マルグリット・モンテスの引退・前
マルグリット・モンテスは愛と夢を売る女だ。
ドゥミモンデーヌ――いわゆる高級娼婦である。
腰まで波打つ黒い髪は星空のよう、青い瞳は花咲く春の空、白い肌は熟した果実のようにやわらかく、彼女の佇まいは甘く香り蜜さえ滴るようだと絶賛されている。
しかし見た目の甘やかさに反して、彼女はたいそう野心家で、男を次々手玉に取る悪女だった。
マルグリットを表す、こんな話がある。
マルグリットにつれなく袖にされたとある伯爵が、腹いせに血縁の子爵に頼んで彼女を口説くように依頼した。
子爵は三十半ば、マルグリットとは親子ほども離れているが、壮年らしい精悍な面立ちで女性たちから人気があった。
彼は貴族の男なら一度は憧れる愛人に乗り気だった。貴族令嬢や素人娘では非難されるが、高級娼婦は職業であり、彼女を囲うのは一種のステータスでもある。なにより金で済むのだから妻も文句は言いにくかった。遊びとは金のかかるものであり、貴族夫人は泰然と構えているのが礼儀である。
さて、子爵は首尾よく夜会でマルグリットと出会うことに成功した。彼女の容姿だけではなく軽やかな話術、優雅な身のこなし、どこをとっても貴族の愛人にふさわしい振る舞いに、本来の目的を忘れて子爵は夢中になってしまった。
『マルグリット。我が麗しの愛の小鳥。どうか私という枝に止まり愛の調べを奏でてください』
たくさんの贈り物と花束で彼女の気を惹き、断られることはないと確信しての愛の言葉に、他の男から贈られたドレスや宝石で身を飾ったマルグリットは、口元を隠していた扇をパチリと閉じた。
手袋に包まれた細い指を優雅に動かして扇の先で子爵の頬をそっと撫でる。豊かな睫毛に彩られたマルグリットの青い瞳が楽しげにきらめいた。
『あなたに触れられたバラは枯れ、鳥は歌を忘れ月は雲に隠れるでしょう。子爵様、わたくしが何も知らない子猫だと思わないことですわ』
さて、ここで高級娼婦に対する誤解を解いておかなければならないだろう。
おそらく多くの人(特に女性)が高級娼婦は女の敵。体で男を誘惑し財産を搾り取る悪女か、男に囲われて日陰の女として涙を呑んでいると想像しているのではないだろうか。
たしかに娼婦にはそういった面がある。だが、性格にもよる、としかいいようがない。
高級娼婦は色を売るだけではない。自分の人生を売るのだ。自らを演出し不幸を美談として飾り立てる、あるいは高嶺の花として手が届かないがゆえに男が惹かれずにはいられなくする。彼女たちは自らをして芸術であり、愛と夢を売るのである。
マルグリット・モンテスはいうまでもなく後者であった。天高く聳える山に咲く大輪の花。しかも棘があり、毒を含んでいた。
そんな彼女の生きざまに、女であれば誰もが憧れる『理想の悪女』を見る女性は多い。伯爵と子爵の企みは、マルグリットたちの格好の獲物にしかならなかった。
高級娼婦ともなれば家も安アパートの一室などではなく、王都の一等地に屋敷を構え、メイドもいる。生活そのものをひっくるめて、彼女は高級娼婦という芸術作品であった。
しかし、そんなマルグリットにも悩みはある。
「しょうがなくない? どう見たってマルゴちゃんは嫁には向かないもの」
「そうなのよね。そういうキャラで売ってるんだから。でも、わたくしもう二十五なのよ……!」
マルグリット・モンテス、現在二十五歳。十五でこの世界に入り、十年も渡り歩いてきた。色恋の酸いも甘いも味わい尽くしてきたといっていいだろう。今や押しも押されぬトップスターである。
「フランシーヌちゃんは麗人って感じだけど、マルゴちゃんは男を手玉にとる悪女でしょ。今さら路線変更してもねぇ」
「伯爵令嬢と一緒にしないでよ、クラーラ」
フランシーヌたち貴族令嬢は、結婚相手の名簿に最初から入っている。マルグリットとはスタートラインから違うのだ。
文句をつけるマルグリットだが、フランシーヌと比べられたことは嬉しいのか、はにかむように笑った。
