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ヴィクトール・リントンの終戦

ニコラスは簡単に決まったのですが、ヴィクトールをどうするべきか悩みました。



 ヴィクトール・リントンはすべての罪を認めた。

 ニコラスが行った非道の数々、彼自身が犯した罪、そのすべてを背負って彼は逝くことが決定したのだ。もともと彼は、その予定でニコラスに付けられた人間だった。


 ニコラスが私邸に集めていたごろつきどもは即日逮捕された。ただし、王都の警察ではなく、クリューゼットの私兵によって、である。人の恨みを買うことの恐ろしさをよく知るクラストロは、処分をクリューゼットの当主であるコーネリアスに委ねることで20年前の恩を返した。


 国家反逆罪ではなく、ニコラスによる私闘の策謀。クラストロ対クリューゼットの二大巨頭が一触即発であったところをコーネリアスが発見し、矛を収めたという筋書きである。法で禁止されている王都での戦闘行動を、準備段階とはいえ企んでいたとして、コーネリアスはニコラスを嫡流から外した。同時にニコラスの父でありコーネリアスにとっては嫡子であったヨハネスも、追放こそされなかったが廃嫡が確定し、相続から外されることになった。


 ニコラスは王都からクリューゼットの領地に戻り、家内で精神に異常をきたした――家族として認められないものを住まわせる『癒しの塔』と呼ばれる牢獄に入れられた。ここに入れられたものは異常な精神が元に戻るまで外には出られず、医者による治療を受けることになる。司法を司るクリューゼット家は、その重みに耐えきれず、逃げるように塔に籠る者が多くいた。そしてたいていの者は、元に戻ることなく塔で一生を終える。塔の住人は、優雅な囚人であった。


 ニコラスは自分が塔に幽閉されることに納得せず、初日から大暴れした。クリューゼット領に着くまでも縄で縛りつけておかなくてはならないほど抵抗し、宿では伽の相手を呼べと横柄な態度で官吏を辟易とさせた。官吏はこういうことに慣れた者が選ばれている。ニコラスの要請は一切叶えられることはなかった。


 塔の管理人はニコラスと関わりのない者ばかりであった。時たま訪れる優雅な囚人のために雇われている彼らは義務的にニコラスの世話をし、塔の掃除をし、食事を用意した。貴族らしい食事ではあったが味は王都のそれと比べ物にならない。ニコラスは世話人を殴りつけ、口汚く罵倒した。翌日から食事は質素なものに変えられた。暴力はいっそう酷くなり、世話人がやってくる間、ニコラスには手枷と足枷がつけられることになった。


「ヴィクトールを呼べ」


 思い出したようにニコラスが言ったのは、一ヶ月後だった。別々に逮捕されて以来姿を見せない彼の唯一の部下は、別々の場所に収容されている。当然のことながらニコラスの命令はにべもなく却下された。彼は納得しなかった。


 ニコラスにとって、ヴィクトール・リントンは彼が呼べばすぐにやってきて膝をつき尾を振る犬である。来るのが当然であり、来ない方がおかしかった。ニコラスはヴィクトールを呼んだ。


「ヴィクトール!」


 何度呼んでもヴィクトールがニコラスの元に駆けつけてくることはない。ニコラスがそれを理解するまでにさらに3ヶ月もかかった。その間ニコラスは暴れ、時には死んでやると狂言自殺の真似事をし、泣き喚きすらした。

 病人の治療に来た彼の医者が何度も根気よく言い聞かせ、納得せずとも事実であると来ない現実を突きつけ、ようやく認めざるを得ないと諦めたのである。


 もうニコラスの元に、ヴィクトールは来ない。それを知った彼は、途端に無気力になった。暴力は鳴りを潜め、言葉を失ったように何も言わず、食事すらもままならない。死なせるわけにはいかない世話人はニコラスを椅子に括り付け、漏斗を彼の口に固定するとどろどろに煮溶かした流動食を彼の喉に流し込んだ。


 ヴィクトールを失った自分には何もない。ニコラスはその事実に愕然とし、優秀だと信じている頭脳をなんとか働かせようとした。しかし脱出の算段を巡らそうとしても隣にいるはずの存在が空白で、上手く頭は働かない。今までずっとヴィクトールありきの作戦しか練ったことがない彼は、頭はあっても手足がないという状態に堪えられなかった。


