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リスティア・エヴァンスの敗戦・前


 どうやらリスティアに、気になる相手ができたらしい。

 憂い顔でため息をつくヴァイオレットにクラーラは苦笑する。


「いいことじゃないの。王都でデビューさせたんだもの、そのつもりがなかったなんて言わないでしょう?」

「それはそうですけど、主な目的は社会勉強よ。恋にうつつを抜かされても困るわ」


 ヴァイオレットが小言を漏らすほどリスティアは相手に夢中になっているようだ。恋は盲目。あの賢い少女であってもそうなるのかと思い、可愛らしさについ口元が緩んだ。


 地方貴族の娘がわざわざ王都をはじめとする主要都市で社交デビューをする目的は、第一に結婚相手を探すことにある。茶会や晩餐などで経験を積み、満を持してということだ。リスティアとて例外ではない。ヴァイオレットもそのつもりで連れてきた。


 だが、ヴァイオレットの目から見て、年頃の青年でまともな相手はほんの一握りだ。リスティアはこれからヴァイオレットの侍女として、クラストロ次男の家を共に守っていく予定である。迂闊な男に引っかかって身を持ち崩されてはたまらなかった。


「レティには男の子しかいないから余計可愛いのかもしれないけど、エヴァンスの奥様を差し置いて出しゃばるのは良くなくってよ?」

「わかっていますわ」


 だが後日、下町にあるクラーラの家にやって来たルードヴィッヒも同じことをぼやいた。


「あんたまでそんなことを言い出すなんて。そんなにリスティアちゃんの相手は悪いの?」

「リントン家は知っていますか?」

「もちろん。クリューゼットの腰巾着でしょ。…ああ、もしかしてあそこの三男?」

「その通りです。少し調べただけでくだらない色恋沙汰ばかりが集まりました。そんなろくでなしのどこがいいのかさっぱりわかりませんよ」

「リスティアちゃんがねぇ……」


 リスティアのお相手、ヴィクトール・リントンはリントン家の三男だ。ハニーブロンドの髪とブルースカイの瞳に甘いマスク。そこにやわらかな笑みを常に湛えて女性を落とす。色男として王都ではちょっとした有名人だった。


 だが問題は、彼の主家であるクリューゼット家が反クラストロの先鋒であるということだった。ヴィクトールはどうやらクリューゼットの意を汲んで動いているらしく、彼の毒牙に引っかかった女性はことごとく政敵の令嬢ばかりだった。将を射んと欲すればまず馬を射よとはいうが、やり方がどうにも汚い。


「クリューゼットの長男はたしかニコラス・クリューゼット。24歳で、父親のヨハネスがまだ家督を継いでいないわ」

「あそこは爺さんが健在ですからね。あれには譲れませんよ」

「コーネリアス様は立派なお方ですもの」


 ニコラス・フー・ゼ・クリューゼットの祖父であるコーネリアス・フー・ゼ・クリューゼットは司法長官の任についている。自分より年下のマクラウドとルードヴィッヒの父とも対等に戦い、20年前の騒動の時もむしろマクラウドを庇う発言をした。今クラーラが自由に動き回れるのはコーネリアスの進言によるところが大きい。


 マクラウドの家督の放棄を、王家はクラストロが独立に動くのではと危惧して認めなかった。代案として出された完全なる自由も、最初は却下されるはずだったのだ。

 だがコーネリアスは、エドゥアールとフローラをクラストロの私刑にかけないのであれば最低限譲歩すべしと訴えた。なにより司法の長として、王家の法を無視したやり方に憤っていた彼である。ここで王家が法を蔑ろにしたら、国民がそれに倣い、犯罪が横行するだろう。なによりマクラウドと同じく婚約者を奪われた王女は彼に共感しているだろうし、落とし前を付けない限り戦争だと宣戦布告を通告されている現状で、クラストロに屈辱を舐めろというのはその国を侮辱しているのと同義と取られかねなかった。宣戦布告をすることで、クラストロを支援していたのだ。


