王女シャルロッテの失恋
一方その頃王宮では。
王宮では第2王子マルセルをはじめとする王子と王女が一室に立てこもっていた。
緊迫した空気を感じ取ったのか、第3王子ルドルフと第4王子ヘンリーは泣きじゃくっている。ルドルフは4歳、ヘンリーは2歳である。それぞれ乳母に抱かれて宥められていた。彼らの前にはシャルロッテが陣取り、幼い弟を守ろうとドアを睨みつけている。
窓はぴっちりとカーテンが閉められていた。王宮の中でも王族一家が住まう一画はかなり厳重な造りになっている。外から投石されたくらいでは届くこともないが、銃を使ってきたら厄介だった。割れた窓ガラスが飛んでこないとも限らない。カーテンは外から見えないようにするだけではなく、防御の役目も追っていた。
ルドルフ、ヘンリー、シャルロッテを部屋の中央に置き、周囲を女官と護衛騎士で固めさせたのは第2王子のマルセルである。
すでに成人し、兄アルベールの不祥事をうけて王太子の最有力となったマルセルは、自分の立場が非常に危ういものである自覚があった。
フランシーヌとの婚約が破談で終わるまで、アルベールにはこれといった瑕疵がなかった。未来の王に対する国民の印象を良くしようというアルベール派の貴族による情報操作もあるが、その容姿もあいまってアルベールの評判は良かったのだ。アルベールの周囲には未来の王に投資し今のうちに地盤を固めようと野心を燃やす貴族や商家が集っていた。
ところがアルベールは失脚、今までの投資はすべて無駄になってしまった。そこに今回の乱である。損失を取り戻そうとする者はマルセルに食指を伸ばし、あるいはマルセル排除に蠢いていた。
「大丈夫」
怒号や破壊音が時折聞こえてくる部屋で、両足を踏みしめて立つシャルロッテが何度目かわからない言葉を繰り返した。
「きっと、ルードヴィッヒ様が助けに来てくださるわ」
彼女の心頼みはそれであった。
ルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロが颯爽と現れ、救ってくれる。物語に出てくる姫に忠誠を誓った騎士のように。
あまりにも現実味のない現状に酔っているのか、シャルロッテはうっとりと頬を染めていた。
マルセルは初恋に浸る妹に王子らしからぬ舌打ちをしたくなった。
第2王子のマルセルはアルベールの補佐となるべく育てられつつも、万が一の時のスペアとして扱われ、しかし野心を燃やす貴族にはアルベールへの対抗馬として利用されてきた。アルベールは良い兄であったが第1王子としての優位性を理解しており、マルセルが前に出ることを許さなかった。もとより王位を巡って骨肉の争いなどするつもりはなかったが、それでもほんの少しくらいは気づかって欲しかったのが本音である。
そんなマルセルが最も危険視しているのがシャルロッテの初恋の相手だった。恋を夢見る妹には悪いが、クラストロに保護されようものならこの先一生彼らの傀儡として生きていくことになるだろう。クラストロ家に感情は通用しない。利害でかけひきできる貴族や商家のほうがまだましだ。
来るのならクラストロ以外の、できれば側近貴族の兵が良い。なにげに贅沢なことを願いつつ剣に手を添えてドアを睨みつけるマルセルの耳に、銃声が轟音となって響いた。
***
ルードヴィッヒ率いるクラストロ兵は、虎の子の狙撃手3名をクラーラの店に回し、残りで王宮へと進軍した。
クラーラが領地から秘かに送り届けた新式銃は50丁。護衛はそのまま教官として王都に留まり、クラストロ兵の調練に加わった。すでに施条は定着しており、新たに発明された薬莢に慣れるためである。
火縄だった頃と比べて発射速度が格段に上がった。銃弾も球形から尖端となり、どんぐりのような形をしている。おかげで命中率と飛距離も伸びた。
性能の違いに慣れるには訓練あるのみだ。改良されたが薬莢が詰まると暴発する危険もある。銃に限らず、軍人であれば自分の武器の整備点検ができなければ話にならない。手入れを怠った兵がどうなるか、ルードヴィッヒの兵は知っていた。
砲や銃が戦場の主流になると、将のいる本陣は前線ではなく後方に置かれるようになった。ルードヴィッヒは銃歩兵一個小隊を前線に敷いた。うち狙撃手は12名。銃弾は一人当たり約50発。クラストロ家の兵が20名、他は辺境軍の後備役である。これが本格的な戦争であったらひとたまりもないが、こういった局地的戦闘では少数精鋭のほうが効率が良かった。