 せめてヴィクトールに手紙でも出せないか。ある日ニコラスはそんな要望を世話人に訴えた。来なくても良い、せめてヴィクトールと繋がっていたい。虚ろな瞳をしたニコラスを傷ましげに見つめ、世話人は言った。


「ヴィクトール・リントンはすでに処刑されました」


 ニコラスが、そうしたのだ。自分の罪を認めず、ヴィクトールに押し付けることで逃れようとした。そして彼の望んだとおり、ヴィクトールはすべての罪を背負って処刑された。


 ピシ、とどこかにヒビが入る音を聞き、それが合図だったようにゆっくりとニコラスは壊れていった。


「ヴィクトール」


 ニコラスは彼を呼ぶ。母を呼ぶ幼子のようにひたすらに繰り返した。今度会ったら彼と何をしようか、夢物語を架空のヴィクトールに語る。果たされることの約束を、ニコラスはヴィクトールと結んだ。彼の脳裏には、あの夜のクラーラの言葉が何度も木霊していた。


 ―――あなたは誰かを笑顔にしたことがある?


 記憶にあるヴィクトールはいつもとってつけたような笑みをそのうつくしい顔に貼り付けていた。幼かったころは怯えた表情で常にニコラスを伺い、彼が何を好みどうすれば心から幸福な笑顔を浮かべるのか、ニコラスは知らないままだった。


 お前は花が好きだったよな。お前のために温室を作ろうか、それとも庭園のほうがいいか?幼かったヴィクトールが庭に咲いた花をそっと撫でているのを見て、ニコラスは目の前でその花を踏みつぶしたことがあった。それは、子供特有の独占欲から来た嫉妬心だったのだろうが、哀しそうな顔をして涙を浮かべたヴィクトールにニコラスは満足し、それからもヴィクトールが好むものを踏みにじっていった。


 ここの料理は不味くてしかたがない。お前がいつか用意してくれた酒は美味かったな、今度一緒に飲もう。成人の祝いにと、ヴィクトールが手に入る範囲で精一杯高価な酒を贈ってくれた。一口飲んで不味いと彼の顔に吐きつけた。ヴィクトールは何も言わず、顔を汚したニコラスの唾液まじりの酒を拭いもしなかった。


 服はどうだ。不自由はしていないか。今度贔屓のテーラーに連れて行ってやろう。ヴィクトールの実家は貴族だが、三男に金をかけるほど裕福ではなく、彼はいつも兄のお下がりか既製品を着ていた。体格に合わない服を着た男は貴族でも下に見られる。実家の差、というものをニコラスはここぞとばかりに馬鹿にしたものだった。


 ニコラスの妄想の中、ヴィクトールは笑い、幸福そうに礼を言う。ありがとうございますニコラス様。あなたがいてくれて良かった。今まで生きてきて、そんなことを言われたのは一度もない。もちろんヴィクトールにそんな瞳で見られたこともなく、ただ諦めと恐怖を笑顔で隠すだけだった。それでもヴィクトールはニコラスと離れたいとはただの一度も言わなかったし、事実最後まで離れなかった。ヴィクトール・リントンはニコラスのための犬であり、彼が好きにしてよい奴隷であった。だからこそあの最後の夜、ヴィクトールはニコラスの言葉を一切否定せず、罪をすべて引き受けたのだ。


「ヴィクトール」


 ニコラスの妄想はしだいに文字にならなくなり、やがて彼はそれ以外の言葉を忘れたかのように、時折ヴィクトールの名前を呟くだけになった。




 ヴィクトール・リントンはニコラスとは別の、貴族専用の監獄に収容された。


「ヴィクトール、気分はどうかね」


 ある日面会に訪れたのは、なんとコーネリアスその人だった。まさか主家当主直々のおでましに、ヴィクトールは恐縮し、姿勢を正した。


「おかげさまで、元気でやっています」


 あの夜のコーネリアスとは違い、目の前の彼はどこから見ても好々爺とした老人だ。しかし彼こそがこの国の司法を司る者であり、この監獄の総責任者なのである。


 貴族専用の監獄は、平民が収容されるそれとは建物そのものから部屋の内装、食事の質まで違う。身分が考慮され、丁寧な扱いをされていた。むしろニコラスに振り回されないぶん快適である。


