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アルベールの終幕・後


 帰国したアルベールが真っ先にしたことは、ユージェニーを見つけ出すことだった。幸福の最中にいるであろう彼女を攫い、その目に今の自分をしっかりと刻みつけることで後悔させるつもりであった。彼女の態度によっては殺すことも視野に入れていた。


 激情に任せて手紙を焼いてしまったアルベールだが、愛する女性の嫁ぎ先については調べてあった。貧乏とはいえ貴族の娘が嫁ぐにはあまりにも酷な寒村、しかも相手の男は寡夫であった。先妻の娘までいるという悪条件である。当然、アルベールは反対した。せめてもう少しまともなところに行かせてやってくれと懇願した。だが、その時の彼には彼女の今後について何かを言う権利もなかったのだ。あの夜に引き離されてから一度も会うことが許されず、手紙を出すこともできなかった。アルベールと同じくユージェニーを慕っていた側近から嫁ぎ先の報告を受けるのが精一杯であった。


 国内が荒れていることは知っていたが、到着した港町はそれなりに賑わっていた。港町から乗合馬車を使って移動、手持ちの資金が足りなくなれば持ちだした装飾品を売ってしのいだ。


 アルベールの素性がばれたらまずいと、二人は粗末なフード付きの外套を着て顔を隠していた。それでも旅人など滅多に来ない村では不躾な視線がいくつも飛んできた。


 ユージェニーの嫁ぎ先は、想像していたよりもずっと粗末な建物だった。昔何かの功績で準男爵の地位を与えられたという話だったが、いかにも食い詰めて見栄を張ることもできない家である。猫の額ほどしかない庭は荒れ果て、枯れた雑草が手入れされることなく伸びていた。手紙の内容と違うことに気づいたアルベールの胸に嫌なものが過ぎる。


「本当にここなのか」

「そのはずですが……。少し様子を見てまいります」


 リョートがそっと庭へ回り、窓から部屋を覗きこんだ。アルベールを振り返って首を振る。ユージェニーはいなかった。


「男がひとり、居間と思わしき部屋で飲んだくれておりました。ユージェニーはおろか、娘も見当たりません」


 それどころか家事をする物音すら聞こえなかった。リョートの報告に嫌な予感が大きくなる。


「村人に尋ねてみましょうか」

「いや……あれが娘なのではないか?」


 若い娘がひとり、こちらに歩いてくる。村にはあまり若者は見当たらず、娘らしき人影も皆無だった。


 アルベールとリョートに気づいた娘が顔をあげた。ユージェニーとは似ても似つかない卑しさの滲み出た顔が、二人を見つけてにやにやと笑った。


「貴族様、またあの女に貢物? ご苦労様!」


 ぎょっとした二人がおかしかったのか娘の笑みが深くなる。媚びを売るように身を寄せた娘は、アルベールのほうが身分が高いと思ったらしく上目遣いで見上げてきた。


「なぁに? ああ、オカアサマでしたわね。お母様はあいにく忙しくしておりまして、お会いできないんですのよ」


 贈り物ならあたしが届けておきますと手を差し出した娘にアルベールの眉根が寄った。焦ったリョートが娘を引き離す。


「貢物、とはどういうことだ? 我らの他にも会いに来る者がいるのか?」

「実家からはしけたもんしか来ないけど、時々貴族様みたいな男から手紙と一緒に届けられるよ」


 よく見れば娘が着ている服は荒れた村には似つかわしくないものである。古着に継ぎを当てて着ていた村人に比べ、娘のワンピースは新品同様だった。装飾品を身に着けてはいないが、靴には綺麗なリボンがついている。靴は娘には大きそうだった。