マルグリットはその言動から結婚願望がないと思われているが、実は逆である。男爵家の妾腹の娘として生まれた彼女が高級娼婦の道を選んだのは、愛と金のある男と結婚するためだった。
生まれの劣等感からマルグリットは男爵家の誰よりも熱心に礼儀作法を学び、自分を磨いてきた。妾の身分に甘んじ男にしがみついていた母や、子まで成しておきながら結局は貴族令嬢と結婚した父のようにはなりたくないと、子供の頃から思っていた。母と自分を見捨てる父ではなかったのでそこは感謝しているが、だったら妻の死後にでも迎えに来てくれても良かったのにという恨みは未だ根強く残っている。借金を妻の実家に肩代わりしてもらったというよくある話でもなかったので、単に結婚生活が面倒くさかったのだろう。
高級娼婦になった時、マルグリットはこれで男を――父を見返してやれると意気込んだ。男に選ばれるのを待つのではなく、わたくしが男を選ぶのだ。気に入らない男は礼儀正しく優雅にふってやる。その生き方が受けてマルグリットは登り詰めた。
しかし彼女は調子に乗りすぎた。登り詰めすぎて、もはや誰の手にも届かない高すぎる花になってしまったのである。
「二十五なんて高級娼婦なら花盛りじゃないの。マルゴちゃんは綺麗なんだし、これからよ」
クラーラの慰めにマルグリットは首を振った。
「クラーラ、褒めてくれるのは嬉しいけど、愛と金のある男が結婚したがるのは若い娘なのよ」
クラーラは真顔で口を引き結んだ。
反論できない。
単なるスケベ心だけではなく、男が求めるのは若い女だ。熟女趣味の男もいるにはいるがごく少数である。また若すぎる女に欲情する幼女趣味男もいるが、彼らは自分の嗜好がとても褒められたものではない自覚があるので表には出てこない。一概に比較できないが、そうした男はどちらもあいつよりマシと思っているのでどっこいどっこいである。
話が反れたが若い女の需要があるのはクラーラにも否定できなかった。若ければそれだけ長く過ごせるし、子供もたくさん産めるだろう。個人的な性的嗜好はさておき、本能である。
「……愛と金のある男っていうけど、マルゴちゃん、あなたは好きな男と結婚したいと思わないの?」
「思うわよ。だから金より愛が先に来ているんじゃない」
そういう意味ではない。
「うっかり恋に落ちた男が、必ずしもお金持ちとは限らないわよ。貴族なんて見栄っ張りだもの、結婚してみたら実は……なんて話そこら中に転がってるわ」
「そんなの詐欺じゃない」
「その詐欺を許してしまうのが恋であり、愛でもあるわ。マルゴちゃん、一度でいいから仕事抜きで恋をしてみたらどうかしら」
「仕事抜きで?」
マルグリットは恋多き女だ。一度仕事を請け負えば、身も心も男に捧げる健気さも持ち合わせている。
気は強いが情の深い女。それがマルグリット・モンテスだ。
「恋、ね……」
わかったようなわからぬような。曖昧な表情でマルグリットは呟いた。
***
マルグリットが家に帰ると、メイドのクロエが花を活けているところだった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。クロエ、そのお花はギュスターヴ様から?」
「はい。他の贈り物はドレスルームに置いておきました」
「そう」
マルグリットに贈られる花はほとんどが真紅のバラだ。甘い芳香が部屋に充満して呼吸をするたびに肌に染み込んでいくようだった。
クロエが活けていたバラはその名も『優美なるマルグリット』という。彼女のために品種改良された新種のバラだ。大輪系で甘い香りとするどい棘を持ち、花弁が豪華に重なり合う様がまさにマルグリットだと人気がある。
「ねえ、クロエ。わたくしそろそろ結婚しようと思うの」
お茶の用意をしていたクロエは「さようでございますか」と澄まして応じた。
「もういい歳だしね」
「ギュスターヴ様に求婚されたのですか?」
「違うわ。結婚、したいなぁって話よ」
蒸らした紅茶を丁寧にカップに注ぐ。ゴールデンドロップが落ち切るのを待って、クロエがマルグリットの前に置いた。
