第六十七話 叫べ
ラルキア王国・ライム都市国家同盟間での平和条約の締結は粛々と進んだ。
ラルキア側は会談の内容に批准した平和条約にサイン。王族の一人が犠牲になり、そもそもが言い掛かりに近い内容での戦争であったにも関わらず、非常に『寛大な』措置ではあるが賠償金を含めた幾つかの利権を考えれば損ばかりでは無い。花を捨て実を取った、というところか。
一方のライム側に取って、今回の講和は十分以上のメリットがあった。前述の通り、言い掛かりに近い内容での戦争であったにも関わらず、屈辱的な事案も無く戦争終結を成し遂げたのだ。第一報は本国ライムに届いていないも、既にクラリッサにより早馬がライムに旅立っていた。敵国だけではなく、『本国』においても選挙という戦争がある以上、使えるカードは何でも使う、がクラリッサの信条。今回の講和締結は――アルベルトが能動的に動いた訳ではないも――正に英雄的所業、『これが終わったら引退!』なんていっていたが、クラリッサはアルベルトを辞めさせるつもりは毛頭ないのである。主に、明るい新婚生活の為にも。
両者共に損をしない平和条約は此処に無事、結ばれた。『牛乳と卵の戦争』と言われ、史上最低の外交文書と揶揄されたライムとしてはほっと一息、締結後に催されたパーティーで緊張の糸が切れたアルベルトが強かに痛飲、前後不覚になるなどの問題もあったが、まあ全体としては概ね問題なく終了した。クラリッサに引きずられる様にして馬車に放り込まれ、ライム側の外交団がテラを後にし、それを見届ける形でラルキア側も帰国の途に付こうとしていた。
「……それでは、お世話になりました」
ソニア、エミリ、シオン、そしてエリカを前にして浩太が深々と腰を折る。その浩太の手を取り、ソニアは不満そうに声を上げた。
「コータ様! ラルキアに行かれましても決して他の女性にふらふらしないで下さいまし! わたくし、ソルバニアからの使者が戻りましたら直ぐにコータ様の下に駆け付けますので!」
仮にも一国の王女であるソニア、浩太がラルキアに行くからと言って『じゃあ、わたくしも!』という訳には行かない。受け入れるラルキア側にだって都合があるし、第一テラがソニアを追い出したと思われても困る。
「使者って……可哀想ですよ、マリアさん」
ソニアのラルキア行きを伝える役目の白羽の矢が立ったのがマリアだ。自国の姫の動向を自国民が伝えるのはまあ当然と言えば当然だし、自分の所の主君の娘から頭を下げられてお願いされれば断れるものでもない。尤も、『なんで庶民のウチが王様に逢わなあかんの? 胃薬、足りるかな……』と、売られていく子牛の様な瞳をしていた事は特記しておく。
「それに、ふらふらって……ソニアさんが私の事をどう思っているか良く分かる台詞ですね」
「コータ様の女性関係についてはわたくし、全く信用していませんから!」
そう言って、ぷくーっとほっぺたを膨らませるソニア。苦笑を濃くしながら、浩太はその頭をゆっくりと撫でた。
「……お待ちしておりますよ、ソニアさん」
「……はい」
ゆっくりとソニアが浩太の側を離れる。入れ替わる様、大きな袋を持ったエミリが浩太の前に立った。
「道中、長旅となります。宜しければお召し上がり下さい」
「これは?」
「お弁当、ですね。冷めても美味しく食べられるモノを作ったつもりです」
にこやかにそう微笑み、浩太にお弁当の袋を手渡すエミリ。浩太はその袋を受け取って小さくエミリに頭を下げた。
「ありがとうございます、エミリさん。遠慮なく頂きますね」
「お口に合わないようでしたら捨てて頂いても構いません。構いませんが……」
出来れば、残さず食べて欲しいです、と。
「――ええ、必ず」
蚊の鳴くような小さな声のエミリにそう告げ、浩太は煙草を咥えたまま腕を組むシオンに目を向けた。
「シオンさんも、お世話にな――」
「私はお前と一緒に行くぞ?」
「――りま……え?」
「『え?』って、なんだ『え?』って。当たり前だろう。いいか? 私はお前の目付役だぞ? ラルキア王国まではともかく、王都ラルキアまでは同乗するつもりだ」
