ピエトロ・ロペスの風・前
仕事は生きていく術であると同時に、誇りでもあると思うのです。特に男の人にとっては。
『金のリンゴ亭』常連のピエトロは、マチルダにしてみれば身を持ち崩してヤケ酒を煽るしかない典型的なダメ親父だ。
実際にそうとしかいいようがないのがピエトロの現状である。三十半ばの彼は一度結婚に失敗して以来うだつの上がらない底辺弁護士で、依頼人もめっきり来なくなっている。心配した友人が新聞のコラムなどちょっとした仕事をくれるが、入った金をすべて酒に費やしてしまい碌な生活ができず、身なりを整える余裕もないため依頼人が来てもこれはダメだとばかりに去って行く、悪循環に陥っていた。
「ピエトロさーん、ごめんくださーい」
古いアパートの一室がピエトロの住居兼弁護士事務所だ。うちのアパートよりボロい、とマチルダは思いつつドアを叩いた。
「……はい」
面倒くさそうにドアを開けたピエトロは、いかにも寝起きといった風貌だった。夜着のままガウンを羽織り、無精ひげは伸びたまま、寝癖の付いた頭をばりぼりと掻きながらの大あくびである。酒臭い息を顔面に浴びたマチルダはあまりのことについ鼻をつまんでパタパタと手を扇いだ。
「ちょっとピエトロさん、今まで寝てたの?」
「マチルダさん……?」
目の前にいるのがマチルダだとやっと認識できたのか、ピエトロは「ちょっと待っててくれ!」と言うやドアを閉めてしまった。さすがに若い娘の前に出られる恰好ではない自覚はあったらしい。ため息を吐き、マチルダは大人しく待つことにした。慌てて身支度をしているのか、ドタバタと物音がドアの向こうで響いている。
「すまない、どうぞ」
「おじゃましまーす」
足を踏み入れたマチルダは目の前の光景に回れ右をしたくなった。
片付けたつもりなのか、本や書類が部屋の半分を埋め尽くしている。テーブルの上には物がないが、床には埃や何かの食べかすのようなものが落ちていた。せっかくの絨毯に茶色い染みまでできている。はっきりいって、汚いのひと言だ。
弟たちの部屋よりひどいわ。マチルダは呆れかえった。
「それで、何の用だろうか? もしかして依頼かな?」
「月末ですからツケの支払いをお願いします」
依頼? と首をかしげつつ用件を切り出せば、ピエトロはわかりやすく固まった。
「ピエトロさん?」
「あー……、ツケか。うん、えーと、いくらだったかな?」
「銀貨二枚と銅貨三枚です」
よどみなく答えるマチルダに、今度は冷や汗を流している。
ツケが溜まったとはいえ銀貨二枚は高いわよね、とマチルダもピエトロの動揺に生温い目になった。
マチルダの月給が銀貨五枚と銅貨十枚である。アパートの賃貸料が月に銀貨三枚だ。マチルダは食事をほぼ賄いで済ませているし時折実家から野菜が送られてくるのでさほど食費はかからないが、クラーラへの支払いがあるため残るのは雀の涙だ。『金のリンゴ亭』はいつもニコニコ明朗会計、お手頃価格でご提供がモットーの店だというのにどうしたらこんなにツケが溜まるのだろう。
「ちょ、ちょっと待っててくれ」
先程と同じことを言ったピエトロは居間を出ると別の部屋に向かった。ガタンとまた大きな音がする。
マチルダは改めて部屋を見回した。
山積みにされた本といい、書類の束といい、やたら紙が多い。そのせいか空気が埃っぽく乾燥して鼻がムズムズした。体を捻ってキッチンを見れば、想像通り使われた形跡のない鍋やフライパンが邪魔だとばかりに追いやられ、代わりに空になった酒瓶が並んでいた。かろうじてヤカンだけがコンロに置かれている。
「ピエトロさーん」
声をかけると焦ったように「もうちょっと! しばし、しばし待ってくれ!」と返ってきた。マチルダは立ち上がると彼がいる部屋を覗きこんだ。
