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第六十二話 その夜は、眠れない ~真夜中の会談~

引っ越しの手伝いをしてきました、土曜日。筋肉痛で体中がちょういたいです。さて、今回はちょっとだけ閑話っぽい話です。いえ、話の流れ的にはがっつり本編なんですが。ヒロインも主人公も出てきませんので。

「どうぞ」

「……ん、ありがとうよ」

 カタンと音を立ててテーブルの上に置かれたカップから、湯気と香りを放つ紅茶を口に運び、ライム都市国家同盟大統領、アルベルト・バルバートは大きくほぅっと息を吐く。疲れた体に染み渡る温かみと仄かな甘みが、徐々にアルベルトの肉体と精神を癒した。

「お疲れですね、アル」

 開け放した窓から吹き込む風に踊る髪を、右手で押さえつけながらクラリッサ・ダマートはアルベルトの対面にその体を滑り込ませる。何時もの『ヘルメット』の様な髪型では無く、左側に髪を寄せ、銀色のピンで留めたその姿は何時もの無表情よりも心持幼く映る。

「……何ですか、そんなに人の顔をじろじろ見て」

「いや……いつ見ても思うけど、お前って前髪分けたら子供っぽく見えるよな」

「暗に、『でこっぱち』と言われていますか? 私、バカにされています?」

「そういう訳じゃねえよ」

 拗ねたような目を見せるクラリッサに手を振って見せ、アルベルトは紅茶を一口。眉間の皺が徐々に取れる姿に少しだけ安堵の色を見せ、クラリッサは口を開いた。

「……あまり、難しく考え込まないでください」

「そら無理だろう、クラリッサ。今難しく考えないで、いつ難しく考えるんだよ」

 手に持ったカップをテーブルの上に置き、作った様な苦笑を浮かべて見せるアルベルト。その表情に、クラリッサの表情も曇る。

「ライム都市国家の命運を決める、と言っても過言じゃない一大イベントだからな。気合も入るさ。何の為に前乗りしていると思う? 言っちゃ何だが、こんな安宿に」

 そう言いつつ、ぐるりと室内を見渡すアルベルトにクラリッサも首肯を返しながら、アルベルト同様に室内を見渡す。ロンド・デ・テラにある宿屋の一室、仮にも一国のトップが泊まる部屋にしては余りにも粗末な作りの、狭いその部屋を。

「……国家元首が泊まる部屋ではありませんね」

「仕方ないさ」

 肩を竦めて見せ、アルベルトは椅子に深く腰を掛け直し、組んだ両手の上に顎を乗せる。


 ライム都市国家同盟大統領、アルベルト・バルバートは悩んでいた。


 正確には『困っていた』だが……事態を解決する方法が無い以上、どちらだって同じ事だろう。理由は至極簡単、ラルキア側から交渉のテーブルには着く旨の返事はあっても、その後は全く音信不通、仲介国である筈のフレイム王国からですら日時以外の何の連絡も無いからだ。

交渉事に置いて、『相手の情報が全く掴めない』と言うのは非常に恐ろしい。だからこそ、ラルキア宰相のテラ入りに報を聞きつけ、仮にも一国の国家元首がこんな街外れのオンボロ宿屋に泊るのも厭わない程、焦ってテラ入りをしているのである。もしかしたら会談前に会えるかも知れないという、微かな希望を持って。

「貴方の行動力には常々感服する所がありましたが……それでも、今回は流石に予想外でした」

「こんな安宿に泊まっている事が、か?」

「しかも護衛も付けずに、です。くれぐれもご自愛下さいませ」

「初めてお前の裏をかいたな。それより……どう思う、クラリッサ」

「賠償金の支払、経済的に不利な条約な締結、ダニエリの分割併合。この三つが妥当でしょうか。国民全てを抹殺し尽す様な事はしないでしょうから。ただ……」

「……現実的にのめるのは賠償金の支払、ぐらいだろうな」

「ええ」

 クラリッサの言葉に、アルベルトは組んでいた腕を解いて目と目の間を揉み、大きな溜息を吐いて見せた。

 ライム都市国家同盟大統領は、ライム都市国家同盟の決定事項に対して殆ど無制限に近しい権限を持っている。持っているが、それは血統によりその権限を担保された各国国王とは、意味合いが随分違う。基本的に『おらが村』な各国国王は――住んでいる国民の事を脇に置けば――自らの領土の割譲だって、経済的に不利な条約だって結びたい放題に結べる。何と言っても自分の国なのだ。文句を言われても、聞く必要はさらさら無いのである。

