ヒューズ・ジュデンの婚活・後
メルルを書いていて、ツンデレってこれかぁと思いました。
木陰の下、片肘を幹に預けた男が少女を囲っている。傍から見たら絵になる図だ。しかしよくよく見ると少女の顔はこれでもかと歪んでおり、まるで道端で踏みつぶされたゴキブリでも見たかの表情だ。うわ、嫌なもの見ちゃった。害はないけどなんか不吉。そんな感じである。
相手はメルルでなければうっとりと見惚れてしまいそうな美男子だった。流暢な口説き文句はメイド長のどうでもいい説教にも似て、メルルの耳を素通りしていく。黒髪に、どこか荒んだ雰囲気。言葉使いは悪くないが所作に粗雑さが残っていた。目つきは鋭く、時折前髪をかきあげる仕草がわざとらしい。
ヒューズともう一人の男、ラムザの印象は胡散臭い男だった。
「あの、もういいですか?」
自分を卑下するつもりはないが、メルルは客観的に見てモテる要素がない。はっきりいって可愛げがないのだ。どんなに甘い言葉をかけられても酔いしれるより警戒心が先に立ってしまう。
「だーめ。メルルが「うん」と言うまで帰さないぞ」
ぱちんとウインク、語尾にハートマークでも付いていそうな甘ったるい声にメルルはぞわっと鳥肌を立てた。気色悪いし苛々する。今は休憩時間だが、戻るのが遅くなれば叱られるのはメルルなのだ。あのメイド長がまたぶつくさ言ってくるだろう。
「ね、今度の休みに『ティアーズ』に行こう。あそこの喫茶店のケーキが人気なんだ」
なんというか、断られるとは微塵も思っていない自信が逆にすごい。俺ってこんなデートを演出できるんだぜ、嬉しいだろ? といわんばかりだ。
あいにくメルルは休日は少しでも寝ていたい派だし、買えもしない高級品を眺めて疲れる趣味はない。
なにより一緒にいて楽しくもない男とのデートで貴重な休日を潰したくなかった。ふっと脳裏を過ぎったもう一人の男に慌てて首を振る。
もうメイド長でもいいから誰か来てくれないかな。うんざりしたメルルがそう思った時だった。
「あれ、メルルちゃん?」
「!」
ハッと顔をあげると、ヒューズが飄々と立っていた。
「ヒューズさん!」
「裏口に行っても誰も出ないし、ご注文のチーズを持ってきたんだけど……今、いい?」
「メルル、誰こいつ」
ラムザが低い声で威嚇した。ヒューズのほうに行こうとしたメルルの腕を摑んで引き留める。
「あ、俺はベル&ベア商会の者です。そちらは?」
ヒューズは営業スマイルを浮かべて近づくと、メルルにチーズの入った籠を差し出してきた。はいと出されてはラムザも手を放すしかない。
「じゃ、確認してくれるかな。えーと……」
チーズの種類と数を確認する。さりげなく、ヒューズがメルルの隣に立ち、ラムザに背を向けた。
「うん、合ってる」
「良かった。キッチンのファリンさん怖いんだもんな。牛乳の牛が違うだけで怒られてさ」
「牛乳なんてどれも一緒でしょ」
「だよな。いや、俺が言っちゃダメだけどそうだよな」
売る側が言っていいセリフではない。苦笑して言い訳するヒューズにメルルはちいさく吹きだした。笑うことで緊張が解けた。
「……人の逢引を邪魔するとは、趣味が良いとはいえないな」
問いかけておきながら放置されていたラムザが憎々しげに唸った。ヒューズは意に介した様子もない。
「そりゃ悪かった。仕事の邪魔してるように見えたもんでね」
こんな日中にメイドの元に押しかけて邪魔をしているのはどっちだ。ヒューズはラムザを不躾に眺め、せせら笑った。
食品を扱う商会勤めのヒューズは、ラムザのきちっとしたスーツとは真逆の薄汚れた作業着だ。着古しているが清潔感があり、いかにも働く男である。チェスター家にも仕事で来ている。
一方のラムザは身なりこそ良いが何の仕事をしているのかメルルも知らなかった。仕事を放り出して真昼間から女の尻を追いかけているようではろくな男ではあるまい。
「……今日は、休暇だ」
仕事はどうしたと暗に言われたラムザが苦く言った。嘘だと丸わかりな言い訳だった。