それだけやけに立派な机がドカンと鎮座していた。ピエトロはなぜか這い蹲って絨毯をめくり、おそらくへそくりと思われる小銭を拾い集めている。実に情けない姿にマチルダも苦笑した。
「ピエトロさん、ご飯まだでしょう? ちょっと持って来るからそれまでにお金用意しておいてください」
「えっ?」
返事を待たずにアパートを出たマチルダは、自分のアパートへと向かった。安アパートの並ぶ区域なので意外とご近所さんである。
***
「なんかね、放っておけないんですよね」
あれからマチルダはちょくちょくピエトロのアパートに顔を出しては料理をしたり、片づけを手伝ったりしている。三十半ばの男と十代の少女である、噂にならないはずがなかった。
「だって結局ツケもどうにかかき集めて銭貨と銅貨で銀貨一枚分しか払えてないし。どうやって生活しているのか心配になってしまって」
自分で育てる畑があるならいざ知らず、狭いアパート住まいである。極貧のピエトロがよく毎晩飲みに行こうと思えるものだ。身を持ち崩しても酒とは、ちょっと酒が恐ろしくなる。
「ピエトロちゃんもねぇ……」
クラーラは泡が消えたビールを一口飲んで舌を湿らせた。
「弁護士としてとても優秀なのよ。貴族じゃなくて、庶民の味方として人生相談みたいなこともやっててね、それこそツケの支払いをしらばっくれて逃げたやつから取り立てたり、離婚問題で子供をどちらの親が引き取るか丸く収めてみたり」
「え、あの人弁護士なんですか?」
「そこからかぁ」
マチルダからしてみれば弁護士は雲の上にいるなんだか偉い人だ。どう好意的に見ても駄目な大人のピエトロとイメージが結びつかなかった。
「奥さんと別れてからだね、ピエトロさんがああなったのは」
ミュートが話に入ってきた。マチルダをピエトロのところに行かせた張本人である。
「結婚できたんですか?」
うっそーと言わんばかりのマチルダにクラーラもミュートも笑うしかなかった。
ピエトロ・ロペスは庶民の味方として有名な弁護士だった。独立して事務所を構えた頃、独り身では不便だろうと世話役が入って医者の娘と結婚した。医者の娘であれば献身的に支えてくれるだろうと誰もがピエトロの活躍を期待した。
結婚して数年は順調であった。雲行きが怪しくなったのは、とある事件がきっかけである。
ある貴族の邸に仕えていたメイドが主人の手付きとなり、怒り狂った奥方に追い出されたという、どこにでもありそうなありふれた事件だった。ところがメイドは妊娠してしまい、しかも同意のない行為だったにも関わらずこの仕打ち。メイドの家族は子供の認知と、せめて手切れ金をよこせと訴訟を起こした。この時にメイド側の弁護士になったのがピエトロである。
こうした場合、貴族がいくばくかの金を支払って事を揉み消すのが定石である。しかしその貴族は誘って来たのはメイドだ、妊娠も他に男がいたんだろうと反論してきたのだ。こうなると厄介になる。なにしろメイドがその時まで貞操を守っていたかどうかなど本人にしかわからず、本人の申告では恋人がいなかった証明にはならない。またメイドが襲われたといって金を騙し取るケースもあり、裁判は揉めた。
そしていつの時代でも金と権力を持つ者が勝つのもよくある話である。裁判はメイド側の敗訴で終わった。
ピエトロは再審を訴えたが世間の冷たい目に耐え切れずメイドは流産してしまい、それをやはり子などいなかったではないかと今度は奥方がメイドを訴えてきた。メイドの家族は離散、メイド本人は娼館に身を売った。
ピエトロの弁護士としての魂に消えない傷を残したのは、自分が信じた法が貴族という身分を前に何の役にも立たなかったことであった。ただでさえ搾取される平民たちは、では一体何を頼りにすれば良いのか。正義の使徒であるピエトロはこの時貴族という巨悪と戦うことを決意した。
「でもね、貴族ってのは強いのよ。そんな非道をするはずがないという大前提がもうできあがっちゃってるのよねぇ」
