレスになるための生地なのだ、着られてこそだろう。
実をいうとマクラウドがクラストロで作り、帝妃に贈った生地はこの技法を真似たものだ。伝統でありながら革新的。それは、伝統を極めた者にしか生み出せないものだった。
生地を元通りに丸めながら、しかしクラーラはためらった。
「エルメラちゃん、その……本当にいいのかしら」
「なにがですの?」
エルメラちゃん、という呼びかけに彼女はくすぐったい気持ちになる。子供扱いではなく、親しみを込めた、愛情のあるものへの呼びかけだった。
クラーラの魔法とはこんなところからはじまっているのだろう。着る者に、愛されている自覚を与えるのだ。
「おばあさまから続いた、いわばご実家の象徴でしょう。アタシが仕立てちゃっていいの?」
古都から養蚕を奪ったクラストロとしては後ろめたいというか、罪悪感がある。
あの頃は何もかも呪ってやるとばかりに憎しみに囚われていたが、決着がついた今になると自分の成功の影で失われたものがあると気づいたのだ。
それを思うと、仕立ては古都の職人に任せたほうがエルメラの実家も喜ぶのではないか。
「かまいませんわ。母も祖母も、ずいぶんもったいないことをしたものです」
くすっと笑ってエルメラが生地を撫でた。
「いつか、いつか、と憧れて、憧れだけで終わらせてしまった。おかげでわたくしに機会が回ってきたのは幸運ですわ」
その笑みには半年間の引きこもりも含まれている、と気づいたクラーラは、そっとエルメラの背中を押して礼をした。
「殻を破るのはいつだって自分でやらなきゃね……。ありがとう、エルメラちゃん。最高のドレスに仕立ててみせるわ」
任せて。そう言ったクラーラは、いつもの頼もしく、やさしい笑みを浮かべていた。
***
さて一方のティーファは焦っていた。
クラーラにドレスを依頼したのはいい。計画通りだ。クラーラが出入りしている姿を目撃されたうえ、ティーファがあちこち言いふらしたので順調に噂が広がっている。
だがドレス一着だけではただの良い話ではないか。レナードとエルメラの仲睦まじさを広げただけになってしまう。これでは作戦から外れる。
焦ったティーファは王都の有名店をあちこち回ってボッヂ家名義で買い物し、とどめに宝石商を呼ぶことにした。
「ティーファ、これは何事?」
「宝石商の方に来ていただきました」
客人だと言われて応接室に来たエルメラが見たのは、テーブルに並べられた宝石とにこにこ顔の商人、宝石に目が眩んで今にも涎を垂らしそうなティーファだった。
「これはこれは。どうもはじめまして、奥様」
宝石商から名刺を受け取ったエルメラは困惑した顔でティーファを見た。
「あなたが呼んだの?」
「はい。奥様の――」
「あなたが呼んだのね?」
ティーファの言葉を遮って、エルメラが再度確認した。その緑青の瞳は真剣そのものだ。
身の程をわきまえろと言いたいのか、と喧嘩を売られた気分になったティーファは、その瞳を睨み返した。
「そうですわ」
「……そう」
ふ、と静まったエルメラが、名刺をティーファに渡す。
「だ、そうですわ。後はこの子とどうぞ」
「え? お、奥様?」
呼び止める商人の声に振り返りもせず、エルメラは部屋を出ていった。
「……どういうことですかな?」
エルメラの言わんとすることを理解した商人が渋い顔になる。恥をかかされたティーファは憤慨した。
「なによ、あれ? いいわ、適当に見繕ってちょうだい!」
「よろしいのですか?」
「いいのよ! どうせ支払いはレナード様がするんだし」
そういうことか、と商人は歪んだ笑みを浮かべた。
相手が誰であれ金さえ支払ってくれれば売る。男はそういうタイプの商人だった。
これを機にボッヂ家に取り入ろうと思っていたが、このメイドのほうが御しやすそうだ。素早くソロバンを弾いた男はティーファの好みそうな大きな宝石がついたネックレスと耳飾りを次々薦めた。
将来の愛妾候補が奥様に先手を打った。男はそう考えたのだった。
***
子供ができればすぐなんだけどねぇ。クラーラはあっけらかんと言ってのけた。
付き纏ってくるティーファをなんとか振り払い、侍女もつけずに店に来たエルメラは、クラーラに相談したのだ。どうしたら友人ができるか、と。
「子供……」
新婚の身にはあけすけすぎる答えである。赤くなったエルメラは責めるようにクラーラを見た。
