第114話 光と影と
「こんなところで死ぬわけにはいかないのに……」
レイファは目の前で繰り広げられる惨状を見つめながら、拳を握って呟いた。
私には王にならなければならない理由がある。他の何を犠牲にしても、王にならなければならない。
それがレイファ・サザンドールという人間の使命であり、意義だから。
王になれないまま死ねば、母を殺したことが無駄になる。彼女の死が意味のないものになってしまう。
だから、このようなことで死ぬわけにはいかないのに──。
「どうして、ここまでなのよ……」
レイファの想いとは裏腹に状況は最悪と言ってもいい状態だった。
ミルが瀕死の状態で、リムナはダンジョンから逃亡して、戦っていた残りの面々も既に死にかけていると言ってもいい戦況だ。
オーンズは既に戦闘不能の怪我を負っている。ギルベルトも立っているのがやっとの様子で、しかも彼が得意とする神聖術も封じられていた。
残る戦力はミーヤくらいだが、彼女も殺されるのは時間の問題だろう。
度重なる精霊術で魔力は完全に底をつき、残る矢も数本。
【身体強化・大】スキルによる体術でなんとか敵の攻撃をいなし続けているが、圧倒的な力を見せる敵との一対一の戦いでいつまで持つことやら。
数秒後に首が刎ねられていても、なんらおかしくない状態だった。
この現状を眺めている私だって、既に戦うことは適わない。
右膝から下を綺麗に斬り落とされ、左腕だって不自然な方向へ折れている。
大量に血が流れたせいか、身体が寒い。絶対的な熱量の不足を感じ取っていた。
敵にとっては私など取るに足らない紙くずみたいなものだ。
その気になれば一瞬で片づけることができる。一瞬で片づけることができるからこそ、後回しにしている。
要は悪魔の気が変わるまでの命ということだ。
できることなら、私だってリムナのように逃げ出したかった。
ダンジョン制覇だって、王になることだって、死ねばすべて叶わなくなってしまう。生きてさえいれば、叶う可能性は残されるのだ。
人間死んだらすべておしまいだ。それは母の死を見れば明らかなことだった。
私は死後の世界なんてあるなんて思わない。死んだら天国に行けるだとか、生まれ変わりだとかは生者のための現実逃避に過ぎない。
魂なんてものはなく、死んだら意識が途切れてそこで終わり。そこから先は何もない。
いくら私が王になろうとも、母は自身の悲願を叶えたことを知ることはない。無念のまま娘を恨みながら死んでいったという事実は変わらない。
だから、私は母のためではなくて、自分の行いを肯定するためだけに王になるのだ。ならなくてはいけないのだ。
逃げ出したい。逃げて生き延びたい。
でも、それは叶わない。
逃げる足がないから。逃げ出す力もないから。
既にメンバーの一人を除いて戦闘不能な状態。リムナが逃げ出した時とは状況が違う。
たとえ逃げ出す足があったとしても、今の悪魔は私を取り逃したりしない。
「まだまだっ! こっからっ!」
ミーヤは嗄れた声で叫ぶ。
自分を鼓舞するように。自身の命を絞り出すように。
そうでもしないと限界なのだろう。あの悪魔を一人で何分も相手にしているこの状況。
正直言って異常だ。今までの彼女の実力では考えられない奇跡。
きっと今のミーヤは自身の限界を突破した状態だ。いわば壁を越えた、ゾーンに入っているような状態。
か細い綱渡りの上で成り立った偶然の産物だ。
この戦いを終えれば、彼女は一回り、いや二回り強い強者へとなれるはずだ。
だけど、その未来は起こり得ない。彼女の命はここで終わるからだ。
彼女の奮闘もすべて無駄なもの。水泡に帰すことが決定づけられた事柄だ。
ミーヤは本当にリムナが助けを呼びに行ったと思って、その希望を糧に戦っている。心の支えにして戦えている。
だけど、その希望はまやかしだ。世の中を信じすぎている。現実を甘く見すぎている。
私はリムナが本当に助けを求めたとは思っていなかった。
そもそも彼女は金で雇われただけのパーティーメンバーである。私達と彼女との間にあるのはただの利害関係であり、仲間とも呼べない希薄な繫がりしかない。
私もリムナや他のメンバーをそのように扱ってきたわけだし、彼女も同じように考えている方が当然だ。
いつかクーリとかいう少年が言っていた。
──確かに悪意のある人間は多いですけど、人間の善意ってやつも信じてあげた方が楽ですよ。
私から言わせれば、人間の善意を信じられる世間一般の人の方が怖く思える。
どうして、それほど純粋無垢に人を信じることができるのか?
