洗濯屋アニーの白
今回はちょっぴりミステリー風。
洗濯は、つらく厳しい仕事だ。
今でこそ洗濯屋に外注するのが当然のようになっているが、一昔前まではちょっと余裕のある中流家庭でもランドリーメイドがいたものだ。もしくはオールワークスメイドがそうした家事のいっさいを担っていた。ようするに最下層の下働きである。
「え? いつもの洗濯屋さん、辞めちゃったの?」
「はい。正確には移転ですが、王都を出るそうです」
クラーラの暮らす下町にも洗濯屋がある。下町のおかみさん連中の大半は自分でやるか、子供に手伝わせるが、晴れ着などはやはり洗濯屋に任せることが多かった。
水仕事はイコール女の仕事という風潮もあり、洗濯屋のほとんどは女だ。腕が良ければ自分の店を持つこともできる。一攫千金とまではいかなくても一城の主くらいにはなれたのだ。
「あっちこっちで復興工事がはじまってるものね。そりゃ仕事の多いところに行くかぁ」
クラーラが利用していたのも流行病で夫を亡くし、女手ひとつで子供たちを育て上げた寡婦であった。子供たちは立派に独立したのだから楽隠居を決め込んでも良さそうなものなのに、働くのが好きだと言って豪快に笑う、人の好いおばちゃんだった。
「じゃ、早めに次を探さないと」
「クラーラ様、やはりわたくしがやります」
そもそもこの家に住んでいるのはたったの四人だ。服やドレスは毎日洗うものではないし、せいぜい下着とリネン類くらいである。たしかに大変な仕事ではあるが、レオノーラはオールワークスメイドである、そのつもりでいた。
しかし、クラーラは首を縦に振らなかった。
「ダメよぉ。手が荒れるじゃなぁい」
「手荒れなどなんでもありません」
「時間は有限なのよ。レオノーラにはお店を手伝ってもらうこともあるし、外注できることは外注しましょう」
「信頼できる洗濯屋を探す方が手間です」
レオノーラは渋った。
しょうがないわねぇと言いたげにクラーラが苦笑する。
レオノーラが外注を嫌がるのには理由があった。
管理の杜撰な店になるとそれが頻発する、下着特有の災難。すなわち下着泥棒である。ただし性的な目的ではなく、使用目的で盗まれる。
めったに風呂に入らない人々が清潔を保つための第一となるのが下着だった。
特に真っ白な下着が尊重され、下着は白ければ白いほど良いものとされた。洗濯屋の腕とは漂白の腕といっても過言ではないだろう。
毎日使うものだけに、下着は消耗が激しい。薄くなって尻に穴の開いたものなどもってのほかである。
さりとて下着を買うにしても縫うにしても先立つ物がない――そんな時にひょいと覗いた洗濯屋に新品同様の下着。ちょいと拝借、あるいは交換。もっと単純に綺麗な下着が欲しかったなどの理由で盗っていく者もいる。それほど下着泥棒は多いのだ。
余談だが、下着の中でも人気があるのは亜麻でできたもので、なんと四十二枚も盗難にあったという人もいる。高価であっただけに困っただろうが、四十二枚も盗まれる前に他の安価な下着に変えなかったのは、こだわりがあったのかもはや意地になったのか。どちらにせよ懲りない人である。
ともあれ管理が杜撰だったり人格に難があったり、下着泥棒とグルになっている洗濯屋に当たるとろくなことにならない。レオノーラの拒絶反応も無理のないものであった。
「マシューから評判の良い洗濯屋がないか聞いてみましょ」
マシューは料理人として市場に出入りしている。問屋や同じ料理人仲間、おかみさんたちから様々な話を仕入れてくるのだ。
「クラーラ様、なぜそう洗濯屋にこだわるのですか」
「レオノーラこそ、そこまで嫌がらなくてもいいじゃなぁい」
二人は顔を見合わせた。
「手が荒れるのを見るのが嫌なのよ。痛々しいんだもの」
「クラーラ様のご気分ですか」
「そうよ」
結局、折れるのはレオノーラなのだ。主人への批判にならない程度のため息を吐きだすと、淡く笑った。
「わかりました。腕と人の好い洗濯屋を探しましょう」
「レオノーラ……!」
「主人に気持ちよく過ごしていただくことも、メイドの役目ですから」
凛として言い切ったレオノーラは、クラーラでも見惚れるほどであった。
探していると不思議なもので、向こうからやってくることもある。新しい洗濯屋はあっけなく見つかった。
「いつもご利用いただいていたとお聞きしまして。洗濯のご用はぜひうちにどうぞ!」
以前の店を買い取ったと、御用聞きが来たのである。
「ああ、あそこの? ずいぶん早いわね」
「同じ洗濯屋で立地は良いし、設備もそのままでしたからね。買い取らせてもらったんです」
アニーと名乗った洗濯屋は三十半ばほどの、恰幅の良い女性だった。
家の仕事を手伝っているうちに婚期を逃し、こりゃ一生独身かと一念発起して洗濯屋をはじめることにしたらしい。ちなみに実家は庭師で、そんなだからやたら洗濯だけは上手くなったそうだ。
聞いてもいない身の上話に呆気にとられるレオノーラにかまうことなく、アニーはぐいぐい来る。
「料金はこれくらい。初回は負けさせてもらいますよ!」
「洗濯物の管理はどうしてます?」
「一家ごとに袋に入れて、洗濯時と干す時にはタグを付けます。あ、下着ドロですか? うーん、一日中見張っているわけにはいきませんし、陽があるうちは外に干したいんで紐にベルでも付ける予定です」
