エムロード・オルタの縁切
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エムロード・メイヨールが結婚した時、社交界には様々な憶測が飛び交った。
彼女の夫、メルキュール・オルタ伯爵は御年四十三歳。十七歳のエムロードが嫁ぐには歳が離れすぎている。そのせいか、出会いから婚約まで徹底して隠し通されていた。
何か弱みを握られているのではないか。いや、メイヨール家は裕福に見えるが隠れて借金があったのだ。いやいや、オルタ伯爵は死病に侵されていて、死ぬ前にエムロードと結婚したいと泣きついた。挙句の果てはどうしても結婚したいオルタ伯爵に既成事実を作られたという不届きな噂まであった。
なにしろエムロードは若く、美人とはいえないが可愛らしい顔立ちと気立ての良さで求婚者が後を絶たない少女であった。恋人だという男もおり、オルタ伯爵との交際は噂の影すらなかったのである。
「やるじゃないか、メルキュール。君も隅に置けないな」
「まったくだ。十七歳の若妻とは羨ましい限りだよ」
「よくやった。男として誇らしい」
おめでとう。メルキュールはクラブで友人たちからやっかみまじりの祝福を受けていた。
「ありがとう。正直なところ、私もまだ夢ではないかと思うくらいだ」
「オルタ伯爵がどこまで独身を貫くのか、賭けをしていた連中が軒並み悔しがってるぜ」
「結婚予告も出していなかっただろう。何か事情が?」
結婚予告は貴族が結婚することを内外に公表することである。教会での署名や結婚許可証の届け出、王の承認とは別に、社交界に報告するのだ。
「妻が、歳の差のこともあるが周囲にうるさく言われるのを嫌ってな」
妻が、と言ったメルキュールは年相応に皺の寄った顔ではにかんだ。背は高くないが恰幅良く腹の出た彼が照れくさそうに笑うと、奇妙な安心感とおかしさが出る。友人たちは微笑ましげに目を細めた。
「エムロード嬢には恋人がいたという話だし、さもありなん、だな」
「俳優だろう? メイヨール家がそんな浮ついた男との結婚は認めんだろう」
「俳優はただの噂じゃなかったか。どこかの子爵家の三男坊だと聞いたことがある」
「うちの娘の話ではそれも単なる噂だそうだ」
「エムロード嬢は親が嫁にと望むタイプだからな、噂話も多いだろう」
夫の目の前で妻の恋人の話をされ、つい眉を寄せたメルキュールに友人が言い訳をした。
その通りだ。彼らの中にはエムロードと同じ年頃の子供を持つ者だっている。社交界に出た令嬢を見極めて虎視眈々と狙いを定めているのは、なにも本人だけではないのだ。親だって我が子に相応しい結婚相手を探そうと必死である。身分、家柄、評判、本人の器量も含めて、厳正なる審査の結果、婚約の打診となる。家の存続と我が子の幸福がかかっているのだから、子供、特に息子のいる親は大変だった。
つまるところ友人たちの言い分は「若い娘を捕まえてうまいことやりやがって」のひと言に尽きる。男としての嫉妬半分、友人への祝福半分といったところだろう。
メルキュールにしても、なぜエムロードが自分を選んでくれたのか、不思議でならなかった。
彼が今まで独身だったのは、主義主張があったわけでも女性不信だったわけでもない。仕事を優先し結婚はまだいいかと先延ばしにしていたらいつの間にか婚期を逃してしまっていただけである。
伯爵という身分上、世話焼きの親戚が縁談を持ち込んできたことはあるのだが、どの令嬢もメルキュールと会うと首を傾げ、このお話はなかったことにと断られてばかりだった。
目を惹くような容姿ではなく、顔を背けられるほど醜くもない、ほどほどの顔立ち。背は低く、若い頃からふっくらとしていた体形は三十路の坂を下るごとに腹が目立つようになった。髪も額が寂しくなってきている。どこにでもいる一般的な冴えない中年男。ようするに彼は、もてないのだ。
過去を振り返ると改めて哀しくなった彼は重い足を引き摺るようにして家に帰った。
「おかえりなさい。あなた」
出迎えたエムロードは満面の笑みだ。やっと巡り合えた恋人が愛しい人を見るように青灰色の瞳を潤ませ、頬を染めてメルキュールを見つめる。
みずみずしい彼女の頬にキスをし、華奢な体を抱きしめると、香水と彼女の体臭が入り混じったなんとも甘い香りがした。幸福感が胸いっぱいにこみあげ、たまらない気持ちになる。
「ただいま。エムロード、何も変わりはなかったかい?」
「この間一緒に植えた花が咲きましたわ。明日の朝、見に行きましょう」
この間とはエムロードが嫁入りしてすぐのことだ。
メルキュールの両親やおせっかいな親戚はすでに天の国に召され、エムロードは名実ともにオルタ伯爵家の女主人になった。
長らく女主人が不在だったせいか、手入れをされた庭は華やかさに欠け、心配した執事や庭師たちがエムロードの好きな花を植えようと提案してくれたのだ。エムロードは喜び、せっかくだから一緒にやりたいとメルキュールにおねだりした。
新妻のはじめてのおねだりがドレスでも宝石でもなく共に過ごすこと。あまりにもささやかな願いにどんな奥様かと身構えていた使用人一同は一斉にエムロード歓迎に傾いた。電撃結婚にもしや若さだけがとりえの悪女に引っかかったのではないかと恐々としていたのだ。
それからもエムロードは贅沢を望まず、メルキュールがいるだけで幸福そうである。仕事で忙しく、帰宅が遅くなっても必ず起きて待っているし、夕食を共にと言ってくれる。先に寝ていていい、夕食も我慢せずに食べなさいと言っても、あなたと一緒じゃないと落ち着かない、味気ないと拗ねたように反論された。そんなことを言われてときめかない男がいるだろうか。メルキュールは結婚の良さと妻への愛を毎日実感していた。
