第六十一話 その夜は、眠れない ~エリカとシオンの場合~
やっと話が進んで……ないね、うん。
幼少期に与える周囲の環境が、長じた際の人格形成に多大な影響を与える事は周知の事実かと思う。
エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムは妾の子である。正妻であり、王妃でもあるアンジェリカ、実の父であるゲオルグより大きな愛を受けて育ち、リズと何ら変わる事の無い扱いを受けていたとしても、そこに少しばかりの『遠慮』があったとしても不思議では無い。エリカを端的に評す言葉としては『甘え下手』が一番しっくりくるだろう。彼女には無条件で信頼し、無条件で信用し、無条件に『我儘』を言える相手が居なかった。
「……ねえ、貴方? そこで何してるのよ」
雲の切れ間から月がゆっくりと明りを落し、その明りに照らされ明暗がくっきりと別れた、一種幻想的な廊下を歩くエリカの目に、ひどく現実的な光景が映った。問われた人物はそのエリカの言葉に一瞬、怯えた様にびくりと体を震わせて振り向き視界にエリカの姿を納め、バツの悪そうな笑顔を浮かべて見せた。
「……これはこれはエリカ嬢。こんな夜更けに散歩か? あまり夜更かしは関心しないな、さあ、早く――」
「聞こえなかった、シオン? 私は『何をしているの?』と聞いたのよ?」
慌てた様に両手を後ろに回し、わたわたするシオンをエリカはジト目で睨みつける。顔を背け、必死に誤魔化そうとしたシオンだったがやがてその視線に負け、ゆっくりと後ろに回した手を前に出して見せた。
「……タバコ?」
「ああ。ちょっと一服と思って外に出てみたんだ」
「別に屋敷内は禁煙じゃないわよ? 言ってくれれば灰皿も出すのに」
エリカもエミリもタバコを嗜まない。仮にも客人に気を使わせたか、と、エリカが気遣いを見せる。
「いや、別に構わないさ。携帯用の灰皿も持っている」
「そう? もし気を使ってくれているのなら、それは無用よ? 屋敷に来る人の中にはタバコを吸う人もいる――」
「ああ、そうじゃなくて」
言い掛けるエリカを手で制し。
「隠れてコソコソ吸うタバコが一番美味い」
そんなどうしようもない事を言うシオンに、エリカが先ほどまでの気遣いを返せと言わんばかりに睨みつけ、やがて肩を落す。
「こう言っては何だけど一応私、現国王陛下の姉に当たるのよ? もう少し敬ってもバチは当たらないと思うけど?」
「なんだ? エリカ嬢は私に平身低頭で接して欲しいのか?」
「そういう訳じゃないけど……」
少しだけ、言い淀み。
「……何ていうか、良いわね貴方は」
「漠然とし過ぎているな。良い、とは?」
「『自由』って感じがするわ」
「……ふむ。自由、か。確かに私は――自分で言うのは何だが、好き勝手生きているからな。自由の不自由、という言葉があるぐらいだから自由自体が本当に良いかどうかはともかく、少なくとも私は毎日楽しい」
何の気負いも無くそう言って見せるシオンに、エリカの唇からほぅっと息が漏れ、羨望とも憧憬ともつかない色を湛えた瞳がシオンを見つめた。
「――羨ましいわね」
ポツリ、と。
出すとは無しに出た言葉に、シオンが敏感に反応。視線に疑心を込め、シオンはエリカを見やった。
「どういう意味だ?」
「……あ、あれ? 声に出てた?」
シオンの問いかけに我に返った様にエリカは自らの口元を両手で押さえるも時、既に遅し。先程のシオン同様、顔を背けて見せるもシオンの視線に耐える事、数瞬。諦めた様にエリカはその口を開いた。
「シオンは陛下……リズと面識あるわよね?」
「私は一応、陛下の教育指南役だからな。『敬語不要』の勅許も貰った仲だ」
「敬語不要の勅許って……まあ良いわ。それで……その」
少しだけ、言いよどむ様に。
「『リズ』って……どんな『生徒』だった?」
そんなエリカの言葉に、シオンは中空を見つめしばし考え込む。
