表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/78

ガートルード・アストライア・クラストロの遺言

遅くなりました。お待たせして申し訳ありません!



 クラストロ領の夏は暑いが湿度が低いため過ごしやすい。そのため貴族の避暑地として各地に別荘が建てられ、夏になると賑わいを見せる。温泉や美容施設、食事処も充実していた。我が家にいるように快適に、しかし我が家よりも楽しく。クラストロ別荘地の居心地の良さは国内外に知られ、各国の貴族が別荘を建てていた。


 クラストロ公爵家の墓地に、まだ新しい墓がある。『ガートルード・アストライア・クラストロ』と書かれたそこに、白い薔薇の花束が供えてあった。本来故人に贈られる白百合ではなく別の花になったのは20年前のこと。それは、黄泉に眠る女性が生んだ息子の帰還を知らせるものでもあった。


「……帰ってきたのか」


 呟きに応える声はない。深い皺の刻まれた顔をわずかに綻ばせた老人は、供に付いてきていた執事に歓迎の用意をしろと命令した。先に贈られたものと同じ、白い薔薇の花束を隣にそっと置く。黒かった髪はもうすっかり白くなり、髭を蓄えた顎は鋭さを消している。黒い瞳だけが未だ衰えぬ彼の実力を示すように凛として輝いていた。


 マイクロフト・アストライア・クラストロはクラストロ公爵家の前当主である。マクラウド、ルードヴィッヒの実の父であり、引退した今でも動向を探られる国の重鎮であった。


 彼はしゃがみこむと、風雨に晒され土を被った墓をそっと撫でた。愛と慈しみの籠った手付きであった。


「ガートルード、君の願いを叶える日が近いようだ」


 自分に言い聞かせるように呟き、マイクロフトは立ち上がった。彼女の願いは自分の願いでもある。命に代えても叶えてみせよう。


 クラストロ公爵家の城は、むしろ要塞の体を成している。フルールの丘と呼ばれる高台をぐるりと城壁が囲み、川、森、畑もある広大な庭がどこまでも続いている。城には軍が常駐し、一朝事あるときにはいつでも出撃できるようになっていた。ここはまさに国を守る要の土地なのである。代々の領主が増築を重ねた城はマイクロフトでさえ迷いそうになるほどだった。


「帰ってきていない?」

「はい。クラストロに入ったのは確認していますが、クラーラ様ご一行は城に御戻りにはならず、温泉地へ療養に向かわれました」


 数年ぶりの当主の帰還に湧いていた城は、しかし歓迎の準備も虚しく空振りの気配に静まり返っていた。家令から報告を受けたマイクロフトはソファにどっかりと体重を乗せる。


「逃げよったな…あやつめ、子供のような真似をしおる」

「大旦那様の説教が待っていると思えば無理もないことでしょう」


 家令が軽口を叩いた。この老年の家令はかつてマイクロフトの影として長く仕え、今でも現役である。マイクロフトが気を許す数少ない人物でもあった。主人に似せるため髪も髭も同じく揃え、体格も変えぬよう鍛えている。歯に衣着せぬ物言いは、マイクロフトがそれを望んでいるからだった。家令は主人を守り家を守る存在だが、時にはこうして苦言を呈することもある。彼の主人は主に物言えぬ家臣はいらぬという考えの持ち主で、常に思考と行動を求めた。


「レギオンが迎えに行っております。このままお待ちになればよろしいかと」

「レギオンはクラーラではなくマクラウドの影だろう。追い払われるかもしれんぞ」

「クラーラ様であろうとマクラウド様であろうと、ご自分を慕う者を無下にはなさいません」


 家令がしたり顔で言った。レギオン・テオーペはクラストロの家令頭のテオーペ家の出身で、彼は長男である。複数いるマクラウドの影候補の中から選ばれた彼は、実力に裏打ちされた高いプライドを持っていた。