全く理解できない思考。共感も納得もすることができない。
人の善意なんて信じられる人間は、きっと人間の本当の姿を目の当たりにしたことがないのだ。
自分の欲望に呑まれて娘に呪いのような生き方だけを植えつけた女。
そんな醜い女を自身の利益のためだけに持ち上げて、叶うはずのない争乱を引き起こそうとする貴族達。
関係を持った女に金を渡して、子供の存在をなかったことにしようとする王。脅しによって女を排除しようとする宰相。
新しく一家に加わった腹違いの娘を、臭い物に蓋をするように一切視界にも入れない女王。見下し、危害さえも加えてくるその娘達。
そして、自分の命のために、使命のために、母親ですら手にかけた私。
全部だ。全部汚れていて、醜くて、悪意の塊で、綺麗なものなど何一つない。
世界は救いようのないほどに汚くて、誰に対しても優しくない。
「絶対に持ちこたえるっ! 生きて帰るんだ!」
世界にまだ純粋無垢な希望を抱いているハーフエルフの少女は、最後の矢に手をかけた。
弓術士にとって、生命線とも取れる存在。それをなんの躊躇いもなく解き放った。
豪速の一射は悪魔にあっさりと躱される。傷一つつけることなく、精々敵を二歩ほど下がらせただけだ。
だけど、ミーヤはその二歩で充分な戦果だったとばかりに、希望の光を失っていない。
弓を投げ捨て、完全な徒手空拳に。手ぶらのまま敵へ挑んでいく。
「無理よ、絶対に……」
彼女は愚かだ。絶対に勝てないとわかっているのに。生き残れないとわかり切っているのに挑み続けている。
無駄なあがきを続けられるほどの純粋さが酷く憎らしく、そして同時に羨ましくも感じていた。
「来るはずがない、助けなんて……。私達はここで死ぬの……」
自分は彼女ほど、人間を信じられない。希望に縋った生き方はできない。
「死ぬのよ……」
ふと、自分の手で追い出した少女の存在を思い出す。
彼女の名前はソフィーといった。私に盲目なまでに忠誠を誓い、その割に駒としては使い勝手が悪いという外れ駒みたいな存在。
彼女を手駒に加えようとしたのは自分の判断ミスだった。自分の選択に後悔をすることが滅多にない私が、珍しく後悔している事柄だった。
私は自分の利益だけを求めて、王になることに必要かどうかだけを秤にかけて、生きている人間だ。
ソフィーも王を目指すために重要な駒だと判断して、彼女に恩義を与えた。
その当時はそう思って行動していたつもりだけど、振り返ってみると怪しいところだ。
私は感傷に基づいて彼女に恩義を売ったのではないのか? 母と似た境遇を持つ彼女に、自分が殺した母の姿を重ねて手を差し伸べたのではないか?
母のように理性を失っていくソフィーの様子を見たくて、あるいは母と別の道を歩くソフィーの姿を見たくて、彼女を配下に加えたのではないか?
