07:小さな公爵令嬢の魅惑のほっぺた
屋敷内の散歩中、シャルロッテとリシェルが玄関口の前を通りかかったところ、ゆっくりと扉が開かれた。
現れたのはジョシュアだ。シャルロッテがパッと表情を明るくさせ「ジョシュアお兄様!」と彼にぱふんと抱きついた。
「ジョシュアお兄様、おかえりなさい。おでかけしてたんですか?」
「あぁ、懇意にしている商家が探していた本を取り寄せてくれたんだ。天気も良いから散歩がてら取りに行ってきた」
「お兄様もおさんぽ? ロッティもおさんぽしてました!」
同じことをしていたのが嬉しくてシャルロッテが話し、次いでジョシュアの手元に視線をやった。
彼が手にしているのは一冊の本。随分と分厚く、濃紺色の表紙には金色の文字が書かれている。シャルロッテが普段読んでいる本には表紙にウサギや猫の絵が描かれているが、それもない。
生憎と表紙の文字は読めないが、雰囲気からして難しい本だとすぐに分かった。
だけど本だ。
難しくて分厚いものも、ウサギや猫が描かれているものも、本とは総じて読むもの。
だから……。
「お兄様、これからその本を読みますか?」
「あぁ、そうだね。時間もあるしせっかくだし読もうかな」
「……あのね、ロッティね……、いまはおさんぽしてて、でもおさんぽももうおわりで、それで」
あのね、とシャルロッテが話しつつ、もじもじと体を揺らした。
恥ずかしさと言ってしまって良いのかという葛藤が胸に湧く。だけど言えばもしかしたら……、という期待もある。
そんなシャルロッテの気持ちを察したのか、ジョシュアがしゃがんで目線の高さを合わせてきた。金色の髪がサラリと揺れ、紫色の瞳が真っすぐにシャルロッテを見つめてくる。
「どうしたんだい?」
尋ねてくるジョシュアの声は普段にもまして優しい。
その声に胸の内の葛藤が消えていくのを感じ、シャルロッテは勇気を出して「あのね」と話しだした。
「ロッティ、このあとお庭で本をよむんです。それで、もしもジョシュアお兄様も本をよむなら、ロッティといっしょに読んでほしいなって……」
「私と一緒に?」
「はい。このまえ、お母様とお庭でならんで本をよんだんです。ときどきジュースをのんで、それがすごくうれしくて」
少しひやりとした空気の中、温かい飲み物を飲みながら読書に耽る。
静かに本を読み、ふとしたタイミングで他愛もない話をして、また本に……、と静かで落ち着いた時間だった。
あの心地良い時間を、今度はジョシュアと過ごせたらどれほど素敵だろうか。
そうシャルロッテが望む。
だが迷惑にはなりたくないし、無理強いはしたくない。そんな気持ちが勝り、「でもジョシュアお兄様がお部屋がいいなら大丈夫です」だの「ロッティ、ひとりでもよめます」だのと遠慮の言葉が口から出てしまう。
「落ち着いてくれ、シャルロッテ。誘ってくれて嬉しいよ。ぜひ一緒に本を読ませてほしい」
「……いいんですか?」
「あぁ、もちろんだ。私は一度部屋に戻って、シャルロッテと私の分の飲み物を用意しよう。庭で待ち合わせで良いかな?」
「はい! ロッティもお部屋にもどって本をもってきます!」
シャルロッテが弾んだ声で答え、さっそくと部屋に戻っていく。その足取りは誰が見てもわかるほど軽い。
その後をリシェルが追う。どの本にしようかと話す二人は随分と楽しそうだ。
そんな背中を眺め、ジョシュアが小さく笑みを零した。
「良いも何も、この家においてあの誘いを断れる者はいないだろうな」
自分も、他の兄弟も、両親も、屋敷に勤める者達も。あれほど可愛い誘いを断れるわけがない。
そう苦笑しつつ、ジョシュアもまた自室へと向かって歩き出した。その足取りもどことなく軽いのは言うまでもない。
◆◆◆
二人並びのベンチ。中央には小さめのサイドテーブル。
テーブルの上には大小のマグカップが置かれており、温かな湯気が上がっている。
中に入っているのはジョシュアが用意してくれたホットチョコレートだ。初めて聞いた飲み物にシャルロッテは「ホッチョトットレート?」と疑問を抱き、一口飲んでその美味しさに瞳を輝かせた。
