第五十八話 松代浩太 Ⅳ
書き足りない所がありますが、来週回収。ここで切るのが一番綺麗と判断しましたので。突っ込みはちょっと待って下されば嬉しいです。
松代浩太は、大川綾乃を『欲して』いる。
恋では無いのかも知れない。愛でも無いのかも知れない。ただ、彼女の傍に居たくて、彼女と過ごしたいだけの、拙い感情に過ぎないのかもしれない。
それでも浩太は、彼女が他の男に笑いかけ、他の男と喋り、他の男と口付けを交わし、あまつさえ他の男と肌を重ねると、そう想像するだけで虫唾が走る様な感情を抑える事が出来なかった。『自分がアレだけしといて……』と、まあ浩太自身思わない訳でもないが、取り敢えずそこは脇に置く。或いは、この感情はただの『独占欲』なのかも知れないが、そもそも恋愛は相手を独占したい気持ちが一端にある事は間違いが無く、そう言った意味では浩太のこの感情は間違いなく『恋』であり『愛』であり……過去の彼女達には失礼極まりないが、浩太が初めて経験する『初恋』でもあった。
「……どうしよう」
今、自室で浩太は携帯を握りしめたままうんうんと悩んでいた。ちらりと時計に目を走らせれば短針は既に『12』を越えてしまっている。ちなみに、浩太が悩み始めたのは十時ちょっと前。二時間以上、携帯を手に持ったまま悩み続けた計算になる。さて、浩太が何を悩んでいるかと言うと。
「……なんてメール送れば良いんだよ」
これである。『中学生か!』という突っ込みを入れてしまいそうになるが、浩太の気持ちも斟酌して欲しい。
基本、浩太の自己評価は恐ろしく低い。『自分は大した事ない』と、誰よりも本気で思っている、ちょっと稀有な人種ですらある。そう言う人間は、そもそも多くを欲したりしない。自らが手を伸ばした所でソレが簡単に手に入る事が無いと知っているし、手に入らない挫折を嫌うからだ。或いは『自分は大した事ない。だから手に入らなくてもそれは当たり前だ』という欺瞞で手に入らなかったショックをやわらげる効果を狙った自己防衛本能でもあるのだが、詳細は心理学に譲る。
何が言いたいかと言うと、そんな『ビビり』な浩太は自ら『告白』と言うモノをした事が無いのである。努力を常とし、反復を友とし、経験を糧として生きて来た浩太は、自らの経験した事が無い事に極端に弱いのはご承知の通りであろう。つまり、この小中学生が通るであろう『初めての告白』という一大イベントに、浩太はすっかり参ってしまっているのだ。加えて。
「……全然、巧く行ってる自分が想像できねぇ」
相手が綾乃、という事もそれに拍車をかける。今でこそ対等に話をし、冗談なんかも言えたりしているものの、相手はあの『大川綾乃』だ。四か国語を操り、東大卒で、住越銀行でも名門店舗に配属になった『本物』の才女。加えて父親は外務官僚で、母親の実家は旧華族。月とスッポンどころの話では無い。真紀の言っていた『経済的安定』という拠り所すら、同じ銀行に勤め、その上同期である以上、浩太と綾乃に差は無いのである。
「……やっぱ、明日にしよ――うお!」
諦めた様に、携帯をベッドに放り投げようとした所で、携帯が鳴る。慌てて着信を確認すると、ディスプレイに映し出された名前は。
「……心の準備、出来てないんですけど……」
『大川綾乃』という文字に、少しだけ心が躍り、それ以上の気の重さを感じながら浩太は通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『あ、もしもし、浩太? 私。綾乃』
「ディスプレイに名前が出ているからわかるよ。何だ? 何の用だよ?」
『……』
「綾乃?」
『寝てた?』
「……は? 何で?」
『いや、なんか機嫌悪そうだから……ごめん、切るね』
少しだけ申し訳なさそうな、それでも寂しそうなその声に、浩太の心臓が大きく跳ね上がり、その衝動のまま。
「だ、大丈夫! 全然寝てないでおじゃるよ!」
――変な事を言ってた。
『……おじゃるって……何言ってんのよ、アンタ?』
「い、いや、なななな何ってお前、し、知らないの? 今流行りじゃん、おじゃる! おじゃるでおじゃるでおじゃるでおじゃる!」
『……分った。浩太、貴方はきっと疲れてるのよ。ごめんね、遅い時間に電話して。ゆっくり休んで?』