「…今のあれはマクラウドではない、クラーラだ。大人しく言うことを聞くか」

「クラーラ様だからこそ容赦はしませんでしょうな」


 黒後家蜘蛛を率いるアーネストと、その配下であるレオノーラ、マシュー、そしてレギオン。どうして息子の元には一筋縄ではいかない者ばかりが揃うのか、マイクロフトは額を押さえた。同じく息子であるルードヴィッヒと自分のことは棚に上げた。




 レギオン・テオーペはガウンを羽織っただけで無防備を晒すクラーラをにこやかに出迎えていた。


「…レギオン、何しに来たんだ」


 主の入浴を妨げようとする彼を、アーネストが睨みつける。後ろのクラーラは気まずいのかそっぽを向いていた。


「もちろん、マクラウド様の出迎えですよ。おかえりなさいませ」

「だったら出直してきていただきたい。こちらにいるのはクラーラ様だ」

「そのようですね」


 レギオンはすっかり変わり果てた自分の主に視線を移した。

 クラーラは長い黒髪を右肩に流し、化粧も落としていた。入浴用の薄いガウンが男の体形を浮かび上がらせている。

 鍛えているのだろう。ガウンの合わせ目から覗く胸も肩も、すらりと伸びた足も、均整のとれた筋肉がバランスよくついていた。おそらく今レギオンが彼を殺そうと襲い掛かっても、軽々迎撃されるだろう。レギオンはそれに満足した。こうでなくてはならない。彼の視界をアーネストが遮った。


「付いてこなかったくせに、いまさら何ですか。クラーラ様は我らの主人、狼藉は許しませんぞ」

「あいにく私の主はマクラウド様ですので、そちらの都合など知ったことではありません」

「だったら出て行ってください。ここは貸し切りになっています」

「ですから、あなたに用はないんですよ、アーネスト。さ、クラーラ様、マクラウド様にお戻りになってください」


 すぅ、とアーネストの気配が静まり返る。細く鋭い暗殺者の気配に、クラーラは待ったをかけた。


「やめなさい、アーネスト。こんなところで。…レギオンちゃん?良かったら一緒にお風呂に入りましょ?」

「…クラーラ様の言うことなど聞けません」

「あらぁ、これは命令じゃなくて提案よ?嫌なら別にいいわ」

「素っ裸で連行してもよろしいなら」

「やぁねぇ。旧交を温めようってだけじゃなぁい。一度裸の付き合いってものをしてみたかったのよ」

「…………」

「レギオンちゃんは綺麗な長い髪ね」


 レギオンの睨みつける目に、クラーラはにこりと笑うことで応じた。どのみち連行しようと実力行使にでても、クラーラに敵わないことはわかっているのだ。レギオンはため息まじりに了承する。髪を伸ばしている時点で負けは決まっていたのだ。


「わかりました。お付き合いしますよ。アーネスト、私のぶんのタオルの用意を」

「…かしこまりました」


 身分でいえばアーネストよりレギオンの方がはるかに上だ。本来なら言葉を交わすこともできなかっただろう。レギオンはマクラウドの影にしてクラストロの家令であり、アーネストは諜報部隊の長に過ぎない。けして表に出ず、主以外からの評価もされない。そういう役目だった。


 アーネストがレギオンに反感を抱いているのはなにも身分の違いだけではない。彼の部下であるレオノーラとマシューはマクラウドがクラーラとなっても変わらず仕え続けてきた。しかしレギオンは、あくまで主人はマクラウドである、とクラーラへの同伴を拒んだのだ。アーネストにとって、裏切りにも等しい行為だった。


 あれほど主人に信頼されていたくせに、なぜ。アーネストは反感を抑えきれない。奥底には嫉妬が渦巻き、であるからこそクラーラに付き添ってきた歳月に誇りを持っている。クラーラであろうとマクラウドであろうと、アーネストが認めた主人はたったひとりなのだ。アーネストにはレギオンの在りようが信じられなかった。