「あたしは仕事だよ。ラムザさん、この際だからはっきり言うけど迷惑だからこういうことは止めてくれるかな」
「一回くらいデートしてくれたって良いだろう」
よほどに自信があるらしい。あるいは色男のプライドかもしれなかった。ムキになるラムザに、メルルはため息を吐いた。
「わかった」
「ほ、本当か?」
「うん。じゃあね」
ラムザは喜色を浮かべ、勝ち誇ったようにヒューズを見て鼻を鳴らした。ヒューズは気にせず、裏口に急ぎ足で向かうメルルの後を追いかけた。
「メルルちゃん、いいのかあんな約束して」
「いいよ。別にデートくらい。それに」
「それに?」
メルルはにやりと笑った。
「あたしは行くなんてひと言も言ってないしね」
ヒューズは虚を突かれた。次に肩を揺らして笑い出す。
「それ、ずるくない?」
「ずるいのはあっちだよ。休憩時間は短いのにいつまでもしつこくして、絶対に言うこと聞かせてやるって態度。卑怯じゃない」
契約しないと部屋から出られない悪質業者と同じ手段である。メルルを焦らせて半ば投げやりに同意させてしまうつもりだったのだろう。メルルはたしかにデートに同意した。だが、いつどこでとは決めていなかった。次の休暇がいつになるか、確認を取らなかった。
「メルルちゃんは強いな。あ、持つよ」
感嘆したヒューズがメルルからチーズの入った籠を取り上げた。
「あ、ありがとう。……どうしたの? 気が利く」
「いや、ちょっと色々反省して」
実家でのあれこれを言う気にはなれなかった。まったくもって恥ずかしすぎる。
「それより気をつけなよ。すっぽかされたとなれば怒って押しかけてきそうだ」
「そうね。うんと言っただけで約束してないって言っても無駄でしょうね」
「……メルルちゃん」
「メイド長に相談して、しばらく休みなしにしてもらうわ。外にも出ない」
多少窮屈だが、住み込みのハウスメイドは外出しなくても困らないのだ。メイド長にしても人手が減るのは避けたいだろうし、慣習というべきかメイドの恋愛を厳しく監督している。変な男に付き纏われていると言えば、おつかいも別のメイドに回してくれるだろう。
「そっか。でも気をつけて。あいつプライド高そうだ。窓越しでも夜中に会うのは危険だからね」
「わかってるって」
メルルはヒューズを見上げ、思いがけず真剣な眼差しにドキッとした。
「ヒューズさんは、なんであたしに……」
言いかけて、言葉が途切れた。
まるで期待しているようで、そんな自分が信じられなかった。男に期待するなんてあたしじゃない。メルルは頬が熱くなるのを感じ、否定する。誰にも頼らずに生きていこうと決めたはずじゃないか。
「ほっとけないから」
「…………」
「意地っ張りで、強がりで、でもやさしい。そんな子が頑張ってるんだ、放っておけないよ」
ヒューズは今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。仕事だからなんて言いたくない。妹みたいだと、そんな気はないのだと言えれば楽なのに、どうしてもメルルに嘘を吐きたくなかった。
君を守りに来た。そう言いたかった。
裏口に着くとヒューズはメルルに籠を渡し、彼女を見ることもできずにその場を去って行った。
***
「メルルを口説いていた男と接触しました。ラムザと名乗っていますがザムザ・ゴートンで間違いありません」
手配書の似顔絵を確認したヒューズが断言した。
「次の休暇にデートの約束を取り付けていましたが、メルルはすっぽかすと言っています。念の為、人員を配置して警護にあたらせたほうが良いでしょう」
ヒューズの報告を聞いた刑事部の警部が大きくうなずいた。
「メルルの人柄はどのようなものだ?」
警部もメルルの身の上は知っている。その上で、我が身の不幸を嘆くだけの娘か、逆手に取ってくるのかで打てる手が変わってくる。
まあ、色男とのデートをすっぽかすと言っている時点で恋に夢見る少女とは違うとわかるのだが。
「情の強いところはありますが、働き者のやさしい子です。ただ、疑り深い所があり、あまり他人を信じようとしません」