「い、いや、ちょっと待て…………ふぅ。大丈夫、落ち着いた」
まだドクドクと五月蠅くなる心臓を必死に押さえつけ、深呼吸一つ。
『……仕事、忙しいの?』
「いや……まあ、忙しいのは忙しいよ」
『そう……体、大丈夫? 浩太はいっつも一人で仕事を抱え込むんだから』
「……なに? 心配してくれてんの?」
『は? 当たり前でしょ。心配するわよ』
別に、大した事では無い、よくある会話。
本当に、本当に、些細な、同期が同期を心配する様な、そんな会話。
「……さんきゅ。気をつける」
だっていうのに――飛び上がって叫びたいほど、嬉しい。
「……で? 何の用事だ?」
『ああ、そうそう! この間のお疲れ様会、アンタが途中で潰れたから私、不完全燃焼なのよね』
「……誰のせいだと思ってる、このスカポンタン」
『お酒の弱いアンタのせいに決まってるじゃん。と、言う事で! 今週の金曜、ちゃんと予定を開けておく事!』
「……また飲みかよ。お前、俺を破産させる気か」
『別に良いって言うのに『俺が奢るから』ってアンタが言うんじゃん。まあ、今回は私の奢り……は、アンタ嫌がるよね?』
「……女の子に奢られてる男って、格好悪くね?」
『気にし過ぎだ、このナルシストめ。まあ、今回は私から誘ったから割り勘で行こうよ。その……予定、大丈夫?』
「強気か弱気かはっきりしろ。開けておく事! なんて言っておいて」
『その……迷惑かけたら、嫌だし』
――お前から誘われて、迷惑な訳ないだろう? と、そう言えたらどれだけ楽だろう。そう思いながら、浩太は言葉を続ける。
「……今週の金曜日は何にも予定無いよ。開けておくから……いつもの所で良いか?」
『ホント? やった! うん! いつもの所で良いよ!』
――そんなに嬉しそうにするなよ、期待するだろう、と、そう思わなくていい関係になれればどれだけいいかと思いながら、浩太は言葉を続ける。
「嬉しそうにして……そんなに飲み会したかったのかよ?」
『え? 嬉しいに決まってるじゃん。浩太との飲み会、私好きだもん』
――『好き』とか言うなよ、俺だってお前との飲み会、すげー楽しみだよ、と、なんの照れも臆面もなく言えたらどれだけ良いかと思いながら、浩太は言葉を続ける。
「はいはい。それじゃまた、金曜日な」
『はーい! おやすみ、浩太!』
――なあ、綾乃。俺、お前の事、本当に大好きだわ、と。
「おう、おやすみ」
そんな事を言えるはずもなく、浩太は電話を切り。
「……ダメだ、これ」
漫画だったら目がぐるぐるとなってそうなそんな状態のまま、浩太はベッドにその身を放った。心臓が五月蠅いぐらいにバクバクなっている。たった数分の、必要事項を伝えるだけの電話なのに、まるでフルマラソンを走った後の様に体中に汗をかき、脱力感が半端ない。こんな疲労が、これから先も続くとすれば――
「……倒れる。心臓発作か、それとも過労で間違いなく倒れる自信がある」
何とも情けない自信。それでも、それ程にこの疲労感は筆舌に尽くしがたいものがある。こんな事がこれからも――綾乃から電話が届くたび、こんな思いをするようじゃ、とてもじゃないが体が持たない。
「……ああ、もう、くそ! 悩んでもしょうがねえ! とにかく言う! 付き合って下さいって言って、それで答えを貰う! 良くても悪くても、結果は気にしない、当たって砕け……るのは嫌だけど、と、とにかく、言うべし!」
殆ど、やけっぱち。もう、考えるのにほとほと疲れたし、何よりこの精神状態は非常に宜しくない。金曜日に逢って、素直な気持ちを綾乃にぶつけようと、そう思って布団を頭からかぶり就寝体制に浩太は入る。夜の帳と同様、落ちてくる上の瞼に抗う事をせず、ゆっくりと思考を停止させ、浩太は夢の世界に旅立った。
◇◆◇◆◇
「……あのな、松代?」
「はい?」
「いや……何だ、それだけ一生懸命仕事をしてくれるのは上長として嬉しいんだが……流石にそれはやり過ぎだろう?」
頭上からかかる中桐次長の言葉に、浩太はパソコンに向けていた視線を上にあげ、困った顔をしている中桐の顔と目があった。
「……なにか?」