「……そうだな。私がリズ様の教育指南役についたのはリズ様が十二歳の時だ。まだ即位前であられたし、どちらかと言うと『教育指南役』というより……そうだな、子守が適当かも知れないな。あまり講義は好きでは無かったようで、講義をサボろうサボろうとしていた印象がある。私もロッテ翁に随分叱られたさ」
「迷惑かけたわね、『妹』が」
「いや、アレは私も悪い」
「あら? 意外に殊勝な事を言うのね」
「『イイか、リズ様。巧く講義をサボる術を身に付けろ』と教えたのは私だしな」
「……貴方ね。人の妹に何教えてくれちゃってるのよ!」
「要領の良さと友達の多さで人生の大半は乗り切れるからな。リズ様のお立場では真の意味での『友達』など出来ようが無い。だから、せめて要領の良さを身に付けて欲しいと思っただけだ」
「勉強を教える、じゃなくて、人生を教えたの?」
「教育指南役の言う言葉ではないが、私が教える知識など『国王』の仕事の上では何の役にも立たん。頂点に立つものはその器量があれば良く、必ずしも賢い必要はないからな。身近にロッテ・バウムガルデンという帝王学のカリスマの様な人がいるんだ。必要な知識はそこで学べば良いし……まあ、せいぜい私に期待されているのはリズ様の遊び相手の『悪友』だろうと勝手に解釈させて貰った。苛烈な施政の悪逆非道な王になっていないんだ、教育方針としては必ずしも間違っていないのだろう」
「……へぇ。そんな事を考えていたの?」
「一番の理由は私がサボりたかった事だが」
少しだけ見直しかけたシオンの評価を再度、最底辺にエリカは落とす。評価そのままの冷たい視線を浴びせて見せるも当のシオンは何処吹く風、何だかバカらしくなったエリカは小さく溜息を一つ吐いて見せた。
「リズは、何時だってそうだったわ。優しい、可愛い、大好きな『妹』だけど……少しだけ、『我儘』な所もあったのよ。ちっちゃい頃はよく癇癪を起していたわ。アレは嫌だ、コレは嫌だ、ソレなんて大っ嫌いだ、って」
「王は何時だって我儘なモノだ。それに今の陛下は往年のリズ様では無い。国王として立派に責務を果たされているさ」
「ええ、私も勿論そう思うわ」
そう言って、儚く笑んで見せ。
「……私はね、リズとは真逆。小さい頃からずっと我慢して来たのよ」
「不幸自慢なら聞く気が無いが?」
「違うわよ!」
半眼でジト目を向ける、という器用な事をやって見せるシオンに、慌ててエリカは両手を左右に振って見せる。
「そうじゃなくて! そ、その……リズには、『甘える』事が出来る人が沢山いたのよね」
「……ふむ」
「ゲオルグ先王陛下、アンジェリカ様、私の母親であるリーゼロッテお母様、それにロッテ。皆が皆、リズを愛し、慈しみ、支えていたのよ」
そして……それが、羨ましかった、と。
「……繰り言になるが、不幸自慢は――」
「だから、そうじゃなくて」
言い掛けたシオンを、やんわりとエリカは手で制し。
「私だって、そうよ。ゲオルグ先王陛下も、アンジェリカ様も、リーゼロッテお母様も皆、私を愛してくれた。慈しんでくれた。支えてくれた。大事に大事に、育てて貰った。なのに」
――私はその『好意』を、素直に受け止める事が出来なかった。
「なぜ?」
「なんでなのかしらね? お母様の教育方針もあったのだろうけど……きっと、私は怖かったのよ」
「怖い?」
「甘えて、我儘を言って……そして、『嫌われる』ことが」
『甘える』という行為は一人では決して出来ない。相手があって初めてその相手に『甘える』のであり、究極『甘えても許される』人がいなければ甘える行為など出来ないのだ。
「なんのてらいも無く、甘えるリズの姿がいつも羨ましかった。嫌われるかも、もう許して貰えないかも、もう愛してくれないかも知れない。そう思う事なく、甘える事が出来るリズが羨ましくて……そして、眩しかったのよ」
大人の顔色を伺いながら生きて来たの、嫌な子供でしょ? と自嘲気味に笑って見せて。
「……アヤノの言った言葉、覚えてる?」