「彼女の境遇なら当然だな」
ヒューズがうなずいた。ただ流されるだけよりずっと頼もしい。
「メルルは笑っていましたが、すっぽかしたとなれば罪悪感を抱くでしょう。そこにつけこんでくるかもしれません」
「うむ。連中も百戦錬磨だ。靡かぬ娘をどう手玉にとるか、知り尽くしているだろうな」
怒って押しかければ拒絶は強くなる。反対に、打ちひしがれて罪悪感を刺激すれば絆されることもあった。押して駄目なら引いてみろとはよくいったものである。
「ラムザのおかげで連中の隠れ家も突き止めた。警察と軍の手を逃れた賊どもが加わって、人数が増えている。諦めまいな」
せっかく命を拾い、まっとうに生きる道を示されたというのに、一度覚えた享楽の味はよほど忘れがたいらしい。悪にはそうした魅力があるのだ。
「一網打尽にしてやる。ヒューズ、ぬかるなよ」
「はっ」
警部に敬礼したヒューズは、その足でクラーラの店に向かった。
警察の威信にかけてもラムザたちを逮捕する。それはいい。ヒューズだってこれに出世がかかれば張り切った。
だが、メルルはどうなるのだろう。ラムザに騙され、ヒューズまで仕事だったと知れば、裏切られたと思うのではないだろうか。
たしかに仕事だ。だが、メルルに惹かれているのも事実だった。不幸な娘なんてどこにでもいる。親に捨てられ、身を売るしかない娘だって珍しくなかった。
今までの恋人と比べても、彼女たちのほうがよっぽど綺麗だし、素直でやさしかった。良い人だと言ってくれるだけの育ちをしていた。メルルとは大違いだ。
それでもメルルが良いと心が叫ぶ。あの子じゃないとダメだ。メルルを大切にしたいと訴えてくるのだ。
ちりん、とベルを鳴らして店に入ると、クラーラは目を見開き、それから満面の笑みを浮かべた。
「いらっしゃーい。ヒューズちゃん、来てくれたのね」
「クラーラ、さん……」
変わらないクラーラの笑顔にほっとした。
「言いすぎちゃったから、嫌われたんじゃないかと思ってたの。嬉しいわ」
「いえ。クラーラさんの言った通りでした」
今日のヒューズはとても警官には見えない薄汚れた作業着だ。クラーラはかまわずに椅子を勧めた。
「少し顔つきが変わったわね」
「そうですか?」
「ええ。男くさいっていうか、頼もしくなったわ」
「…………」
ヒューズは迷った末に打ち明けた。
仕事中に知り合った少女が気になること。しかし相手は自分を警官だと知らず、知ってしまったら嫌われてしまうかもしれない。事件についてははぐらかしたが、クラーラは何かを察したようだった。
黙って聞いていたクラーラが、静かに言った。
「本物の恋をしたのね」
本物の恋。それでは今までがまるで偽物だったかのようだ。
「今までの彼女も、もちろん好きだったのでしょうけど、どこか本気じゃなかったんじゃなぁい? むしろ、本気になりたかったからこそクラーラの店に来たんでしょう?」
ヒューズは答えられなかった。そうかもしれない。彼女の喜ぶ顔を見て、自分だけのものにしたいと思いたかったのかもしれなかった。
「男女のことは、ある程度駆け引きになるのは当然よね。自分の心を預けるんですもの、試してみないとわからないわ」
男の見栄と女の打算だ。そこに恋の盲目状態が加わって付き合いはじめは互いに良い人を演じようとする。
「でもねぇ、本気になってくれないのはやっぱり淋しいものよ」
「淋しい、ですか?」
不満ではなく? 首をかしげるヒューズにクラーラはどこまでも許容する黒い瞳で微笑んだ。
「俺、ずいぶん甘えて傲慢になっていましたけど……」
「甘えもあったでしょうけど、見栄だと思うわ。警官って上下関係が厳しいでしょ、上司や同僚に「女にはこうしとけ」と言われていたら、そりゃぁ染まるわよ」
女を躾けてやれる男だ、と彼女ではなく男同士の見栄である。男ばかりの狭い社会ではありがちなことだ。
「ヒューズちゃんの感受性の強さは誇って良いと思うの。相手の気持ちになって考えられるのは素晴らしい特技よ」