 対してライム都市国家同盟大統領は違う。大統領は無制限に近しい権限を持つが、それはあくまで国民により『委託』されたものに過ぎない。言ってみればオーナー社長と雇われ社長の差みたいなモノだ。オーナーは徹頭徹尾、国民にある。

「……なまじ、軍事力が残ってるのが恨めしいな。屈辱的な条件を飲むぐらいなら、国民は『まだ戦える』と思うだろうし」

「そうですね。ボロボロにやられていれば、また別の理論構成も出来たのでしょうが」

 アルベルト個人としても国民感情としても、ライム都市国家同盟としては講和はしたい。これは間違いの無い事実であるが、反面、『あまりに屈辱的な』講和は受け入れ難いのも事実だ。それだったらまだ戦える現状で、戦争を継続し、少しでも有利な条件で交渉のテーブルに着くべきだと民衆は考えるだろう。

「……出来る訳ねーつうの」

 今回の戦争のほぼ九割方はライム側の非だ。そうでなくとも、『共和制』という、ある種王国から見れば『危険思想』を持つ国家なのだ。各国は虎視眈眈と、舌なめずりをしながらこの『大義名分』に乗るチャンスを狙っている。ラルキアとの戦争が長引き、仮にラルキアが他国と連合など組まれた日には嬉々として乗り込んでくるのは火を見るよりも明らかだ。そうなればライムの滅亡はほぼ確定、残された道はカルタゴ式平和しか残されていない。領土割譲どころのさわぎでは無いだろう。

「ホントに、針の穴を通す様なモンだよな」

 アルベルトに託された使命は、戦争を終了させ、それでも屈辱的な条件を飲まず、可能な限り賠償金を抑えた形で、国際社会に納得させるという事になる。しかも、戦争の原因を作った国家の側から、だ。そんな無理難題、神様でもない限り不可能に近い。

「ホント、貧乏クジだよな」

 やれやれと肩を竦め、紅茶のカップを手に取りそこに中身がない事を確認し目線だけでクラリッサに合図。その仕草に気付いたか、クラリッサがポットの紅茶をアルベルトのカップに注いだ。

「……あ」

「どうされましたか?」

「今、『なんかイイ!』って思った」

「はい?」

「こう、何て言うんだろ? 言葉を交わさなくても、して欲しい事が分って貰えたのが嬉しいっつうか、巧く言えねーんだけど……結婚する?」

「カップを手に取り、中身を確認し、その上であんな哀願する様な視線を向けられれば誰だって気付きます。後、プロポーズはもうちょっと雰囲気を大事にして頂きたいです」

「相変わらずの乙女っぷりだな。何ていうか、そんな所も可愛いぞ、クラリッサ。結婚する?」

「褒めて頂いて恐縮ですが、紅茶以外にはクッキーしか出せれません。それと、雰囲気です」

「お! クッキーあるのか。丁度小腹が空いてたんだ。くれよ、クッキー。結婚する?」

「くれぐれも食べ過ぎには注意して下さい。だから、雰囲気です。分りますか?」

「結婚する?」

「……閣下。そろそろ私もおこ――」

「ストップ。二人っきりの時は?」

「……アルベルト」

「よし。じゃあ、クラリッサ」


 結婚、『しよう』と。


「……本気で言っていますか?」

「大本気。この講和会議が巧く行って、大統領を辞めたら結婚しようぜ。エーコの執政官も辞めて、片田舎でのんびり暮らそう。畑とか耕しながらさ。お前のお父さんとお母さんも呼ぼうぜ? ウチはもう両親いねーし、出来なかった親孝行もしてみたい。あ、でも一年ぐらいは二人っきりの新婚生活してみたいから、両親呼ぶのはその後な。休みの日には街まで出て、買い食いなんかしつつ演劇鑑賞と洒落込もう。大丈夫、俺の後輩たちがまだ一線級で活躍しているから、どんな人気劇だってチケットなんて売る程取れるさ。要るならサインだって貰ってやるぞ? でも、あんまり男前の俳優にはあわせねー。これだけは絶対守れよ?」