「女同士が仲良くなるなら共通の話題が一番手っ取り早いじゃなぁい。そんなの社交界だろうと下町だろうと変わらないわ」
付け加えると女が会話に求めるのは共感である。それにはやはり同じ体験をした者同士の苦労話のほうがわかりあえるのだ。
「うちに来るお客は未婚のお嬢様が多いし……。エルメラちゃんは他人の恋愛に興味ある?」
「いえ……。あまり、ないです」
エルメラはレナード一筋だったのだ。遠距離ならではの危機もあったが、いまさら他人の惚れた腫れたはどうでもいい。
「社交界で探したほうがいいと思うのだけれど、そうよねぇ、お友達は必要よね」
「ええ」
エルメラはカップに添えた細い指先を見つめた。
「主人と一緒になって、王都に来て。不満があるわけではないんですの。ただ時々、無性に故郷が恋しくなるんです。こんなに幸せなのに、どうしてかしら……」
「寂しい?」
愛する人と結婚したのにそんな不満があるはずないと思っていた感情をひと言で言い当てられ、エルメラは顔を上げた。
きゅっと眉を寄せてうつむく。
「そう、寂しい……ですわね」
不幸なわけではないのだ。ただ、寂しいだけ。
「そうね。エルメラちゃんは奥様だものね。メイドには言えないことだってあるわ」
メイドは家族でも友人でもない、使用人だ。どれほど仲良く接しても越えられない壁がある。ティーファのように馴れ馴れしいメイドなどもってのほかだ。エルメラは目を伏せる。長い睫毛が愁いを帯びた。
「王都にはいろんな人がいるわ。ドレスを仕立てるってことは、レナードちゃんもそろそろエルメラちゃんを社交界にお披露目するでしょうし、いつか出会えるわよ」
恋と友情は別物だ。しかし女の場合、友情は時に恋よりも深く強く結びつく。エルメラのような女はまさにそのタイプだった。ようするに、愛が重いのだ。
「人の本質を見るのに大切なのは何かしら?」
クラーラが訊ねた。
エルメラが答える。
「時間ですわ」
二年の婚約でエルメラは時の大切さを知った。レナードのやわらかな筆跡、日々のささやかな出来事、そしてエルメラへの愛を紡いだ詩。レナードに恋をするのに必要な時間だったのだと今では思う。
「そうね。じゃあ、お付き合いをしたいと思う決め手になるのは何かしら?」
次の質問にエルメラは虚を突かれた。故郷の社交界で、友人になった人となぜ付き合いたいと思ったのだろう。
「……見た目、でしょうか」
美醜の問題だけではない。身嗜み、清潔感、マナー、それらが適っていればいれば安心して付き合いができた。
「そう。もっといえば第一印象。これに尽きるわ」
「一目でわかるということですの?」
「相手の何もかもがわかるってわけじゃぁないのよ。ただ、第一印象って引き摺るのよね。また会いたいか、ちょっと遠慮したいか。これって大きな差よ」
「たしかに……」
次があるかどうかは今後を大きく左右する。時間をかけて関係を築くにせよ、出だしで躓いていては意味がない。その間に相手は去っていくかもしれないのだ。
「ねえ、エルメラちゃん? 人生は長いけど、若さは一瞬よ。今しかないのよ」
「…………?」
首をかしげるエルメラに、クラーラは明るい笑みを見せた。正真正銘の若者にこういうことが言えるのは、歳をとってからの特権だといつか彼女も知るだろう。その時が楽しみだった。
「生きている限り明日は来るけれど、今日という日は今日しかないの。しっかりと眼を開いて、出会いを大切になさい。苦手なものを避けるより、愛するものを大切にして生きたほうがずっと素敵だと思わない?」
「……はい!」
エルメラの人生観では人生など歴史の括りに引っかかりもしない短いものだ。それはそれで一つの考え方であり、生き方である。クラーラも否定しない。
だが、生きているのは自分なのだ。自分の時間を無駄にする、これほどもったいないことはない。一瞬一瞬を大切に、なんて大それたことはできなくても、今日の時間を大切にすることは難しくない。エルメラにはレナードがいる。人一人を愛することは、世界を愛することと同じだ。
エルメラの広く深い懐にはまだレナードしかいない。だから寂しいのだ。
「わたくし、頑張りますわ。レナードと一緒に人生を歩いていくって決めたんですもの」
「そうそう。楽しんだもの勝ちよぉ」
同じ歩幅で人生を歩く。疲れたら休み、目を閉じて眠る。
一日の距離は短くても道はどこかで誰かと繋がり、そうして世界は広がっていくのだ。