ただ、そのぶん振り回されやすいのだ。八方美人ともいうが、あっちこっちに良い顔をしようとして、本当の自分を見失っていた。
そんな男に誰がついていくだろう。彼女たちは幻滅する前にヒューズと別れた。良い人のままなら幸福な思い出になる。幻滅してしまえば時間の無駄になってしまう。
「ヒューズちゃん、人生なんて後悔の繰り返しよ。だから人は成長するんだわ」
「反省していますよ、色々と」
「そうね。でも、ヒューズちゃんは本物をちゃんと見つけ出したじゃなぁい。その時になってみないとわからないことなんて誰にだってあるわよぉ」
「メルルは信じてくれるでしょうか」
「ヒューズちゃん次第よ」
ヒューズはメルルに何か買っていこうとしたが、クラーラがそれを止めた。
「だぁめ。クラーラの店で買い物したいのなら彼女を連れてきてちょうだい。真心こそ、お金で買えないものなのよ」
ほろ苦い物を噛みしめて歩くヒューズの足取りは重かった。
真心とはなんと重い言葉だろうと思った。本当の心、本物の気持ちでなければメルルは振り向いてくれないだろう。真心をどうやって捧げればいいのか、ヒューズは悩み続けた。
「ヒューズさん?」
声をかけられて振り返ると、メルルが立っていた。
「メルルちゃん……。こんな時間にどうしたの?」
そろそろ夕方に差し掛かる時間帯である。メルルは持っていた籠を揺らしてみせた。
「おつかいよ。メイド長ったら人使いが荒いんだから」
ラムザのことを相談し、外回りは外してもらったのではなかったのか。疑問が顔に出ていたのか、メルルが自嘲した。
「どうせ嫌がらせだよ。男ができたんならさっさと出てけってことじゃないの?」
「…………」
籠の中に入っていたのは急に必要とはしなさそうなものばかりだった。しかも重い物だらけで、さらに一軒の店ではなく数件歩き回ったのだろう、それぞれに商標がついていた。
「持つよ。送っていく」
「え? 仕事は?」
「配達帰り。ついでにチェスター家に注文聞きに行っとけば良いだろ」
メルルは目を潤ませ、次にそっぽを向いた。強がってみても不安だったのだろう。
チェスター家への道すがら、メルルはぽつぽつと語った。
チェスター家では使用人の食事はきちんと出るし、どこの家でもあるようにキッチンは上手にズルをする。主人のための料理をわざと多く作っておこぼれをいただくのだ。メルルたちハウスメイドにまで回ってくることはめったにないが、それでも気を使ってかケーキがテーブルに並ぶこともある。
「あたしはなんかメイド長に冷たくあたられてるし、他の子が同情してくれて分け前が多いの」
「ちゃっかりしてんなぁ」
「生活の知恵ってやつよね」
それは少し違う気もしたが、メルルはメルルで楽しみを見出しているらしい。どんなに辛くてもちょっとした幸せ、幸福を大切にできる。そんなメルルが好きだと思った。
「じゃ、ありがとね。ヒューズさん」
「うん」
チェスター家に着くとメルルはあっさりヒューズから籠を取り上げて屋敷に入っていった。ドアが閉まるまで見送ったヒューズは、一度振り返った。
メルルが窓からこちらを見ていた。
嬉しくなって手を振ると、メルルがちいさく手を振り返してきた。心が弾むような喜びにヒューズの顔が自然と笑みを刻む。メルルがしまったと言いたげに顔を顰め、真っ赤になって引っ込んでいった。
***
ラムザとのデート当日、メルルはヒューズに言った通りすっぽかした。
すっぽかしたというより、仕事を言いつけられてしまったのだ。これが何の予定もなければ文句を言っただろうが、今日ばかりは渡りに船。メルルははじめてメイド長に感謝した。
ちくりと胸が痛んだが、もとより行く気のなかったデートである。メルルは仕事に集中し、ラムザのことを考えないように過ごした。
怒ったラムザが押しかけてくるかと思っていたが夕方になっても彼は来ず、代わりに電報が届いた。
「今夜か……」
ヒューズに、と一瞬思ったメルルは慌てて首を振った。夜中に会いに来てなんて、そんなはしたないことが言えるものか。なによりこの時間では、すでに郵便局は閉まっている。かといって屋敷の使用人に付き添いを頼もうにも、そこまで親しい人はいなかった。