「リントン家の処分が決まった」

「……はい」


 ヴィクトールの実家であるリントン家は、ニコラスとヴィクトールの悪事にかこつけて実に姑息に動いていた。ヴィクトールに惑わされた令嬢の実家には醜聞をばらまくぞと脅迫し、ヴィクトールを諦めきれずに泣く令嬢には仲を取り持つ謝礼として金品を要求していたのだ。実家が三男ごときに期待していないのは知っていたが、まさか捨てたはずのヴィクトールを利用してそんなことまでやっていたとは知らず、彼は呆れると同時に実家への情が消えるのを感じた。そこそこ裕福なのはどうしてかと疑問に思っていたが、そこまで腐っていたとは思いたくなかったのだ。


「複数の貴族を脅迫した罪で、リントン家は取り潰し。家財を処分して被害にあった家への賠償にあてさせる。残った財産はヴィクトール、君の監獄での生活に使うよう取り計らった」

「では、両親や兄たちもここに?」

「いや。彼らは爵位を剥奪された元貴族だ。平民用の監獄に入れられている」

「しかし、私は…」

「そうだな。君もリントンではなくなった」


 リントン家が取り潰しとなれば当然ヴィクトールも平民用の監獄に行かなくてはなるまい。しかしコーネリアスは、ヴィクトールを貴族のままにした。


 よくある話である。爵位を剥奪された貴族が金を積み、平民ではなく貴族の扱いを求める。地獄の沙汰も金次第を地でいく話というだけのことだった。


「クリューゼット家からの詫びの意味もある。ヴィクトールにニコラスを押し付けてやり過ごそうとしていたのは私も同じだ。すまなかった」


 ニコラスの名前にヴィクトールが反応した。わずかに肩が揺れ、顔色が悪くなる。


「ニコラス様、は…」

「あれはここにはおらん。ヴィクトールと切り離さねば、あれは自分の罪を理解すまい」


 コーネリアスが眉を寄せ、苦々しい表情を隠そうともしない理由は、何もニコラスのことだけではない。嫡子のヨハネスの廃嫡とニコラスを嫡流から外す、という、名門クリューゼット家の処分に対し、王が何も言わずに了承したことにあった。


 ニコラスが今回計画したクラストロ襲撃は、国家反逆罪に問われるべき事態だ。それを、コーネリアスは深く理解している。ニコラスの私邸に集められた武装集団がもしもクラストロではなく王宮を襲っていたら、せっかく祝賀で回復したはずの王家への信頼と尊敬が粉々に砕ける。それほどのものである。


 だが、王であるエドゥアールはコーネリアスが廃嫡を申し出た時、何も問わなかった。叱責すらしなかった。むしろ他の貴族のほうが、コーネリアスの責任を問い、司法長官の任を降りるべきだと糾弾した。彼はそれを一蹴したが、王から言われたら素直に解任に応じるつもりであったし、そのための用意もしていたのである。息子も孫も司法には向かなかったが、彼は部下を育ててきた。適任を見つけ出し、いずれ自分の後を継げるように教育してきた。それは、クリューゼットのためではなく、この国のためを思ってのことであった。


 爵位を継ぐと同じく官位まで子孫に継がせるのは貴族にとって理想の形態である。国が続く限り家は続き、繁栄が約束される。しかしそれは、ヨハネスとニコラスのような、重荷に耐え切れない精神の子が生まれてしまうとたちまち弊害となり、国内を悪化させる原因ともなるのだ。


 司法長官のコーネリアスは、ここでクリューゼットがその旧態を壊すことで、新しい流れを作ろうとした。王はそれを汲むことなく、鷹揚に廃嫡を認め、今後もクリューゼット家が司法を守るようにと言うだけだった。


 王が命じなければならないのだ。この国を国家たらしめるのは王であり、王妃は王を支え、国民の平和を見守る存在であらねばならない。そのためのお膳立てにエドゥアールは気づくことができなかった。


 ニコラスと同じだ、とコーネリアスは思い、ニコラスよりも酷いと考えを改めた。エドゥアールはいつまでたっても親友の幻想を忘れられず、彼に縋り続けている。


「ニコラス様は、私などもう忘れてしまっているでしょう」


 ヴィクトールは本気でそう思っていた。ニコラスにとってヴィクトールなど道端の石ころと同じで、使いようがあれば拾って投げるし、なければ蹴飛ばしておけばいい。その程度の存在だった。その方が気楽でいいとヴィクトールもそれを拒まなかった。