「……ご予定は、ないんですのね」
どことなく憐れむ目だ。茶髪に紅瞳を持つ、マルグリットより一つ年上のメイドはもう六年もマルグリットに仕え続けている。マルグリットの扱いは慣れたものだった。
「ないわよ。でも、落ちぶれるのを待つのではなく、自ら打って出ることも必要だわ」
「まあ、だいぶ稼ぎましたし、引退なさるのもよろしいかと思いますわ」
若さが永遠に続かない以上、引き際の見極めは重要な課題だ。老いは人生をその顔に表す容赦のない魔物である。
高級娼婦の大半はそのまま愛人になった男のものになる。よほど奥様と仲良くしているか、男の愛を独占していれば子供は家族として認められるが、ほとんどは人々から忘れられてひっそりと人生を終える。それでも好きな男と一緒にいられるのは幸福なほうだった。残りの大半は娼婦特有の病気になり、腐った体を誰にも看取られずに死ぬか、老いて落ちぶれた体に鞭打って場末の酒場で客を取るかだ。
高級娼婦の価値は男に貢がせた金額である。そして結婚とは生活であった。誰だって湯水のように金のかかる女に生活を任せようとは思わないだろう。要領よくやらなければ、結婚は難しいのである。
「ギュスターヴ様はマルグリット様に夢中ですし、政略結婚の奥様とは冷めた関係だとか」
「お生憎。ギュスターヴ様はそろそろ夢から覚める頃ね」
「まあ」
『優美なるマルグリット』に目をやり、クロエは驚きの声をあげた。
マルグリットは男に強請ることはない。彼女の美意識として、男に直接強請るのは芸のない女のやることだと思っている。だが主張はした。わたくしの微笑みが欲しいのなら、何を望んでいるのかあててごらんなさい、というわけだ。
金額にもこだわらなかった。男が考えに考えて、マルグリットのために用意したもの。それを差し出されてはじめて彼女は微笑む。
今までどんな高価な宝石にも靡かなかったマルグリットが、彼女のために育てたバラ一輪で微笑むのだ。これに男はまいってしまう。つれない高嶺の花を、自分だけのものにしたくなってしまうのだ。
しかし、いつかは夢から覚める。閑古鳥の鳴き声や、借金取りの靴音が夢のドアをノックし、現実を容赦なく突きつけてくるからだ。
「ギュスターヴ様が奥様と別れるというお話は聞かないわ。続いているのはマルグリット・モンテスを手放したくない意地でしょうね」
愛人に必要なのは愛と寛容ではなく、慈悲と諦めだ。高級娼婦と別れるには手切れ金を支払うか、ふられるのを待つかのどちらかになる。潔く金を払えば後腐れないが、ふられた場合は悲惨である。高級娼婦を囲っておきながら満足させられなかった甲斐性なしのレッテルを貼られるからだ。
ちなみに一度決まった男の愛人になれば、娼婦といえども浮気をするのは許されない。それはこの世界で生きていくにあたって絶対に守らなければならない鉄の掟であった。
「なるほど」
クロエはうなずいた。マルグリットが結婚してもしなくても、クロエはついていくつもりでいる。解雇されない限り、クロエはマルグリットのメイドだ。
「それでクラーラ様と作戦会議ですか」
「そうなの」
「まずはギュスターヴ様と手を切るのが先のような気がしますが」
「そうなのよ~」
テーブルに突っ伏したマルグリットだが、すぐに顔をあげた。
「いえ、大丈夫なはずよ! 徐々に純愛路線に移行して、結婚を匂わせればギュスターヴ様も逃げていくわ!」
「……気難し屋が純愛路線になったらますますのめり込んでいくのでは……」
クロエの呟きは結婚に燃えるマルグリットには届かなかった。善は急げ、とばかりにパートナー同伴でなくても行ける夜会の招待状を漁っている。
「……本当は、少し不安なの」
「マルグリット様?」
「クラーラには恋をしろって言われたわ。売り物じゃない、本当の恋を。わたくしのような女に、まともな恋ができるのかしらね」