深夜の食事は体のことを考えてスープとパン、温野菜に肉料理を少しだけだ。代わりに朝食は豪華になる。それらの采配はエムロードだ。朝食後の散歩は習慣ではなかったが、エムロードに誘われて行くようになった。さすがに雨の日は中止になるが、朝の新鮮な空気を吸い、太陽の光を浴び、鳥のさえずりを聞くうちに頭も体もすっきりと冴えてくる。仕事の調子も良くなった。
エムロードのおかげだ。彼女が愛してくれている事実がメルキュールを若返らせる。彼女が喜ぶことならどんなに困難でも叶えてやりたい。二十六年の差を埋められないのが悲しいほどだった。
「ほら、あそこよ」
自宅の庭といえど外出する時には服を着替える。午前服に帽子、日傘のエムロードは、咲いたばかりの花を見つけて嬉しそうにはしゃいでいた。
オルタ伯爵邸の庭は、どちらかというと樹木が多い。
噴水を中心に幾何学模様を描く芝と、道なりに添って植えられたプラタナスの並木。庭の向こうには常緑樹の森が青々と広がっている。ガラス張りの温室とその周辺はメルキュールの母である先代夫人の趣味の花が植えられているが、ほとんど放置されていた。
庭は見て楽しみ育てて楽しむものではあるが、あいにくメルキュールに園芸趣味はなかった。
「樹ばかりでつまらなくないか? バラでも植えようか?」
「バラも素敵ですけれど、わたくしこうして木々に寄り添って咲く花が好きですわ。宝探しみたいで楽しくありません?」
しゃがみこんでエーデルワイスを撫でていたエムロードがメルキュールを見上げた。日傘があっても朝日が眩しいのか、目を細めて笑っている。
産毛のようなやわらかな繊毛がついた、星の形をしたちいさな花は、エムロードの言う通り森の中に隠された宝物のようだ。
「宝探しか。その発想はなかったな」
「まあ」
エムロードが立ち上がった。流れるように自然な動作でメルキュールの腕に手を乗せる。
「では今度一緒に探検しましょう。あなたの友人と、ご家族もお招きして」
「あいつらも?」
「ええ。結婚式にも来ていただいたし、お礼をしないと。……あなた?」
眉を寄せたメルキュールに、エムロードが不安そうに覗き込んだ。
「どうかなさったの? わたくしのことであなたも何か言われていて?」
「いや、やっかまれているだけだよ。なにしろずっと独身だったからね」
メルキュールが苦笑すれば、エムロードはほっと笑った。
「周りの女性の見る目がなかったことに、わたくしは感謝していますわ」
その言葉に嘘はなかった。メルキュールは自分こそ、彼女に選ばれた幸運に感謝している。結婚し、こうして二人で暮らしていると、エムロードの良さがよくわかった。
***
なんだか不穏なのですわ。クラーラの店に来たお嬢様三人組が深刻そうに言った。
「なにが?」
またはじまった。クラーラは噂好きのお嬢様たちの口を滑らかにすべく紅茶を淹れる。三人はよくぞ聞いてくれましたとばかりに身を乗り出した。
「エムロード・オルタ伯爵夫人ですわ。電撃的な結婚で、わたくしたちもとても驚きました」
「エムロード様はお見かけするたびにお綺麗になられて、お幸せそうですの」
「ですが、以前の恋人を自称する方が、まったく諦めていないという噂ですのよ」
たしかに歳の差はあるが、幸福な結婚をしたエムロードに水を注す噂だ。というより醜聞であろう。お嬢様たちの憤慨はよくわかる。
「結婚したばっかりじゃない。どうしてそんな話がでてくるの?」
普通なら秘密にされていた二人のなれそめや、新婚旅行での出来事、微笑ましい新婚生活などの話になるはずだ。多少の妬みややっかみは仕方がないにせよ、昔の恋人が今さらしゃしゃりでてくるのはどう考えてもおかしい。お嬢様たちの言う通り、不穏である。
「それが、どうもおかしいんですのよ」
「そうした噂が一つではないのですわ」
「エムロード様のお耳に入らないようにしていますが……ご存知でしょうね」
彼女たちにしてみれば、エムロードは恋愛観を変えてくれた、いわば恩人だ。
今までお嬢様たちが恋のお相手として見ていたのは当然ながら同年代の少年であった。年上といってもせいぜい二十代で、四十の男性など頭になかった。
彼女たちくらいの少女にとって、大人の男はまだ知らぬ大人の階段を昇った者であり、近寄りがたい存在である。それはとりもなおさず性への敬遠と畏怖であり、生々しさから目を背ける少女特有の潔癖さからくる嫌悪感でもある。
ところがエムロードはその壁を飛び越えた。愛さえあれば歳の差なんてをまさしく実行した勇敢さに、お嬢様たちは感動していたのである。
それなのに、エムロードを祝福するどころか夫婦仲を裂くような噂が飛び交った。社交界とはそんなものだといってしまえばそれまでだが、あまりにもエムロードを蔑ろにしすぎている。
「……裏に何かあるのかしらね」
クラーラが不快そうに眉を顰めた。様々な事情があるにせよ、人様の幸福を祝えないようではろくなものではない。口先だけでも喜んでみせるのが大人というものだ。
「クラーラ様、裏とは?」
「何かご存知ですの?」
「わたくしたちにできることがありまして?」
クラーラならこの不愉快な事態を解決できるのではないか。お嬢様たちの信頼は嬉しいが、エムロードとメルキュールの依頼でもないのにでしゃばるのは余計なお世話である。クラーラは困ったように笑い、三人に忠告するにとどめた。
「どうもその噂話って、オルタ伯爵夫妻に攻撃的じゃない? そういうのって、出所があるものなのよねぇ」
一つの方向性を持つ悪意というのは原因が必ずある。お嬢様たちが息を飲んだ。
「誰かが裏で操っているかもしれないということですわね」
「なんて恐ろしいのでしょう」
「エムロード様もオルタ伯爵様も、人の恨みを買うようなお人柄ではありませんわ」
このままでは自分たちで犯人を捜して突撃しそうである。突っ走らないようにクラーラは釘を刺した。
「相手が誰だかわからない以上、迂闊に行動するのは危険よ」
「ですがこのままでは」
「そうですわ。エムロード様がお可哀想ですわ」