「一斉射撃を2回。その後は王宮に突入する」
「貴族私兵に紛れて平民もおりますが」
ルードヴィッヒの副官でもあるアルス・チェルニーが気づかわしげに訊ねた。貴族の兵はわかりやすい。各家がこだわった軍服を着ているからだ。クラストロ家は紺碧。襟章に双頭の龍と百合の紋が入っている。平民は着の身着のままだ。
一斉射撃となると貴族私兵のみならず平民にも被害が及ぶ。後のことを考えれば民衆の恨みを買うのは得策とはいえなかった。
「ここは王宮だ」
ルードヴィッヒは短く答えた。その権利を持たぬ者が、まして武装して踏み荒らして良い場所ではない。貴族となればなおさらだ。武装兵と共に突入すればたちまち反逆者として討伐の対象となる。ルードヴィッヒが兵を率いていられるのも兄が宰相として命令を出したからである。命令文書はルードヴィッヒの懐にあり、だからこそ他家に王子たちを確保されるわけにはいかなかった。一時的にでも王子を王に据え、マクラウドを罷免されたら、今度はルードヴィッヒが反逆者にされてしまう。
「了解。一斉射撃の後に王宮に突入します」
「敵を戦闘不能にさせられれば良い。首は取らず、殿下方の確保……いや、保護しろ」
「はっ」
アルスは内心でほっとした。今回の戦いはなんといっても早さが求められる。とはいえ殺意に満ちた敵を前に恐怖にかられた兵は理性を失い、殺される前に殺してしまえとばかりに暴走しやすかった。
だが一斉射撃を2回だ。1回だけなら撃たれた味方に怒り狂って突っ込んでくるだろうが、2回目で戦意が削がれる。しかもこちらの銃は彼らの知らない新式銃だ。火縄のように弾を込めて火薬を入れる手間がないため、発射速度が違う。こちらが手こずっている間にと考えて近づいた敵を、近くなったぶん上がった命中率で撃てるのだ。そうなればもう駄目だ。倒れて呻く味方に次は自分だと思ってしまう。後続の足が止まる。
そこにルードヴィッヒの登場である、総崩れになるだろう。
もっとも効率よく敵陣を壊滅させ、しかも双方の被害は少ない。アルスはルードヴィッヒの精神がこの時にあっても変わらないことに安堵した。
***
一斉射撃の轟音が閉ざされていた窓ガラスを揺らした。
「きゃっ」
シャルロッテは肩を竦ませて耳を塞いだ。やっと泣き止んでいたルドルフがまた目に涙を溜める。泣きすぎて枯れた喉からひっというしゃくりあげる音しか出なかった。泣き疲れたヘンリーは乳母の腕の中でぐったりと眠っていた。
2回目の轟音の後、あれほど騒がしかった外が静かになった。
「どう……なったのでしょう?」
体を竦ませてシャルロッテの後ろにいた女官が呟いた。護衛騎士の一人が身を屈めて窓に近寄るより早く、さっと駆け寄ったシャルロッテがカーテンを開けた。
「あっ!」
傷ひとつついたことのない白い指が窓の向こう、王宮の庭園を指した。
「ルードヴィッヒ様よ! やっぱりルードヴィッヒ様が来てくださったわ!」
喜びに沸く妹にマルセルが確認する。
「本当か?」
「間違いないわ。双頭の龍に百合の旗よ!」
ほぼ同時に王宮のあちこちで歓声があがった。他の部屋に立てこもっていた者たちもクラストロの旗を見つけたらしい。
マルセルの眉がわずかに寄った。
できることなら交渉の余地のある貴族がいいという希望はあえなく砕け散った。マルセルにとって、クラストロは得体のしれない大貴族である。姿を見せず王の懇願を無視する兄公爵も、冷徹な態度を崩さず王女に対してもそっけない弟侯爵も、隠居を決め込み無関心を貫く前当主も、遠い親戚という感慨すら湧かないほど遠かった。何を考えているのかわからない彼らをマルセルは化け物のように感じていた。
「あっ、姫様!?」
女官の手を振り払ってシャルロッテが部屋を飛び出した。左胸に着けた愛しい初恋の彼から贈られたブローチをそっと撫でる。危険を省みずに助けに来てくれたルードヴィッヒに彼女は恋の成就を確信していた。
いつもの王宮はいつもと違いシャルロッテが嗅いだことのない臭いで充満していた。硝煙と血液であることなど想像すらできない少女は、大きな音がする方向を目指して走った。
「ルー……」
見間違えるはずもないルードヴィッヒを見つけ、シャルロッテは満面の笑みを浮かべて抱き付こうとした。だが、背後から伸びた手に捕まる方が早かった。