「アルベルト?」

「子供は男の子と女の子、せめて二人は欲しいな。演劇の道でも政治家でも、行きたいって言うならラルキア大学にでも通わせてやりてーな。あーでも、どうしよう? 女の子が俺みたいなチャラい男を『カレシです』なんて連れてきたら。そうしたら言うか? 『娘はお前にはやらん!』って」

「あ、アルベ――」

 この女性にしては珍しく、慌てた様な仕草を見せるクラリッサを手で制し。


「そーんな幸せな未来を、俺と一緒に作ってくれないか?」


「……」

「……」

「……私は、貴方の演劇を全て見ています」

「知ってる」

「建帝記も勿論好きですが、『ラインハルト卿』の演目も好きです」

「クラリッサ?」

「ラインハルト卿がソルバニアとの戦争に赴く際、恋人に言った言葉を覚えていますか?」

「そりゃ覚えてるけど……『この戦争が終わったら、結婚しよう』だろ?」

「ラインハルト卿は、その言葉を残し……戦場で散りました」

「……おい、何だかすげー不本意な断られ方なんだが? なんだ? 俺がラインハルト卿みたいに死ぬってか?」

「断っている訳ではありません。験は担ぎましょう。ですから、今のプロポーズは無しです。ご心配なく、講和会議終了後であれば前向きに、かつ迅速にアルベルトの求婚を受け入れるつもりですので」


 それに、と。


「……やはり、一生に一度のプロポーズです。今の言葉も勿論、嬉しくて、嬉しくて、死んでしまいそうなぐらいに心臓が高鳴っていますが……もう少し、雰囲気の良い所で、甘い言葉を囁いて欲しいという我儘を聞いては頂けないでしょうか?」

 そう言って、こくんと小首を傾げて見せるクラリッサの姿に、アルベルトはガシガシと頭を掻いて、両手を挙げて見せた。

「降参、降参。あーくっそ。流石、クラリッサ。敵わねーな」

「敵う、敵わないの問題ではありませんが……ご検討頂ければ幸いです」

 はいはい、とそう言ってもう一度頭を掻き――何かに気が付いたかの様に、アルベルトがにやーっと口の端を歪める。

「……何ですか、その顔」

「いーや。それよりクラリッサ、お前俺の演劇全部見たって言ったよな?」

「ええ。それが何か?」

「んじゃ、俺の俳優時代の『渾名』、知ってるよな?」

「……」

「あれ? 知らない?」

「……『恋多き男』、ですね」

「ああ、クラリッサ。俺は恋多き男だからな~。今のプロポーズ断られたのがショックだな~。ショックでショックで、別の女に――」

 アルベルトが喋れたのは、そこまで。



「……いじわる、いわないで?」



 服の端をちょん、と摘まみ、今にも泣きだしそうな程に瞳に涙を蓄えたクラリッサに、アルベルトの理性も弾け飛ぶ。

「ちょ、きゃ、きゃあー!」

 クラリッサを抱きかかえたまま、アルベルトはベッドまで運ぶ。為すがまま、乱暴に、それでも優しく運ばれたクラリッサは、ベッドの上にその身を投じられた。

「あ、アルベルト!」

「……お前な? 絶対、あんな顔他の男の前でするなよ?」

「し、しません! しませんが!」

「これは、俺が悪いんじゃない。可愛い顔を俺に見せた、お前が悪い」

「そ、そんな理不尽な! ちょ、アルベルト! 今日はもう無理です! 何の為に窓を開けて換気していると思っているんですか! せ、せっかく空気の入れ替えが済んだのに!」

「もう一回換気すれば大丈夫」

「そ、そういう問題ではなく! あ、アルベルト!」

「……んだよ。嫌なのか?」

「い、嫌か嫌じゃないかと言われれば、決して嫌では――ではなくて、ですね! その、えっと、えっと……」

 無愛想で無表情。『鉄の女』と言われ、何時だって冷静沈着な表情を見せるクラリッサが、自らの腕の中で、恥ずかしそうに身を捩じらせ、瞳に涙を浮かべながら頬を真っ赤に染めている。その事実が、アルベルトの征服欲に燃料を注ぎ。