「アーネスト、そんなにかっかしないの。大丈夫よ、武器はあなたに預けておくんだから」

「クラーラ様、お気をつけて」

「わかってるわ」


 クラーラはガウンを脱いで全裸になると、浴場へ続くドアを開けた。むわりと湯気が全身を包み、肌が濡れていく。かすかな硫黄の匂いがした。さすがに露天ではないが、広々とした風呂を独り占めというのは非常に贅沢だ。首まで浸かったクラーラは長い足を投げ出し、浴槽に頭をもたれかけた。


「あ~…これよこれ……」

「どこのおっさんですか、まったく」

「30代後半の独身男なんて、まごうことなきおっさんじゃない。…言ってて悲しくなってきたわ」

「やめてください。私にも返ってきました」


 向かい合わせの位置に入ってきたレギオンががっくりとうなだれて顔を覆った。自分で言った毒が自分に返って来てダメージを受けているらしい。クラーラがからからと笑った。


「いいわよねぇ、温泉。若返るわぁ~」


 頭だけでなく腕まで浴槽に乗せてリラックスしているクラーラに、レギオンは眉を寄せた。


「…その話し方、止めていただけますか」

「なぁに?オネェはお嫌い?」

「嫌いですね。私がお仕えすべきはクラーラではなくマクラウド様です。同じ顔と体で女の真似事をされるのは腹が立ちます」

「率直な物言いは嫌いじゃないわ」


 過ぎた発言にクラーラは鼻で笑うだけで気にしなかった。そのことにレギオンは自分でも驚くほどホッとしている。ちらりと目を上げてクラーラの体を眺めた。


 主を観察するのは影となって以来の習慣である。レギオンはマクラウドの影として、表情の作り方からその体の傷ひとつに至るまですべてをそっくり模倣してきた。マクラウドがクラーラとなり、彼と離れてからも、何をしていたか逐一報告を受けている。調査しているのはもちろん、アーネストだ。


 表面には目立った傷はない。背中側は見えないが、クラーラは攻撃的な性格ではないためあまり敵を作らない。マクラウドであればその限りではないが、彼の場合は周囲を護衛が取り囲んでいるので虫の一匹も入り込む余地はない。むしろ大衆の女性よりも綺麗な体を維持してきている。


 体の線にも崩れは見られなかった。今でもきちんと鍛えてあることに安堵と感動が広がる。自分の成すべきことを忘れていたわけではない、休息が必要だったのだ。レギオンや、クラストロ、そして国家を捨てたわけではない。クラーラの中でマクラウドは眠りにつき、幸福な夢の中で心を癒している。


「…そろそろ、お目覚めになってくださいませんか。皆、あなたを待っております」

「クラストロはルイが継げばいい。宰相なんか、他の誰かを選出すればいい話だ」

「マクラウドでなければ駄目なのです。クラストロまでの道中、お聞きになったはずだ。望む声、怨む声。国民はあなたに期待しているのです」


 その通りだった。旅の道中、貧しい庶民の生活や貴族への恨みの声をいくつも耳にした。中でもひっそりと噂されていたのがマクラウド・アストライア・クラストロである。彼がいてくれればなんとかなる、あるいは彼のせいでこんなことになっている。賛否両論、期待と失望、復活と破滅、今でもこの国はマクラウドを忘れていなかった。


 クラーラはそっと自分の股間に手をやった。


「僕はもう男にはなれない。子孫を残せない者を望んでどうする」


 フローラの裏切りはマクラウドの肉体に致命的な損傷を与えていた。目の前で逃げ去った恋が彼に絶望を植え付け、若く情熱的な男から性の力を奪い取った。フローラが去って次の婚約者候補が現れても、どんなにうつくしく気立ての良い娘であっても、彼を癒すことはできなかった。心の奥底でゆっくりと死んでいったマクラウド。死人に繁殖能力はない。彼のそれは単なる排泄器官であり、二度と女を腕に抱くことはない。そして、貴族の当主としての役目には、子孫繁栄が当然含まれている。子の望めないマクラウドは廃嫡されるはずだった。


