第七十二話 ラルキア的休日・前編
久しぶりの前後編です。というか、微妙な切り方になりそうなので前後編に無理やりした感もあるんですが……とにかく、なんか久しぶりに物凄く書き易かった気がしています。
その日、朝から松代浩太は落ち着かなかった。
理由はとてもシンプル、今日が綾乃とのデートの日だからだ。
考えてもみて欲しい。色々あったが『大川綾乃』は浩太が惚れた女性である。それも、浩太が生まれて初めて『手に入れたい』と思った、言ってみれば初恋の人だ。その女性から好意を寄せられ、その上でデートに誘われたりしたらそりゃ、舞い上がらない方が嘘であろう。
「……シオンさんに煙草でも貰えば良かった……訳、ないか。吸えないしな、俺」
ラルキア王城を北に一本進んだ大通り。天頂部に燦然と輝いていた太陽は少しだけその勢いを弱め、浩太の影を長くする。そんな日の光を眩しそうに見つめ、王城よりは幾分小さいモノのそれでも立派な建物である待ち合わせ場所で、浩太は手持ち無沙汰げに立ち尽くしていた。『女の子には色々準備があるの! 先に行っといて!』という綾乃の言葉に頷き、一人で待ち合わせ場所まで来て見たモノの……やる事がないのだ。
「人間観察も飽きたし……早く来いよな、綾乃の奴」
背の低い塀の端に腰掛けながら、浩太は街行く人を見るとは無しに見ながら溜息交じりにそんな言葉を吐き出す。端から見たら結構危ない人だ。
「……大体、準備って何だよ、準備って。仔狸の癖に。葉っぱでも頭に乗せて化けるのかよ」
珍しく浩太がそんな毒を吐く。気心の知れた綾乃だと言う事もあるし……何より、軽口の一つでも叩いていないと安定しないのだ。主に、精神の方が。
「そもそも山賊の親分みたいな綾乃が、多少綺麗な衣装を着た所でたかが知れてるだろ」
「……へぇぇ? 山賊の親分が着たら、一体どんな感じになるのかしら?」
「どんなってそりゃ綾乃、決まってんだろう? きっと――」
聞こえて来た声は、後ろから。
「……何時から聞いてた?」
「『仔狸の癖に生意気だ、ぷぎゃー』の辺りから?」
「言ってない! そこまでは言ってないから!」
「あら? そうだった? でも……思ってる事はそうでしょう?」
怖くて、振り返れない。仔狸はきっと大鬼になって自らの後ろで嬉々として嗤っているのだろうと浩太はそう想像し……非常に残念なことに、その想像は現実に相当近しかった。
「さあ、浩太? ゆっくり振り返ってみようかしら? 仔狸の化けた姿、笑って貰おうじゃない」
「……笑ったら、怒る?」
「殴るわね」
「色んな過程をすっとばしたな、おい! 暴力反対!」
「言葉の暴力って、あると思わない? まあ、それは良いわよ。さあ、浩太? 早く振り返ってくれる?」
「いや……何だかお腹痛くなって来たんだけど」
「大丈夫。次はほっぺが痛いから」
「……全然大丈夫じゃない、それ」
「細かい事は良いの! さあ、さっさとこっち向く!」
綾乃の少しだけ苛立った声に、浩太も覚悟を決める。照れ隠しと緊張を誤魔化す為とはいえ、陰口を叩いていた自分が悪いのだ。そう思い、覚悟を決めて振り返って。
「……な、何よ? 笑うんじゃなかったの?」
気持ち大きめの花形の髪飾りに、黒いドレス。肩口が大きく開いているのであろう、白いショールを肩からかけている。胸元に光るシルバーのネックレスが、黒いドレスと対照的で良く映える。
普段なら浩太の顎位しか無い筈の身長の綾乃が、ヒールの影響で少しだけ高く見えて、普段の服装とのギャップも相俟ってか、まるで別人の様な印象を浩太に与えた。
「……綾乃、だよな?」
「当たり前でしょ。アンタ、さっきまで誰と会話していたのよ?」
「あ、いや……そりゃ、そうなんだけど」
言葉も無い。不躾と知りながらも、上から下までジロジロと見てしまう浩太に綾乃の顔色が変わる。
「え、えっと……へ、変……かな?」
怒りでは無く、羞恥のそれへと。その癖、期待と不安の入り混じった表情を見せる綾乃に、浩太は勢いよく首を左右に振る事で応えた。