「……別便で帰られるのではないのですか?」
「おい、待て! 何だその不満そうな顔は! なんだ? 私は邪魔な子か? イラナイ子か?」
「……………………いえ。そんな事はありませんよ。ウレシイナー」
「タメが長い上に心が籠っていないんだが!」
がーっと怒鳴り散らすシオンからそっと目を逸らし――逸らした先のエリカと目が合った。
「……シオンは連れて帰ってね?」
「……テラで引き取って貰えません?」
「遠慮しとく。面倒臭そうだし」
『おいぃ!』というシオンの声を受け流し、エリカはスカートの端を両手でちょんと持ちあげて、一礼。
「……コータ・マツシロ。貴方のお陰で、このテラは発展しました。最大限の感謝を、貴方に」
「大した事はしていませんよ、私は」
「ううん、そんな事ない。今のテラがあるのは全部、浩太のお陰だもん」
下げていた頭をあげ、笑顔を浮かべて。
「何時でも遊びに来なさいよ? 大歓迎で迎えてあげるから」
「……ええ。その時は、是非」
エリカに負けない様、浩太も笑みを浮かべる。
「おーい。なーんかイイカンジだけど、そろそろ時間が迫って来てるのよ。さっさと乗ってよ」
ゴンドラのタラップから、右手を腰に当てて呆れた様な綾乃の声がかかった。『今行く』と綾乃に返答し、浩太はエリカに右手を差し出した。
「……お元気で」
「……貴方も」
差し出された浩太の右手に、エリカの右手が重なる。一瞬とも、長い時間とも取れるその時間の果て、どちらからともなく手を離した。
「……やっと来た。あ、シオンさん? 貴方、向こうの馬車ね?」
「おい、アヤノ。お前まで私を邪険にするのか? 泣くぞ? 三十路手前の女がワンワン泣くぞ?」
「あれ~? 間接的に喧嘩売ってる、同い年? 二十六はまだまだ二十代ですぅ~」
「ふん、四捨五入したら三十歳だ」
わーわーと言い合う綾乃とシオンに肩を落とし、浩太はゴンドラに向かって歩き出す。一度だけ、エリカの方を振り返り、一礼。そのままゴンドラに消えた。
「――はっ!」
御者の鞭打つ声と、馬の嘶き。その二つを残し、馬車はゆっくりと、だが確実にスピードを増してテラから遠ざかる。
「……」
その馬車を名残惜しげに見つめ、一息。背を向け、館に向かってエリカは歩き出す。
――と、その足が数歩行った所で止まり、不審げに後ろを振り返った。
「エミリ? ソニア? なにしてるのよ。さっさと館に入りましょうよ」
視線の先、遠ざかっていく馬車を微動だにせず見つめる二人にエリカがそう声をかける。
「……ちょっと、二人とも? 本当になにしてるの? いつま――」
「エミリさん?」
「なんでしょうか、ソニアさま」
エリカの声を遮る様、ソニアが口を開く。相変わらずエリカに背を向けたまま、エミリはその声に応じた。
「わたくしの記憶では、メイドさんは腹黒だと相場は決まっていた、と思いますが?」
「ええ、そうですね。メイドと魔女と継母は腹黒と古来より相場が決まっています」
「わたくし、幼女は何だと言ったか覚えておりますか?」
「『あざとさ』は幼女の専売特許、とお聞きしました」
「そうですね」
「……ちょっと? 二人とも、何言ってるのよ?」
訝しむエリカの声。その疑問には答えず、ソニアはゆっくりと振り返り。
「それでは、エミリさん? 愛しの殿方が遠くに行ってしまうのを泣きながら『行かないで!』と叫ぶのは――誰の役目でしょうか?」
ソニアの言葉に、ゆっくりとエミリも振り返り。
「そうですね……恐らくそれは、意地っ張りで甘え下手で、それでも誰よりその殿方を必要としている『可愛いお姫様』のお家芸では無いかと愚考します」
二人の視線が、エリカを捉える。
「な、なに言ってるのよ、二人とも」
その視線にたじろぐエリカ。
「可愛げが無いと思いませんか、エミリさん?」
「ええ、それはもう。まあ、エリカ様ですので」
「大人というのはあんなに我慢しなければならないのですか? イヤですわね、大人って。ならばわたくしはずっと幼女で良いですわ」