「ふむ?」
「『コータに、心を開いていたの?』」
「……ああ、アレか」
「……私、何も言えなかった。コータを、信用していたわ。コータを信頼していたわ。コータが大事で、大事で仕方なかったの。ええ、認めるわ。私は愛しかったの、コータが。それは、嘘じゃないの」
嘘じゃ、ないけど、と。
「……じゃあ、何で大事だったのか……何で愛しかったのか、分らないのよ」
――愛しいから、大事なのか。
――大事だから、愛しいのか。
一陣の風がエリカとシオンの間を吹き抜け、その風が高い位置で結ったシオンのポニーテールを揺らした。エリカの心模様同様、風に流された厚い雲に覆われた月はその優しい明りをそっと隠す。
「……ふむ」
忌々しげに天空を見つめ、シオンは白衣のポケットからマッチを取り出すと、手遊びしていたタバコを口に加えて火をつけた。
「……総括すると、だ。エリカ嬢は自分の全てをさらけ出していなかった。コータもエリカ嬢に自分の全てを見せてくれなかった。だから、お互いが遠慮し合う事無く言い合えるアヤノとコータの関係が羨ましい、悔しい、負けちゃったわ! 私の大事な大事な、愛しいコータが取られちゃった! という恋する乙女状態、という所か?」
「最後! 最後何よ!」
「違うのか?」
「ち、違うのかって……そ、その……ち、違わないけど……」
「……余談だが、コータはラルキア滞在中、『早くエリカさんに逢いたいです。恋しいですよ』と言っていたぞ?」
「う、嘘! う、嘘でしょう! ……本当?」
「まあ嘘だが」
「……」
「……ああ、悪かった。悪かったからそんな涙目で睨まないでくれ。ぬか喜びさせた事は謝るから」
瞳一杯に涙を溜めて睨むエリカに謝罪の言葉と傲岸不遜な態度を見せ、シオンは大きくタバコの煙を吸い込み。
「……両手を伸ばした距離だな」
吸い込んでいた煙を吐き出すと同時、言葉を吐き出す。
「どういう意味よ?」
「自分と相手の距離が両手を伸ばした距離ならば、自分だけが片手を伸ばした所で相手には決して届かないだろう? 相手側も片手を伸ばしてくれないと、触れ合う事は出来ない。同様に、相手側が幾ら手を伸ばしてくれていたとしても、自らがその手を伸ばさない限り決して触れ合う事は出来んさ。エリカ嬢、君の言っている『甘える』とはそういう意味だ」
もう一度、タバコを口に加えて煙を吸い込む。
「話を聞く限り、エリカ嬢は差し伸べられる手を拒否し続けたのだろう。折角伸ばしてくれた手を、乱暴に振り解いた事だってあったかも知れない。それに慣れた君は、伸ばされた手を取る事も、そもそも自分の手の伸ばし方も忘れてしまった。だから、陛下がされる様に人の手を簡単に取る行為が羨ましかった。違うか?」
「……そうよ」
俯きながらそう言ってコクンと頷いて見せるエリカに、シオンは肩を竦めて言葉を続ける。
「気持ちは分らんでも無いがな。人に好かれる事は難しいのに、嫌われる事はひどく簡単だ。我儘を言って、嫌われるぐらいなら最初から好かれる事を避ける気持ちも……納得は出来ないが理解は出来る」
「……」
「……私には、王家の悩みなど皆目見当もつかないし、たらればの話をしても仕方ないが、君がもし差し伸べられる手を無条件で取り続けていたら――誰かに『甘え』ていたならば、今頃フレイム王国は『リズ派』『エリカ派』の双方に分かれて血を血で洗う闘争の日々を送っていたのかも知れない。そうなると私のこの自由気ままな素敵生活は送れなかっただろうから、そういう意味では君に感謝すべきなのだろうがな」
「感謝される程の事では無いわよ。私だって血で血を洗う様な闘争劇をリズと……『妹』と繰り広げるつもりは無かったもの」
でも、と。
「……私、何処で間違っていたのかな?」
ポツリ、と、泣きそうな声で。
「もっと……甘えたら良かったのかな? 我慢せずに、もっと我儘に……もっと自分を見せていたら、『コータ』は――」