 結局王家はマクラウドに自由を認め、免状まで発行せざるを得なくなった。いつまでもマクラウドにこだわって、本当に戦争に突入したらたまらない。非がこちらにある以上、同盟国も援助はしても軍を動かしてはくれないだろう。


 クラストロ領に帰るマクラウドに、コーネリアスは会わなかった。代わりに手紙と、酒を寄越した。


 ローランタンの30年物。そして『あなたの輝かしい未来に』という祝福の言葉。長年クラストロとやりあってきたクリューゼットらしい、皮肉と、そして激励であった。それを見たマクラウドの父はあの男らしいと笑い、


「これはお前が宰相の任に就いた時に一杯やるつもりだったと言っておったやつじゃないか。わしには何も寄越さんくせに、あいつはまったく素直じゃない」


 好敵手が去るのが自分の力であればこれほど嬉しいことはない。だが、自分の力の及ばぬ場所で、戦いにもならず、なにもかも奪われて失意のうちに去っていくのは、男にとって自分が辱めを受ける以上の憤りとやるせなさを感じるものだ。あの頃のクラストロとクリューゼットはそういう関係であった。


 それを思い出し、クラーラはふっと遠い目になる。


「…立派過ぎる親を持つと、子も大変ね」

「そうですね。期待が大きすぎて潰されかねません」


 ちなみにクラーラとルードヴィッヒの父も健在である。あの狸親父はマクラウドの騒動後、実にあっさり家督を彼に譲り、自分は引退して知らぬ存ぜぬを決め込んだ。今クラストロの実権は、マクラウドの代理としてルードヴィッヒが握っている。


 だが、何もしていないわけでは当然なかった。二人の息子の目の届かないところで何やら画策している気配がある。気配だけで尻尾を掴ませない、実にクラストロらしいやり方だ。


「ヨハネスは何をやっているんですか?」

「貴族様らしく、観劇、絵画のコレクション、夜会、慈善事業なんかをなさっているわね。評判は息子程悪くはないわ」

「実に貴族趣味ですね」

「むしろ足場固めに必死よぉ。子供が成人しているのに家督を譲渡されないなんて、資格なしと烙印押されたようなものだわ」


 家督を譲る時期は決まっているわけではない。当主がふさわしいと思えばマクラウドのように10代でも代替わりすることもある。だが、歳をとっても代替わりがされないと、当然次期当主の評価が下がっていくものだ。


 代替わりは複雑な人間関係を孕む。家督を譲られれば当然それまで当主に仕えてきた使用人もそのまま引き継ぎ、頭が代わっただけでそう簡単に家の方針が変わるわけではない。

 だが、息子には当然息子の代の家臣がいる。代々仕えている家中の者ならいいが、次期当主が自分で見つけてきた者が彼のそばで仕えるとなると反発を生み、家内で壮絶な冷戦が繰り広げられる。それを抑えられる者ならいいが、ただ単に気に入りだと、嫉妬を買い最悪殺されてしまうこともあった。今まで支えてきた者たちの矜持もある。代替わりは慎重に、しかし確実を期して行うものなのだ。


 コーネリアスが息子に家督を譲らないのは、家中での戦争を避けるためもあるのだろう。耳良い言葉ばかりに囲まれて育ったヨハネスでは、司法を司る者としての公正を理解せず、善悪の区別もつかず、ただ自分の感覚で決めてしまうかもしれない。司法とは人の一生を左右する、重要な国家の軸だ。政治とはまた違った部分で国家を守っている。