「へ、変じゃない! ぜ、全然変じゃない!」
「そ、そう? そ、その……に、似合ってる?」
「あ、ああ……に、似合ってる」
「……え、えへへ。そ、そう? そう言って貰えると……そ、その……嬉しい」
頬を染め、チラチラと伺うように上目遣いを見せる綾乃。その姿に、浩太の心臓も高鳴り、ソレを誤魔化す様に軽口叩いて見せる。
「そ、それにしても巧く『化けた』な。流石、仔狸。やる時はやるじゃん」
何時もなら、『誰が仔狸よ!』と怒りだす綾乃。浩太自身、この何とも言えない甘酸っぱさを何とかしたいと思って出た言葉だが。
「……うん。その、浩太に『可愛い』って言って貰いたくて……が、頑張ってみた」
何時もの会話のキャッチボールをあっさり放棄、明後日の方向にボールを放り投げる綾乃に浩太の目が点になる。そんな浩太を面白そうに見やって。
「……さあ、浩太! それじゃ行きましょう! 今日のデートコース、最初は何から?」
「……」
「浩太?」
「……へ? あ、ああ! 今日のデートコースね? さ、最初はアレだ。その、えっと……演劇! 演劇、見に行こうぜ」
「演劇?」
「丁度、ライムで一番人気の劇団がラルキアで『建帝記』やってるらしいんだ。綾乃、結構ラブストーリー好きだろ?」
「うん、嫌いじゃない。建帝記ってアレよね? アレックス帝の後半生を書いたラブストーリーよね? 私、一度見て見たかったんだ!」
「そっか。それじゃ丁度良かった」
「うん! まあでも……どうすんのよ、私が建帝記見た事あったら」
「うっ! そ、それは……まあ、そん時はそん時でなんか別の物をだな」
「……ああ、なんか思い出して来た。昔、アンタと映画見に行った事あったじゃん?」
「映画? 映画って……ああ、アレか」
「アンタ、上映時間を間違えて覚えててさ? 結局見たかった映画は見れなくて、仕方ないから時間つぶしに見た映画が」
「……『魔法巫女シスタートモミン・劇場版』だろ? 覚えてるよ」
「恥ずかしかったわよ、アレ」
「俺だって恥ずかしかったよ。何だよ、魔法巫女って」
「何が悔しいって意外に面白かったのよね、アレ。ホラ、特にあの上級精神魔法」
「ウマトランだろ? 覚えてたくも無いのに、忘れられないんだよ。鏡より早く動けるかも知れない! って、アホみたいに反復横跳びしてた過去をばらされたシーンのあの酷い顔とか」
「そうそう! それで、ホラ。『この国の根幹を成す、奇跡の鉱物・ルミア』を強奪する敵役の名前が」
「「ダークナースメイド、セクシーミズホン!」」
「……ぷ」
「……くくく」
「……あはは。まあ、今回はそんな事無いようにしてよね?」
「大丈夫だよ。ちゃんと調べて来たから……と、こんな無駄話してたらそれこそ遅れる。ほれ、さっさと行こうぜ」
バカ話で一頻り盛り上がり、緊張も解けた。これなら今日は普段通りに振舞えると浩太が少しだけ安堵し歩きかけ。
「……ねえ」
綾乃の声に振り返り、そこに頬を真っ赤に染めて右手を差し出す綾乃の姿を見つけて。
「……手、繋いでよ。その……折角の、で、『デート』、だし」
どうやら、今日の綾乃は一味違うらしい。
◇◆◇◆◇
「……見た?」
「はい。しかとこの眼で」
「ええ、わたくしも」
「ねえ、何アレ? 『手、繋ぎましょう~』って? え? アヤノってあんな人だったかしら? 私の知ってるアヤノと別人なのだけど?」
「同感です! わたくしの知ってるアヤノさんではありません! あれはアヤノさんの皮を被った何か、です!」
「確かに。ですが……流石、アヤノ様と感心もしました。私達ではお話出来ない内容です、アレは」
「そうなのよね……アレ、やっぱりアヤノじゃないと無理なのよね……」
「……なあ、キミたち? その、なんだ? こんな事していいのか、人として」
浩太と綾乃の居る場所から、大通りを一本隔てた植木の影。