「予定ということは、まだなのね?」
「え、ええ」
呆れたようなレオノーラに、アニーがはじめて口ごもった。そこまで厳しく問われるとは思っていなかった顔だ。
「いいじゃないの、レオノーラ。一回頼んでみたら?」
するとそこにひょいっとクラーラが出てきた。
「クラーラ様」
「クラーラ様? あ、あなたが……」
アニーがクラーラを見上げて大げさなほど動揺した。
クラーラはそんなアニーに微笑み、レオノーラに向き直る。
「新規開店ならお試しで頼んでみたらいいじゃなぁい」
「準備段階で手を抜くような店は信用できません」
「やってみなくちゃわからないことなんていっぱいあるわよぉ。素直に勉強していけばいいわ。ね?」
「えっ? は、はいっ。なにぶん店を持つのははじめてなのもので、色々不慣れですが都度直していこうと思ってます」
レオノーラはクラーラとアニーを交互に見て、クラーラがにこにこして一歩も引かない構えであることを察し、諦めた。
「袋は?」
「は?」
「だから、袋です。洗濯物用の。持ってきているのでしょう?」
「はい、こちらです!」
アニーは腕にかけていたバッグから麻袋を取り出した。アニーのイニシャルであろうAの字と、袋番号の1が入っている。
洗濯物を取ってくると言って家の中に引っ込んでいったレオノーラに苦笑して、クラーラがアニーに話しかけた。
「前のお店の紹介なら知ってるでしょうけど、アタシは仕立て屋でしょ? 下着にも気を使っているからレオノーラも泥棒にぴりぴりしてるのよ」
「はい」
果たしてクラーラの下着は男物なのか女物なのかどちらなのだろうとアニーは思った。男物ではなんというかしっくりこないが、女物でもそれはそれで複雑な気分になる。
「前の人、急に移転しちゃって困ってたのよねぇ。良いタイミングで助かったわ」
「これからご贔屓にお願いします」
「それは腕しだいだわねぇ。頑張ってちょうだいな」
会話の中身といい、ざっくばらんな態度といい、クラーラはまるっきり下町のおばちゃんだ。
大柄な美女にも見えるこの人が本当に? とアニーもどう接して良いのかわからないようで、曖昧に笑っていた。
「アニーさん、それではこれをお願いします」
レオノーラが袋に洗濯物を詰めて戻ってきた。
「はいよ! ありがとうございます!」
これからよろしく、と威勢の良い挨拶を残し、アニーはスキップでもしそうな足取りで帰っていった。
「……」
どこか怒ったような顔でその後姿を見送るレオノーラの肩を、クラーラがぽんぽんと叩く。
「そんな顔しないの。せっかく来てくれたんだから、しばらく様子を見ましょ」
「わかってはいますが……」
レオノーラは不満げな顔を崩さなかった。もう一度、アニーの去って行った方を見て、ため息を吐いた。
***
その歳になるまで独身で家事手伝いだっただけあって、アニーの洗濯は丁寧だった。
ようやく活気の戻ってきた下町にもさっそく馴染み、得意先には自ら御用聞きに行くマメさでアニーの洗濯屋はたちまち繁盛した。
「アニーさん、お待ちしていました」
「こんにちはレオノーラさん。そろそろ洗濯物溜まってるんじゃないですか?」
「そうなの。クラーラ様の部屋着もあるし、ちょっと入って待っていてください」
「はい」
洗濯の外注を渋っていたレオノーラのお眼鏡にも適なったようで、今ではこうして家に招いてお茶までする仲だ。
下町にあるとはいえクラーラの家の調度品は良い物ばかりだ。アニーは毎回きょろきょろと眺めてしまう。
そこにレオノーラがクラーラのドレスを持ってきた。
「このモスリンのドレスはクラーラ様のお気に入りですから丁寧にお願いします。こちらはレースが繊細にできているので縮んだり引っかけたりしないように気をつけてください。わかっているとは思いますが、色移りしないように注意してくださいね」
「はい」
受け取って確かめながらアニーがうなずいた。
あの仕立て屋クラーラが利用している洗濯屋、という話は瞬く間に下町界隈に広がった。今のところ下着泥棒に遭うこともなく、時にはクラーラの店のお客と思わしき貴族がドレスを持って来ることもあった。クラーラの影響力の大きさをアニーは実感している。
きちっとたたまれたドレスを袋に詰め、アニーはレオノーラとお茶をしながら世間話に興じた。
出されるお茶はクラーラが店に出す前の試作品で、マシューのハーブが使われているらしい。よく味の感想を求められた。正直アニーには慣れない味だが、ドライフルーツや花などを加えると意外と美味しかった。サービスで提供しているだけに、安価で美味しい物をという気持ちはわかる。
なにより断って注文がなくなるのは困るのだ。
「レオノーラ、お茶を……。あら、アニーちゃん、いらっしゃい」
「あ、お邪魔しています」
今日は店が休みなのか、クラーラが部屋から出てきた。
慌てて立ち上がろうとしたアニーにかまわないわよと笑い、自分も席に着く。レオノーラが立ち上がるのは止めなかった。
「クラーラ様、休憩ですか」
「そ。手は動くんだけど、目が疲れちゃって」
「お茶を淹れなおしてきます。蒸しタオルをご用意しましょうか?」
「同じのでいいわ。すぐに行くから大丈夫よ」
疲れを隠しきれない様子でクラーラが薬缶に手を伸ばし、ティーポットに冷めた湯を注いだ。レオノーラが持ってきたカップにお茶を入れ、温度を確かめてからひと息で半分ほどを飲み干す。