「ユージェニーはどこにいる?」

「おあいにくさま。都で男を作ったとかで、面会させられないよ」


 アルベールは娘の顎を掴んで、そのまま持ち上げた。娘の爪先が浮きあがった。


「ユージェニーはどこにいる?」


 再度訊ねた。娘はじたばたともがくがアルベールの手はびくともしない。むしろますます力が強くなった。


 笑って媚びている場合ではないとようやく悟ったのか、娘の顔から血の気が引いた。アルベールの腕を掴んでいた手が離れ、教会を指差した。アルベールは娘を投げ捨てた。


「げほっ、げほっ、あ、あんた……っ」

「リョート、行くぞ」

「はい」


 突然の蛮行に呆けていたリョートだが、家ではなく教会を示されたことでようやく察した。喚く娘を置き去りにして教会に急ぐ。まさか、という思いだった。娘の態度からすればユージェニーは良い金蔓だったはずである。しかも身分が上の貴族だ。普通に考えればありえない。


 教会を訪ねてきた怪しい二人組に、司祭はいやな顔をした。ユージェニーについて聞くとやはりというため息を吐き、アルベールにとって残酷な事実を告げた。


「ユージェニー・モーランドは不貞の末にできた子を身籠り、狂死しました」


 彼女の醜聞は退屈な日常を送っていた農村にとって格好の話のタネだったのだろう。外に出れば責められ、家に居ても夫からは冷たくされる。耐えかねたユージェニーは腹に宿っていた子をろそうと、自分で何度も腹を殴打していたという。しかし失敗し、無理が祟ったのか死産の末に死んでいた。


「そ、れで、彼女の墓は……?」

「墓はありません。とうてい神の御許でお仕えできないほど、()()()()()()()()()()()()


 リョートが口を覆った。アルベールは立ち尽くす。神のしもべになれない死者は男女問わず魔女と呼ばれ、墓を作ることができないのだ。死体を捨てるわけにはいかないので埋葬はするが葬儀は行わず、どこに埋めたかさえ秘密にするのが慣習だった。


「ご遺族でしたらこちらを引き取ってもらえませんか」


 迷惑さを隠そうともしない司祭が木箱を差し出した。


「あの魔女……いえ、ご婦人が肌身離さず持っていたらしいのです。万が一病であったら大変ですから」


 アルベールが箱を開ける。中に入っていたのはレースのハンカチだった。何かが挟んである。


「……ユージェニー」


 彼女とはじめて会った時にアルベールが贈った、菫の花だった。アルベールから贈られたものはすべて換金され王家に返還されている。ユージェニーが持っていられる唯一のものだったのだろう。枯れてはいたが色褪せてはおらず、大切に保管していたのだとわかった。


 司祭は誰もいない教会を見回し、アルベールに近づき、それでも声を潜めた。


「コルセットの内側です。……愛してらしたのでしょう」


 このような村の教会では、魔女が出たというだけで一大事である。司祭個人がどれほど憐れもうと、村人からの嫌悪の前には無力であった。司祭にはアルベールが何者であるか、なぜここに来たのかわかっていたらしい。迷惑そうにしていたのも誰かに見られることを警戒してのことだった。


 夜半、村人が寝静まるのを待って、アルベールは家に火を放った。ユージェニーが死んで以来家事をする者がいないのか、散らかった居間は瞬く間に炎に包まれた。泥酔していた男と娘は起きる様子もなく、炎に飲み込まれていくのを見守ってアルベールとリョートは村を出た。追手はかからず、ある家に魔女の呪いが降り注いだという噂を聞いたのみだ。


***


「ユージェニーが産んだのは、わたしの子だ。妻と子の仇を討って何が悪い!」


 手紙が来た時に気づくべきだったのだ。ユージェニーの結婚は早すぎた。アルベールとフランシーヌの婚約破棄に対する処分だとしても早すぎる。おそらく誰かがユージェニーの妊娠に気づき、しかしアルベールの子であることから堕胎させることもできず、結果として別の男に押し付けることにした。


 別の男の子を妊娠した新婦。それを受け入れざるをえなかった男は不満をユージェニーにぶつけた。父に倣った娘も便乗する。狂死したというのは建前で、本当は虐待の末に殺したのだ。全身が痣だらけであったということからユージェニーは必死に子を守ろうとしたのだとわかる。言いなりになっておけば、少なくとも彼女の命は助かったはずだ。金蔓を殺してしまった父娘おやこは魔女として彼女を処分し、死んだことを実家にも伝えなかった。ばれるまで金品を引っ張るつもりであったのだろう。