「貴族の悪い話なんてそこら中に転がってるんだけど、そんなもん奴らには屁でもないからね」
そしてピエトロの連敗記録がはじまった。ミュートの言う通り貴族に泣かされる者には事欠かず、ピエトロは彼らを説得して訴訟を起こし、何度も負けた。時には費用を持ち出してまで依頼人を集い、生活は少しずつ苦しくなっていった。
「それで奥さんに愛想つかされちゃったってわけですか」
「身も蓋もないわねぇマチルダちゃん。そうよ、せめて奥様に理解があれば良かったんだけど」
せっかく弁護士の妻になったのに贅沢ができないのでは意味がない。ピエトロの妻はそう吐き捨てて出て行った。おそらくはもっと酷い言葉で、この甲斐性なしくらいは吐き捨てただろう。
「そこからはもう、坂道を転がり落ちるように生活は駄目になる一方。……悔しさをお酒で紛らわせるしかないんでしょうね」
「マチルダ、あんたも負担だったら手を引きな。マチルダを行かせたのはこんなに若い娘だって頑張ってるのを見れば、ピエトロさんももう一度発奮すると思ったからだよ」
「おかみさん」
そうだったのか。今夜も酔いつぶれているピエトロにマチルダはやさしい目になった。
「ピエトロさん、大丈夫だと思います……。だってあの狭いアパートにあんなにでっかい机を置いてました。どこも散らかってたけど、机の上は綺麗だったんです」
あの机はきっとピエトロの弁護士としての最後の誇りなのだ。依頼がなくとも情勢に気を配り、いつでも戦える準備をしている。
「あら、まあ」
「ですってよ、ピエトロちゃん?」
テーブルに突っ伏したピエトロのいびきがひときわ大きくなった。騒がしい店の中、クラーラたちはくすくすと密やかに笑った。
次の日、ピエトロは久しぶりに朝に起きるとまだ冷たい水で顔を洗い、髭を剃った。
マチルダほどの少女に純粋な信頼を寄せられて奮い立たないようでは男ではない。そう思いはしても昨日の今日で依頼人が来るわけもなく、ピエトロは通りに出て新聞を買うと仕事机に陣取って目を通し始めた。
「国民議会か……」
最近の話題といえばなんといっても国民議会の設立である。ピエトロの念願でもあった平民の自立となる第一歩をとうとう踏み出す時が来たと、どの新聞も一面で書きたてている。もっとも詳しく書いているのは『王都新聞』だ。なにしろ議会設立の立役者として記者が名を連ねている。彼、テオドール・ヒューズはピエトロの友人でもあった。
マクラウド・アストライア・クラストロの声がかりで国民議会が設立する。ある日届いたマクラウドからの手紙には議長席を用意して待っていると信じがたいことが書かれていた。しかし貴族への嫌悪感が湧き上がり、ピエトロはけんもほろろに断ったのだ。クラストロは宰相家だ、いかに王と対立していようと貴族に媚びを売る真似はできない。国民のための議会が貴族の舵取りではじまるのは納得できなかった。
後悔しているが、していない。もしも議長になっていれば今頃はツケに悩まされることもなく堂々とマチルダに会えただろう。だが、長年弁護士として貴族に踏みつけられる人々を見てきたピエトロにとって、クラストロに縋るのはプライドが許さなかった。弁護士としての誇りであり、一人の人間としての誇りである。
クラーラを裏切者と言ったのも、理解者だと思っていたクラーラが貴族に匿われていたと知ったからだ。数少ない友人まで貴族に奪われた。失望がピエトロを突き刺した。クラーラは笑って許してくれたが、その痛みは消えなかった。
「そりゃあアレですよピエトロさん。仕事がないから余計なこと考えちゃうんですって」
すっかり日常となったマチルダとの朝食兼昼食を取りながら愚痴を零せば、あっけらかんとそんな言葉が返ってきた。ピエトロが朝を抜くのは金がないからだが、マチルダは賄いが仕事前と仕事終わりに出るので必要がないからだった。あまり食べると、どことはいわないがさらに大きくなってしまう。