ほぅ、と息を吐いたクラーラには奇妙な色気が漂っていた。なんだかいけないものを見てしまった気がしてアニーが目を伏せる。
「クラーラ様は、お針子を雇わないんですか?」
「お針子っていうか、弟子みたいな子ならいるわ。ほら、スコットさんのところのチェルシーちゃん」
「あれま、あの子が」
「若いだけあって飲み込みが早いし、やる気がある。丁寧に仕事するわ」
「へぇ……」
スコット家は人手があるのであまり洗濯屋を利用しないが、それでもひどい汚れの時は持ち込んでくる。
「スコットさんのおうちは八百屋さんでしょう? どうしても指先が荒れるし、皸もできちゃうのよねぇ。アニーちゃんは、お手入れどうしてる?」
野菜の水洗いをする以上、八百屋と手荒れは切っても切れない間柄だ。
それ以上に手が荒れるのが洗濯である。お湯で洗うため手の脂分がすっかりなくなるし、ブラシと石鹸を使っての手作業だ。真っ白であるべき下着になんらかの染みが付いていれば専用の薬品を使う。
そして、それらの作業をすべて素手でこなすのだから手が荒れるのも当然であった。
「夜寝る前にクリームを塗るくらいですね」
アニーは恥ずかしそうに手の甲を擦った。爪先まで整えられたクラーラと比べると雲泥の差である。
仕事中にクリームを塗ってもすぐに洗い流されるし、仕事がひと段落すれば家事が待っている。寝る前くらいしかクリームをつけていられなかった。とはいえ毎日のことなので、手荒れが治る気配はない。洗濯屋の手荒れは八百屋と同じ宿命である。
「痛々しいわねぇ。そうだ、ちょっと待っててね」
ぴかぴかのクラーラとレオノーラの前では自分が惨めになりそうだ。腰を浮かしかけたアニーを止め、クラーラは痛ましそうに眉を寄せると部屋に行き、すぐに戻ってきた。
「これ、試供品なんだけど、使ってみてちょうだいな」
「えっ? でも、そんな、いただくわけには」
アニーは慌てた。クラーラの店で取り扱われるクリームなど高級品に決まっている。
「効果を確かめて欲しいのよ。洗濯屋さんの手もあっという間にツルツルに! って、良い宣伝になりそうでしょ?」
クラーラはアニーのひび割れて赤くなった手を取ると、そっとクリームの容器を握らせた。
「いつもありがとう」
アニーは真っ赤になって言葉を詰まらせた。
クラーラとレオノーラに頭を下げ、洗濯物を持って店への道を急ぐ。あの家はまるで復活祭の夜に精霊が見せる夢にも似て、遠すぎる幸福だった。
店に入るとアニーはほっと息を吐いた。走ったせいではなく胸がどきどきしている。認めたくなくて、わざと洗濯物袋を乱暴に置いた。
「……!」
ハッとして振り返る。
奥にある洗濯室の暗がりから、黒い服の男がゆっくりと現れた。
「なんだ……旦那かい」
「油断はしていないようだな、アニエス」
「やめとくれ。あたしゃアニーだよ」
アニーは受付カウンターの棚から伝票の束を取り出した。
パラパラとめくり、一枚を引き抜く。
「これがあの家の間取り。だいぶ打ち解けて、部屋を見てみたいと言ったらあっさり通してくれた」
伝票に記されているのは預かった洗濯物の種類や色、レースの有無などの情報だ。
これはアニー――アニエスの用いる暗号である。
どこにでもいる茶髪に茶色の瞳。恰幅良くおしゃべりで人の好い笑みを絶やさない、気遣いのできるこの中年女性の本業は、暗殺だ。
どこにでもいる容姿を利用して潜り込み、使用人や近隣の人々とも打ち解け、標的が警戒を解いたところで確実に仕留める。時間をかけて行うので誰も彼女に疑いを抱かなかった。
あまりにも自然に仕事をこなすことから『銀杏のアニエス』の異名で裏社会では知られている。
「本人はどっからどうみてもおばさんだけど、メイドはまだ警戒してるね。別に、おかしくはないけど」
クラーラの中身が男であれ女であれ、あの家で唯一明確な女はレオノーラだ。主人はクラーラでも家内を一手に取り仕切っているメイドである。そこに新しく割り込んできたアニーの存在は面白くないだろう。女社会ではよくあることだ。
「それより、本当にクラーラがあの執政様なのか、確証は摑めたのかい?」
クラーラから貰ったクリームの容器を見せつけるように上に放り、空中で捕まえる。
「クラストロ邸に出入りしているのは摑めた」
「そりゃ当然だろ。あそこは直営店じゃないか」
アニーが呆れると、男がムッとした気配になった。
フン、とアニーが鼻から息を吐きだした。
「用が済んだら行っとくれ。あたしはこれでも忙しいんだ」
「洗濯女が板についたか?」
どこか小馬鹿にした響きがあった。
相手の懐に入るのがアニエスのやり方だ。いちいち情に流されていては殺しなどやっていられない。アニーは男に顎で出ていくように合図した。
男が出ていくと、アニーはクリームの容器を開け、匂いを嗅いだ。人工化粧品特有の、複数が入り混じった薬品臭をかき消すようにバラが強く香っている。
指先にほんの少しだけ取ったものを舐めてみた。当然だが不味い。すぐに吐き出した。
「ま、悪いものは入ってなさそうだ」
話題の『フェアレスティ』ではないのが残念だが、クラーラの店の試供品なら品質はお墨付きだ。洗濯屋を隠れ蓑にするせいで手荒れは酷くなる一方になり、冬場には血が滲むこともある。これでも女だ、気にしていた。