「……っ」

「クラーラになって、わかったこともある…」


 激昂しかけたレギオンに、クラーラは静かに語りかけた。


 復讐を禁じられ、廃嫡も許されなかったマクラウドには自由だけが与えられた。彼がそれならばと自領の内政に力を入れたのは、単に自分の実力をエドゥアールに見せつけるためだけではなかった。古い悪しき慣習を取り除くのが目的だった。


 マクラウドとルードヴィッヒの母は体が弱く、子供はこの二人しか産めなかった。嬰児の頃のマクラウドは母の体質を受け継いだかのように体が弱く、しょっちゅう熱を出し、ベッドから降りることもままならない生活を送った。長くは生きられないという予想を良い意味で裏切ったのは彼が5つの時、弟のルードヴィッヒが生まれたからである。


 自分よりもか弱く儚い存在が隣にいる、という実感は兄の自覚を芽生えさせ、この子を守らなければという父性愛にも似た庇護欲を彼に植え付けた。今まで独占していた母の愛情が弟に向かったことには嫉妬もしたが、弱った体でそれでも懸命にルードヴィッヒを抱く母はまるで女神のようであり、母を助け、弟を守るという義務に燃えたのは当然のなりゆきだったろう。マクラウドは強くならねばと決心し、そのための努力をした。その後、マクラウドと父の努力と医師の治療の甲斐なく幾度目かの流産の末に母は死に、彼の元にはまだまだ幼いルードヴィッヒが残された。


 ルードヴィッヒは幸い健康な子供で、やんちゃだった。しょっちゅう怪我をしてマクラウドを心配させ、滅多に病気にならない代わりに突然高熱を出して父と兄をおろおろさせた。人はいともあっけなく死ぬ、という事実をマクラウドは母の死によって学び、いかにして回避するかは彼の命題として脳裏に刻まれた。自由を得たマクラウドがまっさきに資金獲得のための事業に着手し、つぎに温泉や観光に力を入れたのはそのためである。


「母様が早くに死んで、ルードヴィッヒが残されて…母子ともに健康でなければならないと痛感したんだ。そして、人が人であると誇りをもって生きるには、生きがいが不可欠だということも」

「そうですね…。惰性で生きていくのは、辛いです」


 安心して働ける場があれば人々はそこに定住する。働くためには健康でいなくてはならない。健康でいるためには環境の整備と食の安全が必要となる。養蚕の職人を移住させ、蚕の餌となる桑の木を定植・管理し、繭から糸を紡ぎそれで絹を織る。デザイン、縫製、装飾、靴に至るまでの服飾産業が充実した。移住した職人は家族ぐるみでやってきている。彼らの衣食住を賄うために農業は盛んになり、漁業や牧畜も軌道に乗った。家ができれば町が生まれ、町ができれば娯楽ができ、夜には酒を求めて男たちが繁華街に繰り出し、取り締まる警察組織も拡大し治安が良くなる。数年経つと子が生まれ、移住者たちはここが故郷よと暮らしぶりに満足する言葉がでてくるようになった。


 その一方で、温泉施設はかつての賑わいを失い、寄る辺のないものたちがひしめきあう『廃棄場』の有り様であった。

 入浴が伝染病を蔓延させるという迷信はあながち嘘でもない。浴場に付き物の湯女(あるいは三助)はいわば遊女であり、梅毒などの性病の恐怖が常につきまとっていた。また浴場を洗い清めるのは大変な作業で、それを怠ったがために病気の発生に繋がったのも事実である。しかし風呂の健康効果は昔から知られており、マクラウドは呪いめいた迷信を払拭するべく温泉復活に乗り出した。


