ジェイン・アンバー・プラティーヌの才能
今でこそ華やかなモデルも、昔はずいぶん酷い扱いされていて驚きました。
ドレスの参考に絵画の本を読むんですけど、女性の身分の低さが一番際立つのってモデルのように思います。
正装したきらびやかな男女が集まる晩餐会。蝋燭の光に反射するシャンデリアは、北の大国から取り寄せた逸品だ。この国で製造されるガラスよりも透明度が高く、よりきらめくようカットする技術をかの国は持っている。
銀食器は銀を算出する領のものだろう。丁寧に磨かれて光っている。
パン。ワイン。肉。魚。楽しげな人々の口の端に上るのは聞き慣れない地名ばかり。ジェイン・アンバー・プラティーヌは切り分けられた七面鳥を味わいながら自領を有名にするにはどうすればいいのか頭を悩ませていた。
伯爵令嬢の彼女がそんなことを考えているのはもちろん理由がある。彼女の隣で黙々と食べている男、ダニエル・ド・ラ・エタン男爵。ジェインの婚約者だ。
ダニエルはエタン伯爵の次男で、ジェインとの婚約を期に男爵位を譲られた。あまり派手好きではなく経済観念もしっかりしていて、面白味はないが堅実な男だった。ジェインはダニエルとなら地味でも確実な生活ができるだろうと結婚を決めたのだ。
そんな彼がたった数か月であっという間に変貌したのは信じがたい話だ。なんと彼はジェインではない女性に恋し、夢中になって追い掛け回している。堅実だったダニエルの財布は恋の前に陥落し、ジェインが諌め、怒り泣いてもまったくの無力であった。
今夜もパートナーとしてジェインをエスコートしたが、目を合せず口もきかない。醜いものを見るダニエルの目にジェインは絶望し、とうとう諦めた。そんなに好きなら婚約破棄でもなんでもすればいい。そして自分も好きに生きよう。彼女はそう決意した。
まったくつまらない晩餐を終えて家に帰ると、妹を心配していたらしい兄が待っていた。
「お帰り、ジェイン」
「ただいま帰りました」
ドレスを着替えてティールームに行くと、すぐさまメイドが紅茶を用意した。
「ダニエルはどうだった?」
「あいかわらずです、と言いたいですが、悪化していますわ」
吐き捨てるように答えると、兄は大きくため息を吐いた。
「一時の火遊びならお前を諌めるところだが、取り繕うこともできなくなっているのか」
「ええ、まったく。わたくしを見る目はまるで敵を睨むがごとしでしたわ」
ジェインを迎えに来た時だ。ジェインさえいなければ愛しい彼女と行けたのに、とでも言いたげに顔を歪ませ、後はジェインを見ようともしなかった。汚らわしい、触れるのも嫌だとばかりの距離感に、晩餐に集った人々は噂は本当だったのかと小声で囁きあっていた。ジェインがどれほどのみじめさを味わっているのか想像もしない彼は、被害者は自分だと思っているのだろう。
「エタン伯爵の叱責にも耳を貸さないらしい」
「聞いていればこんなことになっていませんわよ」
「そうだな」
兄妹は紅茶を飲んだ。
ジェインの兄、アルフォンソ・ド・アン・プラティーヌは妹が怒りに任せて癇癪を起こす女でなくて良かったと思った。一時は荒れたが八つ当たりするでもなく、自分磨きと言ってやたら勉強に励む程度であった。
「なんだか馬鹿馬鹿しくって、いっそのことわたくしも浮気してしまおうかしら」
「ジェイン! 自分を傷つけることは止めなさい」
「わかっていますわ。それに、浮気に引っかかるような男を相手にしても虚しいだけでしょう」
同じことをやり返しただけとはいえ悪く言われるのは女なのだ。ダニエルに非がある状況で、わざわざジェインが身を削る必要はない。
「ですが、もう、ダニエル様とはやっていけません」
「婚約破棄するか?」
「それも良いですけど、あの男が喜ぶだけだと思うと腹立たしいの」
「ああ……」
別れる決意はとっくに付いているが、そうなれば邪魔者が消えたとダニエルが浮気相手に結婚を申し込むだろう。今はダニエルの両親がなんとか婚約破棄だけは、とジェインに頭を下げたから耐えているのだ。ジェインの気持ちも周囲の気持ちも考えない男が幸せになるのは許せなかった。