「こんなものをぽんとくれるってことは、やっぱ本当なのかねぇ」
一着でアニーの一ヶ月分の稼ぎほどもするドレスを売っているとはいえ、針子というのは洗濯女と同じく最下層の職といっていい。そこはクラーラというブランドで値を吊り上げているのだろう。それにしてもクラーラの家は裕福だった。
店も念のため覗いてみたが、貴族相手に商売をしているだけあってきらびやかだった。アニーがアニエスでも、一生縁はないだろう。
「……業が深いもんだ」
貴族様ってのは。アニーがぽつりと呟いた。
お綺麗なドレスを着て、豪勢な食事をして、ぴかぴかのお屋敷に住んでいたって腹の中は真っ黒だ。アニーに依頼してくる者のほとんどが貴族である。さっきの男は依頼人の使いだ。
アニーは暗殺だけをするわけではない。潜入先の弱みを握り、それを渡すだけで終わることもあった。貴族というのは少なからず腹黒でなければやっていけないが、それでもただ殺すのではなく死んだ方がましな屈辱や転落を味わわせるだけで、あえて殺さない判断には戦慄する。
クラーラ殺害を依頼してきた貴族は、マクラウド本人ではなくクラストロ家を排除したいらしい。彼が執政になって以来、貴族に不利な政策が続いて危機感を覚えたのだろう。
アニーには理想も思想もない。この国がどうなろうと変わらずに仕事をするだけだ。殺し屋稼業に誇りはないが、誰かがやらなければならないことを自分がやっているだけという割り切りはあった。処刑人と同じである。公式か非公式かの違いだけだ。
情はない。好悪もない。見せかけの仮面を被って標的に近づき、仕事が終われば綺麗に去って行く。季節に合わせて色づき散っていく銀杏のように。
命令が下るまであたしは洗濯屋のアニーだ。
アニーはレオノーラから預かった洗濯物を取り出すと、伝票に注意点を書きこんで、タグをつけた。
それからも特に変わることはなかった。アニーは洗濯物の引き渡しと回収のたびにクラーラの家に入り込んでお茶をいただき、レオノーラと世間話する。
警戒心の強いメイドはクラーラの豪放磊落ぶりに振り回されているようで、主人の人の好さにつけこむ悪党が現れるのではないかと危惧しているらしい。レオノーラの愚痴だか自慢だかわからない話のほとんどはクラーラのことだった。
仕立て屋のはずがなぜかお悩み相談室か駆け込み寺のようになってしまって、クラーラの魔法が勘違いされているとこぼしていた。
「でも、それでお嬢様たちの人生が変わるんですから、やっぱ魔法ですよ」
感心したようにアニーがレオノーラの自尊心をくすぐることをいえば、彼女はまんざらでもなさそうな顔になった。こういうタイプは自分を直接褒められるより、自分が尊敬している人を褒めたほうが喜ぶのだ。
「アニーちゃん、来てるかしら?」
ある日、いつになく慌てた様子でクラーラが家に帰ってきた。
「はい。お邪魔しています」
「クラーラ様、どうかなさいましたか?」
レオノーラが素早く主人に駆け寄った。
「ちょうど良かったわ。これ、なんとかなるかしら?」
なにやら厳重な箱から取り出されたのは、異臭を放つ子供服だった。不意を突かれたレオノーラが思いっきり後ずさり、鼻を覆った。
「なんですか、それ」
立ち上がり、近づこうとしたアニーの足も止まる。
「ほら、今日はあの子のところに行ったでしょ? 末っ子と庭で遊んでたら、走り回って転んじゃったのよぉ……。よりによって、堆肥の山に」
うわ。レオノーラとアニーが揃ってドン引いた。
堆肥は落ち葉や家畜の糞尿を発酵して作られる農業には欠かせない肥料だ。もちろん凄まじく匂う。発酵が進んで土になるまでは遠く離れていても風に乗って漂ってくるほどである。
「湯気が出てるからか興味を持ったようで、止める間もなかったのよ」
クラーラが珍しくがっくりと落ち込んでいた。
「しかもフォントルロイ・スーツよ。レティがそれはおかんむりで、アタシも止められなかった責任があるし、洗ってみるって言って預かってきたの」
とはいえ汚臭を放つ服をそのままで馬車に乗る気には到底なれず、厳重に箱詰めして帰ってきたのだという。密閉空間で糞尿の臭いはきつい。
フォントルロイ・スーツは男の子の典型的な晴れ着だ。
黒いベルベットのスーツに半ズボン、真っ白なレースの付いたヴァン・ダイクの大きな襟と、一見して貴公子だとわかる。とある小説の主人公がこれを着たことで爆発的な人気を博した。母親に大人気のスーツである。
そんな晴れ着で走り回ったあげく堆肥にドボン。母親が怒り狂うのは当然だった。
「親戚のお子さんですか」
レティというのはヴァイオレットの愛称だ。カマをかけるつもりで探りを入れるアニーに、クラーラはあっさりうなずいた。
「弟の子よ。農業に興味を持つのは良いけど、転んで堆肥に突っ込んだなんて一生のトラウマになりそう。……どうかしら、綺麗になる?」
クラーラは汚れた部分に触らないよう、指先で服を抓み、箱ごとアニーに渡した。アニーも糞尿まみれの服を触るのはご免被りたい。
そっと持ち上げて状態を確認すると、一番酷い尻の部分は何とか堆肥をこそげ落とそうとした形跡があった。しかし布地にしっかりと染み付いてしまっている。
なにより臭いがひどい。洗濯をしても臭いは残る気がした。
「なんとかしてみましょう」