 死亡日時までは教えてもらえなかったが、こうなると手紙もユージェニーの直筆であったのか怪しくなってくる。手紙を出せる環境ではなかったはずだ。アルベールを絶望させ、王家に対して反乱を起こすために誰かが手紙を書いた。あの手紙さえなければアルベールは今もユージェニーの幸福を祈っていられただろう。彼女への想いが消えなくても、諦めることができたはずだ。


「人の心を踏みにじって恥じぬ、そんな王などこの国にはいらぬ」


 ユージェニーの最期を聞いたフランシーヌは蒼ざめ、事切れた王妃を見て、王を見た。エドゥアールも初耳だったのかアルベールを凝視している。ユージェニーの嫁ぎ先を決めたのはエドゥアールではないが、選定に口を挟まなかったし、厄介払いと思って捨て置いたことに変わりはない。妊娠しているとわかっていればそれなりの手を打っただろう。謹慎処分を下されたとはいえアルベールは第一王子、その子ともなればいくらでも利用価値はある。反対に、生まれてもらっては困る者も多かった。


 そして、純粋にその子の死を望むのは屈辱を味わったジョルジュ家だ。次にジョルジュ家に見放されたら困る王家。ジョルジュ家に恩を売りたい親王家派が先走ったとも考えられた。


 マクラウドが目だけを動かしてチャールズを見た。容疑者だらけのこの場において、もっとも怪しいのはこの老獪な人物だ。チャールズは視線に気づくとやはり目だけを動かした。エドゥアールとフローラに走った視線にマクラウドは内心でため息を吐く。人心を読み、思いのままに動かす深謀は、チャールズから教わったようなものだ。ユージェニーの腹にアルベールの子がいるとあの二人が知れば結婚を許してしまう。誰も望まぬ、祝福すらされない結婚を二代続けてとなればマクラウドに顔向けできない。彼は世に出ることなく国の衰退を黙殺し、むしろ潰れるのを促進させていただろう。それではチャールズの献身が無駄になってしまう。もっとも手っ取り早く簡単な方法でユージェニーと腹の子を殺したのだ。


 夫にも父にもなれなかったアルベールは憎悪の矛先をフランシーヌに向けていた。フランシーヌは真っ向からそれを受け止めた。怯まなかった。


「人の心と言うのなら、アルベール、あなたがしたことは正しかったとでも? 婚約披露の場で不貞を告白され、わたくしが傷つかなかったとでも思っているのですか」

「お前がユージェニーを認めていれば良かったのだ」

「認めるも何も、わたくしは彼女を紹介すらされませんでした。それともわたくしから察して身を引けと?」


 アルベールが頭を下げるのが筋であろう。そうでなくともあの頃のフランシーヌは同年代の、つまり次世代を背負う男たちからの評判が悪かったのだ。生意気で、可愛げがなく、頭の良さをひけらかし、男を立てることをしない。そんなことを陰で言われ、事あるごとにユージェニーと比べられていた。あの頃の屈辱が甦り、フランシーヌの声が熱を帯びる。


「結局自分が可愛かったのでしょう。ユージェニーを殺したのはあなたです、アルベール!」

「あいかわらず、生意気な女だ……!」


 認めたくなかったことを断言され、匕首を握ったままだったアルベールの手に力が入った。フローラの血で濡れた柄が滑り、彼の頭を落ち着かせる。大きく呼吸をしたアルベールは、ふっと笑うとその手をフランシーヌに差し出した。


「まあいい。自分が可愛いのはお互いさまだろう? 軍服を着て、聖乙女気取りか。……ここには結婚相手を奪い取られた者と、奪い取った者が揃っている」


 フランシーヌがマクラウドを見た。彼は顔色ひとつ変えず、フランシーヌにうなずいた。しっかりしろと言われたようで、フランシーヌは気を引き締める。


「マクラウド・アストライア・クラストロ。ならびにフランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュ。わたしを支持しろ。国王エドゥアールを廃し、わたしが王位に就く」