「婚約破棄が成ったとしても、あの男がわたくしに何らかの補償をしてくれるとは考えられません。できる限り引っ張って、その間に身の立て方を決めようと思います」
「身の立て方って、結婚を諦めるには早すぎるぞ」
ジェインは十九歳、花の盛りである。貴族らしい整った顔はやや吊り目のせいか気が強い印象を与えるが、ピンクブロンドの髪と金色の瞳が上手く調和して、大人になったらと期待を抱かせる。胸と腰は細く、いわゆるお子様体形なのが玉に瑕だが、その分育てがいがあると思えばいい。
「ですが婚約までしておきながら浮気されたのです。このまま結婚してもみじめなだけですが、破棄したところで次のお相手は年上か後妻でしょう。それでしたら領内でお兄様のお手伝いをしたほうが良いですわ」
「領地経営もそう簡単ではないよ。領主の姫が労働なんかして、それこそ社交界で何を言われるか」
「ご迷惑でしょうか?」
「そういう問題ではない。一生のことを決めるには早いと言っているんだ」
恋人をとっかえひっかえするような女になって欲しくはないが、たった一度婚約が駄目になってくらいで人生を諦めてしまうのは軽率すぎる。アルフォンソの説得に、ジェインは少し不満そうだった。
「ウィリアムも心配している。今度クラーラの店に行ってみないか」
「ウィリアム様にも話したんですの?」
ウィリアムはアルフォンソの親友で、ジェインとも幼馴染だ。もう一人の兄のように思っているが、赤裸々な浮気騒動を知られたくなかった。
「エタン男爵の浮気はもう広まっている」
自分が話したわけではない。兄が苦笑する。ジェインを心配している者がいると伝え、彼女が自棄になって早まったことをしないよう牽制したいだけだ。
「わかりましたわ。それならお二人に、うんとおねだりしますからね?」
悪戯っぽくジェインが言うと、アルフォンソはほっとしたようにうなずいた。
***
当然のことながら、クラーラもジェインとダニエルの噂は知っていた。なんなら当事者のジェインよりも詳しいくらいである。
「エタン男爵が熱を上げてるのってモデルでしょ。かるーくあしらわれてるみたいですわよ?」
けろっと言ったクラーラにジェインと兄は驚き、兄の親友であるウィリアムは飲んでいた紅茶でむせ返った。
「モ、モデルなんですの……?」
「あらぁ、知らなかったかしら? なんでも友人の画家が見つけてきたモデルで、遊びに行った時に紹介されたのがきっかけなんですって」
クラーラは特にどうという感想を持たないが、ジェインは顔を赤くして震えだした。アルフォンソとウィリアムは顔を見合わせている。
この時代、モデルという職業は極めて地位の低いものであった。最下層といって良い。人前で肌を晒すことがタブーとされている世の中で、薄布一枚で局部を隠し、さらにそれを絵画として公開するのは恥知らずの蛮行とされた。しかもモデルとなるのは一人の画家ではなく、求めに応じて複数の画家の間を渡り歩く。娼婦と何ら変わらない、卑しい職業として蔑まれていた。
もっとも女性の中には、彼女たちモデルに対する妬みもあっただろう。モデルになれるのはうつくしく魅力的な女だけだ。まさしく裸一貫で立身出世していく同性への、複雑な嫉妬心があったに違いない。
肖像画なら依頼すれば良いが、画家に見込まれて金を積まれるモデルとは別なのだ。
「モデル……」
「モデルか……」
アルフォンソとウィリアムが複雑そうに唸った。
これは余談ではあるが、貴族の子弟ともなると結婚初夜まで女の裸体を知らないという者も少なくない。彼らにも性的好奇心はあるが、娼館へ通うのは外聞が悪く、女性とのつきあいも親に制限されているとなれば知りようがなかった。では、どこで発散させるかというと、絵画である。そういう目的かどうかはともかくある時代からヌードは芸術という風潮が出てきた。当時もずいぶん騒がれたが男たちはこれは芸術とこぞって認め、たちまちヌード画が一世を風靡する。そうなると画家たちは餌をばらまかれた鯉のように舞い上がってヌードを描くようになった。男が描く、男の理想とする女の裸体である。そして、それらを見て色々と見知った気になっている貴族がいざ初夜となり、妻となった女性の裸を見て、描かれていなかったもろもろの部分が現れて夢を木っ端微塵にされるという話も多かった。ショックのあまり事に及べない男もいたというのだからどちらにとっても不幸である。これが笑い話になるかどうかは人によるだろう。