マルグリットの横顔は皮肉な笑みに歪んでいた。母のようにはなるまいとずっと気を張って生きてきたが、それでも母は恋愛の末にマルグリットを生んだのだ。時折哀し気な顔をしていた母を思い出す。少なくともマルグリットの前で我が身を嘆いたことは一度もなかった。はたして幸せだったのか。マルグリットは聞きたいとは思わなかった。
「さあ」
クロエはマルグリットの感傷をものともしなかった。
「まともな恋とはどういうものか、わたくしは存じません」
そもそも恋に落ちた時点でまともな精神状態であるとは思えない。痘痕もえくぼというではないか。
「そういえばクロエも独身だったわね」
「わたくしのことはどうでもよろしいのです」
スパッとクロエが切り捨てた。
「一度きりの人生です。愛に生きるも金に生きるも自由でしょう。どうぞお好きになさってくださいませ」
マルグリットは振り返るとクロエをまじまじと見つめた。彼女のメイドは変わらず澄まし顔である。
「あなたが男だったら、わたくし間違いなく今ので恋に落ちたわ」
ため息まじりに感動を伝えたマルグリットに、クロエはそこでようやくそっけない笑みを浮かべた。
「さようでございますか」
部屋中に漂うバラの芳香を口に含むように、クロエが言った。
***
マルグリットが友人と赴いた夜会は、クラストロ公爵家主催の舞踏会だった。
「ようやくクラストロ家が社交界に復帰か」
「国民議会への根回しもあるのでしょう。支援する家はさほど多くない」
「さて、今の勢いがいつまで続くか……」
「執政殿のおかげで王都が無事だったのは確かですからな」
「クラストロの倉を解放して国を救った功労者だ」
「上手くやったものですな。国庫は空っぽ。クラストロは倉を空にして国民の信頼を買い取った」
貴族たちは訳知り顔で囁き合っている。
マルグリットと友人は聞こえないふりをして視線を惹くように通り過ぎた。
「二十年前の雪辱は高くつきましたな」
「まったくです」
今のこの国にクラストロを悪く言うものはいない。クラストロを貶めるには二十年前の出来事を持ち出す以外に他になく、しかしそれは現在の功績に繋がって返ってくる。誰がどう見てもクラストロは、いや、マクラウドは国を救った功労者だ。
沈黙の宰相は前王エドゥアールの要請を二十年間はねのけたが、国家の危機についに重い腰をあげた。王は見捨てても民は見捨てないことを示したマクラウドに、あれこそ貴族よと国民はこぞってクラストロに傾倒した。
マクラウド・アストライア・クラストロはフランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュ伯爵令嬢とアドリアン・ドゥ・オットー・ジョルジュ伯爵こそ救国の英雄であると褒め称え、自身は見返りを求めなかった。自分はやるべきことをしただけであると、すべての名誉を辞退した。その清廉さがまた人気を加速させた。
そうした情勢でのマクラウドの執政就任はどこからも反対されずにすんなり決定した。現実問題としてクラストロが倉を開放してくれなければ、革命が終息しても国中で一揆が起きていただろう。それほど悲惨な有り様であった。
嫉妬と羨望の入り混じった噂話を片耳に聞きながら、マルグリットは友人と手を組んでゆったりと女性陣の輪に加わった。
「あなた、よくクラストロ公爵家の招待状を頂けましたわね」
錚々(そうそう)たる顔ぶれに感嘆しながらマルグリットが言った。友人が自慢げに笑い、口元を扇で隠す。
「ふふ、そうでしょう? と、言いたいところですけれど、今夜の舞踏会はあまり身分に関係ないそうよ」
「まあ、そうですの?」
「ええ。公爵様の社交界復帰と、執政としての実権を知らしめるためでしょう」
友人の話によると、クラストロ家が夜会などの社交を催すのはこの二十年間稀で、たまに開催しても弟の侯爵家であった。マクラウドには女主人である妻がおらず、本人は病気と銘打って隠居を決め込んでいたので、その間にあった社交界での情報収集が目的だろうということだ。
二十年前といえばマルグリットは五歳である。いきなり王様が代わって物価が上がったくらいの思い出しかなかった。