クラーラとエルメラはすっかり打ち解けた友人のように笑いあった。
***
目の前にでんと置かれた請求書の束に、ティーファは蒼ざめた。
「さて」
厳しい声を出したのはボッヂ家の家政婦だ。他にもメイド長、執事長、そして当主のレナードと揃い踏みである。全員が怖い顔をしてティーファを睨んでいた。
「なぜ呼ばれたのか、わかるわね? ティーファ」
「…………」
唇を噛んでうつむいたティーファを気にも留めず、家政婦が請求書を読み上げた。
「『ティアーズ』でドレス三着、靴五足、宝飾品二点、香水一瓶。『パーカーズ』のチョコレート。他にも色々と買っているようですが、先日はとうとう宝石商を呼びつけたとか。すごいわねぇ、お前がそんなに金持ちだとは知りませんでしたよ」
「それはっ!」
「それは?」
言い訳しようとしたティーファの勢いを一睨みで削ぐ。家政婦の迫力にティーファは肩を震わせた。
「そ、それらは奥様のために買ったものです」
レナードの眉が不愉快そうに寄せられた。
「おや、おかしなこと。奥様の部屋でこれらのものを見たことはありませんよ」
家政婦がメイド長に合図した。心得たメイド長が、隠してあった箱から証拠品を取り出す。
「お前の部屋にあったものです」
「ちょっと! 人の部屋を漁ったの!?」
「おだまりなさい!」
すかさず家政婦の叱責が飛んだ。
「奥様のためと偽って請求をこちらに回し、購入品を自分のものにする。これをなんというか、知っていますか」
「…………」
「詐欺、というのです。立派な犯罪、泥棒と同じですよ」
「……奥様が、いらないって」
「だからといってお前が横領していいわけではありません」
ぴしゃりと言いきられ、ティーファは救いを求めるようにレナードを見つめた。
「さらにこちらの宝石が問題です。よくできていますが贋物……石は本物ですが、グレードがだいぶ低いです。価格と釣り合いが取れていません」
「えっ!?」
「ボッヂ商会の女主人が贋物を摑まされたなんて噂が立てば、ボッヂ家に傷がつきます」
「……あいつ! よくも騙しやがって!!」
お前が言うな。ティーファ以外の全員の心がひとつになった。
レナードが太いため息を吐いた。
「エルメラは知っているのか?」
「もちろんです。宝石商を調べるように言ったのは奥様ですわ」
「ティーファについても経歴を洗うよう指示がありました」
悔恨を飲んだようにメイド長が言った。
ティーファの採用を決めたのはメイド長である。仕える家にこんな疫病神を招いてしまったのは痛恨の極みだ。
エルメラは宝石商の名刺と並べられた宝石を見てすぐさま見抜いたらしい。相手にせず、そのまま家政婦と執事長に調査を命じていた。
「いろんな商家や貴族に雇われたようですが、どこの家でも問題を起こして解雇されていました」
「問題?」
「男と、金です」
ティーファの手口はこうだ。
しおらしいふりをして金持ちの家にメイドとして入り込み、その家の男と親しくなる。見た目だけならけっこうな美人だ、ティーファに縋られた男はすぐにその気になった。
「親が病気で、親の借金が、兄が事業に失敗。涙ながらに縋りつかれてつい絆されてしまうようですね。前の家では執事が主家の財産に手を付けて発覚、自殺しています」
騙されるほうも騙されるほうだが、ずいぶんと悪どい女である。ティーファはばれたら恋人がそんなことをしているとは知らなかったと泣いて同情を引き、ばれなければ逃亡を繰り返していた。
指名手配されなかったのはたかがメイドに騙されたと社交界で醜聞になることを恐れたからである。誰も警察に届け出なかったのだ。
「……申し訳ございません! 私も、結婚に失敗して逃げてきたというのを信じておりました」
メイド長が怒りと羞恥に赤くなりながら頭を下げた。こんな女と知らずに雇ってしまった、自分の見る目のなさを悔いているメイド長の背中を家政婦が撫でる。
結婚に失敗して王都に逃げてきた。しつこい暴力男の夫の話に同情して多少の怠慢も見逃していたというのに、見事に恩を仇で返してくれたものだ。
「……なによ。別にいいじゃない、どうせ私のものになるんだし」
ぼそっと呟いたティーファは頬を引き攣らせたレナードに微笑みかけた。
「旦那様、こんなことをしなくてもひと言おっしゃってくれれば、私、あなたのものになりましたのに。うふふ、意外と独占欲強いんですのね」
「は?」