「見て見ぬふりは噂を肯定するのと同じですわよ」
「否定すればいいのよ。昔の恋人がオルタ伯爵夫人を取り返したいという噂を聞いたなら、あの二人の間に割り込むのは不可能だと言ってやればいいわ。あるいは言われる前にお二人の仲の良さを言っちゃうの。相手の出鼻を挫けばそれ以上は言われなくなるわよ」
くれぐれも噂の出所を探ったりしないこと。クラーラは三人に約束させた。
「……わかりましたわ」
「エムロード様もあれこれ言われるのはお嫌ですわよね」
「なるべく悪い噂を否定して、静かになるのを待ちますわ」
彼女たちは部外者だ。不名誉な噂に首を突っ込んで、返り討ちに遭ったら彼女たちにも傷がつく。友人を放っておけない気持ちはわかるが、噂に惑わされず信じることもまた友情である。実はそれこそが、もっとも難しかったりするのだ。
***
音楽と人々の声が入り混じったざわめきが耳に入らないほどエムロード・オルタは苛立っていた。
夫と共に、どうしても断れない夜会に出席した。それはいい。
メルキュールの交友関係に紹介されるのは嬉しいし、妻ですという時の彼の誇らしげな表情はエムロードの胸を喜びで満たした。
エムロードはメルキュールを愛している。だからこそ、結婚してもなお続く根も葉もないうわさ話に怒っていた。それを真に受ける男にもだ。
目の前の『自称』元恋人、アラン・クシルスなど、その筆頭である。
「驚きました。エムロード、あなたが私のいない間に結婚していたなんて」
「わたくしの結婚にクシルス様の許可がいるとでもおっしゃいますの?」
俳優のアランが他国の舞台に招かれ――パトロンの貴婦人との旅行中に結婚したのは事実である。もしいたら、この男のことだ。どんなことをしでかすかわからなかった。結婚式をだいなしにされては堪らない。
アランは芝居がかった大げさな仕草で額に手を当てた。
「おお! つれないことを! あのご婦人は私の後援者です。やましいことなど何もありません」
「クシルス様と彼女がどういう関係であろうと、わたくしには関係ありませんわ」
「エムロード、私の宝石姫。その名の通り傷付きやすいあなたの心を私が砕いてしまったのですね」
傷つくも何も、恋人というのはアランが勝手に言い出したことで、エムロードが認めたことは一度もない。彼が誰と何をしていようと何とも思わなかった。誤解した周囲がうるさいだけである。
「ですが許してください。それというのもすべてはあなたのため。あなたに相応しい身分を手に入れるために、仕方がなかったのです」
「クシルス様、いい加減にしてくださいません?」
「アランと呼んでください、エムロード」
「……クシルス様にエムロードと呼ばれることを許可した覚えはありません」
エムロードはきっぱりと言った。アランは唖然とし、それから威嚇する子猫の機嫌を取るような困った笑みになる。
噂好きの人々はさっそくやけぼっくいに火がつくのかと好奇心に溢れた、あるいは新妻に言い寄るアランに眉を顰め、エムロードの友人たちは今にも止めに入りそうな体勢になった。いずれにせよ、また社交界であることないこと言われるのだろう。うんざりだった。
「恋人だなんてありもしないことを吹聴して、何をなさりたいのかしら」
「エムロード、私たちは愛を確かめ合って」
「ませんわよね。わたくし一度でもクシルス様にエスコートされたことがあったかしら? ダンスをしたことは?」
「それは……あなたが噂されるのが嫌だからと」
「ええ。それはもう、心の底から嫌ですわ。迷惑以外のなんでもありません」
アランが絶句する。エムロードは続けた。
「ですが、ありもしない噂を、行ったこともないデートの話を、情感たっぷりにまるでその光景が見えるかのように語ってくださったのは、いったいどなたかしら?」
アランである。彼は俳優だ。『観客』を前にさぞや演技に力が入ったことだろう。
「エムロード……」
「ずいぶん迫真の演技でしたのね? おかげでわたくしがどれだけ否定しても、どなたも信じてくださらなくて。メルキュールが真に受けたらわたくし一生許しませんわ」
「たしかに、私は俳優です。あなたを満足させるだけの財も、身分もありません。しかし私なら、あなたのために木陰にひっそりと咲く花ではなく、百万本のバラを植えてあげられます」
エムロードは頬が引き攣るのを咄嗟に扇で隠した。
庭に花を植えたことは、親友にしか言っていない。年上すぎるメルキュールとの結婚を心配していたから、惚気のつもりだった。メルキュールのやさしさや気づかいを伝え、安心させようと思ったのだ。
出所がわかればエムロードはたちまち腑に落ちた。不思議だったのだ。アランが恋人だと言われても必ず否定し、夜会では会わないようにしていたのに、なぜああも曲解されアランがめげないのか。
「……アデレードは何と言いまして? わたくし彼女にずいぶん心配させてしまいました」
親友が話を捻じ曲げていたのだ。自他ともに認める親友があれは照れ隠し、本当はアランを愛していると聞いたと言えば、それは信じてしまうだろう。アランの恋人だという噂に迷惑している時、相談したのもアデレードだった。
噂に追い詰められ人間不信になりかけていたところを救ってくれたのがメルキュールである。噂され注目を浴びるのが怖いと怯えるエムロードのために、婚約発表も結婚予告もせず、式を敢行してくれた。それを知っていたくせに、よくも裏切ってくれたものだ。
エムロードが怒りに包まれていることに気づかないのか、アランはようやく素直になってくれたのかと微笑んだ。
「アデレードはそれは嘆いていましたよ。あなたが好きなのはバラや百合といった薫り高い豪華な花だというのに、日陰の身でいろとばかりに粗末な花であったと」
「――そう」
エムロードは扇を打った。パシッと鋭い音がして、アランがハッと目を見開く。