――本当の『浩太』を、見せてくれたのかな? と。
漏れいでたエリカの言葉に、シオンはふんっと鼻を鳴らして見せて。
「そんなもん、知らん」
一刀両断。ポケットから携帯灰皿を取り出し、吸殻を収納。そのままの動作で新しいタバコを一本取り出し、マッチで火をつける。ジジジというリンの音が、静かな中庭の空気に溶けて消えた。
「し、知らんって……」
「私はコータでは無いしな。もしかしたらコータは我儘なレディは嫌いかも知れん。従順な女が好みの殿方は多いし、コータもそうである可能性も強い。そもそも、乳の貧しい女は嫌いかも知れないしな」
「ど、何処見て言ってるのよ! わ、私のは貧しいじゃなくて……そ、その『慎ましい』って言うの! 何よ、そんな牛みたいな胸をひけらかして!」
両腕で自らの体を掻き抱き、エリカは思わず身震いするほどの視線の強さでシオンを――その、たわわに実った双丘を睨みつける。
「貧乳では無く慎乳か。新たな言語が生まれたな、エリカ嬢。貴方のそのまずし――じゃなかった、慎ましい乳のお蔭で。慎ましい乳に乾杯だ」
「慎ましい、慎ましいって連呼しないでよ!」
「自分で言いだした癖に」
「人に言われると腹が立つのよ!」
分かった分かったと荒ぶるエリカを手で制し、咥えたタバコを右手と人差し指で掴み口紅のついた吸い口を親指でピンと弾く。先端の灰が風に舞った。
「まあ、エリカ嬢の乳についてはともかく……そもそもエリカ嬢、『本当の浩太』とは一体なんだ?」
「まだ胸のはな――え? ほ、本当のコータ?」
「ああ」
「そ、それは……その、あ、アヤノに見せたような……その、こう、お互いに気を使わない関係って言うか……」
「ふむ。では、アレか? エリカ嬢はコータがアヤノに見せたように、頭を叩かれたり、口汚い言葉で罵倒されたりと、そういう態度でコータに接して欲しいという事か? 人の性癖に一々口を出すつもりは無いが……」
「違うわよ! 何言ってるのよ、貴方! そうじゃなくて……」
「では逆に問おう。貴方が見て来た『コータ』という人物は、偽物のコータか?」
「そ、それは」
「私は誰に対しても態度はそう変わらない。陛下にすら敬語不要だからな。だが、それでも最低限弁える礼儀は心得ているつもりだ。時と場合、それに状況に応じてある程度使い分けはしているぞ、これでも。だが、私はロッテ翁の前で見せる私も、家族の前で見せる私も、コータの前で見せる私も……無論、エリカ嬢、貴方の前で見せる私も、全てそれは『私』だと思っている。どれが本物でどれが偽物であるなどと、そんな区別をしているつもりは無いが?」
「で、でも」
「それともお互いがお互いの事を好き放題言い合うのが良い関係か? 言いたい事を言える事を不要などというつもりは毛頭無いが、好き勝手言っていればどれだけ親しい仲であろうと必ず亀裂が入る。親しい仲でもある程度の礼儀は必要だと考えるが、その関係性は『偽物』なのか?」
どうだ、と問うシオンにエリカは口籠りながら、それでも何とか口を開く。
「で、でも……アヤノは、コータの事を私達よりもずっと沢山知っていたし」
「沢山知る事が良いと言うのであれば、コータの御母堂がエリカ嬢の最大のライバルと言えるな。一種老人みたいな奴だが、そうは言ってもコータも人間だ。おしめも変えて貰っただろうし、おねしょもしただろう。コータの『恥ずかしい』過去を一番良く知っているのは間違いないと思うが?」
「それは……」
「まあ、これは詭弁だが……だが、そうは思わないか? 確かに私達はコータの異世界での人間関係や性格、想いは分らないかも知れない。だが、それはアヤノにも……それにエリカ嬢、貴方にも言える事だ。コータがラルキアで何を行ったか、エリカ嬢は知っているか?」
「……ホテル・ラルキアの再建を手伝ったって聞いたけど」
「詳細については?」
シオンの問いかけに、黙ってエリカは首を左右に振る。