「……二十年は大きいわ。貴族の勢力図もずいぶん様変わりしたのでしょうね」
まだ若い友人は不安そうに呟いた。生まれる前の出来事がこんな形で返ってくるとは想像すらできなかったのだろう。
「そうね……」
ざわめきが大きくなった。今夜の主役の登場に、マルグリットは友人と並んで淑女の礼をとった。
マクラウド・アストライア・クラストロが現れた。
彼はまるで女のように長い黒髪を垂らし、黒い燕尾服を着ていた。仕立ての良さが一目でわかる着こなしである。
背が高い。隣を歩く弟のルードヴィッヒと比べると線が細く、やわらかな印象だ。
ぼんやりとしてはいないが、見るべきものなど何ひとつとしてないというように黒い瞳は醒めていた。満足も、不満も、何も感じていないようであった。
「あの方がクラストロ公爵……」
なんだか冷たそうな方ね、と続けようとしたマルグリットの視線の先で、ルードヴィッヒに何か言われたのかマクラウドがふいに微笑んだ。
困ったように弟を見て、固い蕾が綻ぶように口元を緩ませる。たったそれだけでマクラウドの雰囲気が変わった。
一片の光さえも差し込まぬ密室の闇であった黒が、実は夜明け前の夜空であったような。しっとりと肌触りの良いヴェールをめくりあげたような変化であった。
人々が先程とは別の意味でざわめいた。
一瞬止まった心臓が、次の瞬間激しく脈打つのを感じ、マルグリットは自分が赤面していることにようやく気がついた。隣の友人はというと、口元を扇で隠すのも忘れて呆けたようにマクラウドを見つめている。
どこからともなくため息が聞こえ、マルグリットも詰めていた息を吐きだした。
「……凄い方ね」
マルグリットの素直な感想に、友人は慌てて扇を開いて同意した。
「本当に。あれほどの方が独身だなんて、信じられませんわ」
終わった愛をあれこれ詮索するのは無粋の極みだが、フローラはなぜマクラウドを裏切ってまでエドゥアールを選んだのだろう。周囲からの嫉妬がよほど酷かったのか、マクラウドと並び立つのを恐れたのかもしれない。なんにしても、もったいないことをしたものだ。
慈愛に満ちた黒曜石。マクラウドの微笑みに親しみを覚えたマルグリットは、彼を視界に入れるべく場所を移動した。
「マルグリット?」
「ここは積極的に参りましょう。公爵様のお目に留まれば、他の方々も集まってきますわ」
「えっ。そんな、わたくし……」
友人はぽっと頬を染めた。彼女は一度気を許した友人には気安いのだが、初対面の、それも男性となるととたんに緊張して何も話せなくなってしまう。そんなところが庇護欲をそそって可愛いとマルグリットは思っている。だからこそ、彼女の良さを理解してくれる男と幸せになってもらいたかった。
マルグリットが動けば男たちの目も動く。当然のことながら、その目は隣の友人にも向けられていた。
高級娼婦の友人という立場は必ずしも悪いものではない。それだけの器量と人脈がある証明だからだ。男だけではなく、女にとってもマルグリットはステータスなのである。
マルグリットの友人は思った通り数人に誘われてダンスを踊り、マルグリットはすべて断った。今日のマルグリットはあくまでも彼女の友人、引き立て役なのである。
ドレスとテール・コートの紳士淑女がくるくると踊っている。マクラウド・アストライア・クラストロもその輪に加わり、中央で黒い花を咲かせていた。
***
「クラーラ、聞いて! わたくし恋をしたの!」
開店と同時に飛び込んできたマルグリットが開口一番そう言った。
「早いわね!?」
恋をしろと言ってから数日の早業にクラーラも驚いた。うふっと幸せそうに頬を染めて笑うマルグリットに、おめでとうと言うのも忘れて詰め寄る。
「どこの誰よ? ギュスターヴ様はどうしたの?」
「焦らないで、クラーラ。きちんと説明するわ」
クラーラは自分も落ち着くべく紅茶を淹れた。長くなりそうな予感にスコーンとジャムを添える。
「……それで、どこのどなたなの?」
「クラストロ家のマクラウド様」