「……その、一個だけ、良いですか?」

「何だ?」

「醜く、余りにも矮小で、幻滅されそうだと思っているのですが」


私の前では、アルベルトの口から他の女性の話は聞きたくないです、と。


「……嫉妬で、どうにかなってしまいそうです」

「……」

「あ、アルベルト?」

「……なあ」

「は、はい!」

「お前、ぜってーわざとやっているだろう?」

「な、何がでしょうか?」

「ああ、もういい。天然なら相当悪女だよ、お前。そら俺じゃかなわねーはずだよ」

「そ、そんな事ありません。あ、悪女だなんて……そ、それにアルベルト。貴方は私に敵わないと言いますが、ベッドの中では貴方が――」

「もう、いい。そんな五月蠅い口は、塞ぐ」

 そう言って、アルベルトがそっとクラリッサの髪を撫でる。ビクリと体が震えるも、それも一瞬。徐々に体から力を抜き、それでも眼だけはぎゅっと固く瞑るクラリッサに愛おしさを覚え、アルベルトがその身をゆっくりとクラリッサに近づけて――



「閣下! た、大変で……閣下? ど、どうしたのですか? 部屋の隅で蹲って」



 バーンとけたたましい音と、壊れるんじゃないかという位の勢いと共に駆けこんだ第二補佐官は『なんかこの光景、前も見たことがある!』と言いながら、腰を抑えて部屋の中でのた打ち回るアルベルトの姿を見て絶句した。

「……何か、あったんですか?」

『そいつです! そこで『ノックぐらいはしたらどうですか?』みたいな顔して平然としてるそいつに、扉が開いた瞬間に光の速さで投げ飛ばされたんですよ!』とは……まあ、流石に言えず、何事も無かった様にアルベルトが服の裾を叩いて立ち上がった。

「……」

「か、閣下?」

「お前さ? なに? 何か俺に恨みでもあんの?」

「い、いえ、そういうつもりでは……あ、あの、閣下? 本当に大丈夫ですか?」

 腰を押さえて再び蹲るアルベルトに心配そうな眼を向ける第二補佐官。それを、クラリッサの咳払いが制す。

「それで? 一体何事ですか?」

「……はっ! そ、そうです! 大変です!」

「ですから、何が?」

「そ、その……実は」

 第二秘書官の持ってきた、その報告に。



「……マジ?」



 呆然としたアルベルトがやっと開いた口は、そんな言葉しか発せられなかった。


◇◆◇◆◇


「大変お待たせ致しました」

「いえ、こちらこそ何のご連絡もせずに急にお邪魔して申し訳ないです」

「本日辺りは公爵邸でパーティーかと思っておりましたが?」

「いえ、それがどうも公爵閣下の『体調』が優れないようでしたな」

「そうですか。それは心配ですね」

「ええ、そうですね。ですが……公爵閣下には申し訳ないが、これは絶好の機会と思いましてな。不躾とは承知しながら、恥ずかしげもなくお邪魔させて頂いたわけですよ」

「いえ、不躾などと……どうぞ、お気に為されず」


 ルドルフ宰相閣下、と。


「何のお構いも出来ませんが、どうぞごゆるりとお過ごしください」

 会談用、としてクラリッサの部屋に急ごしらえに置いたテーブル。ルドルフの前に置かれた紅茶のカップから湯気が立っていることを認め、幸いそれほど待たせていない事実にアルベルトは胸中でほっと息を吐く。

「……さて、ルドルフ閣下。本日は一体どの様なご用件でしょうか?」

 知りたい、知りたいと考えていた相手側のトップの直接の訪問。ある意味では降って湧いた様な僥倖に、にこやかな笑みを浮かべながら対面の椅子に腰をかけ、内心でアルベルトは緊張を覚える。講和会議の前の、極めて異例な非公式の会談だ。『ちょっと挨拶がてら』なんて訳はない。当然議題は――