「うん、確かにお前に『来期も東桜女子に講義に行くつもりはあるか?』とは聞いたが……別に、お前に専属で講師を任せようと思っている訳じゃないぞ? お前は住越の行員で、住越の発展の為にその持てる力を使うべきで……まあ、アレだ。別に五年先までの講義計画を立てろと言ったつもりは無い。いつからお前は姫のお守りが仕事になったんだ?」
呆れた様にそういう中桐に、浩太は慌てて画面に目を向ける。中桐の言うよう、そこには確かに五年先の日付の講義計画の概要が記されていた。
「……気付きませんでした」
「……はあ。まあ、他の仕事をきちんとした上でなら別に何も言わんが……お前な? 五年もこんな仕事をしていたら間違いなく左遷だぞ? 嫌だろ、そんなのは?」
「いえ、別に……何処でも、自分の全力を尽くすつもりですが」
「ああ、そうだよな。お前はそういう奴だ、良くも悪くも。いいか? 住越の総合企画って言えば、ちょっとは知れた名だ。住越で優秀と言われる行員……例えば前任店の丸の内とか、営業一部とか、或いは大阪中央とか、東海営業本部とかの行員が憧れるキャリアで、望んでも中々与えられるチケットじゃないんだよ。もう少しそういう自覚を持てよ、お前も」
聞いたこと無いぞ、『左遷です』って言われて別にいいです、なんていう奴と呆れた様に溜息を吐き、空いている椅子にどかっと腰をかけ、浩太の眼をじっと見つめる。
「……何ですか、人の眼を覗き込んで。気持ち悪い」
「……言う様になったな、お前も。来たばっかりの頃は可愛かったのに。ならば俺も単刀直入に言おう。異動の話が来ている、松代」
一瞬、『は?』という顔をしたのが分ったのだろう。中桐の口の端がにやっと歪んだ。
「安心しろ、別にウチを追い出す訳じゃない。ライン替えの話だ」
『ライン』と言うのは住越銀行本部内で使われる隠語の一つだ。担当、と読み替えて頂ければ差し支えは無いだろう。
「部長がな? 『財務ラインでお前を鍛えてみたい』という話をしている。財務の次長は俺の昔の直上でもあるし、お前に取ってもプラスの話だ。俺が居る内なら、お前を守ってもやれるが、どう思う?」
「ま、待ってください! そ、その、財務は住越でもエリート中のエリートが集う場所でしょう? 私程度ではとても――」
そこまで喋る浩太を手で制し、中桐が言葉を続けた。
「……まあ、今回は多分に『政治的』マターでもある。四井の執行役員が直々に頭を下げてまで『ありがとう』と言った男を、言っちゃなんだが総合企画の閑職に置いておくのもどうか、という話になってな」
「い、いや! 待って下さいよ! だって私、単に大学に行って講義しただけですよ? それでいきなりそんな話になるなんて、どう考えても可笑しいでしょう!」
「どこがだ? いいか? 仮にも上場企業の執行役員が、別の上場企業の、しかも一部長職に頭を下げて礼を言ったんだぞ? しかも同業の、がっつりライバル関係にある会社に、だ。『ああ、そうですか』と放っておけると思うか?」
「いえ、ですが……でも、流石にそれは公私混同では」
「無論、向こうはあくまで『娘の親』として礼を言った体裁だ。が、それこそ常識的に考えて、ただ『娘の親』として礼を言うとでも?」
「それは……」
「松葉執行役員は切れ者で有名だが、『古武士』と言われるほど義理堅い事でも有名だ。ここで『無形の恩』を売っておくのも一つの手だ。知っていると思うが、四井とは事あるごとに衝突しているが……まあ、ある程度『協力』は必要だ」
銀行業界は群雄割拠、戦国時代ではある。あるがしかし、戦国時代同様、同盟関係だってある。
例えば『シンジケートローン』というものがある。シンジケートとは『犯罪シンジケート』などでよく使われる『シンジケート』だ。組合の意味合いが近いが、銀行業界でシンジケート、或いはシ団と言うと『協調融資』を指す場合が多い。