 突拍子もない申し出にフランシーヌは激昂し、エドゥアールが目を剥いた。周囲の貴族議員も国民議員候補も、ついでに民衆も一瞬息を飲み、次に口々に彼を否定する。反乱を起こした以上アルベールの目的はそれだと思っていたが、ここまで追いつめられてなお宣言できる無神経さが信じられなかった。


「断る! 我が父の仇、国家の仇を誰が支持するものですか!」

「おまえはわたしを慕っていただろう。なんなら結婚してやってもいいぞ」

「愚弄するかアルベール! あなたとなんて、死んでもごめんだわ!」


 ここでアルベールの正確な思惑を読み取れたのはマクラウドだけだった。


 これはアルベールの復讐なのだ。王家に対する、側近に対する、貴族に対する復讐。アルベールのフランシーヌに対する思いは恋情というより妹へのそれに近く、彼女の恋を知っていたがゆえに罪悪感があっただろう。だからだ。アルベールは自分が悪に徹することでフランシーヌを守ろうとしている。


 本来ならアルベールとユージェニーが恋仲になった時点で周囲が諌めるべきであった。ところがリョートをはじめとする側近たちはユージェニーに傾倒し、彼女を王妃にと望んでしまった。まずいことに彼らの前には前例があった。エドゥアールとフローラの二人は、アルベールとユージェニーを正当化する理由になった。唯一フランソワがアルベールを諌めたが、それはもはや恋の炎を燃え上がらせる差し油にしかならなかった。


 むろん、アルベールとてすべての責任を誰かのせいにするつもりはない。王太子の座を捨ててユージェニーを選んでいればこんな結果にはならなかっただろうこともわかっている。だが、それでもどうしても思ってしまうのだ。誰かが殴ってでも止めていてくれれば、せめて両親が真実を話してくれさえしていれば、婚約披露の場であんな馬鹿な真似をしでかさなかっただろう。


 結婚式で花嫁を奪い、真の愛を誓った二人が結ばれる。言葉だけなら綺麗なものだ。だが、その場で花嫁を奪われ、悪役にされた花婿はどうなる? アルベールは裏切られ踏みにじられ忘れられることを強制された、生きたまま殺された者の苦痛と怨嗟を誰からも教えられなかった。愛の喜びに浸り幸福に光り輝く世界しか知らなかった。反対されても前例が王と王妃なのだから認められると本気で思った。立場が逆転するなど、想像すらしていなかったのである。


「わたしが王になったら身分の差などなくしてやろう。自由を与え、愛し合う者同士がはばかることなく結ばれる。貴族も平民もなく、自分の好きな職に就き、自由に生きることができる国だ!」

「秩序と規律を無くして何が自由か! あなたの自由はいたずらに混乱を招くだけ。自由の名のもとに民を放り捨てるに等しい!」


 アルベールが昏い光の宿った瞳を眇めた。手に持っていた匕首を投げ捨て、アントワーヌから奪った剣を抜く。切っ先を向けられたフランシーヌが驚愕の表情でアルベールを見て、自分もレイピアを構えた。


「姉様!」

「何もできぬ英雄などいらぬ。こんな国など滅んでしまえばいいんだ!!」

「下がって、リアン。あの方はわたくしが倒さなければならないの」


 子供の癇癪のように叫んだアルベールにフランシーヌが哀しそうに首を振った。


 フランシーヌに剣の心得はない。構えも素人そのものだった。だが、それでも負ける気はしなかった。背後の民衆がフランシーヌの名を連呼している。わたくしは一人ではない。そのことが彼女に勇気を与えてくれた。


 フランシーヌが前に出た。同時にアルベールも距離を詰める。じりじりと間合いを取りながら、フランシーヌは隙を伺った。


 アルベールと呼吸を合わせるのは得意だった。彼の婚約者として何年も過ごし、何を考えているのか察して動くのはフランシーヌにとって癖のようなものだ。ダンスを踊る時、政務を手伝う時、休憩やお茶を出す時。吐息や目線だけで彼が何をしようとしているのか察することを求められた。


(来る)


 アルベールの肩が緊張に盛り上がり足が跳躍した。フランシーヌは素早く後ろに引き、ジョルジュ家の剣をレイピアで受け止めた。さすがに重い。跳ね返すのではなくそのまま剣先を滑らせ、アルベールが薙ぐのに合わせて踊るように身を翻した。狙うは彼の利き腕である右手。フランシーヌは渾身の力を込めて振り抜いた。