コーネリアスは呼んでも来ないヴィクトールにニコラスが大暴れしていることを彼に伝えなかった。ヴィクトールもニコラスも、互いから離れ、客観的に自分を見る必要がある。ヴィクトールにはリスティアが現れ、彼の心を救ったが、ニコラスにはヴィクトール以外誰もいない。父も母もニコラスを見捨て、尊敬できる師もおらず、友と呼べる人さえいないのだ。


「…リスティア・エヴァンスはクラストロ領に帰った」

「…っ!そう、ですか」


 ヴィクトールの顔に一瞬せつなさが宿り、次に安堵が広がったのを見て、コーネリアスはようやくほっと息を吐いた。重い任に堪えて自分を殺し続けてきたヴィクトールが、最後に本当の愛を知ることができただけでも、救われた気分だった。身勝手だとわかっているが。


「これを」


 別れ際、コーネリアスが渡したのは、無地の冊子だった。


「日記でも書くといい」


 好きに使えと言って、コーネリアスは去っていった。


 ヴィクトール・リントンの犯した罪はそう重いものではなかった。しかしなんといっても数が多く、しかもニコラスの罪まで背負ったため、最終的な罪状は複数の詐欺罪と脅迫罪に加えて王都での私闘禁止罪まで重なった。国家反逆罪にならなかったのは、これをクリューゼットとクラストロだけで収めてしまったからである。それでも終身刑ではなく、死罪もやむなし、という判決が下った。婦女暴行がなかったのは、令嬢たちはあくまで合意の上で事に及んだからだった。リスティアについては彼女自身で事を済ませてしまったため、問われなかった。


 ヴィクトールはコーネリアスに貰った冊子を開き、何を書こうかと思案した。日記も詫びも、違う気がした。今更自分の想いなど誰にも伝える気はないし、女性たちへの詫びなど書いても虚しくなるだけだ。


「リスティア…」


 ヴィクトールは宝物のように彼女の名をそっと形の良い唇に乗せた。彼女を想う時、ヴィクトールの胸は今でもせつなさと恋を訴えてくる。ヴィクトールに罪と誇りを自覚させてくれた少女。輝く朱金の髪は朝日にも似て、希望を抱いていた。


 ヴィクトールはペンを取り、リスティアを描き始めた。貴族令嬢とは違い男子のヴィクトールにスケッチの習慣はなく、はじめは丸に線がくっついたいびつな棒人形のようだったが、何度も描くうちにしだいに人に見えるようになっていった。


 リスティアを描く時、ヴィクトールの脳裏に甦るのはラストダンスの彼女だった。別れを知りながら、それでもヴィクトールの心を知りたいと告げてきた彼女。叶わぬ恋とわかっていても一縷の望みに縋るように見つめてきた新緑の瞳。みずみずしく花開いたリスティア・エヴァンスを描く時、知らず彼は微笑みを浮かべていた。子供が宝物を眺めているような、嬉しくてたまらないという笑みは、ニコラスが最後まで彼に与えることのなかった幸福であった。


 冊子をリスティアで埋め尽くし、満足のいかなかったヴィクトールは次の冊子を買い求めた。こういうことができるのが貴族用の監獄である。金さえ積めば何でも手に入れることができる。


 ヴィクトール・リントンの処刑は彼が死ぬまで執行されなかった。彼のいた部屋はリスティアの肖像で埋め尽くされ、それは床にまで描かれていた。彼はリスティアに色をつけず、黒のみで陰影をつけ、まるで写真のようだと錯覚させるほどであった。


 貴族用監獄は後に破壊されるのだが、ヴィクトール・リントンが収容されていた部屋に踏み込んだ襲撃者は部屋を埋め尽くすリスティア・エヴァンスに息を飲み、この部屋だけは破壊せずに残したという。




処刑まで行くか?とも思ったのですが、さすがに王都での戦闘行動を実行しようとしたのは反逆と取られても仕方なく、それでも死ぬまで待ったのは、ニコラスがやったことだと知られていたからです。

ニコラスにはヴィクトールが死んだと伝え、自分がしたことの結果だと突きつけることが罰です。ニコラスにはヴィクトールしかおらず、その唯一も自分のせいで失った。ニコラスは幸福を夢想することしかできず、本物を知らないままです。誰かさんに似てます。

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何を語っても無粋にしかならないんだけど ヴィクトール・リントン こういうひと、だいすき。
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