金額的に大きい場合、銀行はリスクヘッジの観点から一行のみで融資を行う事を嫌う。企業側としては調達は必要であり、『それでは色んな銀行に負担を』という話になる。そうなると『アレンジャー』と呼ばれる主幹事銀行が各行に電話や、或いは直接出向いて『こうこうこういう条件で融資しますので、つきましては御行も一口乗られませんか?』と口説いて回るのだ。こうやって貸出される融資をシンジケートローン、通称シ・ローンと呼ぶ。主幹事行は企業に変わって案件を取り纏める為に、非常に煩雑な事務を要求されるが、その分見返り――アレンジメント・フィーと呼ばれる手数料が入ってくるのだ。案件によりまちまちだが、結構『がっぽり』入ってくる上に、巧く纏める事が出来れば会社にも感謝され、その上自行の融資残高は積み上がる。加えて、融資先を探していた余所の銀行にも恩が売れると、一粒で二度も三度も『美味しい』案件なのだ。『シ・ローンはアレンジャーが一番美味しい』と言われる所以であり、当然都市銀行だけでは無く地方銀行でも有力行などはアレンジャー案件をそれこそ血眼で探している。
「四井とは事あるごとにアレンジャーでぶつかっているからな。ここらで遠慮して貰うのも一つの手だろう?」
「そんなに簡単に行くのですか? 正直、行く訳ないと思うのですが」
「私だってそう思う。だが、折角カードがあり、そのカードを切れる状況であり、尚且つ後生大事に取って置くほどのカードでないのであるならば、むしろ旬な内に早めに切っておいて良いとも個人的には思う。やらないよりはマシだろう?」
「……それは……まあ、そうですけど」
「ついでだから言っておくが、わざわざ君にこの話をしたのには意味がある。『やった、花形ラインに異動だ!』とただ喜ばせても良かったが、敢えてそうしない意味が分るか?」
試す様な中桐の言葉に、浩太は首を左右に振る事で応える。
「申し訳ございません、分りません」
「一点目は自分の事を良く知って貰うためだ。松代、確かに君は真面目だし好感が持てる人間ではあるが、総合企画の財務ラインはそんな『いいひと』ではとても勤まらん。『自分は出来るんだ!』なんて、プライドの塊の様な人間が集まる場所で、下手に勘違いされても困るからな」
「そんな勘違い、しようがありませんよ」
「私も君のその辺りは安心しているから、まあ一点目は先達の言葉程度に聞いて置いてくれ。二点目、君には所謂『腹芸』と言うのも覚えておいて貰いたい。正直、君は財務に居るよりはこちらに居た方が向いていると思う。君的にも、銀行的にもだ。一見、誰にとっても不利益に見えるだろうが、足元の議論に終始していては動くものも動かない。こういう方法もある、という事をよく覚え、何時か君が私の立ち位置に立った時にでも使う様にしろ」
「……なんですか、それ。私、幹部候補みたいですね」
「総合企画の財務ラインは幹部候補だよ。三点目はそれだ。総合企画の財務ラインは銀行本体の財務を精査し、株主総会などで対外的に発表するラインだ。そして、株主総会で発言するのは役員連中と相場が決まっている。つまり、総合企画の財務ラインは役員と直接話をし、その顔と名前と能力を覚えて貰う機会がある、と言う事だ。住越に居る数多の行員の中で、役員と直接話をする機会がある人間が何人居ると思う?」
「物凄く少ないとは思いますね」
「そうだ。そして、同じ能力であれば昇進の際に『良く見知った人間』を選ぶのが人情というものだ。『可愛い奴』であれば尚更だな」
「役員に媚びろ、と言う事ですか?」
「そこまでは言っていない。君が、自身の能力に絶対の自信があるのであれば媚びる必要は無かろう。ちなみに参考までに言っておくが、私は役員から誘われた酒席とゴルフは一度も断った事が無い。妻や娘には『誕生日まで飲み会なの?』と随分悪く言われたがな」
「……次長でも、ですか?」
「当たり前だ。私程度の人間など掃いて捨てる程居るのが住越の財務ラインだ。少しでも出世がしたいのなら、ある程度は媚びを売る事も覚えて置け」
そう言って、中桐は浩太の肩にポンと手を置いてもう一度にやりと笑って見せる。
「いいか、松代。財務ラインなんて中々いけるもんじゃない。これはチャンスだ。此処で一発、巧く『魅せれ』ば役員はともかく、部長職ぐらいは夢じゃなくなるぞ? 私が役員になった時、『松代部長』と一緒に仕事をする、というのも中々乙なモノじゃないか」
「次長は役員までなりたいのですか?」
「頭取になるよ、俺は。当たり前だろう? それを目指してBOJ蹴ったんだから」
BOJはバンク・オブ・ジャパン、つまり日本銀行の英略の頭文字だ。
「……流石に私はそこまでの上昇志向はありませんが」