「それはそれでどうかと思いますが……ですが、我慢ばかりも体に毒です。適度に力を抜くのが良いと私は思いますが」
「そうですわね。では、エミリさん? 今のエリカ様はどうでしょう?」
「私はエリカ様を敬愛しております。仕えるべき主として申し分ないとそう、思っておりますが、今のエリカ様は……そうですね、控えめに言って、零点です」
「な、え、そ、あ、貴方達ね! なに勝手な事ばっかり言ってのよ!」
「勝手? 何処が勝手なのですか、エリカ様? わたくし、本当の事をいったまでですわよ?」
「ほ、本当の事って……こ、コータはね! 私達の事を思ってテラを出て行ってくれるのよ!」
「そんな事は百も承知ですわ。政治は色々と難しいですから。そんな事、エリカ様に言われなくともわたくしにも分かります。私も王族ですわよ?」
幼女だからと言ってバカにしないで下さいましと、鼻を鳴らし。
「――わたくしが聞いているのはそんな『領主』としてのお話ではありません。エリカ様が……エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムという一人の『女の子』がどう思っているのか、それを聞いているのです」
「『女の子』がどう思っているかって……」
そこまで喋って言葉に詰まる。中空に少しだけ視線を飛ばした後、諦めた様に首を左右に振りエリカは口を開いた。
「『領主』と『女の子』を分けて考えられないわよ。どっちも私、エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムなの。だから――」
「領主もエリカ様、女の子もエリカ様、分けて考えられないですわ。ええ、その通りです。ですが」
じゃあ、何故『女の子』にばかり我慢させるのですか? と。
「女の子ばかりに我慢させる?」
「どちらもエリカ様なら平等に接して上げてくださいまし」
そう言ってソニアはエミリに視線を送る。その視線に一つ頷き、エミリが口を開いた。
「こう考えては如何でしょうか、エリカ様」
「エミリ?」
「コータ様がこのテラに滞在して頂く事により、後々の火種になる。なるほど、確かにそれもあり得る事でしょう。ですが、エリカ様?」
それは、そんなに重要な問題でしょうか、と。
「重要な問題でしょうかって、エミリ? 重要に決まってるじゃない。だってコータが居る事で――」
「そもそもテラが得た発展は、その殆ど全てがコータ様に帰する事案に御座います。ならば、コータ様が火種になった所で、どんなに悪くても元に戻るだけで御座いましょう?」
「元にって……でも、それじゃダメじゃない!」
「ですから、何が?」
「だ、だから、せ、折角発展したのよ? それを、その、元に戻すって、そんなの!」
「一度手に入れたから、手放すのが惜しいのですか?」
「そ、そういう訳じゃ――」
「そういう訳に御座いましょう? そして、そうであるのならば私の返答は一つです」
――ふざけるな、と。
「失礼。無礼な口の利き方でした。利き方でしたが……コータ様のお陰で発展したテラの利益を守る為、コータ様を追い出すのですか? それでは本末転倒では無いでしょうか?」
「お、追い出す訳じゃない!」
エリカの瞳が、少しだけ潤む。
「でも、だって……だって、仕方ないじゃない! 簡単に言わないでよ! 私だって悩んだわよ! 泣きたいわよ! 叫びたいわよ! でも、そんな事、出来る訳ないじゃない! 私には責任がある! 何が『女の子』としてよ! 勝手な事ばかり言わないでよ! 貴方達に、何が分かるって言うの!」
瞳に涙を浮かべたまま、エリカはエミリとソニアを睨む。その視線を受けて、ソニアが年齢に似つかわしくない程大人びた仕草で肩を竦めて見せた。
「泣きたいなら泣けば宜しいですわ。叫びたいなら叫べば宜しいですわ」
「だから――」
「コータ様もそうですが、エリカ様? 貴方も一人で何でもかんでも背負っておられる――背負っておられる『つもり』になっているのでは無いですか?」