「その剣はお前が使って良いものではない!」


 フランシーヌの父、アントワーヌの剣は国を裏切った者が扱える剣ではない。代々続くジョルジュ家の剣は国を守るためのものであり、刃は王家を守るためにあった。王族の血を引きながら国家を裏切ったアルベールが正しく持てるものではなかった。


「っ!?」


 細いレイピアでは剣を反らすのが精一杯だった。しかしここで幸運がフランシーヌに味方する。フローラの血で濡れた手が滑り、剣を取り落としたのだ。


 体勢を立て直したフランシーヌが再度レイピアを振った。つい目を閉じてしまった彼女は刃から伝わって来た感触に骨が震えるような感覚を味わった。一瞬で爪先から髪の先まで走ったそれに、歯ががちがちと鳴った。お父様、と彼女は瞼の裏の父を呼んだ。震えて柄から手が離れそうになる。それを堪えてフランシーヌは渾身の力を込めて振り抜いた。


「そこまで」


 フランシーヌの腕を誰かが掴んだ。目を開けると見慣れた、しかし男の顔をした人が何の感情も浮かばない黒い瞳でフランシーヌの腕をとっていた。


「マクラウド、様」


 アルベールは、と探すと、彼は顔を押さえて膝を付いていた。指の隙間から血が流れている。フランシーヌが握りしめたままだったレイピアにも同じく血が付いていた。


 どっと歓声が沸き上がり、議会堂が揺れた。悪を倒したフランシーヌへの喝采であった。アルベールの顔は左目から鼻を通り右頬まで斬られていた。かつて花の王都に在り、多くの少女たちをときめかせていたアルベールの顔が無残なものになっている。


 相当な激痛にもアルベールは叫ばなかった。歯を食いしばり、傷口を押さえて耐えている。かろうじて残った王子としての矜持が彼にそうさせていた。アルベールの顔からは先程までの狂気が消え、どこか安堵したような、憑き物が落ちたものになっている。


 フランシーヌの体から今度こそ力が抜け、レイピアが手から滑り落ちた。


 様々な感情が交錯する。


 はじめてアルベールと対面した時の感動、彼に恋していると気づいた時のときめき、側近たちからの嫌悪に苦悩したこと、彼を信じようと決意した時のあの激情。そしてユージェニーが現れアルベールの愛を失ったと知った、悲しみと絶望。フランシーヌのこれまでの人生はアルベールに捧げられてきた。それを思い、フランシーヌの目から涙が溢れる。婚約を破棄した時にも泣かなかったというのに、堪えることができなかった。後悔しているわけではない。愚かなまでに一途だった幼い過去が、あまりにも愛おしく、遠くに感じられた。


「アルベール様」


 アルベールとフランシーヌの視線が重なり合う。涙を拭わぬまま、フランシーヌは微笑んだ。


「わたくし、あなたを愛していました」


 すべては悔いることもない過去であると言った。誰かを心から愛した経験は彼女の糧となり、新しい愛を育む土壌となるだろう。


 アルベールは呆然とし、それから痛みに歪んだ顔で笑みを浮かべた。フランシーヌがよく知るアルベールそのままだった。


「……逆賊アルベールと加担した側近を捕らえよ」


 アドリアンの命令に近衛が動いた。リョートはペンが刺さったままの手で抵抗したがすぐに両腕を後ろに回され拘束される。他の側近たちも剣を抜いて戦うが多勢に無勢だった。あっけない終焉にアドリアンの肩が揺れる。もっと早くこうしていれば、アントワーヌが殺されることもなかっただろう。


「アルベール、僕はあなたが義兄上になってくれるのを楽しみにしていました」


 アドリアンにはわからなかった。姉にあれほど愛されていたというのに、なぜあっけなく他の女に目移りしてしまったのか。婚約者もおらず未だ恋すら知らないアドリアンには、アルベールの心が理解できずにいた。ぐい、と袖で目元を拭う。