「良いじゃないか、夢でも。心配するな。俺が頭取になって、その時にお前が部長職に居れば役員にはしてやるから。その為の発射台だと思え、これは」
そう言ってもう一度ポン、と肩を叩くと中桐は自席まで鼻歌交じりで戻って行った。
◇◆◇◆◇◆
「……って事があったんだよ」
「……なに? 自慢か? 自慢なのか? それは私に対する挑戦か何かなの?」
「そう言うつもりじゃ――そう言うつもりじゃないから! 勢いよく生中五杯とか言うな! すみません、キャンセルで!」
大声で店員に頭を下げつつ、金曜日という事もあり混雑した店内でカウンター席に肩を寄り添う様に座っている綾乃を、浩太は半眼で睨む。
「ふーんだ。浩太が悪いんだもん。良いわよ、別に」
拗ねた様に口を尖らせる綾乃。その姿に『まるでキスをねだる様』なんて考えが頭に浮かび、思わず浩太の心臓が跳ねる。
「……って、中学生かよ、俺」
「何の話?」
「こっちの話。まあ、とにかくそう言う話を受けたんだよ」
「ふーん。まあ、良かったじゃん。浩太は出世街道に乗った、っていう認識でいいんでしょ?」
「出世街道って言うか……まあ、そうなんだろうけど……」
「何時か貴方が『松代執行役員』になったら私を秘書で使ってくれる?」
「……俺、本部に行って気付いた事があるんだ」
「なに?」
「秘書って、若くて綺麗でスタイルが良い子がなるもん何だな。モデルが居る! って思ったらウチの秘書だった」
「……ほう。成程、貴方はどう足掻いても私に喧嘩を売りたい訳ね? 言っておくけどね? 子狸はステータスよ?」
「どんなステータスだよ、それ。聞いたことねーよ」
呆れた様にビールを一口飲み、マグロ三種盛りに手を付ける。ワサビがピリッと効いて美味い。
「まあ花形部署に栄転って事で良いんでしょ? おめでと。良かったじゃん」
「えっと……ありがとう?」
「何よ、歯切れ悪いわね。いいじゃん、出世コース」
「いや……でもな? 財務ラインってマジで別格何だよ。今の財務の次長とか、東大からイェールの大学院行ってMBA取ったって言うし、そんな人がゴロゴロ居るんだよ、財務ライン。そんな中で俺が行っても……ねぇ?」
「そう? 金融に学歴は関係ないでしょ?」
「それは外資の話だし、『実力は学歴を補える』ってだけの話だろ? 学歴が無くても良いって話にはならないよ」
「まあ、そうだけど……でも、それって今更言ってもどうしようも無いじゃん」
「……その通りなんだけどな」
何時もの様に肩を竦めて見せ、唐揚げを一口放り込む。
「ま、とにかくおめでとう! いや、私も同期の中からそんなに出世する人間が出たら鼻が高いよ! よ、松代執行役員!」
「辞めろよ、マジで」
そう言って手を振りながら――それでも浩太は少しだけ、『安堵感』に包まれる。優越感ではない、安堵感に。
「それで? そっちはどう?」
これで、綾乃に『勝った』と。
綾乃よりも、自分の方が『上』で居る事により、綾乃がこちらを『振り向いて』くれるのではないか、という、とてもとても、卑小で……でも、現実的な『安堵』
何の事は無い、浩太の過去の彼女たちが『浩太の肩書』を見ているのと同様、『肩書』で綾乃を……言葉は悪いが、『釣ろう』とする、浅ましくもみっともなく、惨めで、でもとても切実な、そんな浩太の願いを。
「特には……ああ、そうだ! 今度、MBAコースを受ける事になった」
大川綾乃はいとも簡単に、打ち砕く。
「え、MBAコース? MBAコースって、あのMBAコース?」
「そ。アメリカのビジネススクールに行って、MBA取ってくるやつ。まあ、試験だけは受けろって前々から言われてたしさ。取りあえず、受けてみようかなって。私も浩太に負けてられないし」
――待ってくれ、と、浩太は胸中で叫ぶ。
MBAとは経営管理学修士を表す英語表記の略称で、文字通り経営の管理職に就く人間は取って置きたい資格であり、住越に限らず『出世のパスポート』の一つだ。それこそ、財務ラインの『ボス』と同じコース。
「……あれ? どうしたの、浩太? 顔が青いよ?」
MBA資格は『出世のパスポート』だけあって、当然取得するのは骨が折れる。簡単に取得出来ないからこそ、出世のパスポートなのだ。
――でも、綾乃だったら?