 住人に仕事を与えるのも領主の役目である。温泉旅館を建て、従業員を雇い、食事処を整備した。花街とは完全に切り離し、病気を感染させないように清潔を徹底させた。子供が安全に遊べる場所も作り、母親たちの休息所まで作る気の入れようだった。ひとつの街で成功すればあとは自然発生的に拡大する。温泉の湧きだす地では次々に旅館が建てられ、入浴などめったにできなかった庶民たちも気軽に楽しめるようになった。もちろん首謀者であるマクラウドは、事前に法律を執行し入浴施設の管理を徹底している。


「すごかったですよね。マクラウド様ほど執政にふさわしい方はおられません。領民は全員が感謝しております」

「…罪滅ぼしかな。だってもう、マクラウドはその頃ほとんど死んでいたから。復讐心だけに縋って生きるのは無理があったんだ。エドゥアールとフローラの間には子供まで生まれて、あのふたりが幸福を甘受しているのにどうして自分はこんなことをしているのか、なにもわからなくなった」


 マクラウドがその手腕をいかんなく発揮している間にも時は進み、国は跡継ぎの王子誕生、第二子、第三子の王女と慶事が続いた。エドゥアールからは宰相への召喚状がたびたび届き、塞がり始めた傷をその都度抉っていく。塩まで塗りたくる丁寧さでもって、エドゥアールはマクラウドにトドメを刺した。


「あてつけに死んでやろうかと、何度思ったことか」

「マクラウド様!」

「すまない。でも本当のことだ。あのドレスを見つけなかったら、今頃……」


 領内を巡回している途中の街で見つけたドレスは、マクラウドの気を惹いた。クラストロ領の絹地で作られたそれは、金糸の刺繍と大振りなレースで飾り付けられ、デコルテは当時流行していたオフショルダーで肩まで見せていた。バッスルではなくクリノリンでスカート全体を広げて膨らみを出し、柔らかくふわりとしたドレスである。素直に綺麗だな、と思ったが、マクラウドの気を惹いたのは、それをうっとりと見ている少女だった。


「見ているだけで幸せ、なんてさ、すごく羨ましかった」

「ドレスが?」

「ドレスが。それで買ったはいいものの、贈る相手もいないし着ないのももったいないし、自分で着てみたわけだ」

「…失礼ですが、入りました?」

「いや、入らなかった」


 入るどころではない。マクラウドの鍛えられた腹筋にコルセットは通用しなかったし、クリノリンは上から被せて使うものだからメイドに手伝ってもらわなければそもそも着られない。ひとりでこっそり、というのがそもそも無理だった。女性の我慢強さと根性を思い知らされただけに終わった。


「それで気づいたんだ。僕は結局自分のことしか考えていなかった。誰かを幸福にしたことなんてなかったんだって」

「そんなことはありません」

「そうなんだよ。領内のことだって結局はエドゥアールへの復讐だ。フローラはいつでも笑っていたけれど、心から喜んだ顔を見たことがなかった。…馬鹿みたいだろう、あんなに近くにいた女性の、恋人すら僕は幸せにできなかったんだ」

「それで…クラーラになろうと思ったのですか」

「うん。死んだ人間にいつまでも執着して復讐だけしか見ていないなんて不幸なことだ。誰かの幸福な笑顔が見たかった。…違うな、誰かを幸福にして、笑顔を見たかった」


 結婚に慎重になっていたルードヴィッヒが妻にしたいとヴァイオレットを連れてきた時、決心は固まった。マクラウドは弟に当主の役目を押し付けると、名を捨てクラーラとして家を飛び出したのだ。あのドレスを仕立てた職人の元に通い詰めて弟子入りし、縫製を一から学んで技術と職人仲間との繋がりを得た。突然の身勝手にルードヴィッヒは驚きと怒りを隠さなかったが、結局は折れた。マクラウドがゆっくりと死んでいくさまを夜毎に見ていた弟は、これ以上心を殺したら肉体まで死んでしまうと危惧していた。マクラウドは月夜の晩のことを何ひとつ覚えていない。むしろ今まで生きていられたのが奇跡のようなものだった。