しかたがない。きっぱり諦めてもらういい機会だろう。寝不足覚悟でメルルは会うことにした。
夜になり、メルルは同室の子を起こさないように足音を忍ばせて部屋を出た。
すでに屋敷内の灯りは落とされて真っ暗である。ばれたら怒られるので蝋燭を使うこともできず、メルルはぶつからないように目を凝らした。
なんとか裏口に着く。音を立てないようにゆっくり鍵を開けて、ドアから滑り出た。
ラムザは、と見回す間もなく口を塞がれた。
「!?」
「こんばんは、メルル」
鍵を開けてくれてありがとうと言った声はラムザのものだった。暗闇に慣れてきた目に数人の人影が潜んでいるのが見える。
「もうちょっと素直だったら可愛がってやったんだがな。人が同情してやりゃあつけあがりやがって」
怒りの滲んだラムザに、男たちの笑いが混じった。
「さっさとしろよ、ザムザ」
「おめーがいらねえなら俺たちが可愛がってやらあ」
「たっぷり躾けてから返してやるよ」
「こんなんでもチェスター家の娘だ、使い道はある」
こいつら、まさか。生命の危機と恐怖にメルルの目が見開かれた。頭上でラムザが言った。
「悪く思うなよ。恨むなら父親を恨むんだな」
夜を引き裂く高く鋭い笛の音が響いた。と、同時に周囲が明るくなる。
「け、警察!?」
警笛に男たちが狼狽えた。ラムザの手が緩んだのを感じ、メルルは力の限り暴れて振り払った。
「メルル!!」
聞き慣れた声が彼女を呼んだ。両手を広げた彼の顔が懐中電灯に浮かび上がる。
来てくれた。
込み上げてきたものに耐え切れず涙が溢れた。メルルは全力で名前を呼んだ。
「ヒューズさんっ!!」
力強い腕がメルルを抱きしめた。
「メルル!」
「ヒュ、ヒューズさん」
「もう大丈夫だ。遅くなって悪かった」
ガタガタと震えるメルルを抱きしめながら、ヒューズが片手で警棒を構えた。
ランタンに覆いをかけて風よけにした懐中電灯は灯りの先を屋敷に向け、男たちを照らし出している。ラムザたち強盗犯は手に剣を持っており、警官隊に抵抗していた。騒がれる前に家人を始末し、脅して金の在りかを聞きだすため、轟音轟く銃は持っていない。賊が加入して増えたとはいえ十人程度の強盗と、こうした荒捕り物に慣れた警官では警官にあきらかに分があった。
「ラ、ラムザは……」
「あいつは指名手配中の強盗団の一味だ。いつだったか、ガラの悪いチンピラに道案内だって絡まれただろ? 本当ならあの時颯爽と現れてメルルを助けて恋仲になり、今日みたいに鍵を開けさせるつもりだったんだ」
「え……」
どうして絡まれたことをヒューズが知っているのか。呆然と見上げたメルルは、そこでようやくヒューズが警官の制服を着ていることに気がついた。
「あっ。あの時の警官……っ?」
「覚えてたのか」
忘れるはずがない。助けなど来ないと思っていたメルルにとって、あの時の警官二人はたしかに英雄だった。あれがなかったら人を信じることを諦めていただろう。
「ヒューズさん……」
ずっと守っていてくれたのだ。言葉を詰まらせて泣き出したメルルに、ヒューズは慌てた。
「黙っててごめん。その、騙してたわけじゃないんだ」
わかっている。ヒューズの胸に顔を埋めたメルルはうなずいた。
剣戟の音に目を覚ましたのかチェスター家のあちこちに明かりがついた。窓から何事かとメイドたちが眠たげな顔を覗かせ、執事とメイド長が恐る恐る出てきた。
「ヒューズ! テメェェェ!!」
警官と戦っていたラムザが剣をヒューズに向けた。
ことあるごとに邪魔をしてきたヒューズが、この土壇場でも邪魔をした。憎悪に染まり血走った瞳でヒューズを睨みつけている。
メルルを背に庇ったヒューズは、心臓目掛けて突き出された剣を警棒で受け止めた。ラムザの勢いをそのままに足をずらすことで体勢を崩し、下から上に剣を跳ね上げる。すかさずラムザの首を強打した。
うっ、と呻いて崩れ落ちたラムザの髪を鷲掴みにし、顔を上げさせた。