東大卒、海外在住経験もあり、四か国語を操る才女である、綾乃だったら?
「そ……っか。受かると、いいな?」
「そうね~。まあ、最近英語をあんまり使ってないからさ。ちょっと錆びついてるかな~って思ってるのよ。お父さん、今度日本に帰って来るらしいからちょっと英語の練習しとこうかなって。英会話学校にも通う事にしたんだ!」
――ああ、取る、と。
綾乃は確実に、MBAコースの合格も、ビジネススクールの合格も、その両方を勝ち取るであろう事が浩太には容易に想像できた。だって、そうだろう? 何せ『綾乃』だ。普通にしていても天才肌なのに、その天才が『努力』をすると言っているのだ。生半可な凡人が、どれ程願っても届かない高みに居る人間が、それでも尚、目標に向かって『努力』をすると――そう、言っているのだ。
「ま、まあ頑張れよ? 落ちたら笑ってやるよ」
「あによ。普通、そういう時は『大丈夫! 絶対受かるから!』とか言うんじゃないの? まあ、そん時は浩太の奢りで残念会をして貰うからね? もち、受かったら祝勝会!」
はははと笑いながら、浩太はビールを呷る。歯の根が合わない程、ガチガチと震える様を悟られない様に。
受かって欲しい、というのも勿論本音である。
だが、それ以上に『もし綾乃が受かったら、もう追いつけない』という焦燥が浩太にあった。何が住越の財務ラインだ。そんなもの、綾乃に比べたら全然追いつけていない。差が開くばかり、このままでは一生綾乃を『手に入れる』事なんて、出来やしない。
「――と、綾乃? 飲みが足りないんじゃね? ほら、なんか頼めよ」
「……どうしたのよ、アンタ。珍しいわね。なに? この綾乃ちゃんと飲み比べしようって言うの? その度胸だけは買ってあげるわ」
「言ってろ。俺の本気はこんなもんじゃねえ」
「……へぇ。じゃあ、浩太。お望み通り、潰してあげるわ!」
良い笑顔で『生中二つ!』という綾乃を横目で伺い、浩太はジョッキに残ったビールを一気に呷った。
――全てを忘れてしまえる様に……一気で。
◇◆◇◆◇◆
――テンションに身を任せると、ロクなことが無い。
「……本当に、アンタって人は……」
呆れた様に――否、実際呆れ切って溜息をつき、ジト目で綾乃は浩太を睨む。その、冷たい氷の様な眼差しは、とある世界の住人にはご褒美であろうが、残念ながら浩太はノーマルであり、それ以上にこの状況に恐縮しきりの浩太にして見れば、もう、何とも言えず申し訳なく、結局の所。
「……本当に、申し訳ございませんでした」
酒の力を借りなければ、とてもじゃないけど告白なんて出来そうにない。そう思い、浩太はしたたかに痛飲した。飲んで、飲んで、飲んで――そして、酔いつぶれ、セクハラしまくり、更には終電を逃して徒歩帰宅である。平謝りに謝る浩太に再度深く溜息を吐いて、綾乃は笑顔を見せた。
「ま、たまにはいっか。歩いて帰るのも乙なモンだし」
そう言って頭の後ろで手を組み、綾乃はぶらぶらと、それでもしっかりした足取りで閑静な住宅街を歩く。いい加減夜も更けており、人っ子一人いない。
「……なあ、綾乃」
「なぁに?」
「その……悪かったな?」
「いいわよ、別に。アンタの酒癖の悪さは今に始まった事じゃないしね」
そう言ってにししと笑って見せる笑顔。正直、取り立てて美人という訳でも、取り立てて綺麗という訳でもない、可愛いは可愛いが、それこそ十人九人が振り返らない、平凡な、そんな笑顔。
それでも――愛しい、笑顔が目の前にあって。
「……なあ」
「なによ、さっきから」
もう、止まれない。
「月が、綺麗だよな?」
――そこから先の事を、浩太はあまり覚えていない。何か喋った様な気もするし、無言で答えを待ったような気もする。とにかく、テンパった頭の中で、たった一つ覚えているのは。
「貴方には……ちょっと、『役不足』かな?」
――どこかで、蓋をした筈の感情が腹を抱えて笑っている。
ほら、見ろ、と。
だから、言っただろう、と。
何を一丁前に、『欲しい』なんて思っているんだ、と。
「……」
――ああ、そうか。
――松代浩太は、『欲しがって』は、いけないんだ。
◇◆◇◆◇◆
「……なあ、松代。一個だけ、言ってもいいか?」