「自分のドレスを着た時は嬉しかった!本当に別人になったようで――男として生きられないのなら、女として生きてみようと思えた」


 剣とペンを針と糸に持ち替えて、クラーラが誕生した。男の体に不釣り合いなドレス。作り物ではない笑顔を浮かべたクラーラは、陽気でおしゃべりで人好きのする、誰かを笑顔にすることこそ使命とばかりに少女のドレスを作りだした。その人に合わせた、たったひとりのためのドレス。少女の本質を、心を、見る人すべてにアピールする。見て、私はここにいるわ。クラーラのドレスは魔法のように訴えた。


「クラーラの魔法の手、でしたか。御大層なことで」

「あら知ってたの」

「ヴァイオレット様が楽しそうに話しているのを小耳に挟みました。リスティア嬢のドレスをお作りになったとか」

「そうよぉ。リスティアちゃんは元気かしらね」


 彼はクラーラの口調に戻ると湯船から上がって洗い場に向かった。そろそろのぼせそうだ。レギオンも続いた。


「子が、望めないのであればご養子を取るという方法もあります」

「あら、まだ諦めてなかったの」

「自分の人生と仕事がかかっていますから」


 クラーラの用意した薔薇の香りの石鹸にレギオンはあからさまに嫌そうな顔になった。石鹸を使うのはともかくとして、あまり匂いの強いものは好きではない。香りは印象に残りやすい、無味無臭でいることも必要な時がある。湯で何度も流しても鼻に残る香りに、同じ石鹸を使ったレギオンはうんざりした。


 クラーラはすでに慣れたもので、香りにうっとりと目を細めながら全身を磨き上げると、最後に水を被った。長い髪から滴り落ちる水滴もそのままに、恥ずかしげもなく全裸を晒して歩いていく。生まれたときから支配者の側にいた彼に、他人の目を気にするという意識はない。相手が直視しないからだ。マクラウド・アストライア・クラストロに対し直視を許されているのはただひとり、国王その人だけである。


「お先に」


 レギオンがようやく浴場から上がると、クラーラはガウン姿でソファに陣取り、長い足を組んでレオノーラに髪を乾かせている最中だった。当然の顔をしたマシューが給仕している。氷室から取り寄せた氷を使って冷やしたレモン水は極上品だ。クラーラは舐めるようにしてそれを飲んだ。レギオンには目もくれなかった。


 レギオンはクラーラからレモン水の入ったグラスを奪い取ると、ひと息に飲み干した。溶けて丸くなった氷の残るグラスを放り投げる。


「それ、髙いんだけど」

「金で済むのなら安いものでしょう」


その勢いのままつかつかと歩み寄り、ガウンの胸倉を両手で掴みあげた。


「誰かの幸せな顔を見たいと仰いましたが、僕の顔は思い出しもしませんでしたか」

「レギオン、何言ってるの」

「誰かって誰だよ!?どんな思いで僕が何年間も待っていたと思ってるんだ!僕は!ずっと待ってたんだ!一番あんたの近くにいたヤツの顔をまず笑顔にしてみせろ!この甲斐性なし!!」

「なんですってぇ!?」


 クラーラは組んでいた足を丸めると、渾身の力を込めてレギオンの腹を蹴飛ばした。もんどりうって倒れたレギオンが素早く身を起こし、その間にレオノーラとマシューがクラーラの前に立つ。アーネストがレギオンの腕を背中に捻り上げ、拘束した。


「家を出るから好きにしろなんて言われて、僕が…!あの家をまとめてあなたを待つのが僕の仕事だった!ついていけるわけないでしょう!?そんなこともわかんないのかよ!」


 レギオンはアーネストの手を振り払うと身を屈め、レオノーラとマシューに躍りかかった。まずレオノーラの引き抜いた短刀を手首に手刀を当てて落とし、そのまま頸動脈目掛けて振り下ろす。一瞬で昏倒したレオノーラの体をマシューに突き飛ばした。避けたマシューの拳を両腕で受け止める。衝撃をバックステップで殺し、そのまま回し蹴りを放った。鞭のようにしなる足がマシューの脇腹に突き刺さる。マシューの体が吹っ飛んだ。