「結局ウチ関係ないじゃなぁい?逆恨みは止めてほしいわ」

「誰かに恨みをぶつけていないと自己を保っていられないんでしょう」

「軟弱者。アタシ、そういうお方は嫌いだわぁ」


 ルードヴィッヒはちらりと目を上げた。クラーラはコケティッシュに微笑んでいる。

 そういうことか。ふっと息を吐いてルードヴィッヒは出された紅茶を飲みほした。


「そうだ、コーヒーがあるから少し持って行きなさい」

「コーヒーなんて飲むんですか」

「帝国で禁止されて、価格が暴落してるのよ。マシューが目敏く買って来たわ。販路を確保しようと必死みたいね」

「ふぅん。売れそう?」

「独特の香りとこくがあるから、好むものははまるわね。ただ、やっぱり強いわ。女性と子供にはおススメできないわ」

「大人の男の、妻にも内緒の趣味ってところですか」

「そうね。ふふ、男の方ってそういうの好きよね。秘密基地かしら?可愛いわぁ」


 クラーラがころころと笑った。




 リスティア・エヴァンスは今日、何の予定も入っていなかった。奥様であるヴァイオレットもそうだが、王都での晩餐と夜会、お茶会続きで疲れたのだ。


「休養日も必要よ。さ、リスティア、女だけでお買い物でもして遊びましょう」

「はい、奥様」


 そうしてやってきたのは王都一の百貨店『ティアーズ』だ。ドレスから家具まで何でも揃っている。毎年何かしらの催しが開かれ、改築や増築も行われるため、いつ行っても楽しいと評判だった。


「お世話になった方にお礼と、お土産も買わなくっちゃね。リスティア、あなたも好きなのを見つけたら言いなさい」

「はい、ありがとうございます。奥様」


 リスティアは嬉しさと申し訳なさが半々の笑顔で頭を下げた。リスティアの実家は裕福ではあるが、王都の百貨店で大盤振る舞いできるほどではない。支払いはヴァイオレット、つまりは主家であるクラストロが持つのだ。

 入店してしばらくはただ眺めるだけで胸がいっぱいだったリスティアも、若い娘らしくきらびやかな宝飾品や小物に目を奪われた。懸命に自制し、必要なものだけをそっと告げてくるリスティアに、ヴァイオレットも苦笑ぎみだ。


「お礼も贈り主の品格が現れるものよ。特に女性あてはね、どこで買ったか、製造元はどこか、値段はいくらか、下品な話だけれどそういう細かいことまでチェックされて噂されるわ。ただ、見栄を張りすぎるのも駄目。返礼合戦になって相手の財政を圧迫しないように気を付けること」

「上過ぎず、下過ぎず、という見極めが試されるのですね」

「それもあるけど、自分の家と相手の家の差がありすぎると嫌味になるでしょう?だからといって安物を贈ればあそこのお家は…と言われる。大切におつきあいをしていきたい相手なら、本当に嬉しいもののランクを上げたり、そこそこで良いのなら相手の事情に合わせて。侮られず、けれど見下されないように」

「…難しいですのね。本当に親しい、大切に思っている方でなければ貰って嬉しいものなど見当がつきませんわ」

「そう。それよ。あなたのことを想っています、という気持ちを伝えるのが贈り物なのよ」


 なるほど。リスティアが感心している間にもヴァイオレットは買い物を済ませていく。夜会や晩餐に呼ばれたすべての家の事情を把握しているのだろうか。

 贈答品をそれぞれ送るように依頼し、ヴァイオレットとリスティアは今度は自分の番と再び店内を巡り始めた。リスティアは気を張りすぎて疲れているというのに、ヴァイオレットはますます生き生きしている。


「さあリスティア、今度はわたくしたちの番よ!さっき見たイヤリング素敵だったわ、あなたに似合っていてよ」

「お、奥様…!」


 もう3人の子供を産んだというのにヴァイオレットは少女のようだ。リスティアと腕を組み、先程の『奥様』の顔とは一転実に楽しそうに店を周った。


「やっぱり女の子はいいわね。うちは男ばっかり三人で、もう母親にかまってくれないのよ。寂しいわ」

「男性は、そういうのは恥ずかしいとお聞きしますわ」

「そうなのよ。親離れも大切だけれどね。もうひとり、頑張ってみようかしら?」

「お、奥様、そんな、このようなところで…」


 子供が性に繋がるのは思春期ならずともそうだが、リスティアはまだ16歳だ。未経験の少女にあからさまな言葉は刺激が強すぎた。真っ赤になったリスティアに、あらあらと微笑ましい気分になったヴァイオレットだが、はしゃぎすぎた自覚もあった。人の多い場で言うことでも、少女の前で言うことでもない。