「なに……明後日の講和会議の事前調整ですよ」


 これに決まっている。

「ほう。事前調整、と来ましたか」

 少しだけ吃驚したような顔を作って見せながら、アルベルトはその驚きの表情の裏でルドルフの顔色を伺う。細身の体の上にある顔には――演技畑の長いアルベルトをしても、心の底から笑っている様にしか見えない――笑みが浮かんでいた。

「いやはや、今まで没交渉だった不義理はお詫びいたしますが、明後日は講和会議の本番です。全くの予備交渉も無しに臨むのは如何なモノかと思いましてな。夜遅くなりましたが、こうしてお邪魔した次第ですよ」

 何でも無いようにそう言って、湯気の立つカップを手に取り口に運ぶ。唇についた紅茶をチロリと舐め、ルドルフはその口を開いた。

「おお、それは有難い話です。事前にある程度の交渉をさせて頂けるのであれば、こちらとしては願ったりです。是非にお願いしたいですね」

 そう言ってアルベルトはクラリッサの淹れてくれた紅茶のカップに口をつけ、暖かい紅茶を口に含みながら。

「講和条件は概ね二つ。賠償金の支払いと……」



――同盟を結んで頂きたい、アルベルト大統領閣下、と。



「ゲホ! ど――どうめ、ゲホ!」

 咽た。口から紅茶を吹き出さなかったのが奇跡に近い。

「大丈夫ですかな、アルベルト大統領閣下」

「し、失礼……で、ではなく! ルドルフ閣下、貴方、今!」

「賠償金の支払いについては相応の金額を請求させて頂きますが、経済状況如何によっては分割も検討させて頂きます。ご心配なく、屈辱的な条件にはならないように細心の注意は払わせて頂きますので」

「ば、賠償金の話ではありません! ルドルフ閣下、貴方は一体!」

 政治家としての冷静な仮面を剥ぎ取られたアルベルト。慌てるアルベルトを面白そうに見やり、ルドルフは紅茶をもう一口、口に含んだ。

「同盟関係、の話ですかな? それほど不可解な話でも無いでしょう。不幸にも行き違いのあった両国が戦争終了後に友好関係を結ぶ。オルケナ大陸の恒久の平和の為にも諸手を挙げて歓迎して頂けるのかと思っていましたが?」

「ですが、かっ――」



 カラン、と。



 何かが落ちる様な音が室内に響き、言葉を発しかけたアドルフはその口の動きを止め、音のした後方にその視線を向け。

「……失礼しました。少々、『緊張』しておりまして」

 きれいに両手を揃えて、最敬礼で頭を下げるクラリッサと、その足元に落ちるティースプーンの姿を認める。やがて、深く下げられた頭が上がり、クラリッサの心配そうな、それでも貴方なら大丈夫と、言外にその意味を込める視線とアルベルトの視線が交差した。

「……再度、お詫びを申し上げます。大変失礼しました」

「……いいさ、クラリッサ。ルドルフ閣下」

「何ですかね?」

「私の部下の無作法、部下に成り代わり私からもお詫び申し上げます。何卒ご容赦の程を」

 ルドルフに向き直り、頭を下げる。それも数瞬、再び上げたアルベルトの目の奥に、失っていた冷静さを見つけたルドルフは声を出して笑った。

「はっはっは! 何、目くじらを立てて怒るほどの事ではありますまい。それよりアルベルト閣下、誠に良い『部下』をお持ちで」

「痛み入ります。ですが閣下、引き抜きはご容赦願いますよ? 代わりのいない、大事な大事な部下ですので」

「本当に良い部下……いいや、パートナーというべきですかな?」

「ご想像にお任せを」

 にっこり微笑み、アルベルトは口に紅茶を含む。もう、取り乱すことなんてない。ゆっくりと喉奥に嚥下し、カップをテーブルに置いた。

「さて、それでは本題に入りましょう、ルドルフ閣下」

「腹の探りあいはもう結構で?」

「こんな夜更けにわざわざ尋ねて来られたのですよ、閣下? 腹の探りあいをする為に来た訳ではないでしょう」

「政治家の腹の探りあいは様式美ですよ?」

「失礼、私は役者上がりですので」

 ――沈黙。

『腹の探りあいはもう十分』と言いながら、それでも探りあいを見せるアルベルトに胸中で一つため息をつき、ルドルフは少しだけ視線を中空に向け、その後まっすぐアルベルトを射抜く。