「レギオン、いい加減になさい!」

「こっちのセリフだいい加減にしろ!あんたのモノが役立たずだろうがこっちは関係ねえんだよ!」


 レオノーラに駆け寄って支えていたクラーラの長い髪を掴んで引き上げる。頭皮が引っ張られた痛みにクラーラが顔をしかめた。


「屍の山の上で好きなだけ泣き叫べ!あんたが殺した、あんたが殺すんだ!!クラーラじゃ誰かを笑顔にできても不特定多数の民衆は救えない!!」


 好きなだけ叫んで気が抜けたのか、レギオンが手を離した。呆然と立ち尽くすクラーラを見て、くしゃりと顔を歪め、そのまま力を失って膝を付く。


「…帰ってきてください」


 クラーラはしばらくそのままだったが、やがて片手で目を覆って天井を仰いだ。


「わかった。とりあえず帰る」

「マクラウド様ですからね」

「…わかってる。時と場合を考えてクラーラする」

「ぶん殴りますよ?」

「馬鹿か。これだけできるのに僕に手を出さなかったお前が殴れるはずないだろ」

「そうやって自信満々で図に乗って僕が叛意を翻すとは思わないんですか」

「思わないね。ずいぶん熱烈だったじゃないか?レギオン・テオーペ」

「…過ぎたことを言いました。申し訳ありません」

「どうせあの狸が迎えに行けって言ったんだろう。まったく、僕の周りのやつはどうして一筋縄ではいかないのばかりなのかな」

「下は上に倣うものです」

「なんだ、僕のせいか」


 クラーラは長い長いため息をつくと、成り行きを見守っていたアーネストを振り返ってひと言命じた。


「帰る」

「はい。かしこまりました」


 アーネストはゆっくりと微笑み、それから表情を消した。たった一呼吸の間で感傷を消し去った黒後家蜘蛛がひどくいじらしく思え、クラーラも微笑む。レオノーラの背に膝を入れて意識を回復させるとマシューに預け、自身は着替えに向かった。言葉をかけてやれないのが悲しく、そんな甘さが自分にが湧いてきたことが嬉しかった。


 深夜になってようやく帰りついたクラストロの城では、満面の笑みを浮かべたマイクロフトが待っていた。


「クソ爺、ただいま帰りました」

「よく、帰ってきた」

「よくもレギオンを寄越してくれましたね。最悪だ」

「あれは儂ではないぞ」

「あなたも一度同じ顔に泣き喚かれてみればいいんだ」


 つん、と拗ねた口調で文句を言う息子に、マイクロフトは耐え切れずに笑い出した。


「レギオンは泣き喚いたのか。それは傑作だ!」


 レギオンがマクラウドの影に選ばれた理由、それは、顔が似ているからだ。テオーペ家はクラストロの分家だが、あそこまで似ている顔は珍しい。さらにレギオンはマクラウドの仕草や表情に至るまで完璧に真似てきた。彼にしてみれば自分に駄々をこねられているような、なんともやるせない気分にさせられるのだ。レギオンもわかってやっているのだからタチが悪い。


 自室に戻り、久しぶりに男服に着替えたマクラウドは、父の書斎に行った。密談をするのはいつもここだった。マイクロフトは酒の用意をして待っていた。


「…近頃の情勢は、あなたの差し金ですか」

「何かあったのか?」


 白々しい。マクラウドは頬を歪めて言った。


「道中いろんなことがありましたよ。関所に行けば通行許可証を盗まれかけ、役人からは賄賂の要求、閑散とした農村には野盗が横行していて何度も撃退しました。若い男が少なく、女子供はどれも痩せ細っている」