「ごめんなさい、はしゃぎすぎたわね」

「いえ、その…申し訳ありません」

「少しお茶にしましょうか」


 百貨店に併設されている喫茶店に入り、リスティアはほっと息を吐いた。奥様の前ではあるが、怒涛の勢いに押されて疲れていたのだ。


「疲れた?」

「大丈夫です」

「女同士でお買い物なんて久しぶり。つい振り回しちゃったわ」

「いいえ。わたくしも……」


 リスティアの言葉が途切れた。笑みを浮かべていた顔が、驚愕にこわばる。


「リスティア?」


 二人が通されたのは窓際の見晴らしの良い席だった。リスティアの目は店内を通り越し、百貨店へと向いている。ヴァイオレットは視線を追った。


「…ヴィクトール・リントン…?」


 遠目ではあったがヴァイオレットの聞き及んだ通りの金髪と高い背丈、そして、離れた場所からもわかるほどの華やかさ。リスティアがゆっくりとうなずく。


「リスティア、肩を丸めて、目線を落として、顎を引きなさい」


 リスティアは反射的に従った。そうして肩を丸めてうつむいただけで、驚くほど印象が変わる。特に猫背になると途端にリスティアは少女ではなく、老けて見えた。そうでなくても衝撃に怯えて震えるリスティアは先程の溌剌さが消え、蒼褪めて今にも倒れてしまいそうだった。

 ヴァイオレットは顔を戻すと目だけでヴィクトールを確認した。視線に気づいたヴィクトールが顔をあげてこちらを見る。そっと視線を彼から店にずらした。


 ヴィクトールは女連れだった。いかにも恋人ですというように、彼女の腰に手を回している。宝飾コーナーでイヤリングを見繕っていたのか、時々彼女の耳に触れていた。


 リスティアの手が震えている。


 どうやらヴィクトールに気づかれなかったようで、彼らは店員の丁寧な挨拶を受けて去っていった。


「…行ったわ。よく頑張ったわね、リスティア」

「奥様…わたくし、わたくし……」

「噂はあてにならないとはいうけれど、外れてほしいことほど事実なのよね」


 ぽろりとリスティアの目から耐えていた涙が落ちた。


 リスティアは3日前、ヴィクトールに結婚を申し込まれたばかりだった。

出会ってひと月と経っていないが、恋に時間は関係ない。別荘地で出会った男女が結婚を決める、というのもよく聞く話だ。


 ヴィクトール・リントンの色恋話はリスティアも聞き知っていた。フランシーヌお姉様信者の間では要注意人物として知れ渡っていることもある。リスティアは王都では新参者だ、だからこそ、目を付けられるかもしれないと忠告してくれたのだ。リスティアも警戒していた。


 だがヴィクトールはその噂を否定するどころか自分でも楽しんでいるようであった。出会った時のヴィクトールの第一声などひどいものだ。


「やあ。君を落とせたら賭けに勝てるんだけど、一口乗らないか?」


 あろうことか、男たちの間でリスティアが賭けの対象であると暴露してきたのだ。ヴィクトールが口説いて何日で落ちるか。そして、リスティアにイカサマを誘って来た。これにはリスティアも絶句した。


 実をいうとリスティアは、ヴィクトールが声をかけてきたらリントン家並びにクリューゼット家の情報を得ようと秘かに意気込んでいた。ヴァイオレットが言いつけたわけでもなんでもない。王都でのデビューのお礼に、せめてひとつでも役に立ちたかったのだ。