エムロードは慈悲深く微笑んだ。ゆるゆると首を振り、眼差しを下げる。
「クシルス様、なぜアデレードがそんな話をしたのか、まさか本当にわかりませんの?」
「え……」
「わたくしの話をする時、おそらく周囲に人はいなかったのではありません? 二人きりで、内密に、と」
「え、ええ。そうですが」
困惑するアランにエムロードは悲しげなため息を漏らした。
「……まだ、おわかりになりません?」
「しかし、アデレードには恋人がいるはずです」
そこまで言われてわからないほどアランも初心ではない。それでもまさか、と思うのは、アデレードに恋人がいることを知っているからだ。
「そうですわね。……もう何年になるでしょう、結婚秒読みとまで言われていますわ。だからこそ、だからこそ、応援するしかなかったのでしょう」
恋人のいるアデレードがアランに心移りをしたところで、彼女が結婚するのは恋人だと思われているのだ。長く続いているからこそ恋人への情があり、しかしアランへの恋も止められない。そんな時、アデレードはアランが親友のエムロードに恋しているのを知ってしまった……。
「そんな、アデレード……」
「鈍いお方。もう少し女心をお勉強なさったら? お芝居ではない本物は、もっと複雑ですのよ」
ついでにもっとえげつない。男が思うほど女は純情ではないのだ。
「エムロード、あなたは気づいていたのですか」
エムロードは微笑みを持って答えとした。アランがやはり大げさに、額に手を当てる。
「ごきげんよう、クシルス様。わたくし夫が待っていますの」
種は撒いた。芽吹くか枯れるかはアランしだいである。
優雅に一礼してアランの前を去ったエムロードを、お嬢様三人組が取り囲んだ。エムロードにしつこく言い寄るアランに眉を顰め、どのタイミングで助け出すか見計らっていたのである。
「エムロード様、ご立派でしたわ」
「本当に。わたくしたちが出る幕はありませんでしたわね」
「さ、オルタ伯爵様はあちらですわ」
「まあ、みなさま……」
エムロードは胸がじんと熱くなった。三人がちらちらと目配せし、アランが暴走しようものならエムロードを逃がすべく身構えていたのには気づいていた。会話に割って入るのも、あまりに強引だとはしたないとされる。さぞや気を揉んだのだろう。
だが、しだいに会話の風向きが変わり、噂の元凶ともいうべき存在が浮上してきた。それを利用してアランを方向転換させたエムロードは見事である。
「エムロード様は新婚ですのに、旦那様のいない隙を見計らって近づくなど、なんて不躾なのでしょう」
「まったくですわ。わたくしたちだってお二人のお話を伺いたいのに」
「エムロード様はオルタ伯爵様と結婚されてからお綺麗になられましたわ。どれだけ幸福か、お顔を見ればわかりますもの」
三人にしっかりガードされながらエムロードが夫の元へ辿り着くと、妻よりも年下の少女に彼はうろたえた。
「メルキュール」
「エムロード、そちらのお嬢様を紹介してくれるかい?」
「ええ。わたくしの良き友人ですわ。先程も助けてくださいましたの」
お嬢様たちがにっこり笑う。
「はじめまして。エムロード様にはいつも良くしていただいております」
「申し訳ありません、オルタ伯爵。奥様と色々お話していましたの」
「エムロード様は本当に伯爵を愛していらっしゃいますのね。うふふ、わたくしたち、あてられてしまいましたわ」
噂についてはおくびにも出さず、アランなどなかったことにしている。メルキュールを不安にさせないのと同時にエムロードを守ろうとするお嬢様たちに、メルキュールはほっとした。少女たちの素直な羨望の眼差しに照れくさくなる。
結婚式に来ていたエムロードの親友は、メルキュールを見て優越感と見下しを絶妙に織り交ぜた目をしていたのだ。エムロードの噂を口では否定しつつ信じているようであった。
噂に怯えるエムロードに、もしや騙されているのではと懸念していたのだが、力になってくれる友人もちゃんといる。メルキュールは安心した。
「そうですか。こちらこそ、妻と仲良くしてくれてありがとう。そうだ、今度の茶会に来ていただいたらどうだ?」
「いいわね! みなさま、ぜひお越しください」
「まあ。嬉しいですわ、ぜひ」
「ありがとうございます。楽しみですわ」
「喜んでお伺いしますわ」
お嬢様たちはエムロードとメルキュールから新婚ならではの惚気話を聞き、それから気づかわしげに言った。
「エムロード様、その、噂についてはお気になさいませんように」
「お二人の仲睦まじい姿を見れば、すぐに消えてしまいますわ」
「余計なことはしないが良いと、わたくしたちクラーラ様に窘められましたの」
新婚なのに波風立てられて腹が立つのは当然だが、ムキになれば相手を喜ばせるだけだ。
「クラーラ様、というと、あの仕立て屋の?」
まさにアデレードを追求しようと思っていたエムロードは出鼻を挫かれた。
仕立て屋クラーラはエムロードも知っている。ドレスを仕立てたことはなかったが、憧れていた。クラーラのドレスを着てまた何か言われたらと思うと恐ろしく、二の足を踏んでいたのだ。
「そうですわ。わたくしたち、クラーラ様と仲良しなんですの」
「思慮深く思いやりのあるクラーラ様に相談しようと思ったのですわ」
「噂の原因を突き止めても、傷つくのはエムロード様だと言われ、ならば噂を否定することにしましたのよ」
なるほど。エムロードは納得した。以前の彼女たちならアランに皮肉の一つも言っていただろう。エムロードのためを思い、ぐっと我慢してくれたのだ。
「みなさまが大人っぽくなられたのはクラーラ様のおかげですのね」
お嬢様たちは嬉しそうに笑った。フランシーヌとチェルシーへの友情、そしてクラーラの気づかいを間近で見ているうちに、自然と淑女としての嗜みを学んでいったのだろう。家庭教師や同年代の友人だけではわからない様々なことが社交界には渦巻いている。他者から学ぶのも大切なのだ。