「想い合う者同士が結ばれるのは理想であって、当然のことではないのです。僕にもわかります。貴族や王家は綺麗事ではやっていけない。今の自分の幸福だけを考えてよいのは平民の特権であり、貴族は彼らを守るために在るのです」


 貴族は、王家は義務を果たしてこそ特権が認められるのだ。汗水垂らして労働する義務がないのは神に選ばれたからではなく、彼らを守ることが義務であるからだ。今日より明日を、明日よりも良い未来を、そう夢見ることができる国を築くのが貴族の役目だ。そして王は、彼らを導くために存在する。


「あなたが言った自由な国では民を不安にさせるだけです。道を作るのならどこに続いていくのか行き先を知らなければ誰も通ってくれません。50年、100年先の未来を見据えて道を整える。それこそが王でありましょう」


 8歳の子供に諭されたアルベールは恥じ入るように目を伏せた。アドリアンはたしかに正論だが、王も人間なのだ。自分の幸福に目が眩み、道を誤ることもある。先導者が王だというなら、王とはなんと孤独なのか。共に歩む者を自分で選ぶこともできないとは。


 アルベールは反論しなかった。王子という身分がなくなり、王にもなれなくても自分は人間として死ねるのだ。それだけで満足だった。処刑されればアルベールという存在すらも抹消される。ユージェニーの待つところに行けるだろう。


「アルベール」


 引っ立てられていくアルベールに、マクラウドが声をかけた。

 ゆっくりと歩み寄り、静かに黒衣を揺らして腕を持ち上げる。彼はまるで父親がはじめて我が子を抱くような手つきでアルベールを抱きしめた。


「…………っ」


 周囲は静かな抱擁をただ眺めていた。アルベールの蒼い瞳が見開かれ、そこから涙が零れ落ちる。彼はマクラウドの黒い衣装にわずかな染みを作ると顔を傾け、エドゥアールを見た。


 彼の父親は手を差し出そうと動かしたが、できないまま固まっていた。恐怖と絶望と嫉妬、それから確かにあるアルベールへの愛情が滲み出た顔はエドゥアールを老人のように見せていた。


 最後まで理解できなかったフローラと違い、アルベールには父がなぜマクラウドの婚約者を奪い取ったのかこの時にわかった。


 エドゥアールは寂しかったのだ。孤独に過ごした幼少期に現れたマクラウドは彼にとって幸福の象徴であったのだろう。マクラウドはエドゥアールが求めるすべてを持っていた。仲の良い家族がいて、頼れる臣下がおり、職務に誇りを持ち、そして愛する人が支えてくれる。完璧な図がそこにはあった。エドゥアールは、そこに永遠に入っていたかったのだ。


 寂しい人だ。夢ばかりを見て現実に彼の隣にいた者を見なかった。アルベールも、弟妹も、フローラも、たしかにそこにいたというのに。望んだものはたしかにあったのに、足りないひとかけらを求め続けて結局すべてを失ってしまった。


「父上、申し訳ありません」


 それから数歩進み、フランシーヌの前で足を止めた。


「君の幸福を祈っている」


 晴れ晴れとしたアルベールに、フランシーヌがうなずいた。彼は愛する人の元へ逝くのだ。魔女と逆賊、実にふさわしい組み合わせではないか。負けた、と思ったが、それは悔しさを伴わず、むしろ痛快でさえあった。


 アルベールは処刑の後、王族から除籍される。本来なら歴史からも消えるはずであった。ユージェニーも名前を残すことはなかっただろう。


 だがこのちっぽけな反乱は国の道筋を大きく変える結果となった。革命とされたのはそれ故である。国民議会が開かれたことをきっかけとして貴族の特権は少しずつ削られていくこととなり、それはやがて周辺諸国にまで広がっていく。この革命において功績者と称えられるのはマクラウド・アストライア・クラストロであるが、彼を目覚めさせた人物としてアルベールは歴史に登場する。アルベールはたしかに感情のままに行動して周囲を混乱させるはた迷惑な王子であった。しかし彼が子供の癇癪のように投げた石礫は歴史から彼を消すことを許さない威力を持っていた。



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