額を突き合わせボソボソと相談する三人の美女、美少女、美幼女を見守り、ハンサムな彼女――シオンは盛大に溜息を吐いて見せる。その言葉に敏感に反応したのは美少女、エリカだ。
「何よ! シオンには言われたくないわよ! 残念な癖に!」
「ざ……っ! ……コホン、あーエリカ嬢? 何だか君は段々コータに似て来たな。ダメだぞ、あいつのそういう所を真似し――」
「そうですわ! シオンさんだって人の事が言えますか! 残念な癖に!」
「……ソニア姫までか。これは一度、コータに問い質さないと――」
「そうです。他の誰に言われても、シオン様にだけは言われたくありません。客観的に視ても、どの口が言うのか、とこちらの方が問い質したいです。残念な癖に」
「泣くぞ! そろそろ私は声あげてワンワンと泣くぞ!」
とどめとばかりの美女、エミリの言葉を喰らい声を大にするシオン。そんなシオンを前に、エミリは一本立てた人差し指を自らの口の前に持って行った。俗に言う『しー』のポーズだ。
「お静かに、シオン様。バレてしまいます」
「……フォローもなしか。本当に酷い奴らだ、キミたちは」
崩れ落ちた体を起こし、パンパンと服の裾を叩いてシオンはもう一度、三人に視線を順々に送り先程よりも盛大に溜息を吐いて見せる。
「キミたち三人の気持ちは分からんでも無い。だが……人の恋路を邪魔するような行動はどうかと思うぞ? まあ……ええい、くそ! 私が残念な事は百歩譲って、だ。百歩譲ってもキミたちの行為は人として正しい行為では無い」
珍しく正論をのたまうシオンに、三人はそっと視線を逸らす。それでも尚もその視線を逸らさないシオンに、三人を代表するかの様におずおずとエリカは口を開いた。
「その……別に、アヤノの恋路を邪魔してやろう! とか、そんな事を思った訳じゃないのよ。わ、分かるのよ? 私達だって離れ離れになった事あるし、アヤノの場合は『異世界』っていうもっと遠い場所で、それも生死すら分からない状態だったんだから、こう、私達以上にコータの傍に居たいんだろうな~って事も、その……分かるの」
「……ふむ」
「だ、だから、別に今日一日、アヤノがコータを独り占めしても……良くはないけど、まあちょっとだけ分かる気がするんだけど……そ、その、だからと言って部屋の中で『もやもや』してるのも嫌で、その……巧く言えないけど」
自らの頭を整理するよう、ゆっくり、少しずつ、だが確実に言葉を紡ぐエリカにシオンは呆れた様に肩を竦めて見せた。
「つまり……アレか? 別段、二人の行動を邪魔するつもりは無いが、だからと言って何もしないのは嫌だ。妥協案として監視……というか出歯亀行為と、まあそう言う事か?」
「えっと……う、うん」
「呆れた人達だな」
気にはなるが、気持ちを斟酌すれば邪魔できない。でも、気になる。二律背反する感情のまま、三人娘が取った行動が『尾行』である。無論、決して褒められる行為では無いが。
「なんとなく、分からんでも無い所があるしな。見逃してやろう、今回は」
理解は出来る。とにかく、アヤノとコータの邪魔をしないのであるのならば、今回は大目に見ようと思い直しシオンは隠れていた植木の陰から立ち上がった。
「ちょ、し、シオン! バレるわよ!」
「心配いらん……と言うのは語弊があるが、とにかく心配はいらんさ」
「し、心配要らないって――」
「もう居ないからな、二人とも」
「――そんなわけ……って、え、ええーーー!」
シオンの言葉に慌ててエリカもその身を植木の陰から立ち上がらせ左右を見回す。その視界に眠たそうな魔王と仔狸の姿はない。つまり。
「しくじった! 見失ったわよ、エミリ、ソニア! さ、探さないと!」
エリカの言葉に、残った二人も慌てて立ち上がり左右を見回して見失った事に気付く。そのまま走り出そうとする三人を『まあ、待て』と手で制し、シオンは大仰に胸の谷間から一枚の紙を取り出す。『胸の谷間から』という所に害意すら向けるエリカの視線を気にも留めず、シオンは口を開いた。
「心配要らんと言っただろう。この後は……ああ、ラルキア王立劇場で観劇の予定だ。さあ、行こうか」