「私はラルキアでコータとずっと一緒だった、コータのホテル・ラルキアの再建を一番近くで見て来た異性だ。アヤノにしてもエリカ嬢にしても、間接的にはその情報を仕入れる事が出来たとしてもコータのその姿を見た訳では無いだろう? それを持って『私がコータを一番よく知っている』と言えると思うか?」
「……言えないと思うわ」
「結局、アヤノが言っている事はそう言う事だ。成程、彼女は確かにコータの異世界での姿を知っているだろう。だが、同様にエリカ嬢はテラでのコータを知っているだろう。私がラルキアでのコータを知っている様にな」
「……」
「結局、どの『コータ』も等しく『コータ』なんだ。アヤノに見せる顔も、エリカ嬢に見せる顔も、私に見せる顔も、な。個人的には最近コータの奴、私をオチ要員かギャグ要員程度に考えている節があり、甚だ不本意だがな」
そう言って、肩を竦めて見せて。
「色々言ったが……まあ結局何が言いたいかというとだ。あまりアヤノの言った事を気にし過ぎるな、という話だ。アヤノ自身、コータの全てを知っている訳では無いさ。腹芸という点ではアヤノが一枚上手だった、というだけの話だ」
そう言って、タバコをもう一口。ふぅーっと大きく息と煙を吐き出した。
「……ねえ」
「なんだ?」
「もしかして……慰めてくれてるの?」
「慰めて、同情して、憐憫の情を含んだ視線を貴方が欲するならば私はそうするが、きっとそれでは貴方は納得しないだろう?」
「そうね。それなら私は『バカにするな』と怒ると思うわ。でも……」
じゃあ、なんで? と、そう問いかけるエリカに。
「こういう言い方をするのは何だが……仮にも私は、陛下の教育指南役で、貴方は陛下の『姉』だ。まあ……なんだ? 妹のついでに姉の面倒も見ただけだし」
それに、と。
「年若いモノの恋の悩みを解決するのも年長者の役目だ。遠慮せずに『甘えて』おけ」
何でも無い様にそう言って、手の中のタバコをピンと親指で弾き――かけて、此処がエリカの屋敷の中庭である事に気付いたシオンは慌てて弾いたタバコを……火のついたソレを両手でガシっと受け止めて。
「あつぅ!」
「……なにやってるのよ、貴方。ここは締める所でしょうに」
涙目で両手をパーの形にしながらふーふーと息を吹きかけるシオンを、ジト目と苦笑でエリカは見やる。そんな情けない姿に少しだけバツの悪そうな、照れた表情を浮かべたシオンは受け止めたタバコを丁寧に携帯灰皿に納め、もう一本タバコを取り出した。
「まだ吸うの? 吸い過ぎじゃない?」
「ちょっと我慢していたからな。不足しているんだよ、ヤニが」
そのままの流れでもう一度マッチに点火し、その炎をタバコに付けた。呆れたような瞳でその仕草を見つめ、それでも苦笑を浮かべたままのエリカ。
「……ねえ」
「なんだ? うわ、手に火傷の痕が……」
「もし、さ。コータが、ね? 手を伸ばしても……手を、伸ばしてくれなかったら……どうすれば良いのかな?」
甘えたい思いと――拒否される、怖さ。
背反する思いを抱いたその感情のまま、問いかけるエリカに。
「私は『両腕の距離』と評したが、足が無いと言った覚えはないが?」
「……え?」
「こちらが片手を伸ばしても相手が手を伸ばしてくれないのであれば、片手で届く距離まで近づけばよい。そっぽを向いて距離を取ろうとするのであれば、追いかけて後ろから両手で抱きしめてしまえ。それでも抱きしめた両腕を振り解こうとするのならばハグとキスでもぶちかましてやれ。その仄かな胸の膨らみでも……まあ、何とかなるだろう」
「仄かっていうな! じゃ、無くて、え? な、何を――」
目を白黒させ、言い募るエリカを手で制して。
「それが本当に欲しいモノであるのならば、手を伸ばしてくれる事など望むな。待つな。ねだるな。自ら動き、手中に納めろ。相手が嫌がっても、そんな事を気にする必要は毛頭ない。それが、本当に欲しいモノであるのならな」
良い、笑顔で。
親指をぐっと立てて見せるシオンに、思わずエリカの体から力が抜ける。