甘くて温かいチョコレート。普段は食べるチョコレートが飲み物になって、喉を伝ってお腹を温めてくれる。
そんな美味しいホットチョコレートを飲みつつ、二人並んで静かな時間を楽しんでいた。
しばらくしてふと顔を上げたのはジョシュア。
読んでいた本がちょうどよい区切りを迎え、少し目を休ませようかと周囲の景色へと視線をやった。
今日もブルーローゼス家の庭は美しく、季節に合った花が咲き誇っている。冬になろうとも寂れた景色にはならない。
もっとも、季節ごとに花を植え変えていると知ったのはここ最近だ。シャルロッテと共に散歩をしている時に話を聞いて初めて気付いた。
庭の景色から、その美しさと庭師の拘りを知るきっかけをくれたシャルロッテへと視線をやる。
随分と集中しているようで、シャルロッテは迷路が描かれた本をじっと読んでいる。
そんなシャルロッテをしばし見つめ……、
この角度から見ても可愛いな。
と心の中で呟いた。
普段シャルロッテと対峙する時は、身長差があるため上から見下ろす形になる。あるいは抱き上げたり、しゃがんで顔の高さを合わせることも。食事の際に隣に座ることもたまにあるが、基本的にはシャルロッテの席は両親の間だ。
つまり、隣り合って座り、斜め上から見下ろす機会はあまり無かった。この角度から見るシャルロッテは新鮮とさえ言える。
そう改めて考え、じっと見つめてみる。
シャルロッテは本に描かれた迷路に集中しているようでジョシュアの視線には気付いていない。
ふっくらとした頬。最近シャルロッテの食事量は増えており、健康的な見目になりつつある。
さすがに本人が目指している『もっちり』にはまだ遠いが、健康的な頬はなんとも子供らしい。温かいものを飲んでいるからかほんのりと頬が色づいており、それがまた愛らしさに拍車をかける。
そんな両頬の間にある、ピンク色の唇。幼い子供特有のむにとした口元、斜め上から見ているせいかちょんと唇の先が尖っているように見える。
なんて可愛らしい。
そうジョシュアは心の中でシャルロッテを愛で……、
無意識のうちに、ツンとその頬を指で突いた。
シャルロッテが目を丸くさせ、何事かとジョシュアを見上げてきた。元より大きな青い目が更に大きくなっている。
「……?」
「あ、すまない。痛かっただろうか」
「ロッティ、大丈夫です」
穏やかに笑って、シャルロッテが再び本に視線を戻す。
ジョシュアもまた読みかけだった本を再開させた。
……のだが、
しばらくして、再びジョシュアはシャルロッテの頬を指先で触れていた。
柔らかな頬がそれを受けてむにと歪み、もとよりちょんと尖っていた唇が更に尖る。
これにはまたもシャルロッテがきょとんと目を丸くさせてジョシュアを見た。もっとも、ジョシュアとて無意識だったのだ、シャルロッテ以上に驚き、慌てて自分の手を制止するように己の手を掴んだ。
「すまない、またやってしまった。女性の肌に許可なく触れるなんて……」
「ジョシュアお兄様、ロッティのほっぺたさわりたいですか?」
「それは……、そうだな。柔らかそうで、つい触りたいと思ってしまったんだ。自分の手を止められなかった。まさか自分がこれほど誘惑に弱い人間だなんて……」
ジョシュアが己の手をじっと見つめ、己の行動を恥じた。
今まで自分は理性的な人間だと思っていた。女性に許可なく触れるなんてもってのほか。むしろ女性にみだりに触れる者を毛嫌いしていた。
だというのに、シャルロッテを見ているとその頬に触れたくなってしまう。それどころか無意識に触れてしまっていた。
今までの自分では考えられない行動ではないか。
もっとも、己の行動を恥じるジョシュアとは逆に、シャルロッテは嬉しそうに笑って彼を呼んだ。
「それなら、ロッティのほっぺた触っていいですよ」
どうぞ、とシャルロッテがジョシュアの手を取り、自分の頬に持っていった。
押し付けるようにむにと触れる。
「……っ!」
瞬間、ジョシュアが息を呑んだ。
シャルロッテの頬の柔らかさといったら。程よく弾力もあり、なにより肌がしっとりとしていて滑らか。
手が吸い付く。離せない。なんだこの吸引力は……!