ティーファの言い方では、まるでレナードが彼女を囲うために追い詰めたようである。
「何の話だ?」
「いいんですのよ。私、わかっておりますわ。奥様とはしょせん愛のない政略結婚。私のことがずっと好きだったのでしょう?」
レナードは呆れかえった。
つまりティーファは、レナードに愛されているのは自分だと証明するために、買い物の請求をボッヂ家に回したのだ。そんなことをすれば当然エルメラに話が行く。彼女を傷つけるための示威行為であった。
「私はエルメラを愛している。二年もかけて口説いたのだ、誤解を招く物言いはやめるように」
「え?」
「何をどう勘違いしたのか別に知りたくもないが、私が君を愛したことはないし、今後も愛することはない。軽蔑はしているがね。よって、これらの支払いは君が自分でやるように」
家政婦が持っていた請求書をティーファに差し出す。差し出されたものはとりあえず受け取る癖の付いているティーファは、自分の手の中にある請求書を呆然と見つめ、しだいに理解するや握りつぶした。
「旦那様! 私を捨てるの!?」
「君を私のものにした事実はない。ティーファ・ジャルジーはあくまでボッヂ家の使用人にすぎんよ」
家政婦を見ると、一度うなずいた彼女が感情の籠らない声で言い渡した。
「このまま当家に仕えるのであれば、給料の八割を支払いに。二十年もあれば完済できるでしょう。退職するのであれば再就職先にこのことを通知して支払いを求めます。もちろん実家にも請求します」
再就職先と実家だけではないだろう。今まで被害に遭った家にも連絡し、手を組んでティーファから回収する気だ。
警察に届け出ても結局ティーファが罰を受けるだけで、ボッヂ家の損害を補償してくれるわけではない。ならば飼い殺しにして支払ってもらうまでである。
「なぜ……? 私をこの家の奥様にしてくれると」
「妄想か、末期だな」
レナードの言葉に三人がうなずいた。
彼は怒っているのだ。新婚の愛妻に傷を付ける真似をしてくれた女に、本気で怒っている。
ティーファは男にふられたことがなかった。ぽろりと涙を流して震えてみせても顔色ひとつ変わらないレナードに彼の本気を知る。
徹底的に拒絶されたティーファは、彼女が唯一できる現実逃避に走り、気絶した。
***
エルメラは静かにクラーラを観察していた。
クラーラが真剣に選んでいるのはボッヂ家の女主人に代々伝わるアクセサリーだ。クラーラが仕立てたドレスに身を包み、彼女は静かに自分を飾る石を待った。
「……うん、やっぱりこれね」
そう言ってクラーラが苦笑と共に取り出したのは、古い黒真珠のチョーカーだった。
エルメラとレナードも揃ってうなずく。
「やはり、それですか」
「クラーラさん、ご存知でしたのね?」
「そりゃあねぇ。有名だもの」
クラーラが選んだ黒真珠には『月女神の夢』という銘がついている。古いだけあってその形は円形ではなく、わずかにカーブを描いていた。両端にイエローダイヤモンドを付けて三日月にし、ビーズ織りのレースでチョーカーにしてある。まさに月女神にふさわしい姿である。
真珠を真円にする技術は最近のものだ。貝の中で歳月をかけて育まれる真珠は昔から尊重されたが、同じものはひとつとしてなく、それゆえ貴族たちはこぞって様々なものに見立てた細工を施した。『月女神の夢』もそのひとつである。
「それにレナードちゃん、しょっちゅうエルメラちゃんを月や夜に例えてたじゃなぁい。これを着けさせたいんだなって、嫌でも気づくわよぉ」
ころころと笑うクラーラにレナードは赤くなった。エルメラもそっと横を向き、赤くなった頬を隠している。
『月女神の夢』を身に着けさせるとはつまり、その男が女を溺愛していると大声で叫ぶのと同じ意味があるのだ。生涯かけて一人だけという宣言に他ならない。
「ま、ためらうのもわかるけど、ねぇ……」
新婚なのだし恥ずかしがることなく着けさせればいいのに、とクラーラが言わないのは、もう一つの逸話のせいだ。
月の女神は不実を嫌う。『月女神の夢』を身に着けた女が他の宝石を着けると不幸が降りかかる、というものだ。
たかが宝石にそんな力があるものか、と笑い飛ばすのは簡単だ。しかし、侮れないものでもある。
それは、逸話の伝聞である。
逸話というのはひそやかな話だ。だからこそ、威力を持って広がっていく。それが他人の不幸であればなおさらだ。『月女神の夢』を身に着けたエルメラがどうなるか、注目を集めるだろう。