買い直した方がいいんじゃない、とは洗濯屋として言ってはならないことである。アニーは受け取り拒否したい気持ちを押し止めた。
それより早く、繋ぎ役の男にこのことを知らせなければならない。フォントルロイ・スーツの襟に隠された部分に、双頭の龍が刺繍されていた。クラストロ家の紋章だ。まず間違いないだろう。
「ありがとう! 助かるわぁ」
心底ほっとしたように笑うクラーラに、アニーも笑ってみせた。
「クラーラ様にはこちらこそ良くしていただいていますからね。お任せ下さい」
さすがに袋に詰める気にはなれなかったので箱ごと受け取り、アニーはクラーラの家を出た。
途中で郵便局に寄って電報を打ち、店に戻る。
男はすぐにやってきた。
「確証を摑んだというのは本当か」
「ああ、これだよ」
ひとまず洗ってみたが染みと臭いはどうしても落ちず、仕方なしに洗剤を混ぜた水に漬けこんでいる。お湯で温められたせいで臭いが増し、洗濯室は異臭が漂っていた。
湯の中に手を突っ込むとぴりぴりと沁みた。子供服を取り出して水気を絞り、男に見せる。
「……臭うな」
「弟の子供のだよ。肥溜めに突っ込んじまったんだとさ」
かくいうアニーも手にくっついた臭いに辟易している。何度も擦り洗いしたせいで、爪先にまで汚物が入り込んでいる気さえした。
「クラストロの紋章……。これが罠という可能性は?」
現在王都にヴァイオレットが子供を連れてきているという情報はない。こちらの動きがばれて、誘い出そうとしているのではないかと男は言った。
「どうかな。あのメイドはともかく、クラーラは完全にこっちを信用してる。洗濯屋アニーは疑われてないよ」
実際にさっきもレオノーラはアニーの動きを注視していた。さりげなく確認したが、レースに触れるアニーにわずかに目を動かしていた。
そんなレオノーラに比べ、クラーラは洗濯の腕さえ良ければ細かいことは気にしないようだった。アニーがレオノーラとお茶をしていれば入ってくるし、どういう服が洗濯しにくいかなど、商売のアドバイスまで求められた。気に入った相手にはどこまでも親切なのか、客を紹介されたこともある。
あけっぴろげなお人好し。それが、クラーラに抱いた印象である。
「念のため裏を取る。そろそろ達成の命令が下るだろう」
「強盗に見せかけて、でいいんだね?」
「そうだ。下町住まいとはいえ高級ドレス店の店主だ。たんまり貯めこんでるだろう」
アニーはにやりと笑った。
足がつかない限り、殺した相手の家で何を盗ろうが自由だった。売った先でばれそうな宝石などは依頼人に買い取らせたり、証拠品として罪を擦り付ける相手の家に置いてくることもある。クラーラなら、ドレスは無理でも宝飾品、店の売り上げも期待できた。
「クラストロ公爵といってもしょせんは貴族のボンボンだねえ」
男が帰るとアニーは子供服を盥に戻した。これを渡す口実でクラーラを襲撃すればいい。
アニーは手を洗う。洗っても洗っても取れない臭いにうんざりし、ブラシに洗濯用石鹸を付けて爪の内側まで洗った。
手を洗うと少しだけ心が軽くなる。アニエスがアニーになる時、洗濯屋を選ぶのはそのためだ。
何かに追われるように汚れを落とす。その時だけは、無心になれた。
***
決行日はちょうど汚物まみれの子供服の臭いが取れ、アイロンをかけて届ける日になった。
結局あれを洗った盥にも臭いが染み付いた気がして新しく買い替えた。同じ盥で他の物を洗濯する気にならなかったのだ。
盥の代金も請求するべきだろう。アニーはクラーラの持つ宝石類と現金を思い浮かべ、笑顔でノッカーを叩いた。
「はい。あら、アニーさん」
「こんばんは。遅くなってごめんなさいね」
確実にクラーラがいる時間となると夜に限られてくる。思った通り、部屋着にガウン姿のクラーラが出てきた。
「アニーちゃん、あの服、綺麗になった?」
「はい。苦労しましたよ、まったく!」
申し訳なさそうに苦笑したクラーラは、中に通すようにレオノーラに命じると着替えるためだろう、部屋に向かった。
いつものようにお茶が出される。自然な仕草でアニーが口をつけた。
「あれが入っていた箱ですけど、汚れが移って臭いも消えないので処分しました」
「かまわないわよ。大変なものを頼んじゃってごめんなさいね」
クラーラとレオノーラも座ってお茶を飲んでいる。
主人と使用人が同じ席に着くことは本来ありえないのだが、クラーラは気にしないようで、アニーとも友人のような気安さで接してくれる。
夕飯も済み、執事と料理人は奥で何かしているらしい。
できればレオノーラから先に始末しておきたい。抵抗されクラーラに逃げられたら本末転倒だ。アニーはたわいない会話をしながらどうやるかの手順をめまぐるしく考えていた。
短銃は洗濯物袋の中に、ナイフはエプロンで隠れたスカートのポケットに入っている。一瞬で取り出し、一撃で仕留めなければならない。
「そうだ、クラーラ様から貰ったクリーム、すごく良いですよ」
「あらぁ、それは良かったわ」
「ちょっと沁みますけどね。もう使いきっちゃったんで欲しいと思ってるんですけど、これで足りますか?」
アニーが銅貨を何枚か取り出すと、クラーラが困った顔になった。こんなもので買えないのは百も承知だ。
「あの、じゃあ、これで買える分だけ売ってもらえません?」