「きゃあっ?」
「シャルロッテ王女、お探しいたしました」
おそらく貴族であろう、身なりの良い男は人の好さそうな顔に焦りを浮かべつつシャルロッテに微笑みかけた。
20代の半ばほどか、精悍な体躯を禁欲的な軍服が包んでいる。所属を示す襟章は彼女の知らない紋章だった。一瞬ルードヴィッヒの部下かと思ったシャルロッテは落胆し、警戒した。
シャルロッテの警戒を素早く察した男はにこりと笑い、そっとシャルロッテの手を取って片膝をついた。もう片方を胸に添える。騎士の誓いのポーズである。
「シャルロッテ王女、我が麗しの姫よ。どうか御身を守る栄誉をあなたを恋慕う哀れな男にお与え下さい」
このまま手の甲への口づけを許せば誓いが成立する。だがシャルロッテははじめて聞いた誓いの言葉に感動するより、男の声や表情の端々に滲み出る欲の影に怖気だった。さっと手を引き、翻して男の頬を打つ。異性に性的な目で見られたことに対する本能的な恐怖と、嫌悪。シャルロッテが欲しいのはルードヴィッヒの誓いであり、心である。それを見ず知らずの男に横取りされたようで苛立った。
「無礼者、控えなさい」
こんな男よりルードヴィッヒは、と探すと、彼もこちらに気づいていた。チッと下品な舌打ちが聞こえた。
「わかっておられないようですな、王女」
「なにを……っ?」
乱暴に抱き上げられたシャルロッテは慌てて抜け出そうとした。がっちりとした男の腕が少女の細い腰に回されていて、身動きがとれない。
「王子を擁護するより王女の婿になったほうが手っ取り早く国を牛耳れる。未来の夫にそうつれなくなさいますな」
10歳の少女など、結婚してしまえばどうにでもなる。花と菓子で懐柔できなければ力づくで思い知らせるだけだ。男の言葉から残酷な思惑が見て取れた。
「いやよ! ルードヴィッヒ様!」
「ははっ。年上趣味、不貞の王女を娶る物好きな男など他にはいませんぞ。幼女を抱く気にはなれんが、蔑ろには」
男の言葉が不自然に途切れた。
ぐらりと傾いた体から力が抜け、シャルロッテが床に落ちる。そこに首から血を噴出させる男が倒れ込んだ。
「ひぃっ」
成人男性の下敷きになった少女がなんとか脱出しようと手を伸ばしてもがいた。ぴちゃ、とその手が濡れる。
「何をしておられるのです、王女」
「え」
液体が血であることを脳が認識するより先に低いバリトンが呼びかけた。顔を上げたシャルロッテは待ち焦がれていたルードヴィッヒが冷たく見下しているのを見て蒼ざめる。彼の持った剣先から血が滴っていた。
「ルードヴィッヒ様?」
どうしてここに。さっきは視線の先にいたはずなのになぜ後ろから現れたのか。首を斬られて未だ血を流す男にシャルロッテは見ないふりをした。理解してしまえば怖くなる。自己防衛である。
「ルードヴィッヒ様!」
と、そこに、シャルロッテがルードヴィッヒだと思っていた男がやってきた。シャルロッテが呆然と目を見開く。
「バルファス伯の次男だな」
「反王家派の貴族ですね。王子方は手が出せないと見て王女を取り込もうとしましたか」
「反王家も親王家もない。この有り様ではな」
ルードヴィッヒが皮肉った。
ひどいものである。
運よく護衛と共に部屋に立てこもることができた者はいいが、そうでない者たちは我先にと逃げ出した。そうした際の定石で金になりそうな銀食器はもちろん、そこここに飾られた花瓶、陶器の置物、王族の私物まで片っ端から盗んでいった。王宮勤めともなればそれなりの身分の貴族だが、忠誠心があるかは別だ。フローラには信奉者とも呼べる派閥がいたが、エドゥアールには国家という花の蜜を吸い根を食い荒らす者共しかいなかった。王子や王女など言わずもがなである。
「無様なものだ」
ルードヴィッヒが吐き捨てた。
それから血まみれで座り込んでいるシャルロッテに視線を落とす。
「もしや、私とルードヴィッヒ様の見分けがつかないのでしょうか」
もう一人のルードヴィッヒが控えめながらも嫌悪を露わにした。馬鹿娘、とでも言いたげである。
「そう簡単に見分けられても困る」
それに、と続けたルードヴィッヒが喉の奥で笑いを噛み殺した。
「案外お前が初恋の相手かもしれないぞ、アルス」
「お戯れを」
「どうかな。僕たちが入れ替わっていても気づかぬ王女だ」
「え……」