さておき、二人の男はモデルが相手では貴族令嬢のジェインは分が悪い、と思った。同時にモデルが相手ならジェインの名誉は守られると安堵した。ダニエルがどれほど血迷っていようとも、実家である伯爵家がモデルとの結婚など許すはずがない。
三人の反応にさもありなん、とクラーラ紅茶を淹れなおした。
「モデルについては思うところがあるでしょうけど、気にしなくていいわよ。男爵はふられて終わるわ」
「そう、でしょうか」
モデルと聞いた瞬間、負けたと思ってしまったジェインが悔しそうな顔をした。
「そうよぉ。自分の体一つで戦ってきた女が、貴族のお坊ちゃんで満足できるはずないわ。エタン男爵はずいぶん貢いでいるそうだけど、賢い女なら余計に警戒するわよ。今頃はさっさと手を切ろうとしてるんじゃぁないかしらね」
「なぜです? 貢がれればそれだけ尽くそうとするものでは?」
ウィリアムがちらっとジェインを見て、訊ねた。
「逆よ、逆。お金なんて使えばなくなっちゃうじゃない。短期間にドレスだの宝石だの貢いでたらあっという間に破産だわ。そうなった時、誰のせいだと考えるかしらね」
「それは」
自分の過ちを反省せず、靡かない女を責めるだろう。素直に反省するようならそもそも貢物などせず、誠意でもって愛を伝えようとするはずだ。
「モデルというのも大変ですのね」
想像してぞっとしたのかジェインが蒼ざめている。クラーラはころころと笑った。
「そりゃぁそうよ。モデルで食べていけるのなんて若いうちがせいぜいですもの。だからでしょうね、モデルを職業としている女は一途だわ」
「モデルが、一途?」
いずれ爵位を継ぐ貴族であるアルフォンソは、偏見と蔑みの感情を隠さなかった。
「金で買われた女という自覚があれば、なおさらね。どれほど理想を夢見ようと、いつだって現実を生きている。女ってそういうものですわ」
打算的ともいえるが、男がいつまでも夢を追いかける生き物であるとするなら、そのぶん女が現実を見ていなければならない。実にバランスが取れているではないか。
思い当たる節があるのか、アルフォンソが頬を染めた。彼はまだ結婚しておらず、婚約者も恋人すらいない身だ。結婚には思うところがあるのだろう。
「ま、そんなアホほっといてジェインちゃんのドレスをどうするか決めましょ。時間は有限よ」
自分から言い出しておいてアホを切り捨てるクラーラに、とうとうジェインが吹きだした。淑女のたしなみとして口元を隠したが、肩が揺れている。
「そうですわね。わたくしそろそろ領に帰ろうと思っていますの。その際に何か役立つ物はないか見て回る予定ですので、動きやすいドレスをお願いしますわ」
社交の季節がすぎれば地方貴族は自分の領地に帰るのが常である。王都で仕事をしていたり、結婚の話が出ていたり、ただ単に王都に定住したいなど、事情のある者はその限りではないが、とかく金がかかり気を使う王都よりも住み慣れた故郷に帰りたいと思うのは当然だった。
特にジェインは婚約破棄の瀬戸際だ。噂好きの貴族に詮索されるよりは、実家でゆっくりしたほうが精神衛生上良いだろう。
「あらぁ、帰っちゃうの」
「はい。……対抗するわけではありませんが、わたくしも一人の女として、またプラティーヌ家の者として、領を発展させたいと考えておりますわ」
残念そうに眉を下げたクラーラだが、ジェインの決意を聞くや目を輝かせた。
「んまぁ、立派だわ、ジェインちゃん。そうよね、一人の男に固執するよりやりたいことを見つけるほうが健全よ。任せてちょうだい、どこへ行ってもさすがはプラティーヌ家の令嬢よと言われるようなドレスを仕立ててみせるわ!」
「ありがとうございます、クラーラ様!」
クラーラのドレスを着ていれば、いくら田舎の領であっても口さがない噂は吹き飛ぶ。いや、田舎だからこそその手の噂は娯楽となるのだ。これから領地を巡りなんとか盛り立てていこうというのに、肝心の地元民になめられるわけにはいかなかった。