「……わかったわ。ちょっと待っててね」
量り売りなどするはずもないが、試供品を渡した手前断りにくいのだろう。クラーラは席を立つと部屋に向かった。
「アニーさん、お茶のおかわりは?」
「ありがとう、いただきます」
レオノーラが立ち上がるとティーポットを持ってキッチンに下がり、すぐに戻ってきた。アニーはナイフを取り出し、袖口に仕込む。
いよいよだ。いよいよ。寒気とも興奮ともつかない震えが身の内に走る。
アニーのカップにお茶を注ごうと、レオノーラが近づいてきた。
心臓の鼓動を宥めるように深く息を吸った。
「アニーさん、どうかしましたか?」
「え?」
おかしい。落ち着こうとしたはずなのに、呼吸が荒くなる。心臓が縮み上がったように痛み、体中の血管がドクドクと鳴っている。しだいに体が冷たくなってきた。
指先が痺れている。これではナイフを握ることができない。
コト、と音がして見ると、レオノーラがティーポットをテーブルに置いたところだった。
「大丈夫? アニーさん」
心配そうな言葉には、しかしアニーを気づかう色はまったくなかった。それが当然であるかのようにレオノーラが見ている。
は、と息を吐いたのが悪かったのか、全身から力が抜けた。腕がだらりと下がった拍子にナイフが床に落ちる。次の瞬間、椅子から転げ落ちた。
「レオノーラ、やっぱり?」
「はい」
無造作にナイフを拾ったレオノーラがドアを振り返った。呆れた表情を隠すことなく、クラーラがドアに背を凭れて立っていた。
「何が起きてるかわからないって顔してるわねぇ」
「銃も入っています。強盗にでも見せかけるつもりだったようですね」
洗濯物袋を漁っていたレオノーラが銃を取り出した。
コツ、コツ、とヒールの音をさせて近づいたクラーラが、いつもと同じ人懐っこい笑みを浮かべた。
「いい作戦だったわよ、さすがは銀杏のアニエス。でも残念。世の中上には上がいるのよ」
アニーはなんとか起き上がって逃げようとしたが、もう体に力が入らなかった。指先の痺れが足にまで広がり、震えることしかできない。
いつからばれていたのか。お茶にもクリームにも毒物は入っていなかった。あんなに用心していたのに、なぜ。
アニーの心を読んだのか、レオノーラが冷たく言った。
「一つ一つは無害でも、合わされば毒になるものなどどこにでもあるでしょうに」
「ついでに言うと、体から排出されて反応を起こすものもあるわ」
その代表格が阿片だ。禁断症状が出て体が異変を起こし、精神すら苛んでついには死に至ることもある。
「お茶とクリームはわかりやすかったかしら。でも、それだけじゃないのよ」
クラーラはこうしたことに慣れていた。マクラウドの頃から常に刺客に狙われてきたし、食事に毒を入れられたこともある。情報を盗もうと近づいてくる者など日常茶飯事だった。
クラーラになってからもそうと知らない商売仇から狙われたことがあった。ちょっと病気になってもらうだけの毒や、腕を怪我させようとする暴漢など、店が認められるようになるとありとあらゆる妨害工作に襲われたものだ。
クラーラはそれらをすべて返り討ちにしてきた。防ぐだけではなく、二度とそんな真似をされないように徹底的に反撃した。下手に情けをかけて敵になめられたらそれがいつか弱みになる。
「象が歩く時に足元の蟻を気にするか? マクラウド・アストライア・クラストロは双頭の龍だ。飛び立つ風圧で誰かが飛ばされようと、それだけのこと」
低い男の声が頭上から降ってくる。とうとう呼吸もままならなくなってきた。視界が点滅している。
「心配しなくても毒だと判断できる医者はいません。夜中に出歩いて発作を起こし、誰にも発見されずにそのまま手遅れ、という筋書きです」
「腕の良い洗濯屋さんだったのにねぇ。残念だわぁ」
心底そう思っている声でクラーラがため息を吐いた。
アニーは事ここに至ってようやく理解した。
クラーラは間違いなくマクラウドだ。クラストロ公爵。この国を支配する双頭の龍。アニーは龍の咢でどう料理しようか迷っている、愚鈍な人間に過ぎなかった。
霞む視界の中、せめてクラーラを睨んでやろうとアニーは目を見開いた。
「さようなら、アニエス」
人の死を悼む表情ではなかった。悪戯が成功した悪餓鬼のような、愉快さを隠しきれない笑みが、そこにはあった。
もう何人も手にかけてきた。負ければ死だとわかっていたはずなのに、この期に及んでそれでも死は恐ろしく、そしてこんなに悔しいものなのか――。
アニーが意識を失うと、クラーラは外に放置してきてと命じた。なりゆきを見守っていたアーネストがアニーを抱え、洗濯屋へと続く道に彼女を降ろす。発作で苦しみながらも店まで辿り着こうとした跡をアニーの指先や服に工作し、何事もなかったように帰っていった。
***
肌寒さで彼女は目を覚ました。
アニーと名乗っていた彼女は瞼を開き、光の一切ない視界にまだ夢を見ているのだろうかと思った。
とんだ悪夢だ。ほっと息を吐いた彼女は身じろぎをして、目を擦ろうとした。持ち上げた手が何かにぶつかった。
「ここは……?」
冷や水を浴びたように覚醒する。
体の痺れは消え、呼吸も戻っている。生きている。しかし夢ではなかった。
何にぶつかったのか確かめようと手を伸ばした。頭を持ち上げられないほどの至近距離に木の板がある。体の下には申し訳程度のマットが敷かれていた。