「わたくしも、一度クラーラの店に行ってみればよかったわ」
帰りの馬車の中でエムロードがため息を漏らした。
親友に対し絶縁を叩きつけてやろうとまで憤っていたし、アランを焚きつけるような真似をしてしまったが、アデレードにも何か事情があったのかもしれない。長年の友情がすべて偽りだなんて悲しすぎた。
「今からでも遅くないだろう」
エムロードの話を聞いたメルキュールは自分の直感が正しかったことを確信した。エムロードの失望と憤慨を思えばやり返したいくらいだが、それでエムロードが悲しむのは望むところではない。親友とまで言っていたアデレードがどんなつもりだったのか、知りたかった。
何よりこんな話が社交界に伝われば、あっという間に広がってしまう。アデレードは自業自得だが、エムロードも親友に裏切られるからには何か後ろめたいことがあるのでは、と痛くもない腹を探られるだろう。
「君の友人の話では、クラーラは配慮のできる御仁のようだ。今夜のことで礼を言っても良いくらいだ」
「ええ、そうですわね。よくぞあの子たちの暴走を止めてくれましたわ」
「暴走は酷いな」
年下の少女たちには正義感とパワーが漲っている。味方になってくれるのは心強いかぎりだった。エムロードはくすくすと笑った。
「あなたは女のおしゃべりがどれほど恐ろしいのか知らないのよ」
「そりゃあ、男だからな」
情けなさそうなメルキュールに、エムロードはますますおかしそうな顔をした。
「そんなあなただから、わたくしは大好きなの。真面目で、実直。とても頼もしいわ」
対面に座っていたエムロードが隣に移り、ぴったりと身を寄せてきた。馬車の座席を半分以上占めているメルキュールは、窮屈にならないよう華奢な方を抱き寄せた。
「それが私と結婚した理由かい?」
「あら、違うわ」
エムロードは甘える仕草でメルキュールの肩に頬を押し付ける。さらに密着した体にやわらかな膨らみが当たり、ついメルキュールはうろたえた。
「愛しているからよ」
とっておきの秘密を打ち明けるように、エムロードが言った。
***
オルタ伯爵夫妻はさっそくクラーラの店を訪れた。
「いらっしゃーい」
女装の大男であるという話は知っていたが、実際にクラーラと会うのはこれがはじめてだ。メルキュールは自分より背の高いクラーラに圧倒され、エムロードは迫力に固まった。
今日のクラーラはS字シルエットのドレスだ。明るいマリンブルーの生地にオレンジ色の花がちりばめられ、鮮やかな緑の葉がライン状に入っている。髪はオレンジから赤のグラデーションに毛先を染め、化粧は目元に青、唇は青紫でシックに決めていた。遊び心と大人の艶が見事に融合している。
初見のお客でそういう反応ははじめてではない。クラーラは慣れた様子で中へと勧めた。
「うちははじめてですわね? さ、どうぞ。今日は旦那様のスーツのお仕立てかしら?」
クラーラといえばドレスだが、実は男物の仕立ても請け負っている。テーラー仕立ての動きやすいドレスはクラーラが自分用によく作っていた。
メルキュールとエムロードは顔を見合わせた。初対面で自分たちが夫婦だと見抜かれたことは一度もなかった。たいていは親子である。
「あの、どうしてそうお思いに?」
「時々いらっしゃいますのよ。お客様のような恰幅のよろしい紳士だと、やはり仕立てが物を言いますもの。ご夫婦お揃いで、という方も多くございますわ」
「そうではなくて、……わたくしたち、夫婦に見えますか?」
クラーラはきょとんとした顔になった。
「見えますわ。たしかに奥様はお若いですけれど、雰囲気が良く似ていらっしゃいますし、かといって親子ほど気軽くもありません。これはアタクシの経験ですが、夫婦になる男女というのは一緒にいて落ち着く雰囲気をお持ちですの」
メルキュールはクラーラの観察眼に嘆息し、エムロードは目を輝かせた。
「そう、そうなんですのよ。わたくし、メルキュールといると安心するんです」
メルキュールという名前にようやくクラーラも二人の戸惑いを理解した。なるほど色々と言われていたらしい。ふっとやわらかな笑みを浮かべる。
「どうぞ、おかけになってくださいな。オルタ伯爵」
「……私が座っても大丈夫かな」
いつもお嬢様たちが腰かけている椅子は、華奢な細工が施された見るからに繊細そうなものだ。まあ、とクラーラが笑い声をあげる。
「大丈夫ですわ。アタクシが座ってもびくともしませんのよ」
妙に説得力のある言葉にようやくメルキュールが腰を落ち着けた。お茶を出す前にと差し出された顧客名簿にサインする。
「楽しい方ね、クラーラ様」
「そうだな」
エムロードはたちまちクラーラに好感を抱いた。メルキュールも自分の名前でこちらが何者であるか見抜いたクラーラに、評判は本当だったと納得する。
「実は、クラーラ殿に礼を言おうと思って来たのです」
「お礼?」
紅茶を一口飲んで切り出したメルキュールに、クラーラが首を傾げた。エムロードがお嬢様三人組の名をあげる。
「あの子たちに助言したとお聞きしました」
「助言といっても、余計なことをしないように言っただけですわ」
「それがありがたかったのです。わたくしも、考える余裕ができました」
「まあ。それは良かったですわ」
クラーラはこっそり安心した。お嬢様たちがやらかしてしまったのかと一瞬焦ったのだ。
「噂話は、当事者はたまったものではありませんが他人にしてみれば娯楽ですもの。部外者が原因を突き止め、結局どちらも傷つくことになったら、彼女たちではとても責任が取れないでしょう」
むしろ引っ掻き回して噂を助長させたと、社交界で笑い者にされかねない。家名に傷がつき、ひいては大事な結婚相手を探すのも困難になるだろう。エムロードのためだけではない、お嬢様のためでもあったのだ。
「本当に、そうですわね……」