「……言ってることが無茶苦茶よ。相手が嫌がってもって……そんな我儘、言えるわけないじゃない」
「恋する乙女は何時だって我儘なモノだ。それに、忘れたのか?」
「何を?」
「私の名前はシオン・バウムガルデン。『知りたい』という我儘の為に、異世界からコータを召喚した女だぞ?」
我儘は専売特許だ、と。
「……貴方、絶対良い死に方しないわよ」
「覚悟の上だ。それに、『本当に』欲しいモノはそうやって手に入れるモノだと私は思うぞ。私は別段この生き方に痛痒を感じない。私は世界を愛している。無限に広がる、この世界をな」
「世界って無限なの? 限りは有ると思うけど?」
「手に入らない有限は無限と同義だ。それを手に入れようと……そうだな、世界が手を伸ばしてくれないのならば、首根っこを引っ掴まえてでも私の下に手繰り寄せるさ。走って逃げるのであれば、馬にでも乗ってな」
「……本当、我儘ね」
「さっきも言っただろう? 恋する乙女は我儘なんだ」
肩を竦め……それでも、顔に微笑みを浮かべて。
「……ありがとう、シオン」
スカートの端をちょんと摘まみ、エリカは軽く頭を下げる。
「礼を言われる程の事をしたつもりは無いが……まあ、エリカ嬢がそう思うのなら礼を受け取るのはやぶさかでは無いさ」
「ええ、受け取っておいて頂戴」
顔を上げ、その上げた顔に華の様な笑みが浮かんでいる事を認めたシオンは、タバコを咥えたまま少しだけ口の端をつり上げた。
「随分、マシな顔をする様になったじゃないか。なんだ? ハグとキスをする決心でもついたか?」
「まさか」
シオンの笑みと同様、エリカも口の端をつり上げて不敵に笑んで見せる。
「コータから手を伸ばしたくなるようにさせて見せるわよ、私は」
「……上等だ」
にぃーっと擬音が浮かびそうな、より一層笑みを深くするシオンにつられてエリカも口の端を上げかけて。
「……ねえ」
「ん? どうした」
「その……貴方はどうなの?」
「質問が抽象的だな。簡潔に」
「だから! そ、その……コータの事、どう思ってるのかな、って」
顔を朱に染め、それでもチラチラと伺う様な動きを見せるエリカ。
「ふむ」
そんなエリカの視線を受け、組んだ腕の左手を顎に置きながらしばし深層に意識を飛ばす。それも数瞬。
「……男性として見て魅力的か、と問われれば『はい』だ。現在、恋愛感情があるかと問われれば『いいえ』だな」
「そ、そう?」
「なんだ? あからさまにほっとした顔をしているな? さっきの強気の台詞は何処に行ったんだ?」
「べ、別にほっとしてなんか無いわよ!」
慌てるエリカの視線が自身の胸元に釘付けになっている事に気付いたシオンは、『面白いおもちゃを見つけた』と言わんばかりに目を輝かせて自らの腕を胸の前で組み、左右の双丘をむぎゅっと押しつぶして見せた。エリカの額に『ピシ』っと音を立てて青筋が浮かんだ。
「う~ん? なんだ? この立派な双丘でコータを誑かすと、そう思ったのかな? ひんにゅ――じゃなかった、慎乳のエリカ嬢は」
「む、胸だけが女の価値じゃないわよ! し、慎乳はロマンなの! 夢と希望が詰まってるのよ、私の胸にはぁ!」
「そうですかぁ~。まあ、私の胸は所詮脂肪の塊ですが~。エリカ嬢の胸はロマンが詰まってるんですねぇ~」
「急に敬語なんて辞めてよ! 後、慎乳をバカにするな!」
がーっと怒りを露わにするエリカを一頻り小馬鹿にして見せ、腕の『むぎゅ』を解くシオン。その姿に少しだけほっと息をつき、エリカも表情を緩ませかけ。
「まあ『現時点』で恋愛感情は無いだけで、先の事は分らんがな」
「……え?」
緩ませかけた頬を、ヒクッと強張らせる。
「よく考えてみてくれたまえ。言ってみれば私は、コータの人生を無茶苦茶にした大悪党だ。本来であればコータに殺されても文句は言えないが……そんな私を、笑顔で許してくれたのだぞ? コロッと行っても可笑しくなかろう」