動かせる範囲で体を動かしていたアニエスは、自分が上下左右、四方を囲まれているのだと知った。そしてそれが何であるのかも瞬時に理解できてしまった。
棺桶の中だ。
「開けて! 開けてちょうだい! 生きてるわ!」
声の限りに叫び、棺桶の蓋を叩くが音が響く様子もない。もしや、すでに埋葬されているのだろうか。生きているのに。
「誰か! 生きてるのよ、開けて! 埋めないで!」
狭く窮屈な中なんとか身をよじり、肩で蓋を開けようとしたが重い何かが乗っていてぴくりともしなかった。ぞわっとしたものが背筋を走る。
「う、嘘でしょ、そんな……生き埋めなんて……」
最悪の結末が頭を過ぎり、アニエスは震えながら叩き続けた。
過去に何人も殺してきたし、その中には依頼人の命令で残虐極まりない方法をとったこともある。だが、生き埋めなんてしたことはなかった。
なまじ意識があり、空気があるだけ残酷だ。生きているという事実に縋りついてしまう。じわじわ嬲り殺されるほうがよっぽど楽だろう。アニエスという処刑人がいたことで諦めることができる。
「いやああああああぁぁ!!」
アニエスは絶叫した。自分が殺した人々の亡霊が暗闇の中で嗤っている気がした。
「どうしてあたしが! 悪いのはあいつらだ! 人に殺しを頼んだヤツを恨めっ!」
ドンドンと叩き続けるうちに開いた隙間から、土が降ってきた。
「いやだ、こんな死に方……!」
声が詰まった途端、堪えていた涙が溢れ出した。
密閉空間で叫んでいたせいか空気が薄くなってきた。アニエスはそれでも出ようと、棺桶を引っ掻いた。
「いやだ。ああぁ……っ。ごめ、ごめんなさいぃ……っ」
どこからも何も聞こえない。死ぬのか、このまま。無明の闇の中、期待と絶望が精神を揺さぶってくる。
もしかしたら繋ぎ役の男が自分が逃げたと思い、追手をかけるかもしれない。クラーラが生きているとなれば仕事は失敗、野垂れ死にが相応だ。むしろ死んでいたほうが都合が良い。
下町のみんなが死を悼んで墓参りに来てくれるかもしれない。地中に埋められた死者の声が聞こえたところで逃げられるだけだろう。
何かないか。何か、誰か。
クラーラ、と呼ぼうとして、アニエスは飲み込んだ。
あいつが、マクラウドがこんな卑怯なやり方を選んだのだ。意識を失う直前のあの顔。棺桶の中で目覚めたアニエスの絶望に、今頃高笑いでもしているだろう。
「……っ、ちくしょおおお!!」
ガン! と思いっきり蹴飛ばした。
「恨んでやる! 祟ってやる! クラーラぁぁぁ!!」
「あらぁ、こわーい」
のん気すぎる声が外から聞こえた。
「……え?」
ガコ、ガコンッと棺桶が揺れて、蓋が外れた。
新鮮な空気と土の匂いがアニエスの頬を撫でた。
下ろされた縄梯子を恐る恐る摑み、ゆっくりと昇る。
外は夜だった。それでもアニエスには眩しく感じられ、眉根が寄る。
真っ先に視界に飛び込んできたのは実に良い笑顔のクラーラだった。隣に額を押さえているレオノーラがいて、マシューという料理人と、執事のアーネストがクラーラを守るように立っていた。
「ごきげんよう、アニーちゃん。元気でなによりだわぁ」
ひらひらと手を振りながら気軽に言ってのけたクラーラに、大きく息を吸ったアニエスは思い切り罵倒しようとした。
「ぁ……っ」
しかし口から洩れるのは言葉にならない嗚咽ばかりだった。
「あああ……っ」
助かったんだ。
安堵感に脱力した。と、同時に股間から温かい液体が漏れる。惨めさと、生への実感にますます涙が溢れた。
「あらら、大変」
「ですからやりすぎだと言ったではありませんか」
レオノーラがおいたをした子供を叱る時のような声でクラーラを責めた。
やはりアニエスは埋葬されていたらしい。彼らの周囲には掘り返された土とスコップ、どう考えても墓暴きなどするはずもないクラーラの代わりらしき数人の男たちがちらほらいた。
「潔くない根性の持ち主が欲しかったのよ」
まったく悪びれない言い訳をするクラーラにかまわず、レオノーラが羽織っていたショールでアニエスを包んだ。涙と鼻水まみれの顔にハンカチを当てる。
「離れた所に馬車を止めてあります。歩けるかしら?」
子供のように泣きじゃくりながら、アニエスはうなずいた。
後はお願いね、と男たちに命令するクラーラの声を聞きながら夜空を見上げる。涙で滲む星々はうすぼんやりとぼやけていた。こうして星を見るなんて、いつ以来だろうと思った。
馬車に乗ってようやくアニエスが泣き止むと、クラーラが打って変わってやさしい表情で説明をはじめた。
「反革命派の貴族が刺客を雇ったと聞いて、逆手に取ることにしたのよ」
「……クラーラがマクラウドって、本当に本当なんだね」
「そうよぉ。一応隠してはいるけど、わかる人にはわかっちゃうわよね。なのにあなた、ちっとも襲撃に来ないんですもの、しょうがないから証拠を摑ませてやったわ」
そんなに楽しげに待たれるものではない。どういう育ちをしていればこんな人間が出来上がるのかアニエスは真剣に不思議だった。
「なんで、あたしを殺さないんだい?」
「欲しいって言ったでしょ。気に入ったのよ」
「あたしは殺し屋だ。仕事であんたを殺そうとしてたんだよ?」
クラーラに近づいたのは仕事のためだ。クラーラに気に入られるようにしたのも仕事だったからだ。仕事は失敗だったが、いつ寝首を掻くかわからない相手である。