「……お前がメルルを騙して利用したこと、赦さねえからな」
惚れた女に手を出された男の本能的な威嚇だった。凶悪な強盗犯だとか、そんなことは今のヒューズには関係なかった。ラムザはメルルを傷つけた。それだけで、ラムザはヒューズの敵なのだ。
強盗犯が全員捕らえられると、ハラハラしながら見守っていたメイド長が泣きながらメルルに駆け寄ってきた。
「メルル!」
「わっ?」
「メルル、怪我はないかい? なんてことだ。お前を外に出したのがこんなことになるなんて……」
おいおいと泣きながら抱きしめてくるメイド長にメルルは目を白黒させた。どういうことだろう。メイド長には嫌われていたのではなかったのか。
「すまなかった。旦那様に会わせないようにと、私が余計な気を回したばっかりに」
「メイド長?」
涙を拭ったメイド長は、泣き濡れた瞳でメルルを見つめた。
「お前は似てるんだよ……。昔、旦那様がメイドに手を付けたことがあってね。奥様の悋気に触れて追い出されてしまった。……お前を見た時は驚いたよ」
同時にメルルを守らねばと決意したという。かつての同僚と同じ目に遭わせてなるものかと、チェスター家当主とメルルが顔を合わせないよう外におつかいに出していたのだ。
メイド長はその追い出されたメイドこそがメルルの母であると知らなかった。知っていれば他の方法でメルルを庇っていただろう。何も知らなかったからこそメルルをチェスター家から守ろうと、わざときつくあたっていたのだ。
「メイド長……」
母さん。メルルは胸に眠る母に呼びかけた。
母さん。あたし、一人じゃなかった。母さんが言った通り、助けてくれる人がちゃんといたんだよ。
チェスター家を頼れと言われた時、事ここに至っても何の音沙汰もない父に期待してどうするんだと母のお人好しを笑っていた。だが、そうではなかったのだ。母は自分に手を付けておいて守ろうともしない父や、奥様には何の期待もしていなかった。
母が頼ったのは自分と同じメイドだったのだ。父に迫られた時、母は当然拒んだはずだ。なんといっても奥様は妊娠中、ばれたらただでは済まないことくらいたやすく予想できる。
誰かに相談しても、相談された方も困っただろう。どう転んでも悪いほうにしかならないのだ。
もしかしたら、犠牲者は一人でいいとメルルの母を差し出しさえしたのかもしれなかった。妻の怒りを見れば旦那様も目を覚ますだろう、と。
メルルの邪推にすぎないが、メイド長の後悔からはそれに近いことがあったのだろうと思わせた。
責めることはできなかった。誰も彼もが必死だっただけなのだ。
ぽん、と頭に手が置かれた。
「良かったな、メルルちゃん」
ヒューズだった。あたたかく大きな手が頭を撫でてくる。
「うん!」
メルルがメイド長を抱きしめ返した。
「ありがとうございます、メイド長」
そして、心からの礼を言った。
メルルの心に圧し掛かっていた氷のように重い塊が、やわらかくあたたかなものに包まれるのを感じる。そんな自分が嬉しかった。
***
チェスター家は貴族ではなく、様々な事業を手掛ける実業家だ。貴族ではないからこそのしがらみ、因習、意地と誇り、そしてコネがあった。家を維持してさらに上へと伸し上がるためには同業他社を蹴落とし、時に手を繋ぐこともある。
実業家ならどこの家でもやっていること。だからこそ、ぽっと出のメルルの存在はチェスター家のアキレス腱になりかねなかった。
「結婚を前提として、メルルさんとの交際を認めていただきたい」
ヒューズに入れ知恵をしたのはクラーラである。
認知もされておらずチェスター家当主との交流もない、愛情のない娘の使い道などろくなものではあるまい。
だったらメルルに同情的な使用人から丸め込め。特にメイド長は過去の後悔からメルルを守ろうとした。誠意をもって頭を下げれば強い味方になってくれる。味方でいるうちにこちら側に取りこめと言ったのである。
恩や同情には有効期間がある。時間が経てば経つほど重荷になっていくのだ。だからこそ、期限切れにならないうちに手を打つのが重要だった。事件の余韻冷めやらぬ今日、ヒューズが挨拶に来たのはそのためである。