そしてそれはエルメラが他の宝石で身を飾った瞬間こう変わる――エルメラ・ボッヂは不幸になるべき女だ、と。
そうした勢力こそ侮れない。ひそやかに、音も立てずに、ゆっくりと、エルメラを不幸に引きずり込むだろう。
「わたくしには充分ですわ」
「ええ。愛する男が一人に、愛する石も一つ。他にも愛するものはいっぱいあるわ」
クラーラから『月女神の夢』を受け取ったエルメラは急くように首に着けた。レナードが感激に目を潤ませ、彼女にキスをする。
「綺麗だわ、エルメラちゃん。……まるで目が覚めるよう」
「まあ」
緊張していたエルメラはクラーラの冗談にちいさく笑った。
笑顔で魔法の手を振るクラーラに見送られたエルメラとレナードは、いよいよはじまる夜会に足を踏み出した。
――その夜のエルメラこそ、長く人々に語り継がれる『ボッヂ家の月女神』そのものであった。
真紅に蝶と花が散りばめられたドレスには左右に長いレースを垂らし、腰は黒い帯で細さを強調するように結んであった。そのいでたちは三日月が夜のはじまりを告げるようであったという。
デコルテは控えめで、反対に背中を肩甲骨あたりまで大胆に開けており、彼女の黒髪をまとめ上げられた白いうなじと襟首のラインが人妻の色香を存分に醸し出していた。
その細い首に巻き付けられた古い黒真珠は歳月により艶を失っていたが、衰えることのない時の流れを感じさせた。いまだ若くうつくしい盛りのエルメラが、年老いてなお輝きを失うことはないと、予感めいたものさえ見るものに抱かせた。
ボッヂ家の当主レナードは愛妻の腰を抱き、彼女こそ我が最愛の月と誇らしげに語っている。満ち欠けを繰り返し、真昼の空にもけして消えることのない愛であると宣言して回ったのだ。これにあてられた男たちが妻への愛をこぞって囁き、愛妻家が集まるクラブまで誕生したといわれている。
エルメラがこの夜身に着けた『月女神の夢』は不実を嫌う宝石として知られている。エルメラは『彼女』以外を生涯身に着けず、ひとつの愛を貫いた。
またエルメラは運命とも呼べる出会いを果たしている。
数学的観点から美術、芸術の粋を読み解く、新しい学問開拓のために招かれていたレオンハルト・ゲード教授の夫人、ローズを見初めたのだ。
二人はまるで姉妹のように仲良くなり、やがて夫同士も友好を結んでいく。その親交はこの国から美術品散佚を防ぐ、重要な流れになっていくのだが――……
影に一人の仕立て屋がいたことは、あまり知られていない。
***
「ねえ、そういえばあのティーファってメイドはどうしたの?」
ある日店に遊びに来たエルメラに、クラーラが思い出したように聞いた。
いつのまにかボッヂ家から消えていたが、気になっていたのだ。
「彼女でしたら昔仕えていた家のご主人が隠居するので、ぜひ世話係にと望まれて行きましたわ」
ティーファはボッヂ家での詐欺横領があきらかになると、話を聞きつけた被害にあった男たちから次々と損害賠償を請求された。
彼女の実家を売り払ったところでとうてい足りるはずもなく、このままでは娼館かどこかに身を売って稼ぐしかないというところに、彼女を忘れられなかった男が名乗りをあげたのである。
男はかつてティーファにのめり込んだあげくに家を傾けたが、傾いただけで倒れてはいなかった。なんとか踏ん張ったが責任は免れず針の筵で過ごしていたのだ。
かわいさあまって憎さ百倍ともいうが、愛憎入り混じる感情を持て余した男はティーファを探し続けていた。何度も手が届く寸前で逃げられていた男は、ついにボッヂ家で捕まえたというわけだ。
ちなみにティーファは男から逃げていたわけではなく、ちょうど悪事がばれて逃げるタイミングと同じだっただけである。彼女は男を覚えていなかった。
「結婚は無理かもしれませんが、あれほど愛されていたんですもの。きっと幸せでしょうね」
エルメラはにこやかに言い切った。
愛というより妄執だし、借金のカタに売られたようなものだが、一度は愛を囁き将来まで誓っていたというのだからティーファも文句はないだろう。今頃はさぞや愛されているに違いない――どんな形であれ。
クラーラにはそんな事情など知ったことではないが、なにやら含む言い方に背中がぞわっとした。
「一途というのも怖いものね」
クラーラの感想に、真贋を知る女は優雅に微笑んだのだった。