「なんでしょうか?」
「人間だから、当然テンションの浮き沈みはあると思うし、別にそれを否定するつもりも無いがな? 流石に先週の金曜と今日じゃ違い過ぎだろう?」
既に呆れを通り越して、諦めた風な表情を浮かべる中桐次長。その視線の先には、朝から全く進んでいない様に見受けられる仕事の山がうず高く積まれていた。
「えっと……」
「まあ急ぎの案件も無いし、先週の頑張りのお蔭で暇は暇だ。そういう日もあっても良いが……」
そこまで喋り、中桐は浩太の眼をじっと見た。
「……何かあったのか?」
「そう見えます?」
「むしろ、そう見えなかったら異常だと思うが。あまり個人のプライベートに踏み込むのはどうかとも思ったんだが……まあ、一応俺も直接の上長だからな。聞くぐらいはしてやるぞ?」
「別に……何でもないです」
「その『何でもかんでも自分で握りこむ』というのは、問題から逃げないという意味では君の長所だが、人に頼らないという意味では短所だな。言いたくない、或いは言い辛いのであれば敢えて聞こうとは思わんが……」
話してみれば意外に楽になる事もあるぞ? という中桐に、浩太はしばし考え込む。『女の子に振られました』と言うのも何だか格好悪いし、そもそも『それはそれ、ちゃんと仕事をしろ!』と怒られそうだ。
「……本当に、プライベートの事です。申し訳ございません、仕事はきちんとしますから」
「そうか? まあ、プライベートが充実していないと仕事に身が入らないからな。問題は早急に解決しろ」
「……ちなみに次長。次長でもありますか? プライベートが充実していなくて仕事に影響した事」
「あるさ、勿論。社会人としてはどうかと思うが、人間としては当たり前だろう。まあ、当行……というか、銀行業界は人様のお金を扱う訳だから、公私の区別は他の業界よりもきちんとつけるべきだとは思うが、それでもな」
「そうですか」
「ちなみに俺はお前の悩みを女絡みだと思うが、正解か?」
「……顔、出ています?」
「職場の人間関係か、仕事の悩みか、家庭の悩みか、金か、恋愛か。悩みなんぞ精々この五つに絞られるさ。職場や仕事は良好だろうし、君ぐらいの年齢で家庭の悩みを持つ人間は少ない。加えて金曜日のあのテンションなら、金の悩みとは考えづらい。金の悩みは刹那でなく、永続的に続くからな。消去法で女だ」
「推理小説の探偵になれますね、次長」
「こんなもんでなれるのであれば、世の探偵業は軒並み失職だ。まあ、女絡みなら解決策は二つしかない。縋り付くか、忘れるか、どちらかだ」
「……縋り付くの、格好悪くありません?」
「恋愛というのは格好悪いものだ。恋は盲目、と言うだろう? 俺だって今の女房には……まあ、この話はいいか。とにかく、さっさっと忘れて次の恋愛でもしろ」
何でも無い様にそういう中桐に苦笑を返す。そう簡単に割り切れないからこそ、これだけ悩んで……まあ、悪影響を与えている訳だが。
「……分りました、早急に解決しますよ。ところで次長、この案件なのですが」
「うん? ……ああ、商品開発部からの案件か?」
「ええ。向こうの担当に、流石にこの金利での融資は難しいと言っているのですが」
「『薄利多売で行くから、この金利で行きたい』か?」
「惜しいです。『損して得取れ』と言っていました」
「……まあ、新規工作でのレートならアリと言えばアリだが……それにしても、な。広報ラインは何と言っている?」
「新聞広告を打つなら絶対反対。費用をこの金利ではペイ出来ない、と」
「融資審査部は?」
「条件付です。正常先で、しかも高格付け先のみなら良いと。ただ……」
「営業推進部が反対か?」
「業務統括部もです。せめて正常先なら全部認めろ、と」
決算期の変更など、特殊な事が無い場合、企業は概ね一年に一度、決算書というのを作る。その決算書の良し悪しで、銀行は企業をランク付するのだ。『まあ潰れないだろう』という先は正常先、『ちょっとやばくね?』という先は要注意先と言った風に。正常先にも更に細かくランク付けし、『絶対大丈夫! 天地がひっくり返ってもつぶれねーよ!』という先は正常先の中でも高格付け先となる。
「……まあ、良くある話だな」