一口飲んで喉を湿らせたクラーラは、マルグリットの爆弾直撃を食らった。あやうく落としそうになったカップを支える。ガチャッと乱暴な音を立ててソーサーに戻した。
「そ、な……っ」
動転して言葉も出ないクラーラに苦笑して、マルグリットは「わかってるわ」と言った。
「勝ち目はないでしょうね。わかってるのよ、クラーラ」
「どこで閣下とお会いしたの……?」
「昨夜の舞踏会で。会ったというより、一方的にお見かけしただけだわ」
「昨夜の……」
昨夜の舞踏会はルードヴィッヒにせっつかれてしぶしぶ開催したものだった。クラーラの仕立て屋とマクラウドの執政の仕事は両立が難しく、マクラウドはレギオンにほぼ丸投げである。
クラーラはともかくとして、マクラウドは社交を行うつもりはなかったのだ。しかし国に王と王妃、さらに王太子まで不在で執政が社交をやらないとなると、国全体が暗く沈んだ雰囲気になる。ようやく辿り着いた国民議会に水を差しかねなかった。この大事な時に踊っている場合ではないと文句の一つも出そうになるが、そういう問題でもない。勢いというのは努力では得られない大切な追い風なのだ。
どうせなら社交もレギオンに任せてしまうと企んだが、どう考えてもマクラウドの代役として二十年間クラストロに引きこもっていたレギオンより、仕立て屋としてあちこちに顔を出していたクラーラのほうが場慣れしている。黒後家蜘蛛の情報もばっちりだった。
ようするにこれくらい自分でやれとルードヴィッヒに尻を蹴られたわけだが、それがまさかこんなことになるとはクラーラも思っていなかった。予想外もいいとこである。
マルグリットが来ていることには気づいたが、さりげなく避けていた。ばれるとは思わないが余計なことはしないが吉だ。それがどうしてこうなるのだ。
「いや、でも、クラストロ公爵はちょっとアレじゃなぁい?」
引き攣った笑みを浮かべるクラーラに、マルグリットがむすっと拗ねた。
「歳が離れすぎているから? 身分が違いすぎるから? それとも女嫌いだからかしら?」
「マルゴちゃん」
「そんなこと、百も承知だわ。マクラウド様が高級娼婦など気にかけるはずないわよね」
でも、とマルグリットが紅茶に目を落とした。
「好きなの」
と、言った。
「とても綺麗な方だったわ。もちろん男性であることは知っているけれど……、なんていうのかしら、繊細で、憂鬱そうで。……寂しそうで」
「あまり良い評価には聞こえないわねぇ」
「茶化さないで、クラーラ」
茶化したわけではない。このままマルグリットにマクラウドを思い出されては困るのだ。
「相手が悪すぎるって言ってるの。マルゴちゃん、アタシ応援できないわ」
「クラーラ」
「あなたは良い娘さんよ。気立ては良いし、しっかりしているし、やさしくて友人を思いやる心もある。お店に遊びに来るお嬢様たちにも親切だわ」
「クラーラ、だったら」
「幸せになって欲しいのよ」
マクラウドでは駄目だ。並み居る貴族の中で最悪といっていい。贅沢な暮らしはさせてやれる。一生金に困ることはないだろう。何一つとして不自由のない生活を約束できる。
だが、女として愛することはできないのだ。
「一つ間違えれば潰されるわ。命があれば良いほう、全財産を失って放逐されるかもしれないのよ」
それほどの家である。高級娼婦一人を消すなどクラストロ家ならたやすく実行するだろう。
「クラーラ……」
切々と訴えてくるクラーラの黒い瞳に、マルグリットは青い瞳を潤ませた。
クラーラは良い友人だ。仕立て屋と客という関係からはじまった交際だが、クラーラはマルグリットが高級娼婦と知っても蔑んだりしなかった。
どれほど親しい友人でも、はじめはどうしても蔑みと羨望の目で見られる。人生を芸術の域にまで高め、相手を選り好みして見せようとも、マルグリットはあくまで『商品』なのだ。性のみならず人生まで売る女と、マルグリットを知らない人々は囁く。
クラーラは自分も女装しているからか、マルグリットに対し最初から戦友のような親しみをみせた。同じ傷を持つ者同士の共感が二人の間にはある。