色々な考えが浮かんでは消え、常に冷静沈着なジョシュアらしくなく頭の中は混乱してしまう。
対してシャルロッテはジョシュアの手が気持ちよいのか、まるで親猫に舐められる子猫のように目を瞑り嬉しそうに笑っている。
「ロッティ、いっぱいご飯食べて、もっともっちりします。クラリスさんみたいに!」
「そ、そうか……」
「ジョシュアお兄様、いつでもロッティのほっぺたさわっていいですよ!」
もっと柔らかく触り心地の良い頬になる。そうシャルロッテが嬉しそうに話すのを聞き、ジョシュアもまた微笑んで返した。
◆◆◆
「という事があったんだ。まさか幼い子供の頬があれほど柔らかく滑らかとは……」
そうジョシュアが話すのは、夕食後。
眠くなったシャルロッテはフレデリカと共に自室に向かい、テオドールも今夜は騎士隊の仕事があると早めに出て行った。
だがジョシュアをはじめとする息子達はさほど急いで自室に戻る理由はなく、食後のお茶を楽しんでいた。
こうやって兄弟だけで食後を過ごすのもシャルロッテが来てからの変化である。
以前までは「集まっても話すこともないだろう」と考えていたが、思いのほか盛り上がる。家のことを始めとした真剣な話や情報交換をすることもあれば、最近の流行や、今日は何をしたかとさして実の無い話をすることも。
気兼ねしないこの時間を兄弟らしいと今更ながらに感じていた。
そんな中、ジョシュアが日中のシャルロッテとの事を話したのだ。
「確かにシャルロッテのほっぺって凄く柔らかいよね」
とは、シャルロッテのことを思い出しているのだろう、愛おしいと言いたげなライアン。
「ライアンとは年が近いから無理だったろうが、ハンクとグレイヴの時も触っておけばよかったと思ってな」
「兄さん、かなり子供のほっぺに嵌ってるね……。だけど、今でも弟の頬を堪能するのは遅くないんじゃない?」
自分は難を逃れているからか、ライアンが突拍子の無い提案をしだす。
これにはジョシュアが「なるほど」となぜか興味を抱き、対してグレイヴが「えぇ!?」と驚愕の声をあげた。
グレイヴは今まで末子だったとはいえもう十三歳。なおかつ外見は同年代よりも大人びており、内面も騎士見習いとして勤めているからか成長している。
今更兄に頬を触れられるのはご免である。
「ジョシュア兄さん、落ち着いてくれ。俺の頬なんて触っても楽しくないだろう。なぁ、ハンク兄さん……、いない!?」
ハンクに同意を求めようとするも、既に彼の椅子はもぬけの殻。
グレイヴが慌てて部屋の出入り口を見れば、扉の隙間からスルリと抜けて出ていくハンクの後ろ姿があった。紫色の髪が、まるで「お先に」と言いたげにサラリと揺れて消えていく。元より物静かな彼は、部屋を去る際も、逃げる際も静かである。
「いつの間に……。ジョシュア兄さんもライアン兄さんも、触るんだったらシャルロッテの頬だろう」
「いやいや、弟のほっぺたって言うのもまた違った魅力があるかもしれないよ。せっかくだし僕も堪能してみようかな」
「グレイヴとは年が離れていて構ってやれなかったからな、今から取り戻すのも悪くない」
ジョシュアとライアンが同時に立ち上がり近付いてくる。
これにはグレイヴが「冗談じゃない!」と拒否の声をあげて慌てて立ち上がり距離を取れば、二人の兄達の楽しそうな声が部屋に響いた。