「ヒューズさん……」
メルルは絶句した。メイド長と面会したいと頼まれていたのがまさかこんな話だったなんて。あれからヒューズとはなんとなくいい雰囲気になっているが、結婚を考えていたとは思わなかった。
「ヒューズ・ジュデンさんはベル&ベア商会の者ではなく、実は警察官だそうですね」
「はい」
メイド長は真剣な眼差しでヒューズを射抜いた。
「事件解決のためにメルルに近づいた負い目や、責任を感じて、ということでしょうか?」
「いいえ」
さすがに老獪なメイド長だけのことはある。メルルの不安を見事に言い当ててみせた。
ヒューズはきっぱりと否定する。
「事件はきっかけにすぎません。メルルと出会い、彼女の人柄に触れるにつれ、私は自分が求めていたものを知りました」
言って、ヒューズが隣に立つメルルの手を取った。
「本物の心です。人として、また警官として、最も大切なことをメルルは教えてくれました。真の心なくば真実は見抜けず、人を助けることなど不可能だと」
ヒューズの感謝と愛の告白にメルルは息を飲み、
「……え?」
不可解そうに首をかしげた。
「メルル?」
感動の場面でその反応とは、まさか告白をしていなかったのかとメイド長がヒューズを見た。ヒューズはヒューズで焦り顔になる。
「あたし、なんかしたっけ?」
何もしていない。むしろ何も起こそうとはせず、ヒューズとラムザをあしらっていた。
メイド長が顔を背け、笑いを堪えた。
「したよっ。いや、あれ? そういや何もしてないけど、でも俺を反省させたし、ここにくるまですごく大変だったんだからなっ」
「それヒューズさんが勝手に苦労しただけじゃない」
とうとう堪えきれずにメイド長が吹きだした。ハッとして真っ赤になったメルルに、ヒューズが気まずそうに肩を下げる。
「そうさせるメルルが凄いんだ」
「そっか。あたし、凄いんだ」
「そうだよ。メルルとなら、一生ずっとやっていける」
「……うん」
メルルが瞳を潤ませた。幸せそうにはにかむメルルは、どこにでもいる十八歳の少女だった。
誰にも頼らず一人で生きていけると、気を張りすぎて今にも倒れそうだったメルルが一人の乙女になったことに、メイド長は感慨深く思った。
「よろしいでしょう。二人の仲を認めます」
「ありがとうございます」
「メイド長、ありがとうございます」
屋敷で公認となれば余計なちょっかいを出されずに済む。チェスター家当主がメルルを駒にしようとしても、メイド長が逃がしてくれるだろう。
「念のため執事には報告しますが、旦那様には秘密にしておきます。婚約したとなったらなおさら執着するかもしれませんからね」
旦那様の信頼はとことん低かった。一度でも浮気をした男への評価とはここまで酷くなるのかとヒューズは肝に銘じる。注意一秒怪我一生。火遊びなんかした日には灰すら残らないに違いない。
結婚式や新居の準備などもあるため、正式な夫婦になるまでメルルはチェスター家で預かることになった。
「礼儀作法まで習うことになったんだけど、警官の妻ってそんなの必要?」
「いや、普通だぞ? でも同僚は荒くれ男ばっかりだからな。ハッタリかますにはいいんじゃないか」
「ハッタリって、同僚にずいぶんね」
「その場の勢いで調子に乗るとこあるからな。メイド長はメルルを娘みたいに思ってるんだろう」
そう言われるとメルルは何も言えなくなる。メイド長が厳しいのはメルルへの愛ゆえなのだ。
「疲れたら休めばいいさ。紅茶の美味い店があるんだ」
ヒューズが案内したのはクラーラの店だった。やっと、クラーラにメルルを紹介できる。
「クラーラの店? 貴族様のドレスとか売ってるんでしょ、破産しちゃうよ」
「大丈夫。茶ならタダだ」
「よし行こう」
素早い掌返しにヒューズが笑った。笑いながら、お姫様をエスコートするように恭しくメルルの手を取り、腕に絡ませる。
ヒューズとメルルがクラーラの店のドアを開けた。
ちりん。祝福のベルが鳴った。




