ココ・エルチュールの野心・2
肌が透けるほど薄い亜麻布は、肩の留め具で交差させることでかろうじて乳房を隠している。金細工に瑠璃と玻璃でできた豪奢な首飾りをつけ、腰から流れ落ちるままのスカートを金と貴石で織られたベルトが留めていた。
二の腕には大きなガーネットが嵌めこまれたブレスレット。反対側の手には細い金のブレスレットが三本重なってしゃらりと繊細な音を奏でた。
足はサンダル。細い足首を金とガーネットのアンクレットが飾っている。
「これほど薄い布って探してもなくってね、無理言って特別に織って貰ったわ。おまけに装飾品も大陸では作られていない製法だったから、ずいぶん時間がかかっちゃった」
お待たせしてごめんなさいね、と笑うクラーラは自分が仕立てたドレスに満足そうだ。
シースドレスと呼ばれるこの筒形ドレスは『ネフェルティトトラ』の衣裳である。
女王の衣裳をまとい独特の化粧を施したココに、パオロは呆けたように口を開け言葉もなかった。
「どうかしら? どこか気になるところはある?」
クラーラがもっとも気を使ってこだわったのは、首飾りのビーズ織りである。デコルテを覆い隠すほどの大きさなので、うっかり髪の毛が絡まってしまう可能性があった。砂漠の国では髪を下しているため、その危険は高いと見たのだ。そのためビーズは細長の円筒形にし、なるべく入り込む隙間を作らないように工夫させた。髪の毛一本が引っかかると非常に痛いのはクラーラも知っている。
「首飾りが重いですね」
「そりゃぁ本物の金と瑠璃玻璃を使ってるもの。これにティアラを乗せればネフェルティトトラの完成よ」
ティアラはその危険が一番高いため、金細工にビーズではなく瑠璃を嵌めこむことで防止し、かつ荘厳さを出した。中央に砂漠の国を象徴する毒蛇が頭をもたげ、胴体がティアラに絡みつく模様になっている。瑠璃で鱗を表現した。
ココの髪の黒さと肌の白さもあいまって、本物のネフェルティトトラが現れたかのようだ。
「これは……すごいわねぇ」
ティアラを被ったココから数歩離れ、全身を見回したクラーラが感嘆のため息を漏らした。
パオロもさぞや感動しているに違いない。ちらっと彼を見たクラーラは、苦痛ともいえる表情を浮かべたパオロに驚いた。ココはというと特に感動した様子もなくぼんやりと立っている。
「どうしたの? パオロちゃん、気に入らないかしら?」
「いえ……」
パオロは食い入るようにココから目を離さなかった。しかし、ココは視線を合わせようとしない。二人とも心ここにあらずである。
これは何かあったわね。クラーラもピンときたが突っ込んで聞くほど無神経ではない。そっとその場を後にした。
理由がわかったのは数日後である。
「まあ、それではモデルをお辞めになりますの?」
「はい。それが一番丸く収まると思うのです」
どうやらジェインとココはクラーラの店で落ち合うことに決めたらしく、喫茶スペースに陣取ってプチ茶会を開いていた。
ココはジェインにだけは心を打ち明けることができた。彼女が絶対に敵にはならないと信じているのだ。
「パオロさんは引き留めなかったのですか?」
「それが、よくわからないのです」
「と、いうと?」
「芸術の神が去ったと言って、まったく描かないのです。依頼人は出来上がるまで待つと言ってくれていますが、それでも限度がありますわ」
このままではパオロの信用にも関わる。原因がわかっているだけにココも強くは言えず、かといって撤回するつもりはなかった。
ジェインは小さく息を吐いた。
「ココさんの意を汲むこともせず、覆すこともできないなんて……」
「ジェインちゃん」
クラーラがジェインを遮り、首を振った。ハッとして見るとココは哀しげに微笑んでいる。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ……、その通りですわ」
どれほど情けない男でも、ココの想い人だ。ジェインが悪く言うのは筋が違う。
「まあね、恋は思案の外、よ。なるようにしかならないわ」
それより、とクラーラは手を打って空気を変えた。
「ジェインちゃんのほうはどうなの? 出資してくれそうな貴族や商家は見つかった?」
みるみるうちにジェインが萎れた。
「いいえ。それどころか、まともに話を聞いてくれる方もおりません」
クラーラはあっちゃーという顔になった。
ジェインが苛ついているわけである。溜まった鬱憤にパオロの不甲斐なさが火を点けたのだろう。
「ハーブを中心とした薬草園を造ろうと思いますの。ハーブならば荒れ地でもさほど手間がかからず育ちますし、本格的に養蜂をやれば一石二鳥ですわ」
「薬草と蜂蜜かぁ……。着眼点は悪くないけど、今一つ押しが弱いわねぇ」
プラティーヌ領の村人が自分たちでやっているのなら、他の領でも蜂蜜は採れるだろう。たしかに高価なものだし薬にもなるが、貴族の間で流行するかとなると首をかしげざるを得ない。
「ハーブは香油が採れますし、用途はたくさんあるので良い案だと思ったのですが……」
香油はクラーラも香水や石鹸に使っている。
「最近は合成香水が出回ってきてるからねぇ。めざといギルドならちょっと敬遠するかもしれないわ」
「そう言われましたわ。天然物はもう流行遅れだと」
しょせん「お嬢様」の浅知恵と馬鹿にされたのだろう。悔しそうな顔をした。