「――できな……何ですって?」
「何が『領主の責任』ですか。貴方一人で背負い続けて来たつもりですか? 他の人は、例えばエミリさんは何の役にも立たない木偶だったとでも?」
「そ、そんな事思ってないわよ!」
「ええ、そうでしょうね? では何故、その方達に頼ろうとしないのですか? ここにはエミリさんがいます。コータ様だって居てくれるかもしれない。及ばずながら、わたくしもいます。その人たちに頼ろうと、何故思って下さらないのですか?」
「……」
「領主の責任は重いです。ですが、その責任は皆で分散できるものでございましょう。何もテラを滅ぼせと言っている訳ではございません。仮にコータ様がおられる事で『火種』を抱えるとするならば……その『火種』を解決すれば良いだけです。そして、その解決の為のお手伝いくらいなら」
助力させて頂きますわよ? と。
「……と、こんな感じで如何でしょうか、エミリさん?」
「流石、ソニア様。百点満点に御座います」
「あら、嬉しい。どうです、エミリさん? わたくし付のメイドさんをしてみませんか?」
「申し訳ございません、ソニア様。私には仕えるべき主がおりますので」
「それは残念。では、その主様にお聞きしましょうか?」
さあ、エリカ様? と。
「――貴方は、どうなされたいのですか?」
『えっと……はい。これから宜しくお願いします、エリカ様』
記憶が。
『その、魅力の無い街を魅力的にしようとは思わないのですか? 仮にも、『領主』が』
『そんなに拗ねないで下さい、子供じゃないんですから』
紡いできた、記憶達が。
『全て……私の、見通しの甘さに起因します』『そうではなく……『貴方の責任』を奪った事に対する、謝罪です』『別段、秘密にしていたり、頼りがいが無いと思っていた訳ではなくてですね……その……申し訳ありません。私はどうも『人に頼る』というのが苦手な様でして』『……そうですね。すいませんでした、エリカさん。貴方の仰る通り、これからはまず貴方にご相談させて頂きます』『第一、大人の女性は子供扱いされても怒りません』『…………お金に糸目をつけずに遊び倒そうと言ったのはエリカさんでしょう?』『……少しだけ。まあ自分でギャンブルが強いと思っていませんでしたが、まさかあれ程負けが込むとは……』『だから……何の方法も無いって言ってるでしょう!』
後から後から、噴き出してくる。
「――エミリ?」
「何でしょうか、エリカ様」
その心の奔流に流され――そして流れる様に。
「私は――」
『……私は、貴方に。コータに、傍に居て欲しいと思ってる』
「泣いてもいいの、かな?」
「ええ」
「叫んでもいいの、かな?」
「構いません」
「側にいて欲しいって、拗ねてもいいのかな?」
「『拗ねて見せる』は可愛いお姫様の十八番に御座いますので」
「じゃあ……じゃあ!」
――私は。
「――『我儘』でも……いいの、かな?」
漏れた言の葉に、最高の笑顔を浮べ。
「今の回答は百二十点です、エリカ様」
エミリの言葉を受け、エリカが一歩、踏み出す。ゆっくり、だが確実に一歩一歩。
「――さあ、エリカ様? さっさとコータ様を連れ戻して来てくださいまし!」
すれ違いざま、ソニアが軽く――本当に軽く、エリカの背中を押す。押された背中に勢いが付いた様。
「――っ!」
エリカは駆ける。後ろから聞こえる『声援』を受けるかの様に駆け、そして。
「――コータっ!」
思い切り、息を吸い込み。
「――コータぁーーーー!」
叫ぶ。
「行かないで! コータ! 私は……私はぁ!」
遠ざかる馬車に、届けとばかり。
「ずっと……ずっと、私の側に居て!!」
エリカの声が、風に揺られてテラの大地に舞った。
◇◆◇◆◇◆
進行方向に背を向けて座る浩太がその腰を少しだけ浮かし、その後諦めたかの様に目を伏せ再び座り直すその姿に、対面に座った綾乃は少しだけ呆れた様に溜息を吐いて見せた。
「聞こえなかった? 『ずっと私の側に居てぇー』よ?」