幸せになって、という言葉には真実の響きがあった。
「クラーラ。わたくし、自分の幸せは自分で決めるわ」
「マルゴちゃん」
「あの方に、笑って欲しいの。わたくしを見て微笑んで欲しい。そのためならどんなことだってできるわ――そう、あの方の幸せが、わたくしの幸せなのよ」
祈るように両手を組み合わせ、クラーラに微笑んだマルグリットは初恋を知ったばかりの少女を彷彿とさせた。
「マルゴちゃん……」
そんな顔をされてはこれ以上強く諌めることはできなかった。クラーラはいつだって、恋する乙女の味方なのだ。
マルグリットの気持ちはよくわかる。誰かを幸福で笑顔にすること、それがクラーラの幸福であるからだ。
「わかったわ。もう反対しない」
「クラーラ! ありがとう」
「でも、これからどうする気? 実際問題、公爵相手じゃぁ会うのもままならないでしょう」
「ふふふっ、そこはクラーラ、あなたの出番よ」
「アタシ?」
嫌な予感にクラーラは心持ち身を引いた。どんな確率か、こういう時の嫌な予感ほどよく当たるのだ。昨夜であったばかりのマクラウドに恋をしたと、なぜ開店と同時に伝えに来たのか。マルグリットにはクラーラよりも頼りになりそうな友人はたくさんいる。
「クラーラの店はクラストロの絹を取り扱っているわよね。つまり、王都でもっともクラストロと繋がりがあるのは、クラーラあなたよ!」
やっぱり! クラーラは今更ながらに思い出した。マルグリットのために仕立てたドレスの数々。それらは見栄を張った彼女の愛人の依頼もあり、クラストロ産の最高級シルクを使ったのだ。
そこを突いてくるとは。さすがはマルグリット・モンテスである。抜け目ない。
「ちょっとぉ、アタシを利用しようっていうの?」
「応援も協力もできないのなら、利用くらいさせてよ」
さんざん儲けさせてあげたでしょ。マルグリットは悪びれずに言った。彼女の愛人をおだてて唆し、ドレスから宝石まで売りつけたクラーラは黙るしかない。
「もちろんタダでとは言わないわ。クラーラ、わたくしにドレスを仕立ててくださる?」
マルグリットは誰もがうっとりと見惚れてしまう笑みを浮かべた。見事な営業である。
「……会えるとは、限らないわよ?」
「わかってるわ」
「もし会えたとしても、あなたを選ぶ可能性はないのよ?」
「それでもいいの」
「高級娼婦として終わるかもしれないわ」
「覚悟しているわ」
クラーラはため息を吐いた。
マルグリットの笑みが勝利のそれになる。
「いいわ。マルグリット・モンテスの恋を最高のドレスで表現しましょう。クラストロ家の社交の情報も流してあげる。でも、そこから先は自分でやるのよ」
恋とは自分で戦って掴み取るものだ。クラーラの真剣な眼差しに、してやったりと喜んでいたマルグリットは息を飲む。
「いいわね?」
「……ええ! 望むところよ!」
マルグリットはクラーラと固い握手を交わし、意気揚々と帰っていった。見送ったクラーラは閉店の看板を出すと、キッチンのテーブルに突っ伏した。
「あーもー! どうしたらいいのよ!?」
恋をしろと言ったのは自分だが、マルグリットの恋の相手がまさかの自分とは。どういう運命の悪戯だ。しかも自分で自分の首を絞めるはめになった。
「ていうか、なんで引き受けちゃうのよアタシ~!!」
後悔しても遅かった。笑わば笑え。どうしたもこうしたも、クラーラの自業自得である。
「もうこうなったらうんと高く売りつけてやるんだから!!」
それくらいしかこの鬱憤を晴らす方法がない。クラストロの絹をふんだんに使い、高価な宝石を惜しみなく使ってやろう。クラストロを相手取ろうというのなら、それくらいは当然の投資だ。
紅茶を淹れ、菓子を用意し、クラーラは徹夜覚悟で憤然とスケッチブックに向かった。
高級娼婦と女優のどちらにしようか迷いました。高級娼婦の世界はとても厳しいです。
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