「オルケナ大陸の恒久の平和、ですよ」

「私が初めてエーコの執政官に着いた時、言われました」

「なんと?」

「エーコの政治家は、エーコの利益だけを考えろ」

「……なるほど、真理ではありますな」

「今の私は『ライム都市国家同盟』の大統領です。考えるのはライム都市国家同盟の利益だけで十分。同様にルドルフ閣下、貴方もそうでしょう? 貴方が公人の立場で考えるのはラルキア王国の利益だけ。オルケナ大陸の平和など……そうですね、汚い言葉を使うのであれば」


 オルケナ大陸の平和なんてお題目、クソクラエだ、と。


「……一周回って清清しいですな、そこまで言い切られると」

「歯に衣着せず、言いたいことにウィットを含ませズケズケ言う事でエーコの執政官になりましたから、私は」

「では……私も貴方に倣いズケズケと、単刀直入に言いましょう、アルベルト大統領閣下。今回当方が結びたい『同盟』は、政治、経済、軍事に至るまでの包括的な同盟です。貴国が他国と同盟を結ぶ場合、当方の認可を取る。無論、当方も同様。経済面では……例えば、当国に貴国籍の商会が店を構える場合、税金面で優遇をさせて頂きます。当国籍の場合も同様にお願いしたい」

「軍事、とは?」

「そのものずばり、軍事同盟ですよ。失礼ながら閣下、今回の戦争でライム都市国家同盟の評判は……控えめに言っても、すこぶる悪い」

「耳が痛いですね。仰る通りですが」

「私も一応、祖国では伯爵の地位を持つ貴族です。貴族の……為政者の立場から見れば、元々都市国家同盟の様な『合議制』の国は厄介ですからな。そうでしょう? 何時、民衆が『執政官』なり『大統領』なりの役職で自らの地位に取って代わるかも知れないのですぞ。貴族から見れば、これは結構な恐怖だ。いつ寝首をかかれても可笑しくないような国家、それが我々世襲制の王を持つ国家から見た『ライム都市国家同盟』です。そんな思想を輸入されたらたまらない。必要以上に近づきたくないのが本音ですな」

「返す言葉も有りませんね。よく言われることでもありますが」

「言ってみれば閣下、他国から見れば今回の戦争は『切り取り放題』なんですよ。唯でさえ厄介な政治形態を持つ国家が、自滅と言えるような方法で戦争に突入したんです。『ラルキア王国に味方する』という大義名分が出来た今、総スカンを食らっても可笑しくない。だが、軍事同盟を締結すればどうです? 理由の最たるモノである我がラルキア王国が平和条約を締結し、軍事同盟までも締結するのですぞ? 表立っては貴国を責める国は無くなるでしょう。当人が良いと言っているのですからな。少なくとも、私が知る限りではそこまで恥知らずな国家はオルケナには無い。ですから、閣下」


 ――この同盟は、貴国に利すること請け合いですよ、と。


「……なるほど。今のお話を聞けば当方に利する事は間違いなさそうですね。ですが、ルドルフ閣下。それだけでは不十分です」

「不十分、とは?」

「先程も申した通り、政治家は自国の利益を追求するべきです。奉仕精神だけで我が国に一方的に有利な条件を提示して下さるとも、またそんな優しい手を差し伸べて下さるともさらさら思っておりません。何より……旨すぎる話には必ず裏がありますから」

「オルケナ大陸の恒久的な平和の為ですよ?」

「御託は結構」

 アルベルトとルドルフの視線がぶつかる。アルベルトから、ライム都市国家同盟からしてみれば諸手を挙げて歓迎したい程の好条件、本来であれば断る筋合いなど毛頭ない。

「……旨すぎる話に乗せられて見るのも一興ですぞ?」

「それで国を滅ぼしたら過去の為政者達に申し訳が立ちません」


 だが、余りにも旨すぎる。こんな好条件、裏が無い方が不自然だ。


 右手を顎の下に置き、アルベルトはしばし考え込む。頭脳をフル回転させ、ラルキア王国のメリットを探ろうと考え込む。政治面でのメリット、経済面でのメリット、軍事面でのメリットだって無くは無い。無くは無いが、しかし、敢えてライムと同盟を結んでまで手に入れる程のメリットだろうか。