「聞こえてるよ」
「ふーん。で?」
「で? とは?」
「本当に良いのか、って聞いてるのよ。可愛い女の子に『側に居て』よ? ドラマみたいな展開じゃん。ヒーローは答えてあげなきゃ」
「残念ながら、ヒーローじゃないから。銀行員なんだよ、俺は」
つまんない奴、と呟いて綾乃は両手を後ろに回し、視線を浩太に向ける。責める様なその視線に若干の不快感を覚え、その感情そのままに浩太は口を開いた。
「……悪かったな、つまらない奴で」
「悪い。すっごく悪い。そんなつまらない奴じゃなかったのに、アンタは」
「買い被り過ぎだ。俺は何時だって……うん、何時だって『つまらない奴』だったよ。大した才能も、大した実力も無い、普通の銀行員だから」
「普通の銀行員は異世界トリップして財政改革なんてやらないけどね」
そう言って、少しだけ笑い。
「ねえ、覚えてる?」
「何を?」
「こないだ、私言ったじゃん。『同情で傍に居て欲しい訳じゃない』って。あれ、ちょっと付けたし」
「付けたし? 今更か?」
「今更だけどね。『仕方なく一緒に居る』ってのもイヤよ。望んで一緒にいて欲しいのよ、私は」
「別に仕方なくって訳じゃ――」
「嘘」
浩太の言葉を、遮る様に。
「貴方は『本当に』私と一緒に居たいの? 同情でも、選択肢が無いからでもなく、本当に、心の底から私と一緒に居たいの?」
貫く視線に、浩太はその瞳を揺らす。それも数瞬、絞り出す様に声を出した。
「――居たいよ。俺は、お前と……大川綾乃と一緒に居たい」
「……そう」
ふんわりと優しく微笑み、綾乃は自らの席から腰を浮かす。『危ない!』と浩太が声をかけるのも聞かず立ち上がり、ふらつく馬車内を歩き浩太の隣に腰を降ろす。
「あや――」
「黙って」
綾乃の右手がゆっくりと浩太の左手に添えられる。髪から仄かに香るその香りに、浩太がドギマギしながら口を開きかけ。
「――って、いてーーー! あやほ! おはえ、はにっへ、あやほ!?」
綾乃が、浩太の手の甲を『ぎゅー』と摘まみあげる。余りの痛さに手を振り解く浩太にされるがまま、摘まんでいた右手を離し、今度は両手で浩太のほっぺたをこれでもか! と摘まみあげた。
「あ・ん・た・は……そーんな泣きそうな顔しながら、何言ってるのよ! なーにが『オレ、オマエ、イッショニイタイ』よ! このバカ!」
「日本語下手か! そんな喋り方してな――辞めろ! 手をわきゃわきゃさせるな!」
綾乃の両手を振り払い、距離を取る。そんな浩太を追い詰めるかのように両手を握っては開く動作を見せ威嚇する綾乃。
「なんでアンタはいっつもそうなのよ! なに? 『全部俺が背負いこめばいいんだ』とか思ってるの? どこぞの三文芝居でもきょうび流行らないわよ、そんなの! 友情、努力、そして勝利が最近の流行りよ!」
「結構一昔前だろ、それ!」
「熱いテーマは不変なの! とにかく! 何時までそうやって逃げまわんのよ! 本当にアンタはむかしっから変わんないわね! ちょーっと難しそうな事があると直ぐに逃げる。諦めて、『僕には出来ません』みたいな顔する!」
「に、逃げてる訳じゃねーよ! でも、仕方ねーだろ!」
「仕方ないって言った! 仕方なくなんてないって言ったくせに、仕方ないって言った! 綾乃、ショック!」
「そうじゃ……ない事は無いけど、そうじゃねーよ! 綾乃、お前だって分かるだろう!」
そう言って綾乃を両手で制す。ふーふーと鼻息荒く浩太に詰め寄っていた綾乃は浩太のその仕草を見て椅子に腰を落ち着け、眼だけで浩太に続きを促す。
「……何でもかんでも、自分の思い通りには行かないんだよ」
「……」
「俺たちはもう、結構イイ大人だろ? 日本に、銀行にいた時だってそうじゃねーか。意見をしたければ、それなりの地位に居なければ出来ない。組織の人間である俺たちは、組織が決めた事には諾々と従うしかねーんだよ」
「アンタ、『魔王』なんでしょ? 地位、あるじゃん」
「支店長だって頭取には逆らえないだろうが。一緒だよ、それと」