するとクラーラがくすくすと笑いだした。隣にいたレオノーラが気まずそうな顔になる。
「うちにいるのは、みんなそうよ」
「ひぁ?」
びっくりしすぎて変な声が出た。
まさか、とレオノーラを見る。この忠実なメイドは思い切り顔を顰め、うなずいた。
「言わせてもらえばアタシが殺した人間のほうが多いわよ。……顔も知らない、会ったこともない、素性もわからない罪なき人々を、何人も死に追いやってきたわ」
「…………」
アニエスは何と言えばいいのかわからなかった。
それはクラーラではなくマクラウドのしたことだと言うのは簡単だ。しかしそんな言葉は慰めにもなりはしないのだ。クラーラもマクラウドも、自分のやったことを自覚している。
「貴族ってのは因果なものでね。自分でさえなければ命はとても軽いの。マクラウドが暗殺されたところでやっぱりなと肩の荷を下ろすだけで、葬式で泣いてすっきりしておしまいよ」
「……あたしに何をさせようってんです? まさか本気で洗濯女が欲しかったわけじゃないんでしょ」
「大事な友人を守ってほしいの」
「……友人」
クラーラは寂しげに笑った。
「アタシの使用人を出すわけにはいかないし、他にも適任者はいるけど、どんなことがあっても醜く生き足掻く女性が欲しいのよ」
「そこは適任者がいないって言うべきじゃないのかい」
「嘘ついてどうするのよ。クラストロの黒後家蜘蛛をなめないでちょうだい」
スカウトしたいのかしたくないのか、どっちなのだ。アニーは呆れた。
人材の育成を怠っていたつもりはないが、ずっと裏に潜んでいたせいか黒後家蜘蛛はもっぱら諜報の(おかしな言い方だが)綺麗な仕事しかしてこなかったのだ。
「ようするに、修羅場を潜り抜けてきた経験が足りないのよ」
「良いことじゃないの」
もっともである。そんな経験をせずに済むのならそれに越したことはない。しかし、クラーラは首を振った。
「平時なら、それでいいのよ。でも時代はすでに動き出しているわ」
激動といっていい。立ち止まればたちまち追いつかれ、後から来た者に邪魔だとはじき出されて踏みつけられるだろう。
足がもつれて転びそうな時。前方に罠があった時。誰かに突き飛ばされそうな時。悪意の中で人目につかず、しかし敏感に察知して動ける人間が必要だった。
「自分で守ってやったらどうだい。大事な友人なんだろ」
「大事な友人だからよ」
クラーラが守ってやれない理由があるのだ。
一度瞼を閉じ、開いたクラーラの黒い瞳には、深い愛情が宿っていた。
「かわいい、大事な友人よ。マクラウドの策略で英雄なんかにさせられた哀れな娘」
誰のことを言っているのか、アニエスにもわかった。あの時、颯爽と現れて民衆を導いた聖乙女の話はもはや王都で知らぬ者はない。吟遊詩人が謳い継いでいきそうなほどできすぎた話だった。
「いざという時、あの子が潔く散ってしまいそうで怖いの。お願い、あの子を守って」
生死の境を潜り抜け、最後まで諦めず、クラーラを罵ったアニエス。人の死の醜さを生き汚く見てきたしぶとい根性のあるアニエスだからこそ、彼女の危機に守ることができるだろう。
アニエスは胸がじくじくと痛み、熱くなるのを感じた。そこまで思われている彼女が羨ましくなる。そしてこの熱さこそ、自分が今まで与えられたことのない、真摯な信頼であることを悟った。
レオノーラがクラーラに忠誠を誓うわけである。これほどの熱さで手を伸ばされたら、拒めるはずがない。クラーラとマクラウドは矛盾している。けれど、完璧な善人も完全な悪人もこの世に居はしないのだ。人は善にもなり、悪にもなる。いや、悪を悪だと自覚しているからこそ、善なるものに憧れずにはいられないのだ。
「守れと言っても、あたしだって明日をも知れぬ身だよ」
せっかく生き返らせてもらったが、アニエスが生きていることがわかれば依頼人の貴族が口封じに動くだろう。クラーラの命だって危ない。
「ああ、例の貴族だったらあなたが死んでる間に失脚したわ」
「はぁ?」
「ついでに繋ぎ役の男はウチの手の者よ」
「へっ? あの人が?」
「そうよぉ。うふふ、驚いた?」
アニエスは呼吸を忘れてクラーラを凝視した。
あの繋ぎ役の男は貴族の使いでアニエスを探してきたと言っていた。貴族の使用人だったのか、それとも男もまた雇われたのかは知らないが、アニエスに指示を持ってきたのはあの男だ。
クラーラは得意げに笑っている。
「蜘蛛の糸は些細な振動でも伝わるのよ。そして獲物がかかったら捕まえて逃がさないわ」
逃げ道などなかったのだ。最初から、クラーラの掌で踊らされていただけだった。
「……さよならって言ったくせに」
「アニエスによ。アタシのアニー、蜘蛛の糸を渡りなさい」
アニエスは絶望的な気分になった。これほど恐ろしく痛快な人は他にいない。この人の行く先を見てみたい。そう思ってしまった。
「クラーラ……」
「銀杏のアニエスは死んだわ。アタシの目の前にいるのは汚れの洗われたアニーよ」
まっさらな白ではなく、血と涙と恨みで汚れたアニエスが洗われたアニーだ。けして綺麗ではない。どんなに洗っても、汚れた事実だけは消えることのないアニーだから、欲しいのだ。
答えなど、クラーラに会った時から決まっていた。