噂の出所が親友だったことに、エムロードは傷ついた。噂の内容も迷惑極まりなかったが、もっとも信頼していたアデレードが犯人だった事実こそが、エムロードを傷つけたのである。
噂が多すぎてアデレード一人が企んだことなのか、裏付けまでは取れなかった。だが、少なくともアランに関する噂はアデレードで間違いなかった。
理由は何か。きっかけがあったのか。知りたいと思いつつ、もしも自分が先に彼女を傷つけていてその復讐だとしたら、どうしたらいいのかエムロードにはわからなかった。
「クラーラ殿、ドレスを仕立てていただけますか」
「あなた?」
暗くうつむいたエムロードに、おおよそのことを察したクラーラを見たメルキュールが言った。
メルキュールはエムロードに感謝している。出会った当初、惹かれあうものを感じたが歳の差から結婚は無理だと諦めたのだ。彼女の両親にも反対された。
それを跳ねのけ、すべてを捨てる勢いで飛び込んできてくれたエムロードを愛している。悲しみも苦しみも共にと誓ったが、メルキュールは彼女に笑っていて欲しかった。愛するエムロードを守るためなら鬼にも悪魔にもなろう。
「ドレスでよろしいの?」
「はい。実は今ダイエット中なのです。エムロードと結婚しましたからな、健康に気を付けませんと」
クラーラは笑った。心からの祝福であった。
「あらあら、ごちそうさまですこと」
「メルキュールったら」
「ははは。もう少しで若い頃の服が着られそうなんですよ。これもエムロードのおかげですな」
昔の服といっても伯爵家で仕立てたものなら傷んではいないだろう。男物のスーツにあまり流行廃りはない。体形さえ戻れば十分に着こなせるはずだ。
「よろしいですわ。お似合いのご夫婦ですもの、相応しいドレスを仕立ててみせましょう」
クラーラが胸を叩いた。
クラーラの目から見てもエムロードとメルキュールは夫婦になるべくしてなった二人だ。出会うのが早すぎても遅すぎてもすれ違い、結婚には至らなかっただろう。
男女の仲とはそうしたものだ。どれほど愛し合っていても結ばれないこともあれば、ひょんなことから結婚してしまうこともある。
「アタクシは仕立て屋でしょう? いろんなご夫婦を見てきましたが、長く続く方には共通点がありますわ」
「共通点ですか?」
「ええ。まったく別々の人生を歩んでいた二人なのに、どこか似ているんです。お二人のように雰囲気がしっくりと馴染んでいて、感性も似ているから何を好んで何を喜ぶのかわかりあっている。もちろん外すこともありますわ。でも、かわいい失敗だと許してしまう……」
エムロードとメルキュールは同時にうなずいた。本当に不思議だが、夫婦にはそういうところがある。
言葉には出さずとも、メルキュールは妻を苦しめた女に復讐するつもりなのだろう。エムロードも、やり返すにしても動機を知ってからと思っている。まったくお似合いの二人だ。
楽しみね。クラーラは喉の奥で笑いを噛み殺した。
***
女の友情は複雑怪奇だ。男が気に食わない相手にもある程度割り切って接するのに対し、一度嫌うと女はそれこそ蛇蝎のごとく嫌悪する。
一方で、気に入った友人を自分に取り込もうともしてくる。
「一種の上下関係よねぇ。あなたは私の言うことを聞いていればいいの! って、嫌味な姑みたい」
クラーラがばっさりと切って捨てた。
「クラーラ様……」
エムロードはつい失笑する。
ドレスの仕立てについて打ち合わせを重ねるうちに、エムロードはすっかりクラーラに打ち解けていた。親友と噂について、相談するほどに。
親友といってもアデレードは二十歳、エムロードにとって社交界での先輩でもあった。今まで狭い世界で生きてきたエムロードの良き先輩であり、社交界でのあれこれをいろいろと教えてくれた恩人でもある。
アデレードはとても親切で、エムロードは彼女を頼りにしていた。思えば依存させようとしていたのだろう。アデレードに紹介された友人もいる。感謝しているし、信頼していた。だからこそ、なぜあんな噂を流したのか、彼女の真意が知りたかった。
「アデレードは誰にでも親切で、やさしい、自慢の友人でしたわ。友人だってわたくしより多くて、長くおつきあいしている恋人のことはよく惚気られたものですわ」
「長くつきあっている恋人ねぇ……」
ふぅん、とクラーラは気のない相槌を打った。
アデレードが羨ましくなかったといえば嘘になる。彼女は立ち居振る舞いからして大人で、気が利く女性として憧れていたものだ。頼まれ事が多くて困ると苦笑しつつ、それでも懸命に人のために行動していた。
「恋人と、実はそんなに上手くいってないんじゃぁないかしらね」
「まさか。あんなに自慢そうにしていましたのよ? プレゼントや、旅行、夜会でのエスコートはいつも彼でしたわ」
「幸せな人はわざわざ自分で幸せアピールなんかしないわよ。むしろそうやって自分に言い聞かせていたんだと思うわ」
憶測だけどね、とクラーラは付け加えた。
自分は幸せだと言い聞かせ、エムロードに認めさせることでアデレードはそれが事実だと確認していた。それなら人から頼まれて断らなかったことも納得がいく。自分はしっかり者の姐御肌だと吹聴していたなら断れないだろう。その裏で、エムロードはか弱くて自分無しでは何もできないと言うこともできる。
アランについても、彼が出た舞台を見に行った感想を誇張してアランに吹き込みその気にさせる。はじめは純粋に演技に対する感想だったのかもしれない。それを少しずつ少しずつ、恋へとすり替えた。嘘も三回言えば真実になるというが、エムロードの戸惑いを好意的に書き換えてアランに吹き込んだのだ。そうだとしたら、アランもアデレードの被害者なのかもしれない。かといって迷惑だった事実に変わりはないのだが。
「…………」
「まあどっちみち他人の心なんて憶測するしかないわけだけどね。でもね、何事にも寿命ってあるものよ」
「寿命?」