「い、行こうかって……って、え? し、シオン? その紙は?」
「これか? これは今日のコータの行程表だ。大胆な所もあるが結構慎重派だからな、あいつは。計画表なんぞ作っていたのさ」
「そ、そう。それは何だかとってもコータらしい……って、そうじゃなくて! なんでそんなモノ、シオンが持っているのよ!」
「私は生まれも育ちも生粋のラルキアっ子だぞ? デートスポットも、穴場の店も詳しい自負はある。対してコータはラルキアはさっぱりだ。コータの性格からして聞くだろう、普通? 段取りが無いと動けないタイプの人間だしな」
「う! そ、それは……ソニアはともかく、私とエミリだってラルキアは詳しいのに! コータ、聞いてくれなかった!」
「……いや、思っているのか? 『アヤノとデートに行くんだけど、エリカさん? イイ所、知りません?』って、コータが聞くと本当に思っているのか、エリカ嬢は」
コータはアホの子ではない。そして、残念ながらそんなに鈍感でも無いし、空気も読む。
「……」
「……」
「……思ってない」
「良かったよ、エリカ嬢。君は正常だ」
悔しそうに、恨めしそうに――そして、気になって仕方が無いと言わんばかりにシオンの行程表を見つめるエリカ。その視線に気づき、シオンは手に握った行程表を、右へ、左へ振って見せる。
ひょい、ちら。
ひょい、ちら。
ひょ――ひょい! ち――ちら!
「……犬猫を見てるようだな」
フェイントにもついて来るエリカに、少しだけ感嘆の声を上げるシオン。これが前国王の第一子で公爵である。恐らく母親であるリーゼロッテも草葉の陰で涙を流しているだろう。
「一つ、質問しても宜しいでしょうか?」
「なんだ、エミリ嬢?」
「コータ様がシオン様に本日のプランをご相談為されたのは分かりました。分かりましたが、何故そのプランがシオン様の手にあるのですか?」
「どういう意味だ?」
「相談を受けたとしても、精々が店の場所を教える程度に御座いましょう? もう少し、踏み込んだとしてもどういう順番で回るかまで。何故、その行程表を――行程表の『写し』をシオン様が所有為されているのですか?」
当然と言えば、当然。そんなエミリの疑問にふむ、と一つ頷いて見せて。
「私も、後を付けようと思っていたからな」
「……」
「……」
「……」
「「「……うわー」」」
「な、なんだ、その眼は!」
三人からドン引きの視線を向けられ、慌てた様にシオンが口の端から泡を飛ばす。
「ち、違うぞ! 私はキミたちと違って、純粋に興味本位だぞ!」
「そっちの方が悪いでしょ!」
「いや、違う! 今のは無しだ! その……こう、何と言うかだな! 私は、ひな鳥を見守る親鳥の心境で二人の門出を祝福してやろうと、こう、その、あの――」
「本音は?」
「――二人のいちゃらぶ振りをしかとこの眼に焼き付け、からかってやろうと思っていた」
「……」
「……」
「……」
「い、今のも無し! そうじゃなくて――」
「「「本当に残念ね、シオン(さん)(さま)は」」」
異口同音、清々しいまでの良い笑顔を見せる三人から『残念』の烙印を押され、シオンはガクッと肩を落とした。
◇◆◇◆◇◆
「……面白かった!」
「そっか。そりゃ良かったよ」
夜の帳はすっかり降りて、頭上に輝く月がゆっくりとその優しい明りを落す中、うーんと伸びをする綾乃を少しだけ優しい笑みで見守り浩太はそう言葉を発する。その言葉に少しだけ訝しげな表情を浮べる綾乃に、浩太は首を捻る事で応えた。
「え? なんでそんな微妙な顔してるんだよ?」
「なーんかさ、アンタの感動が足りない気がするのよね」
「……そうか?」
「そうよ。何よ、『そりゃ良かった』って。こう、もうちょっとあるでしょ?」
「ああ、いや……その、良かったよ、うん。音楽も演出も一級って噂だったけど、噂通りだったしな。キャストのレベルも高かったし。ああ、そう言えばフレイア役の子、新人らしいぜ? あの演技で新人って、今後が楽しみだよな」