マチルダの実家から送られてきた固いパンを手作りのスープに浸して食べる。ミュートから貰った腸詰めと潰して焼いたじゃがいもがメイン料理だ。
「それは、そうだが……」
仕事がないから困っているのである。ピエトロは一回り年下の少女の正論に困った顔になった。
「実家じゃ働かざる者食うべからずですからね、ピエトロさんも我儘言ってないで仕事探しなよ」
「我儘ではない、信念だ」
「ああ、こじらせると面倒なやつ。父さんも一時期やたらと餌の配合にこだわってたことありました。男のこだわりに真剣に関わると碌なことにならないって母さんも言ってましたよ」
「そんなことはないぞ!?」
酪農家が牛の餌にこだわりだしたら確かに経費がシャレにならないだろうが、一緒にしないでもらいたい。あのメイドを例に挙げるまでもなく、人の一生を左右する仕事なのだ。
「牛と人では話が違う」
「馬鹿にしてます? 農家はみんなが食べる物を作ってるんですよ? 今食べてるお芋だって父さんたちが育てたのに!」
「あ、いや、すまない!」
家業を馬鹿にされたとマチルダが立ち上がって抗議すれば、ピエトロは慌てて謝罪した。そんなつもりではなかったのだ。
父親とさほど変わりない歳のピエトロが必死に謝るのがおかしかったのか、マチルダはフフンと笑うと座り直した。
「ピエトロさんの信念も結構だけどさ、お足がないと生きていけないでしょ。現実見ましょう」
しみじみとした口調で言われてしまい、ピエトロはずどんと落ち込んだ。
マチルダが片づけを済ませて帰った後、再び仕事机で新聞を読んでいたピエトロだが、彼女の言葉が頭から離れず文字が目を素通りして行った。
「我儘言ってないで働け、か……」
あたりまえのことである。
生まれたての赤子ならいざ知らず、子供であってもある程度できるようになれば家の手伝いをする。労働をせずとも生きていけるのは貴族くらいだが、その貴族も領地の経営や議会、王宮に出仕していたりと実はけっこう働いている。もちろん搾取するだけで働かない貴族もいるが、目に見えないだけで貴族が働いていないというのは誤解なのだ。
一方の自分はどうか。依頼人が来ないからと言い訳をして日々飲んだくれ、心配する友人に悪態を吐いておきながら金をせびる。貴族以下の、いや、それではまともな貴族に失礼だ。浮浪者と何ら変わりはないではないか。庶民の味方、弱き者のために戦う正義の使徒であったピエトロ・ロペスはどこに行った。
新聞を持つ手に力が入りくしゃりと紙が潰れた。いけない、気になった記事はスクラップにしなければならないし、燃えやすい新聞は大切な薪代わりだ。
ピエトロの両親は貧しいながらも息子の頭の良さに早くから気づき、学校に通わせてくれた。爪に火を点すような暮らしの中、自分たちは食べずともピエトロには充分食べさせてくれたのだ。お母さんはもうお腹いっぱいだから、と痩せて骨の浮き出た手で頭を撫でてくれた母の笑顔を、ピエトロは忘れたことはない。
権力を持たない弱者が身を守るには法律だと、学校を卒業したピエトロは弁護士のマイヤー氏に師事し、懸命に学んだ。『神と法と王の名において』すべての民は平等であるべきだというピエトロの信念を理解してくれる仲間にも恵まれた。これこそ自分の生きる道だと信じた。
やがて独立し、個人事務所を立ち上げると同時に結婚した。さすがに一人では手が回らず人を雇おうかと相談するうちに、それなら結婚しろと紹介されたのだ。
ピエトロの元妻は医者の娘だった。医者、と聞くとさぞや羽振りが良いように思えるが、それは一部の腕と要領とコネと金のある者だけで、大半の医者は地域の庶民を相手にするいわゆる町医者である。彼女の父親も、御多分に漏れず後者であった。