「……」

 殆どパンクしそうになる頭を尚もフル回転させ、アルベルトは考え込む。黙考の時間が長くなる事に焦り、それでも上っ面を滑るような思考たちに腹が立ち、殆ど反射的にクラリッサに視線を飛ばして。



『何時だって貴方は政敵たちと『戦争』を繰り広げていたではありませんか。俳優上がりの、不敬と承知で言わせて頂ければ『学の無い』貴方は、何時だってあの手この手で足を引っ張り合う執政官との戦いに、徒手空拳で打ち勝って来たではありませんか』



 クラリッサの声が、脳裏に響く。

「……ははは」

「……どうされました?」

「失礼。何でしょう? 役者上がりの『学の無い』私が、一丁前に腹の探りあいをしている様が滑稽に映った、と言いましょうか……そもそも、我々に交渉をする余地など無かったですね」

「仰ってる意味が……?」

「ルドルフ閣下」

 ルドルフの言葉を遮る様、アルベルトはルドルフに向き直り。

「今回の戦争の責任の多くが当方にある事は重々承知しています。いますが……ルドルフ閣下、当方にも譲れない線はあります。どうか」

 貴国のメリットをご教授くださいませ、と。

「……」

 深く頭を下げるアルベルトに前と後ろ、その双方から息を呑む音が聞こえた。

「アルベルト閣下、どうか頭を」

「ご教授願えますか?」

「いや……困りましたな」

「でしたら、私は頭を下げ続けます」

 頑なに頭を上げようとしないアルベルト。その姿を唖然とした顔で見つめていたルドルフだが、しばしの後、諦めたように息を吐いた。

「……私も宰相という任を仰せつかって随分経ちますが……交渉相手に『裏を教えて下さい』と言われたのは初めてですよ」

 すっかり毒気を抜かれ、やれやれと肩を竦めて見せ。

「無論、当方にもメリットはあります」

「それを是非、ご教授下さい」

「……まあ、隠すほどの事でもありませんからな」

 もしかしたら、頭の下げ損かも知れませんよと前置きをして。

「戦争とはとかく金がかかります。特に、防衛戦ではなく相手側に攻め込んでいる今回の様な状況では。兵士の食料も、武器も、防具も、その全てを輸送しなければならない。はっきり申して当方にも戦争を継続できる余裕は無い」

「……十分、隠すような事では? もう少し耐えれば反撃のチャンスがライムにも回ってくるという事でしょう?」

「あなた方が終戦を望んでいないのであれば隠す必要もありましょうが、そうではないでしょう? それに、国力を見ればどこの国でも大抵想像はつきます」

 ルドルフの言葉にアルベルトは首肯。続きを待つ。

「経済的な同盟は言わずもがな。疲弊した国家を建て直すには早回しに経済を進める必要がある。軍事同盟もそう。弱った国家など、何処から狙われても可笑しくないし、仮に同盟を結ぶとしても、足元を見られれば不平等な同盟になる可能性も十分ある。変な話ではありますが……現在、我が国と対等に同盟を結べるのはアルベルト閣下、ライム都市国家同盟しか無いのですよ。そして閣下、貴国にしても同様の筈です」

「フレイム王国という強い味方がいるではありませんか、貴国には」

「我が国とフレイム王国は確かに兄弟国家です。ですが、フレイム王国とはどう頑張っても主従関係にしかならない。今回の講和にしてもそうでしょう? フレイム王国からの斡旋ですからな」

 手のかかる小僧程度にしか思っていませんよ、彼らはと笑って見せ。

「他所の国家にしても同様です。表向きは同情し、我らに哀悼の意を示してはくれていますが……それでも、彼らも『政治家』である以上、自国の利益を追求するのは当然です。同情だけでみすみす有利な条件で結べる同盟を放棄してくれると思いますか?」

 ルドルフの問いかけに、アルベルトは黙って首を横に振る。その仕草に一つ頷いて見せ、ルドルフは言葉を続けた。

「総括すると当方と致しましては、今後の国家運営を円滑に進めるために安定した同盟国を欲している。オルケナを見渡す限り、その条件に合致する国家は貴国しかない。だから、我々としてはあなた方と同盟を結びたいと……まあ、そういうことです」