 だがヴィクトールの遊び人ぶりはリスティアの度肝を抜いた。すっかり毒気を抜かれ、代わりに怒りの込み上げてきた彼女は、それはもうきっぱりと断った。


「人の心を弄ぶようなお方と賭け事などできませんわ。リントン様、そのようなお遊びは他の方となさってください」


 扇で顔を隠し、つんとそっぽを向いたリスティアに、ヴィクトールは口笛を吹いた。そうした仕草が逆に嫌味なほど似合っていた。顔が赤くなるのを感じ、リスティアはその場を立ち去った。

 逃げたのだ。自分でもわかっているだけに悔しく、リスティアの心にはヴィクトールへの対抗心が芽生えていった。と、同時にヴァイオレットほど洗練されていない自分への羞恥が込み上げる。彼女であったら、ヴィクトールなど歯牙にもかけずに笑ってあしらったに違いない。


 再会は、次の夜会でのことだった。


「こんばんは。リスティア」

「…あなたに名前を呼ぶことを許した覚えはありませんけれど」


 リスティアは扇で顔を隠し、嫌悪を隠さずに言った。ヴィクトールはくっと肩を揺らして笑った。


「失礼、つい。友人の間ではあなたの話でもちきりですので」

「まあ。男の方はずいぶんデリカシーがありませんのね」

「そうですね。…王都では珍しい朱金の髪や、豊かな森を連想させる瞳、艶やかな唇に白い肌が閨ではどう泳ぐのか、みんな想像していますよ」

「な……っ!?」


 さっとリスティアの頬が染まった。こんなにあからさまに性的な部分を揶揄されたことは一度もない。硬直したリスティアに笑みを深くした男は、すかさず距離を詰めた。


「その強気な瞳を恋で潤ませたい…私もそのひとりです」


 耳に甘く囁かれ、リスティアは鳥肌をたててヴィクトールから離れた。ひっぱたいてやりたかったがあいにく人目が多すぎる。こんなところで醜聞など起こしたら、ヴァイオレットにも迷惑がかかるだろう。リスティアは拳を握ってぐっと耐えた。


 降参、というようにヴィクトールが両手を上げる。


「もっと警戒したほうがいい。恋人を作るのも、ひとつの手ですよ」

「リントン様が虫よけになってくださる、と?余計なお世話ですわ」

「少なくとも私だったら、他の男も諦めます」

「ずいぶんな自信ですこと」

「事実に基づいた客観的な評価です」


 にこりと微笑むヴィクトールはまったくむかつくほどの美男だった。自分がどう微笑めば女がときめくか、理解しているのだ。リスティアは深呼吸し、心を無にして彼を無視することを徹底した。


 それからもヴィクトールはリスティアの行く先々に現れた。さすがにそこまでいくと恐怖を感じ、どこからか情報が洩れているのかと怪しんだが、色男で弁の立つ彼は夜会や舞踏会での盛り上げ役で、主催側に重宝されているようだった。


 華やかな席ではヴィクトールはリスティアをからかうように声をかけてきたが、一応場を弁えているらしく、晩餐などの際は鳴りを潜めていた。


「こんばんは。エヴァンス様」

「こんばんは。リントン様」


 お互いにパートナーを連れての晩餐である。ヴィクトールの隣には美女がつき、リスティアはデビューの時に踊ったヴァイオレットの親戚が来てくれた。

 交わしたのは挨拶程度で、彼はパートナーをエスコートしていた。漏れ聞こえる話の内容もたわいのないものばかりで――誰それの家に仔犬が産まれたとか、今年のワインの出来だとかで、リスティアは物足りなさを感じつつほっとした。