そう言って、浩太も深く椅子に座り直しゆるゆると息を吐く。
「……結局、同じ事だよ。俺がテラに居れば、必ずテラの火種になる。ロッテさんってフレイムの鵺みたいな人に目を付けられる。何でもかんでも、自分の思い通りには進まない」
「聞いてた? あの公爵様、『側にいて欲しい』って叫んでたのよ? 浩太の言うフレイムの鵺みたいな人に目を付けられても、一緒に居たいんじゃないの?」
「……その言葉通り『はい、行きません』って言えってか?」
呆れた様に、溜息一つ。
「そんなの、出来る訳無いだろう? それが分からないお前じゃないだろうが。もう既に馬車に乗って、ラルキアに向かってるんだぞ?」
「……まあ、ね。此処で浩太が馬車から飛び降りて駆けて行ったりした日には、大問題になるかもね」
「そう言う事だよ。それに、勘違いするなよ? 別にお前と暮らすのが嫌な訳じゃないぞ? 純粋に楽しそうだと思うし、和食も久々に喰いたい。作れるんだよな、お前?」
「ある程度はね。醤油だってあるし、煮物とか作ってあげようか?」
「いいね、それ。ラルキアに行く楽しみが増えた」
そう言って笑う浩太に、綾乃も同様に笑みを浮かべる。とても、とても優しい笑みを。
「……そっか。じゃあ、『諦める』しかないね」
その言葉に、溜息、一つ。
「ああ『諦める』しかない。何時か、テラに遊びに行ける日も来るだろうし、その時に――」
「ああ、そうじゃないよ?」
「――エリカさんにはって、綾乃?」
浩太の言葉を遮る様、笑みを浮かべたまま。
「人間関係がある。国同士の力関係、領地と国とのしがらみだってある。今から途中で回れ右なんてしてテラに戻ったりしたら、それこそ大問題になる。だから、浩太一人が我慢すれば丸く収まる」
「……綾乃?」
「格好良く行きたい。スマートに生きたい。誰にも迷惑をかけずに、波風を立てずに、卒なく、巧く回していきたい。分かるよ、浩太。それで良いとも思うし、そうあるべきだとも思う。そして、そうある為に色々なモノを『諦め』なきゃいけないのも分かる」
だから――『諦め』ろ、と。
「綾乃? 何言ってるのか――」
「格好良く行きたい、っていうのを諦めろ。スマートに生きたい、っていうのを諦めろ。自分が居たら迷惑をかけるとか、火種になるとか、今からテラに戻ったら色んな人に迷惑をかけるとか……まあ、私の為とか、そういう色んなしがらみを――浩太、貴方が我慢する事を」
――『諦める』事を、諦めろ、と。
「……そんな事、出来る訳ない」
「その考えを、諦めなさい」
「俺がテラに居ると、きっと問題が起こる」
「問題が起こるでしょうね。でも、諦めなさい」
「今からテラに戻る事なんてしたら、ラルキアに迷惑がかかる」
「よね。浩太の評判も悪くなるかも。でも、諦めなさい」
「――そんな我儘、言えるわけ無い」
「格好悪いね。でも、その格好悪いのも諦めなさい。アンタ、得意でしょ?」
――『諦める』事、と。
「……一度さ、考えてみなよ? 解決する問題とか、眼を逸らしちゃいけない問題とか、そういう小難しい事、ぜーんぶ取っ払ってさ。本当に今ここで、貴方がラルキアに、私の元に来てくれる――来たいかどうか」
綾乃の、その言葉に。
『貴方が松代浩太?』
記憶が。
『貴方……私に何か恨みでもあるの?』
『コータ! また出店依頼が来たわ! 今度は王港都市エルザのダイオテス商会よ』
記録が。
『何が『私のせいです』よ! 何が『もう一度チャンスを下さい』よ!』『泣いて無いって言ってるでしょ!』『何よ、出し惜しみして! 内緒にしたら打つって言ったでしょ! さあ、頬を出しなさい! 今なら平手にしてあげるから!』『あら? 決まってるじゃない。バカンス、よ!』『反省しなさい。負けた事じゃないわよ? 私を一人で店に残した事』『……分かったわ。格好、付けさせてあげる』『なに? コータ、また隠し事? 私、言ったでしょ? そういうのは辞めてって!』『……なんでアンタはどっかに行く度にポンポンポンポン違う女連れて帰ってくるのよぉ!!!』『ご……ごめんなさい!』『何よ! ソニアは何の為に王女だと思ってるの! 折角の地位、ここで使わないでいつ使うのよ!』