父親は一時期王宮で医官として働いていたが、学閥の闘争に敗れ失意のうちに王宮を追われた。その後地方で細々と町医者をやっていたが上に伸し上がる野望を捨てきれず、かといって切り捨てられた存在に手を差し伸べる貴族がいるはずもなく、王都に出戻ったものの下町でしがない医院を開くくらいしかできなかった。彼女はそんな父親を献身的に支えていたという。
ピエトロと結婚したのは父親から離れたかったからだろう。うら若き娘の、女の一生で一時しかないもっとも輝ける時間を野心と現実の狭間で苛立ち荒れる父親に奪われていたくない。弁護士の妻ならもっとましな生活ができる。もしかしたら貴族とお知り合いになり、夜会にだって招待されるかもしれない。そんな思いで彼女はピエトロに嫁いだ。
数年は順調だったのだ。庶民派の弁護士として慈善活動を好む貴族夫人の間で名が売れたし、評判を聞きつけて上流階級を目指す事業主や地主なども依頼に訪れた。彼女が望んだ夜会への招待もちらほらとあった。
しかし彼が優先するのはいつだって両親のような貧しい庶民で、贅沢な暮らしなど夢のまた夢だった。そこにあの事件である。信念のまま行動し家庭を省みないピエトロに、とうとう妻は怒りを爆発させた。
『もっと贅沢をして、夜な夜な晩餐会に行ったり舞踏会に行ったりできるんじゃなかったの!? こんなはずじゃなかった、私の人生を返してよ、このクズ弁護士!』
そんな約束などしたはずはないのだが、いつの間にか妻の中では決定していたらしい。幼い頃に味わった一時の贅沢が忘れられず、父親を見限り今度こそとピエトロに嫁いだのに現実には真逆であった。お前も父親と同じ口だけ男だと喚き散らした。妻は他に男がいたらしく、甘い口車に乗せられてピエトロを罵倒したのだ。
もっとも身近にいた妻の変わりようにピエトロは唖然とし、それに気づかなかった自分にも衝撃を受けた。クズ弁護士と言われて反論もできず、浮気を確かめる勇気のないまま離婚に応じたのだった。
今も妻を思い出すと後悔が胸に重い塊となって迫ってくる。彼女の描いた贅沢は絶対に与えてやれないとは思うが、これからの家庭をどうすべきかもっと話し合うべきだった。女の沈黙は許容ではなく我慢であり、ついに爆発した時にはもう手遅れだと思い知った。そして後には累々と残骸が佇むのみである。弁護士として泥沼の離婚劇をいくつも見てきたのに、いざ自分に起きるとこのざまだった。ピエトロはすっかり自信を喪失し、資金繰りに行き詰まり事務所を畳んでこのアパートで時々来る依頼人を待つようになった。その依頼人も酒臭く寝癖がついたまま髭も剃らない、一見してだらしなく頼りないピエトロに失望した顔をして去って行ってしまう。
「…………」
このままでは本当に駄目になる。アルベールの乱の時、国民議員への勧誘の他にアルベールに加担しようという誘いもあった。ピエトロはどちらも蹴り、結果は国民議員率いるクラストロの勝利で終わったが、はたしてこれで良かったのだろうか。
時代が変わってゆくことを肌で感じ慄くとともに、時代に取り残される焦りも感じているのが現状だ。どうにかしたい。もどかしい気持ちだけが込み上げてくるが言葉にならない。この期待と焦燥を、何と表現すれば良いのだろう。なんということだ、言葉で思いを伝え戦うのが弁護士だというのに、自分の気持ちすら言い表せないなんて。
ピエトロは立ち上がると埃を被った帽子を手に取った。白く積もった埃がまるで無為に過ごした歳月そのもののようで、そっと指先で振り払う。黒いトップ・ハットはピエトロそのものだった。忘れ去られて埃を被ろうともまだまだ使える。きちんと手入れをすればもっとずっと長く、役目を果たせるのだ。
「……今の私に、何ができるかわからんが」
とりあえず、行こうか。愛用の帽子を頭に乗せ、杖を持ってピエトロは部屋を出た。