今となっては完全に否定できない自分がいた。
私は自分の流儀をねじ曲げたから、とんだ外れ駒を引く羽目になったのだ。自分の手駒をわざわざ捨てる羽目になったのだ。
ソフィーを捨てたこと。それ自体は後悔していない。
あれは必要不可欠な正しい判断だった。
ソフィーがいたところで21階層での死は避けられなかったと思うし、ミーヤがいなかったらと仮定すると、こうしてソフィーのことを思い出す時間も与えられているか怪しいところだ。
それにこれから私達に起こり得るであろう、21階層での死に巻き込まれることもない。
彼女はきっと私を恨んでいることだろう。自分を突き放したことを憎んでいるはずだ。
それでいい。恨んでいても、憎んでいても。生きていれば。
もう二度と母を自分の手で殺すような羽目は御免だった。あんな苦しみ、一度だけで充分だ。
私の半生に付き添った哀れな騎士。
できることなら彼女が、私を殺したこの悪魔を討伐して、自分が見られなかったダンジョンの最奥に踏み込むことを願うのみだ。
「まだっ! やれる!」
ミーヤが悪魔の斬撃を躱す。
紙一重の距離で走る剣筋。常人ならその衝撃に吹き飛ばされてしまうところだが、【身体強化・大】のスキルを持つミーヤなら耐え切ることができる。
「まだ戦え──」
そのまま悪魔の懐に入ろうとした彼女の身体が、衝撃で打ち上がる。
蹴りだ。今まで剣戟のみで応戦していた悪魔の体術。
死角外からの攻撃に対処できるはずもなく、ミーヤは綺麗に攻撃を食らってしまう。
「──っ」
彼女の身体は限界を過ぎていた。そこに加わる巨体から繰り出された一撃。
戦闘意欲を置き去りにして、肉体が諦めることを選んだようだ。
宙に浮き、闇の中で放物線を描き、受け身もないまま地面に墜落する。
砂埃が収まると、そこには目を開けたまま横たわるミーヤの姿が。彼女はもう起き上がることもできないらしい。
相対する敵もミーヤの状況はわかっていたのであろう。今までの俊敏な襲撃をやめ、悠長にミーヤへと歩いていく。
──終わった。
レイファはすべてを直感的に理解した。
この砂時計の最後の一粒が落ちるような、儚く限られた時間の終焉。
ここから始まるのは虐殺だ。動けなくなった私達を一人ずつなぶり殺しにする。勝者だけに与えられた特権。戦闘とも言えない一方的な暴力。
敗者である私達に待っているのは、確定的な死のみだ。
「フゴォォォォォォ──」
悪魔は息を吐きながら、ミーヤへと一歩ずつ歩いていく。
剣先が彼女に届く間合いに入るまで、あと少し。
もう終わりだ。全部終わりだ。
私の王の座への道も。意味のない人生も。
全部終わったのだ。
「ごめん……レイファちゃん……。もう動けないや……」
ミーヤは倒れながら、泣いていた。
悔し涙なのか。それとも、恐怖からの涙なのか。
別に私なんかに謝らなくてもいいのに。そんな間柄じゃなかったはずなのに。彼女は最後に私への言葉を選んだ。
「ごめんね……約束守れなかったや……。助けが来るまで耐え切ってみせるって約束したのに……。一緒にダンジョン制覇をするって約束したのに……」
なんて彼女は馬鹿なのだろう。
そんなこと謝らなくてもいいのに。貴女のせいじゃないのに。全部私のせいなのに。
私がダンジョン制覇なんて目標を掲げなければよかった。
もっと準備が万全な状態で21階層に挑めばよかった。
最初にボスの攻撃に倒されなければよかった。
王の座なんて目指さなければよかった。
母のことを殺さなければよかった。
あの時一緒に死ねばよかった。
そうしたらミーヤも他の誰も巻き添えにすることなく、平穏に幕は閉じたのに。
「ごめんね……」
魔剣が振り上げられる。それは悪魔の射程圏内にミーヤの身体が入ったことを意味していた。
ミーヤは最後に私の方を見た。輝く碧色の瞳が横たわっている。
その光の中には怨嗟も、憤慨も交じっていなくて。
場違いだけど、綺麗だなと思った。
私は彼女の最期を一瞬たりとも見逃さない。
母が死んだ時と同じように、最後までその生き様を目に焼きつけよう。
それこそが彼女達を死に誘った自分の責任だ。母から託された使命を果たせなかった、私にできる最後の役目だ。
紫色に発光する線が地面に向かって伸びていく。魔剣が振り下ろされた軌跡。
それが最後の瞬間のはずだった──。
「《魔法掌底》!」
爆風とともに現れた影を見るまではそう信じていた。