 女主人の挨拶で晩餐がはじまると、リスティアの目は自然とヴィクトールに向かっていた。何の悪戯か、正面だったからだ。そう自分に言い聞かせ、あら探しの気分で彼の所作を見た。ヴィクトールのマナーは完璧で、あの悪戯っ子のような男がと驚くほど静かに、丁寧に、綺麗に口に運んでいた。唇が開き、銀のスプーンからスープがそっと彼の舌に乗る。意外と太い喉が動き、ヴィクトールの瞳が味を素直に喜んでいた。


 あのひとは、ああやってものを食べるのか。さも美味しそうに食べるヴィクトールを見て、リスティアも急に空腹を覚えた。同じく銀のスプーンを持ち、そっとウミガメのスープを口にする。舌触りはさらりとしたスープだが、旨みが強く、喉を通る時にとろりと絡んだ。苦みとコクのぎりぎりのバランスがとれている。


「美味しい」


 呟きが聞こえたのか、ヴィクトールがリスティアを見た。ゆっくりと青い瞳が笑みを浮かべる。隣でリスティアのパートナーが返事をし、リスティアは我に返ると会話を続けた。何を話したのか、覚えていなかった。


 次に会った時、ヴィクトールは案の定リスティアをからかってきた。


「ずいぶん素直な感想でしたね。子供みたいで可愛らしかったですよ」

「まあ。レディを不躾に見ているなんて、失礼ですこと」

「あなただってずっと私を見ていたじゃありませんか。緊張して、味なんかわからなかったくらいだ」


 リスティアは頬を染めた。気づかれていたという焦りと、気づいていてくれたと喜ぶ心が同時に込み上げる。

 いつものように扇を開こうとして、止めた。代わりにすっと息を吸い、ヴィクトールを見つめる。


「リントン様、どうしてあなたは真面目になさらないの?」

「これが私ですので。いたって真面目なつもりですが?」

「仲間内の賭けにしろ、こうしてからかうにしろ、あまり良いご趣味とはいえませんわ。女が男の方に望むのは誠実さですわ、あなたにはそれがありません」


 ヴィクトールは一瞬真顔になり、すぐに笑みを浮かべた。ひょい、と肩を竦める。


「誠実、ね。まるでプロポーズのようだ」

「そんなつもりはありません」

「私もですよ。その気もないのに恋人になってくれとは言いませんし、結婚してくださいとは言えません。そもそも一緒に遊んで楽しい相手かどうかもわからずに結婚するなんて、それこそ賭けと一緒だ」

「それがあなたの誠実さですか?」

「そうなりますね」


 そう、とリスティアはうなずいた。


「では、決別ですわね。わたくし、自分を賭けの対象になさる方も、一時の快楽に身を委ねるような方も、信じることはできません。もうわたくしに声をかけるのは遠慮してくださいませ」

「リスティア」

「ごきげんよう。リントン様」


 リスティアは背筋をぴんと伸ばし、まっすぐに前を向いてヴィクトールから去っていった。勝った、と思った。


 それからも何回か、ヴィクトールはリスティアの行く夜会に現れた。もの言いたげに見つめられて良心が痛んだが、リスティアは徹底した無視を貫く。ここで甘い顔をして図に乗らせてはダメだ。彼はリントン家の者であり、クリューゼット家の息がかかっていることを思えばなおさらである。リスティアから何らかの情報を得るのが目的か、もしかしたらヴァイオレットを揺さぶって、内部分裂でも狙っているのかもしれない。リスティアは軋む胸を抑えてヴィクトールを視界から外した。




 ヴィクトール・リントンがリスティア・エヴァンスに声をかけたのは、彼女の考えたとおり、主家であるクリューゼット家の嫡男の息子、ニコラスの指示だった。

 ニコラスはヴィクトールと正反対の男で、劣等感の塊だった。常に出来物の祖父と比べられ、父は嫡男にも関わらず未だに家督を継げぬと囁かれている。リントン家の三男としてあまり期待もされず、自由に過ごしてきたヴィクトールとは違い、競争心と劣等感、そして敵愾心のみを育ててきたような男だった。