そうよ、と言ってクラーラがエムロードのドレスを指した。
「そのドレス。ジゴ袖って時々リバイバルするのよね。スカートは今風だけれど、バッスルなんてもう着る気にはなれないでしょう?」
「はい。もうあんな重たくて窮屈な骨組みは御免ですわ」
あれほど流行していたバッスルスタイルのドレスは時代の流れに押し流され姿を消した。少しの寂寥感はあるが、仕方のないことだとクラーラは思っている。
「……重いものから解放されたらもう戻れないわよねぇ。そんなものよ、楽になっていいのよ」
「――……友情も?」
「友情もよ」
クラーラの言わんとすることを察したエムロードが問いかける。
恋に寿命があるように、友情にだって寿命があるのだ。物理的な距離だけではなく、心が離れてしまったら、それはもうそこまでの友情だったということだ。
反対に、酷い喧嘩をして別れても、再び巡り合って復活する友情もある。
「思い出まで捨てる必要はないのよ。思い出はその時その時の、本物の感情なんですもの。彼女が好きなら、それでいいの」
「クラーラ、様……」
「今日のお茶会で伯爵様の隣に立つあなたを見た時の、彼女の反応を見なさい。エムロードちゃん、クラーラのドレスが教えてくれるわ」
感情はゼロか一かで決めつけるものではない。過去の積み重ねによっていかようにも変化していくものだ。思い出がうつくしければうつくしいほど、別離の悲しみは痛みとなって胸に到来するだろう。真実がどれほど残酷であっても、許容か別離かで揺れるに違いない。
「あなたは一人じゃないわ、エムロードちゃん。伯爵様となら、乗り越えていける。そうでしょう?」
「クラーラ様、ええ、そうですわね」
不安そうなエムロードの手を握りしめ、クラーラが言った。結果が予想できるのだろう、エムロードの青空は潤んでいる。
コンコン、とドアがノックされ、メルキュールが顔を出した。
「エムロード、支度は済んだかい? そろそろお客様がお見えになるよ」
「メルキュール」
「伯爵様、いかがかしら? 今日の奥様は」
からかうように感想を聞かれ、メルキュールが妻を眺めた。
ジゴ袖に首元をレースで隠した、いかにも貴族夫人らしい装いだ。肩から袖にかけて流線形に蔓模様の刺繍が入っている。腰はリボンで細さを強調し、メリハリをつけた。レースのついたマーメイドラインのスカートは尾ひれのように長く垂れている。
「いいね。エムロードの嫋やかさがよくわかる」
だが、と言いにくそうにメルキュールが続けた。
「デザイン画のものと色が違いすぎないか? 私に合わせたといってもエムロードは若い。もう少し明るい色のほうが良かったのでは」
エムロードのドレスは上が濃い紫、スカートは紺である。レースと刺繍は入っているが、いくらメルキュールに合わせたといってもいかにも地味であった。
評判の良いクラーラのドレスにしてはがっかりだ。そう言いたげなメルキュールに、クラーラはしてやったりとほくそ笑んだ。からくりを知っているエムロードも笑っている。
「伯爵様、これはクラーラのドレスですのよ。ご心配なさらず」
そう言ってメルキュールからポケットチーフを引き抜くと、エムロードのドレスと同じ布で作ったチーフを飾った。
「女は度胸。秘密を着飾るくらいでよろしいのですわ」
「え?」
「さ、行きましょうメルキュール。クラーラ様、今日はあの三人も招待していますの。ぜひ楽しんでいってくださいませ」
メルキュールの腕を取り、ドアに歩いていたエムロードが振り返った。クラーラは驚き、傍で控えていたメイドに「いいの?」と訊ねる。ドレスの着付けを手伝う名目で不安を吐露したかったのだと思っていたのだが、どうやらお嬢様たちのお目付け役でもあったらしい。もちろんです、とメイドは笑った。
「奥様の恩人はわたくし共にとっても恩人です。歓迎いたします」
エムロードとメルキュールは玄関ホールで客人たちを出迎えた。
メルキュールの友人は家族連ればかりだった。貴族夫人の磨かれた目にも、エムロードは好感が持てる立ち居振る舞いである。
「良い奥様で、伯爵家も安泰ですわね」
「ねえ。なんだかこちらまで嬉しくなりますわ」
「オルタ伯爵は若返ったようですわね」
少し痩せたといってもまだまだ恰幅の良いメルキュールと、ジゴ袖のドレスを着たエムロードはどこにも角がない。穏やかで落ち着いた雰囲気だ。
客人たちが執事に案内されて庭に向かって行く。お茶会は人数の関係上、ほとんどガーデンパーティの様相を呈してした。
「アデレード、よく来てくれたわ」
そこにエムロードの親友であるアデレード・ベージェと恋人のワルス・エミュがやってきた。
エムロードは親友への最大限の歓迎として両手を広げた。
「こんにちは、エムロード」
アデレードも抱擁し、頬にキスをする。いつもの親友の、やさしい瞳だった。
「メルキュール様、お招きありがとうございます」
「ようこそ、ベージェ嬢。エミュ殿も」
ワルスとメルキュールが握手を交わす。
アデレードとワルスは婚約はしていないが公認の恋人同士だ。そんな女性が社交の場で、親友の夫といえども異性のファーストネームをさも親しげに呼ぶのはいささか礼を失しているといえた。しかもメルキュールは身分が上の貴族である。
エムロードとメルキュールは笑みを崩さなかったが、ワルスは内心慌てたようだ。周囲の目を気にしてか、まだ話したそうなアデレードを促す。
「ご自慢の庭を拝見するのを楽しみにしておりました」
「はは。エムロードが遊び心を取り入れて整えてくれたのです」
「アデレード、楽しんでいってね」
「……ええ、ありがとう」
ワルスがアデレードの腕を引いた。次の客人が入ってきたのを見て、二人は庭へと連れ立って行った。
なるほどねぇ。こっそり様子を窺っていたのはクラーラである。エムロードの噂の元凶が来たと聞いて隠れていたのだ。