「評論家か! 私が聞いてるのはそういう事じゃないの! っていうかね? エンターテイメントは楽しんでなんぼでしょうが! 何よ、音楽が良かったとか、演出が良かったって! こう、純粋にストーリーを楽しみなさいよね、ストーリーを! 大体、演劇の素人が何偉そうに語ってんのよ!」
「……ストーリーって言われても」
浩太は建帝記の演劇を観劇した事も、書籍で読んだ事も無い。無いがしかし、それよりもより原書に近い『アレックス書簡』を読んだことがあるのだ。言ってみれば大筋のストーリーを知っているし、もっと言えば。
「……若干中二病を患った高校生の話だもんな、アレ」
「何の話よ?」
「こっちの話」
純粋に楽しめないのである。あまりにも美化され過ぎたアレックスの軌跡を、アレックス自身――『高津真』という一人の高校生が見たらきっと、顔を真っ赤にして足バタしてるだろうと思うと、余計に。
「ま、とにかく面白かったよ。それに、演出や音楽も含めて『演劇』だろう? いいじゃん、そういう評価の仕方でも」
「そうだけど……もうちょっと語りたかったのに」
「ああ……じゃあ、どんなこと語る?」
「そう云う雰囲気じゃなくなりましたー。誰かさんのせいで!」
ぷくーっと頬を膨らませて見せる綾乃に、浩太は苦笑を浮べながらポンポンとその頭を撫でる。むっとした表情を浮かべていた綾乃のほっぺから険が取れる姿に、自身の頬を緩めかけ。
「えい!」
「あ、綾乃? え、ちょ、え、ええ?」
自身の腕に引っ付いてくる綾乃に、弛ませかけた頬を引き攣らせる。慌てて引き離そうと、自身の体を捻り。
「――静かに」
「……綾乃?」
捻りかけ、綾乃のその真剣な視線に息を呑む。
「……ねえ、浩太? 貴方、今日の事誰かに喋った?」
「へ? 今日の事? え、えっと……」
「ああ、もう良い。喋ったのね」
「……なあ、綾乃? どうしたんだよ?」
「尾行」
「……は?」
「だから、尾行されてる。少しだけ油断していたのもあるけど……まさか、本当にやるとはね」
呆れた様にやれやれと首を左右に振って見せる綾乃に、浩太の体に緊張が走る。本人の自己評価はともかく、端から見れば浩太は『魔王』だ。しかも今はオルケナ最大の商業連盟を相手に取って秘密裏に動いてる真っ最中だ。
「……気になる?」
「当たり前だろ」
「いい? あくまで、さりげなくよ? 首でも捻る様に後ろを振り返って」
「あ、ああ」
酷く喉が渇く感覚を覚えながら、それでも浩太はゆっくり、だが確実に視線を後方に飛ばして。
「…………はい?」
視線の先。酒場の前にうず高く積まれた樽の端から紫煙が一筋、昇るのが見えた。少しだけ耳を澄ませてみれば『し、シオン! 煙草はダメ!』なんて声が聞こえて来たりして。
「……尾行って」
「エリカ、エミリ、ソニアちゃんにシオン、かな? まあ、ある程度予想はついてたけど」
呆れた様に溜息を吐いて見せる綾乃に、浩太絶句である。
「……イイのかよ?」
「何が?」
「その、覗き見されてたって事だぞ?」
「いいわけ無いじゃん。腹も立つわよ。でも多分……そうね、もし今のこの私の立ち位置にエリカが立っていたらきっと、私も同じ事するもん。だからあんまり怒れない……かな?」
「俺がおかしいのか? それ、凄く恥ずかしいんだけど」
「大丈夫、私達がおかしいから。アンタは正常よ」
そう言って、そっと浩太の耳元に息がかかる位に唇を近づける。その仕草に少しだけ浩太はドキリとし。
「――走るわよ」
「は?」
吐息が掛かる程の近さでかけられた声は浩太の想像とはうらはら、色っぽさの欠片も無いモノで。
「早く!」
「って、お、おい! 綾乃!」
手を引かれるまま、走りにくいであろうヒールをものともせずに駆ける綾乃。それに引きずられる様、浩太もその足を駆け足に変えて。
「あーーーー! 逃げた! アヤノが逃げたわよ!」
そんなエリカの声を背中で聞きながら、二人の姿は夜の街に消えた。