――後から、後から、噴出して、消える。
「ねえ、浩太? 貴方、本当はどうしたい? 色んな物を我慢して、ラルキアに行きたい?」
「おれ……は……でも! そんな事したら、皆に迷惑が――綾乃、お前にだって迷惑をかける事になる――」
「舐めんな。私がアンタにかけられた迷惑を迷惑だと思うと思ってんの? むしろ、らっきー! ぐらいのもんよ」
「でも」
「うん、だからさ? そんな難しい事は考えない」
シンプルに考えましょう、と。
「政治の事、領地の事、人間関係の事、そういうのぜーんぶ取っ払ってさ」
――ただ、『今』、貴方は一体どうしたいか。
「その言葉を、その心を、私に教えてよ?」
心配しないで、と。
「世界だろうが異世界だろうが、関係ない。誰が敵だろうか、誰が味方だろうが関係ない。貴方がどんなに悪い奴でも、どんなに良い奴でも、どんなに冷たい奴でも、どんなに優しい奴でも、そんなの、全然関係ない」
だって、私は。
「――いつだって、貴方の味方だから」
まるで『聖女』の様にそう言って微笑む綾乃に。
――ああ、そうだ、と浩太は思う。
『その……コータは、いや? その……ラルキアの方が……いい?』
そう問われ、言葉にする気恥ずかしさから。
『これが、答え、ではダメですかね?』
――なんだ。
『ダメ……じゃ、ない』
答えは出ているじゃないか。
「――綾乃っ!」
「馬車、止めて!」
ゴンドラと御者台をつなぐ小窓を思いっきり開け、綾乃が叫ぶ。その声に驚いたかの様に御者が振り返り、綾乃の形相にもう一度びっくり、慌てて手綱を引いた。ヒヒーンという馬の嘶きと共に馬車のスピードは徐々に落ち、やがてその速度をゼロにする。
「さあ、さっさと行く!」
ドアを開け、もどかしく立ち上がる浩太の背中をバシンと叩く。勢いの付きすぎたその平手に殆ど転がり落ちる様、浩太は馬車から降りる。たたらを踏んでしっかりと地面を踏みしめ、ヒリヒリする背中を押さえて恨みがましく振り返り。
「浩太!」
右目でウインクをし、突き出した右手。
その親指だけをぐっと立てる、綾乃の姿を視界におさめた。
「世界も異世界も含めた――『セカイ』で一番格好悪い、『格好いい男』、見せてやれ!」
私に、『綾乃』に、惚れ直させてみろ! と。
笑顔を浮かべてそういう綾乃に、一礼。浩太は場所で通った道をテラに向けて駆ける、駆ける、駆ける。眼前に見えるエリカの背中は小さく、儚く消えそうに映る。
だから、駆ける。
儚くなんて消してやるのは絶対に嫌で、駆ける。ジャケットの肩回りが窮屈で動きにくく、だから、そんなジャケットを脱ぎ捨てる。
そして、駆ける。
生来の運動不足、直ぐに息が上がる。締め付けるウエスト・コートが呼吸の邪魔だ。走りながらでは巧くボタンも外せず、ならばと両手で力強く左右に引きちぎる。四つ止められたボタンは三つまでが弾け飛んでその身をテラの大地に散らすも、残りの一個は縫い付けの加減か、ウエスト・コートに付いたまま。走るたびに頼りなさげに揺れるボタンの、そのなんて、不恰好な姿。
それでも、駆ける。
結構な距離を馬車で走った為、追いつかない。中々縮まらない距離がもどかしく、右手を伸ばす。届く訳が無いと頭のどこかで理解しながら、それでも幻影を掴むかの様に長く、長く、伸ばす。ハアハアと上がる自らの息を自らの耳が捉え、浩太は思い出す。
――手だけで足りないなら、走っても追いつかないなら、声を出して止めれば良い。
「エリ――ガハっ!」
声を出そうにも巧く出ない。上がる息を整えるのも億劫。
それでも浩太は、大きく息を吸う。
「――っ!」
――さあ、松代浩太。
「エリカさっ――」
叫べ。
「――――――エリカぁあああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」