「おい、ヴィクトール。まだあの女を落とせないのか」


 苛立ちを隠そうともしないニコラスに、ヴィクトールは困り顔で返事をする。


「申し訳ありません。ああいう身持ちの固い女は、あえて離れて揺さぶりをかけ、こちらを意識させるのが重要なんですよ」

「さっさとどこかの宿にでも連れ込めばいい」


 モテる男の余裕を見せるヴィクトールに、ニコラスはさらに苛立ちを募らせた。一人掛けのソファに深く腰かけ、強い酒を煽る。


 劣等感と敵愾心が顔に現れたニコラスは、はっきりいってモテない。親から紹介された女性は、ニコラスの卑屈すぎる上から目線に呆れるか恐れるかして誰もが去っていった。承認欲求が強すぎるくせに自分からは何ひとつ動かず、常に相手を見下すことで自己を保っている。そういう男を選ぶ女はよほど見る目がないか、弱みを握られているかだ。まれに母性の強い女性が選ぶこともあるが、自分が生んだわけでもない大きな子供を育てなおすことに疲れ、しだいに嫌気がさして去っていく。ヴィクトールはニコラスのそんなところを充分知っていた。そして、見捨てられなかった。主家ということもあるが、自分が彼を見捨てたら、ニコラスはどうなるのだと心配する気持ちが大きい。どんなに物扱いされようとも、ヴィクトールはニコラスに一種の友情を抱いていたし、憐憫と優越感を抱いてもいた。


「あの女を抱いたらすぐにクラストロが出てきて結婚を迫られますよ」


 冗談じゃない、とヴィクトールが言った。

 クラストロの名に反応したニコラスが、持っていたグラスを彼に投げつける。グラスは避けたが、入っていた酒がヴィクトールの顔にかかった。


「クラストロの与力なんか、弄んで捨てればいいだけだろう!そうだ、仲間を集めて回してやったらどうだ。地方貴族の娘風情がずうずうしくも王都に来て、男に遊ばれて捨てられる。最終的に娼館にでも売り飛ばしてやったらクラストロも思い知るだろう」

「…それは無理ですね、今の王都にはルードヴィッヒ閣下が居座っている。彼の部下も目を光らせているし、実行してもすぐに捕まるでしょう」


 ヴィクトールは顔にかかった酒をそのままに言い放った。ここでニコラスに与えられた酒を拭えば余計に怒りを爆発させる。彼の好む、被虐的な表情を浮かべた。


「だったらどうする!」

「だからこそじっくり時間をかけるのですよ。想像してみてください。私に本気になった女がはじめての夜、期待に胸膨らませて閨で待っている。そこにニコラス様、あなたが行くのです。私も承知の上だと告げればどれほどの絶望でしょうね?」


 酔ったように言葉を紡ぐヴィクトールに、ニコラスは想像を膨らませ、興奮に顔を赤らめた。べろりと厭らしく舌なめずりをする。ひひ、と笑い声をあげた。


「そいつはいい!傑作だ!そうだ、その場にお前も居ろ。俺に抱かれる姿を見ていてやれ」

「はい」


 私にお任せ下さい。ヴィクトールが胸に手を当てて一礼する。

 ニコラスは満足げにうなずき、足を伸ばした。心得たヴィクトールが膝をつき、うっとりとした表情を浮かべて靴に口づける。いつもの儀式だ。ちろりと舌を伸ばし、泥を舐め、飲み込んだ。


 ヴィクトールに満足して帰って行ったニコラスを見送ると、ヴィクトールは顔からいっさいの表情を消した。彼が投げたグラスを片付け、酒で濡れた絨毯やソファを拭く。舌にざらついた泥の味が残っていた。唾液を溜めて飲み込む。


 憐れな人だと、ヴィクトールは思う。何ひとつ思い通りにならない現実から目を背け、嗜虐の妄想に憑りつかれている。昔からニコラスはああだった。幼い頃は目立つ顔を避けて暴力を受け、汚い言葉で罵られた。ニコラスはヴィクトールの暴君であり、逆らうなどという発想そのものがなかった。