 それと、と言ってテーブルに新聞を積み上げた。


「王都から離れるほど王家批判が盛んになっている。王都で控えめなのは、ルードヴィッヒが未だ滞在しているからでしょう」

「愚かなことだ。辺境軍から総司令官を引き剥がして、弱体化を狙っているらしい」

「そのうちに野盗たちが集結して王都になだれ込んできますよ。取り締まるべき辺境軍が機能しないなら加速するでしょう」

「ついでにアルベール王子もなにやら企んでいるらしい」

「…アルベールが?」


 父の差し出した酒にマクラウドは口を付けなかった。ただ睨みつけている。マイクロフトは楽しげに微笑むだけだ。


 野盗たちが集結して王都を襲撃しようとも、所詮は烏合の衆だ。鍛えられた近衛の前には通用しないだろう。

 だがそこに、アルベールが加わったら。襲撃者に正当性が与えられる。国を破綻に追い込んだ現国王と現政権を倒せという暴挙は革命と名付けられ、あっという間に国中の反乱分子が集まるだろう。水が高所から低地へと流れていくように、次々に合流を繰り返し、うねりとなって襲い掛かる。アルベール自身にそれをまとめる能力も指揮する力もないが、彼には第一王子であり王位継承1位であったという過去がある。百合紋同士がぶつかりあうのだ。


「血まみれの花道とは恐れ入る」

「それは僥倖。ガートルードも喜ぶ」


 ぴくっとマクラウドが反応した。マイクロフトは見て見ぬふりをして、注いだウィスキーを一口、口に含む。転がすようにして味と香りを楽しんでから喉に流し込んだ。


「遺言を覚えているか」

「当然でしょう。一言一句、覚えていますよ」


 母の枕頭に侍り、その臨終を見守った。ルードヴィッヒ、マクラウド、マイクロフトの順で、クラストロ女主人の遺言を受け取ったのだ。マイクロフトはマクラウドへの言葉を知らないし、ルードヴィッヒのものも知らない。


 母はマクラウドにこう言い残した。


「『好きなことをおやりなさい』と言ってくれました。おかげで好き勝手にやりましたけどね」

「それだけか?」

「…『あなたは自分のことだけを幸福にしてはいけません。だから、好きなことをおやりなさい』です。あのまま宰相位に就いていれば自分のことなど二の次三の次でしょうから、心配してくれたのでしょう」


 マイクロフトはくくっと喉を鳴らした。良い感じに熱くなった胸は、酔いのせいだけではない。自分の妻の、いかにもクラストロの女らしさに対する感動だった。


 エドゥアールと決別せず、マクラウドが宰相になっていれば、彼が考えなければならないのは個人の幸福ではなく、国の繁栄と維持である。国民を幸福にするのは王の役目で、宰相はその裏で批判や暗部を引き受けなければならなかった。あのままだったら彼の言う通り、粉骨砕身して職務を全うしていただろう。国と王とフローラのことだけしか考えずに。


「あれは儂にはこう言った――『マクラウドのことを、どうか祝福してください』だ。祝福だ、わかるか?許しでも幸福でもない。お前を祝えと言ったのだ。だからこうして迎えている。お前のやることなすこと儂だけは祝福してやろう。花道といったがそれを血まみれにしたのはお前だ。何もしない、素晴らしい手腕じゃないか。さすがはクラストロ!お前は初代にそっくりだ。引いてみせることで生き延び、確立した」

「お褒めに預かり光栄ですよ」

「拗ねるな。本心を言えばじれったいと感じなくもないが、お前の好きにするといい。ちゃんと祝福してやる」

「祝福って、無理矢理してもらうものでしたっけ」


 マクラウドは苦笑し、それからグラスを取った。腕を伸ばし、父のそれとぶつける。かちん、とちいさな祝砲が鳴った。

腹黒い男ばっかりなので、レギオンくんは直情型にしてみました。これが30代後半・独身男の本気…!と思うと幼いですが、あれはクラーラ対応なのでセーフセーフ。

クラーラにはまっすぐ叱ってくれる人が必要だと思うのです。マクラウドのために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