ルードヴィッヒと彼の影であるアルスは時々入れ替わっていた。クラストロの代官でもあるルードヴィッヒは多忙で、とても王宮で王女のお守りまでしている暇はない。アルスがルードヴィッヒに成り代わってもシャルロッテはいっさい気づかず、少しでも気を惹こうと振舞っていたのだ。
「恐れながら王女殿下、殿下のお守りは私の任ではございません」
「ルー、ド、ヴィッヒ……」
いつか言われたことのあるセリフだった。意味を理解したシャルロッテは縋るように彼を見る。
「僕のヴァイオレットは僕とアルスを見間違えたりはしません。王女、これからはよく人を見る目を磨くことです」
シャルロッテの肩がびくりと揺れた。
血だまりにいるシャルロッテに手を差し伸べることさえせず、ルードヴィッヒは見下ろしている。どれだけ探してもその黒い瞳にはシャルロッテが求めたあたたかな色はなく、ただ冴え冴えとした眼差しがあるだけだった。
駄目なのだ。どれだけ好きでもルードヴィッヒが愛しているのはわたくしではない。それを痛感し、シャルロッテは静かに涙を流した。
そこに兵が走って来た。さすがに直接ルードヴィッヒに声をかけることはなく、アルスに何事かを言う。
「王子殿下は全員無事に保護したようです」
「そうか。作戦は終了。国旗を降ろし、代わりにクラストロの旗を掲げろ」
「はっ」
短く返事をしたアルスが兵に同じことを伝える。誇らしげな表情をしたその兵は、来た時と同じくきびきびとした足取りで去って行った。
作戦。ルードヴィッヒが来たのはシャルロッテを救出するためではなく、乱を収めるためだった。事実が胸に突き刺さり、痛みに耐えきれずシャルロッテは泣き続ける。声も上げず、幼いといって差し支えない少女の涙にも彼は何ひとつ感情を動かすことはなかった。
「シャルロッテ王女」
いくつかの指示をアルスに出したルードヴィッヒは、副官であり自分の影である彼の咎める視線にようやくシャルロッテに向き直った。
しばらく言葉を探す。
末の息子とそう変わりない年頃の少女だ。子供なのだ。生まれ落ちた瞬間から王女としての運命を定められた娘。ルードヴィッヒは彼女がこれからどういった運命を辿るのか知っていた。憐憫と、これで解放されるという安堵感、そして胸の奥底で息を潜めていた子供に対する父性にも似た同情が、ルードヴィッヒをはじめてシャルロッテに向き合わせた。
臣下としてではなくただ一人の男として立つルードヴィッヒにシャルロッテの涙がようやく止まる。固唾を飲んで言葉を待った。
「王女、人はだれしも心に獣を飼っています。それは時に暴走し、自分では制御ができないこともある。けれども」
ルードヴィッヒはそこで一度瞼を閉じた。
「……けれども、獣を飼いならしてこそ人なのです。愛と名付けようと、絶望と名付けようと、それはたしかに人の心なのです」
血に濡れたちいさな手をルードヴィッヒはためらいなく取った。身を屈め、幼い少女の瞳に言い聞かせる。
「思いやりを持ってください。あなたに心があるように、私にも、誰にでも心があります。これから先あなたの歩む道は険しいものになるでしょう。辛く厳しいこともあるでしょう。ですが理解することをどうかお諦めになりませんように」
「ルードヴィッヒ様……」
シャルロッテはマクラウドを知らない。彼の出会った獣こそが彼女を食い荒らす魔王であることなど予想すらできないままだった。ただこれでルードヴィッヒとはお別れなのだという事実だけを噛みしめていた。
この後シャルロッテはアルベールの公開処刑から続くエドゥアール王の退位、第2王子マルセルの立太子、マクラウドによる執政のどさくさに紛れて帝国に嫁入りする。王妃フローラの葬儀は王家の不祥事と立太子式典の合間にひっそりと執り行われた。シャルロッテは母の服喪が開けぬうちに嫁ぐことになったわけだが、アルフレヒドの年齢的問題もあり帝国から催促されていたため教会もこれを黙認する。何より国全体に漂う暗い空気に倦厭が広がった国民が明るくめでたい話題を強く望んでいた。
出立の日、華やかなドレスに身を包み涙を浮かべて笑顔で手を振るシャルロッテの胸元には、初恋の形見がきらきらと光っていた。
長かった革命編もこれで終了です。暗い話にお付き合いくださりありがとうございました!
次からは新時代へと進むクラーラと少女たちが帰ってきます!