 それが変わったのは社交に出てからだった。暴君であったニコラスは誰からも見向きもされず、ニコラスに暴力を受けぬよう常に言葉や態度に気を使っていたヴィクトールが脚光を浴びた。自分の顔が女性に受けると知ったのもこの時だ。やさしい笑みを浮かべてニコラスが好むような甘い言葉だけを与えてやれば、女は彼に夢中になった。


 水面下の逆転劇に気づかれぬよう、ヴィクトールはさらに張り詰めてニコラスに仕え続けた。ニコラスの劣等感はますます膨れ上がり、やがてヴィクトールを使って女性を遊びの道具とすることを思いついた。ヴィクトールは、それに乗った。ニコラスなりに家のことを考え、政敵の娘を堕とすのならばこれも一つの政争だった。そんな言い訳をした。


 リスティア・エヴァンスはそんな遊びに飽いていたヴィクトールには新鮮だった。リントン家とクリューゼット家の事情を知り、ヴィクトールの背後にニコラスがいることを承知の上で、そして、ヴィクトールがしていることも把握していながら、それでもまっすぐに見つめてきた娘。彼女はヴィクトールの政争あそびに乗ってきた。警戒する子猫のように、やるならやってみろと毛を逆立て、しかしヴィクトールのからかい混じりのやさしさに驚いてぴょんと跳ねて逃げる。可愛らしさにヴィクトールの笑みはいつしか本物になっていった。


 あのような一途で真摯な瞳を向けられたことは一度もなかった。彼の家族はヴィクトールをニコラスに差し出すと家の存続に駆使し、自由という名の放置を決め込んだ。ニコラスはいわずもがな彼を道具扱いで、壊れたら不便くらいにしか思っていないだろう。


 だが、リスティアは違った。彼女は賢明で、まっすぐだった。世の中の不条理を知りつつも懸命に自分の道を進もうとしている。彼女の瞳がしだいに警戒から気を許した友人、そして恋の火を燈した時、ヴィクトールは今まで感じたことのない感動に包まれた。そして、はじめて今までのことを後悔した。


 自分には、リスティアの瞳に映る資格はない。たくさんの女性たちの恨みを買い、いくつもの家を醜聞で貶めてきた。彼女は駄目だ。利用するのなら利用してやるといいながら、それでも信じたいと訴えてくる瞳は。


 今さらニコラスと離れても、周囲は認めないだろう。ヴィクトールほどニコラスを上手に操れる者がいないのだ。コーネリアスに訴えて憐憫に縋ることも考えた。だが跡取りの長男に頭を悩ませているのはコーネリアスも同じはずだ。リスティアと引き換えが家の断絶と家族の不幸では割に合わない。いやそんなのは言い訳だ。ヴィクトールがニコラスから離れられないのだ。


 ニコラスに虐待された幼少期から、彼はヴィクトールの世界だった。正義のない世界を支配する暴君。それから解き放たれた時、果たして自分が自分を保っていられるのか、怖いのだ。もしかしたら自分の中に、ニコラスと同じ暴力的な自分がいて、か弱いリスティアをヴィクトールがされたように支配しようとしたら。


 耐えられなかった。リスティアの瞳が恐怖と軽蔑に染まって自分を見る。そんなことになるくらいなら、徹底的に酷い男を演じて逃がした方が良い。クズになりきれ、とヴィクトールは自分に言い聞かせる。彼女の幸福を願うなら、きっとそれが正義なのだ。


 ごくりと喉を動かす。この泥は、自分で選んで舐めた泥の味だ。



 ヴィクトールがリスティアに結婚を申し込んだのは、翌日のことだった。




徹底的にクズな男にしようと思ったのですが、リスティアがクズに引っかかるとは思えなかった…。

続きます。

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