「……なるほど」

 ルドルフの言葉に頷いてみせ、アルベルトは再び黙考に入る。ルドルフの言葉に取り立てて可笑しな所は無いし、聞いてみれば頷ける部分も多々ある。賠償金の金額如何にもよるが、それすら分割支払いもありなのだ。

「まだ、引っかかりますか?」

「あ、いえ。引っかかると言うほどの事では無いのですが……」

 条件面で引っかかるところは無い。条件面では。

「……真の意味で、ラルキア王国はライムとの同盟を欲していますか?」

 だが、感情面では引っかかる。

「どういう意味でしょうか?」

「……今回の戦争の大きな原因は、ジェシカ姫のふほ――」

 喋りかけ、アルベルトは思わず息を飲む。



『目が笑っていない』という言葉がある。ニコニコと笑っていながら、内心怒っていたり、憤っていたり、とにかく『笑顔』以外のモノを感情に乗せた表情の事だ。



「……腹が立つに決まっているでしょう」


 ――ルドルフは笑っていた。


 顔にはニコニコとした表情を浮かべ、目も楽しそうに笑っている。心底、心の奥から楽しいときに見せる様な、そんな笑顔で……それにも、関わらず。

「愛し、慈しみ、大事にし、敬い、尊び、誇らしかった我らのジェシカ姫が、永久に、永遠に、奪われたのですよ? 悲しんでも、憎んでも――殺しても、やり切れないに決まっているでしょう」

 アルベルトの背中から流れる冷や汗は、止まらない。

「……ですが、ジェシカ姫は『ラルキア王国』の繁栄を望んでおられた。ならば我ら残されたモノはその望みを叶えて差し上げるぐらいしかジェシカ姫を慰留する方法を知らない。復讐を望んでいた訳ではありませんので、ジェシカ姫は」

「……大変、失礼致しました」

「こちらこそ失礼しました。年を取るとどうも、巧く感情の制御が出来ませんでな」

「それで感情の制御が出来てないと仰いますか。政治家より役者の方が向いていそうですね」

「ご冗談を。私はしがない政治家に過ぎませんよ」

「……怖い職業ですね、政治家は」

 そう言って一つ、肩を竦める。その仕草で心のスイッチを切り替えた。

「フレイム王国には?」

「言う必要は御座いますまい。彼らは講和会談の場所と機会を提供して頂いた。無論、『感謝』はしておりますが、双方が納得しているのであれば仲介者の仕事はお終いでしょう」

「詳細な条件について、ですが」

「明日、細々した諸条件を部下に持って来させましょう。尤も、今日の話が済んでいる以上、賠償金の金額と支払方法――分割か、一括かぐらいのモノですがな。合意できるのであれば明後日の会談でサインを願います。それでフレイム王国への義理は果たせるでしょう」

「分かりました。それではその様に」

 アルベルトの言葉に大きく頷き、ルドルフは席を立った。慌てた様に椅子を引こうとしたクラリッサを手で制し、一礼。

「それでは夜分遅く、失礼しました。今後とも両国の関係が良好である事を願います」

「こちらこそ、ルドルフ閣下。何のお構いも出来ずに申し訳ない」

 柔和な笑みを浮かべる――部屋に入ってからこっち、ルドルフはずっと柔和な笑みを浮かべてはいたが――その姿に、アルベルトは緊張が解けて行くのを感じる。助かった、という感情が、ライム都市国家同盟という国家は生き残るという安堵が、アルベルトの心を徐々に緩め。

「いえいえ、そんなこ――ああ、そうだ。一つ、忘れていました」

 ――その言葉に、アルベルトの顔が強張る。

「な、何でしょうか?」

「いえ、重要な案件を片付けていない事に気付きましてな」

「……ほう。まだあるのですか?」

「ええ。実は閣下――」


 そう言って、柔和な笑みのまま。



「私の妻が、俳優『アルベルト・バルバート』の大ファンでしてな。サインの一つでも貰って帰れば私の家の中の株も上がります。どうでしょう? 一つ、サインを頂けませんか?」




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