「貴族の方々の流行はよくわかりませんわ」
自分たちの血統、歴史、伝統をあれだけ重んじているくせに、流行は新しいものを好む。ココが理解できないと首を振った。
「安価でたくさん出回れば、たくさんの人に買っていただけます。平民の手に届きやすくなりますのに」
「そういうものでもないのよねぇ」
商売なのだ。伯爵家が主体となるからには購買層は貴族、社交界になる。これがプラティーヌ領のギルドが中心となる事業なら、また話は違っただろう。しかも事業主になるのは働いたこともないジェインだ、厳しい目を持つギルドが二の足を踏むのは当然といえた。
せっかくだから、とクラーラが紅茶に蜂蜜を垂らした。甘い香りと、味に深みが出る。
「どうせなら高級志向に転換しない? 本格的に養蜂をやるならローヤルゼリー。あ、蜜蝋と香油でクリームを作ってみたらどうかしら」
「ローヤルゼリー?」
「蜜蝋のクリーム?」
ジェインとココが顔を見合わせ、同時に訊いた。
「え? 知らないの?」
ココはともかくジェインが知らないとは思わなかった。クラーラが驚く。
「ローヤルゼリーは女王蜂にのみ与えられる乳白色のゼリーよ。とても貴重で、栄養価が高いわ。蜜蝋は蜜蜂の巣ね。蝋というくらいだから蝋燭に使われることもあるんだけど、本当に知らなかったの?」
ローヤルゼリーを食べた幼虫のみが女王蜂となる。蜂蜜とは成分が違うのだ。しかもわずかしか採れないため高価である。味はというと酸味があってあまり美味しくはないので、もしかしたら食べるものではないと思われていたのかもしれない。
蜜蝋は蜂の巣を融かして精製してできる。蝋燭、クリーム、ワックスなど様々なものに化ける、夢の素材だ。
クラーラの簡単な説明に、ジェインは目を輝かせた。
「知りませんでしたわ……! 蜂ってすごい! 万能ではありませんか!」
「ジェイン様、良かったですね」
「お肌に使うものだからなるべく天然素材が好ましいし、あえて小ロット、パッケージと容器を高級感のあるものにすれば貴族の奥様方に売れるんじゃないかしら」
もちろん高品質を生み出すことが大前提である。自信があるのか、ジェインは俄然やる気を漲らせた。
「ありがとうございます、クラーラ様! そうですわココさん、わたくしたちの商品のモニターをしてみませんこと?」
「えっ?」
がしっとココの手を掴む。ジェインは絶対に逃がさないとばかりの笑みを浮かべていた。
「ココさんは、モデルをお辞めになる」
「は、はい」
「それからどうなさいますの? 失礼ながら、蓄えだけではもって数年でしょう。田舎に行ったところでその美貌ではモデルのココであるとすぐに広まりますわ」
クラーラがジェインを援護した。
「それに、ストーカー貴族が職探しを妨害してくるかもしれないわね。追い詰められて、自分の元にしか居場所はないと思わせるために」
驚きに目を見開いていたココの顔が蒼くなる。友人のはずのパオロの家を破壊する男だ、庇護者のいなくなった元モデルなどたやすく誘拐できるだろう。ココが引退を表明した後でなら、社交界から姿を消しても怪しむ人は誰もいなくなる。
ジェインも深くうなずいた。笑みを消し、真剣な眼差しでココを見つめる。そこには大切な友人を守りたいと願う真心があった。
「ジェイン様……」
「我が伯爵家の加護があると知れば、うかつに手を出す者はいないでしょう。パオロさんだって、安心できますわ」
「そんな、ジェイン様にご迷惑はかけられません」
「迷惑などではありません。ココ・エルチュールのネームバリューを利用させていただきたいとお願いしているのですわ」
「……いいと思うわ」
「クラーラ様まで」
成功への道筋が見えているらしいジェインに肩を揺らしながら、クラーラが賛成する。
「パオロちゃんにポスターを描いてもらうのはどうかしら。ココちゃんは社交界で広告塔になり、ジェインちゃんの商品をアピールする。実際に使った者が効果を謳えば、しかもそれがココ・エルチュールなら、美の追求に余念のない貴婦人が黙って見ているわけないわ」
ココの瞳が揺れた。
せっかくパオロのために離れる決意をしたのに、たやすく崩れそうになる。ジェインもクラーラも、どうしてこんなにやさしいのだろう。モデル風情の自分なんかに。
「ココちゃん」
ココの手を掴んだジェインの手に、クラーラが大きな手を重ねた。
「何かを得れば何かを失うとはいうけれど、なにもかも失う必要はないんじゃなぁい? 今のココちゃんがいるのは、ココちゃんが頑張ったからでしょう」
「運が良かっただけです」
「幸運を掴み取ることができるのも、一種の才能よ。もっと自信を持っていいのよ」
ココの魅力はなんといっても憂いを帯びた黒い瞳だ。自分に笑いかけて欲しいと思わせる。微笑まれたら自分だけのものにしたくなる。独占欲をくすぐる瞳の持ち主なのだ。
「自信なんて」
「ココさん。わたくしココさんと友人になれて嬉しく思っていますわ。世間知らずで苦労知らずのわたくしが事業をはじめようとしていることに、あなたは笑ったりしませんでした。それがどれほどわたくしを勇気づけたか! あなたは大切な、わたくしの尊敬する友人です」
ココは呆然とジェインを見つめていたが、やがて黒い瞳が潤み、大粒の涙が溢れ出した。唇を噛みしめ、声もあげずに泣くココは幼女のようでもあり、神聖な女神のようでもあった。