あれは厄介そうな女だ。自分が何をしたのか自覚がないわけではなさそうだが、親しさゆえのおせっかいだと信じて、いや、思いこもうとしている。自分の中の悪意を認めない女は、やり方を間違えるとこちらが悪役にされてしまうだろう。
「アデレード・ベージェ嬢はよく来るの?」
あの人がアデレードですと教えてくれたメイドに訊ねる。咄嗟にクラーラを隠してくれたのも彼女だ。
「はい。毎日来られます」
友人の家を訪問するのは別におかしなことではないが、毎日というのは異常だ。
「そう。……お暇なのかしらね」
「奥様にあれこれ教えていらっしゃいますわ」
女主人は暇ではない。特に新婚では親戚付き合いが急に密になるし、そのたびに礼状やら返礼品の手配に追われることになる。夫の交友関係や家政を取り仕切る家政婦と執事とのやりとりだって、お嬢様でいたころとは違い責任が伴うのだ。自分の友人関係は後回しにしてでも覚えなくてはならないことは山ほどある。
メイドは不満そうだった。奥様業に忙しいエムロードに、独身のアデレードがいったい何を教えるつもりなのかと言いたげである。
こうした愚痴を聞けるのはクラーラが仕立て屋だからだった。エムロードの客とはいえ商売で来ているし、身分的には使用人とそう変わりはない。他家のメイドに言う感覚でぽろっとこぼしてくれるのだ。しかもクラーラは口が固いのでよそに漏れる心配がなかった。ついメイドの口は滑らかになる。
「あなたたちは、奥様がお好きなのね」
「それはもう! 奥様がいらしてからお屋敷が明るくなりました。社交もご無沙汰で、ガーデンパーティなんて本当に久しぶりです。キッチンは大喜びですよ」
きらびやかなダンスホールや立派な銀食器が揃っているのに使ってくれる人もなく、ただ毎日磨くだけ。社交好きな主人に仕えているメイドなら羨ましがるかもしれないが、そうではないのだ。仕事には張りが必要なのである。
「給仕も給女も張り切っていますわ。クラーラ様も楽しんでいってくださいね」
他のメイドに見とがめられる前に、言うだけ言ってメイドは去って行った。久しぶりのガーデンパーティだ、粗相があってはならない。屋敷全体がそわそわしていた。
クラーラが庭に行くとすでにお嬢様三人組が来ていた。メルキュールの友人一家と談笑している。彼女たちより少し年上らしき息子連れだ。ちゃっかりしているというか、しっかりしている。もちろんお互い様だ。
やがて全員揃ったのか、エムロードとメルキュールがやってきた。
「みなさま、本日はようこそお越しくださいました」
エムロードが主催として挨拶をする。
彼女を振り返った客人たちが、わずかにどよめいた。
エムロードのドレスは一変していた。
地味な紫色だった上着は陽の光を浴びて所々ピンク色にきらめき、刺繍の蔓にはくっきりと花が浮かび上がっている。マーメイドラインについたレースは木々の森を思わせる緑色で、エムロードの動きに合わせて青い風を吹かせた。
彼女の隣に立つメルキュールのポケットチーフも、そこに花が咲いたかのようなピンク色を覗かせていた。
元々色というのは室内と陽射しの下では違って見える。クラーラはそれを利用して、別の印象を与えるドレスを仕立てたのだ。
エムロードは紛れもなくメルキュールの妻であり、そして同時に今が盛りの女でもある。彼女を咲かせることができるのはメルキュールであり、手折ることができるのもまたメルキュールただ一人であると。
客人の好意的な反応を楽しげに眺めていたエムロードは、アデレードに視線を落とした。
彼女の親友は一種形容しがたい表情を浮かべていた。
エムロードへの嫉妬を滲ませた、取り残された寂しさの、称賛への憎しみを、必死で否定しているような――女の醜さを凝縮した瞳をして、立ち尽くしていた。
ああ、そうだったのね。エムロードはその時アデレードの理由を理解した。
アデレードはエムロードが嫌いなのだ。だが、自分に嫌いな人がいると認めたくなくて、エムロードとの友情を深めていった。嫌悪という感情を消すために親切にした。罪悪感をごまかすように誰にでも頼られるやさしい自分を演出した。
けれど蓋をした感情はアデレードの中で渦を巻き、耐え切れずに流れ出た。流言飛語とはよくいったものである。
彼女はどんな気持ちで噂に苦しむエムロードを見ていたのだろう。ざまあみろと思ったのだろうか。可哀想にと同情したのだろうか。
エムロードの視線に気づいたアデレードが『親友』の顔で微笑む。
「アデレード」
挨拶を終えたエムロードがアデレードに声をかけた。
「エムロード、素敵なお庭ね」
「ありがとう」
「もうちょっと華があっても良いと思うけど……あなたらしいわ」
気づく前ならさすが親友だと、その評価を自慢に思ったことだろう。けれど気づいてしまえばお前には華のないのがお似合いだという皮肉にしか聞こえなかった。
「アデレード、今日のお客様はメルキュールの友人が多いの」
「そうね、家族連ればかりだわ」
幸福そうに子供を連れた男女が笑いあっている。きらきらと輝くばかりの光景に、エムロードとメルキュールは溶け込んでいた。
エムロードはアデレードに一歩近づき、彼女にしか聞こえないように囁いた。
「……彼には良いプレッシャーになるんじゃないかしら。頑張ってね」
ウインクを一つ。何年も交際しておいて婚約に踏み切ってくれない恋人がいるアデレードへの激励だ。エムロードは心から彼女を応援する。結婚っていいわよ。それは、アデレードにとって、エムロードにだけは絶対に言われたくない言葉だった。
アデレードへの怒りはもはやなかった。わたくしの親友は、とっくに死んでしまっていたのだわ。楽しかった思い出はたしかに残っている。時と共に薄れるだろう。
エムロードはそう思い、親友の亡霊に背を向けた。
次はアデレードの話になります。
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