「ぐっ!」
「加えてコータは、このテラで『魔王』と呼ばれている程優秀な人間だ。ホテル・ラルキアの再建計画でその姿を直に見てもいるし、能力自体は高いし、会話も退屈する事は無かろう。ウィットに富んだ会話は生活に彩を与えてくれるしな」
「ぐぅ!」
「更にコータは私の妹や友人からの評価も高い。別に誰に反対されても愛した男であれば障害にはなりはしないが、出来得ることなら祝福された方が良いしな。コータならその辺りは如才なくやるだろう。人付き合いは巧そうだし」
「ぐ……で、でも! そ、その……コータにだって欠点あるわよ! こう……ぎゃ、ギャンブル! そう、ギャンブルがびっくりするほど弱いわ! 後、喧嘩も! 街のチンピラにも負けるのよ!」
「……別に私は山賊の親分の話をしている訳では無いぞ? ギャンブルも喧嘩も弱くても致命的な欠点には成りえないのだが? と、言うかだな? 仮にも惚れた相手を捕まえてその言い草はどうかと思うが?」
「そ、それは……そ、そうだけど……」
「……まあ無論、エリカ嬢の言う通り欠点もある。確かに容姿はどう頑張っても平凡の域を出ないだろうし……エリカ嬢がどういう雇用形態を取っているのか知らんが、収入とてそんなに多い訳では無かろう。だが、容姿など加齢と共に衰えて行くものであるし、そもそも私はそんなに面食いでは無い。吐き気をもよおさない程度の面構えであれば構わんさ。収入に関しても仮にも私は主任研究員の職にあるからな。コータと私を養う程度には稼げるだろう……って、アレ? よく考えるとコータは結構な優良物件じゃないか!」
ポンと手を打ち、『今気づきました!』と言わんばかりの表情を浮かべるシオンに、エリカは慌てた様に詰め寄った。
「ちょ、し、シオン! そ、そんなの私は認めないわよ!」
「別にエリカ嬢に認めて貰う必要はないが……一応、聞いておこう。何がだ?」
「だ、だって……あ、愛が無いじゃない、そんなの!」
「愛など結婚してから深めて行けばよかろう。それともエリカ嬢はお見合い結婚全否定派か?」
「そ、そうじゃないけど……で、でも!」
殆どパニックになる目の前の金髪を『分った、分った』と面倒臭そうにあやし、シオンは大きく一つ溜息を吐いて見せる。
「まあ、どちらにせよ今すぐどうこうという話ではない。エリカ嬢はエリカ嬢らしく自分を磨き、私が慌ててコータを手に入れようとしても時、既に遅し、という状態にしておけばいいだけの話だ」
「……何だろう。そこはかとなく余裕を感じる台詞よね、それ」
「恋愛は先着順では無いからな。驚異の追い上げを見せる事もあるぞ?」
「……先着順だったらアヤノに惨敗だったから否定は出来ないんだけど、何だか先着順であって欲しかったわね。勿論、オルケナ限定で」
「それは我儘というモノだ」
「あら? 貴方がそれを言うかしら?」
貴方が言ったんじゃない、と。
「『恋する乙女』は何時だって我儘なんでしょう?」
してやったり、と言わんばかりの良い表情を浮かべるエリカに、シオンは肩を竦める事で応える。
「分かった分かった。取りあえず、何時まで此処にいるつもりだ? そろそろ眠たくなってきた。私は部屋に戻るぞ、エリカ嬢」
「あ、ちょっと待ってよ! 何だか勝ち逃げされてるみたいじゃないの!」
「勝ち逃げなんてしていない。『こいするおとめはいつだってわがままなの、どやぁ!』だろう。分かった分かった、私の負けだ、負け。さ、これで満足したか?」
「な、なんという……なんなの? 貴方、人の神経逆なでしないと気が済まない呪いでもかかっているの?」
「そんな呪いは……ああ、もうそれでいい。それじゃお休み、エリカ嬢」
「ちょ、待ちなさい! シオン!」
背後でぎゃーぎゃー騒ぐエリカに、両耳に手を当てる事で対抗して部屋まで道を歩く。
そんな二人を照らすかのよう、先程まで厚い雲で覆われていた月はその玉響の姿を現し、二人に優しい明りを落していた。