「完全に平行線ですよ。全部の部署が好き勝手言ってます。彼らの中には『譲歩』と言う言葉はないのでしょうか?」
「無いし、各部署が自らの利益を追求するのは決して間違った姿勢では無いさ。お前好きだろう? 『与えられた場所で最大限の努力をする』っていうのは」
「そうですけど……それにしても、これじゃ解決策なんてありませんよ。完全に煮詰まってます」
そう言って憮然とした表情を見せる浩太に、中桐は苦笑をして見せる。浩太にしては珍しく、『こうしたい』と言わないあたり、余程ストレスが溜まっているんだろうなと察した。まあ、致し方無いが。
「煮詰まっているのなら結構じゃないか」
「……次長?」
からかい半分にそう言う中桐に、浩太がじとっとした目を向ける。その視線に肩を竦めて見せながら。
「別に嫌味を言ったわけじゃないぞ? 『煮詰まる』って言うのは、議論がイイカンジに熟し、結論が出そうな時に使う言葉だ。お前の場合だと『行き詰る』が正解だろうな」
「……経済学部ですし」
「俺は法学部だけどな。まあ、そういう事に結構厳しい人もいるからな。誤用には気をつけろ。ちなみに俺も某役員の前で笑われて恥かいたから」
「分りました。それで、次長。『行き詰った』このあんけ――」
ふと。
「……松代?」
浩太は、気付く。
「じ、次長!」
「うお! な、何だよ急に?」
「次長、誤用とか詳しいですか!」
「く、詳しい? いや、別にそこまでは……まあ、確信犯とか、姑息とか、押っ取り刀とか、雨模様とかもそうか? 後は……ああ、多いのは『役不足』だな」
「そ、それ! や、役不足! 役不足って、どういう意味ですか! 『役目に対して能力が足りない』って意味ですよね!」
「全く逆だ。本来は『能力に対して役目が不当に軽い』と言う意味だ。例えば……『財務ラインに配属なんて、私には役不足です!』なんてお前が言ったら、『私の能力で財務ライン程度の仕事しか与えないのですか?』という意味――なんだ、松代? そんなに嬉しそうな顔をして」
「ありがとうございます、次長! 融資審査部と業務統括、何とか折り合いをつけて貰う様に今から交渉、行ってきます!」
「お、おい、松代! ちょ、お、おいってば!」
◇◆◇◆◇◆
――嬉しかったのだ。
もしかしたら、綾乃の言った言葉は浩太の思っていた事と真逆かもしれないと、そう思う事がとても、とても嬉しかった。
無論、綾乃が誤用のつもりなどなく、純粋に『貴方は私と釣り合いません、おこがましい』と言った可能性だって十分ある。あるが、それでも真っ暗闇になっていた浩太の世界に、確実に一本、蜘蛛の糸が垂れた事は間違いない。
「……あ。携帯、忘れた」
自宅の最寄り駅から二駅。銀行に程近い駅で降り立った浩太は自身が携帯を充電しっ放しにして家を出た事を思い出す。あの後、融資審査部とミィーティングし、商品開発部と詰めの話をし、溜まった仕事を片付けて、自宅に帰り着いたのは午前二時だ。流石にその時間に電話をするのもどうかと――『いい? 午前一時過ぎたら絶対電話してくんな! 私、お肌の曲がり角なんだから!』と言っていた綾乃の言葉もあり、そのまま床につき……恥ずかしい話、興奮しすぎて寝付けず、寝坊をした事もある。
「……ま、いっか」
銀行についたら即、丸の内支店に電話をしよう。銀行の電話を私用で……と怒られるかもしれないが、次長も言っていたではないか。『プライベートの充実が仕事の質に直結する』と。ならば、この電話は『仕事』の内だ。
「――ありがとうございましたぁ~」
出勤前に必ず立ち寄るコーヒースタンドでコーヒーを買い、一口。興奮し、それでも疲れた頭にコーヒーの苦みが染み渡る様な感覚に、浩太は目を瞑り、朝の空気を吸う様に大きく息を吸って吐き、ゆっくりと瞳を開けて。
「……貴方が……『勇者』、ですか?」
――浩太の目の前で、英国発祥の某魔法学校にでも出てきそうな、床にはご丁寧に魔法陣まで書かれているその部屋で、腰まで届く金髪に、明らかに身分の高そうな身形をした美少女が目に入った。
「……は?」
クリアになる視界と、クリアになる思考。さきほどまで駅前のコーヒースタンドの自動ドアを潜った筈なのに、目の前には西洋風の美少女。
――ああ、なるほど、と。
「その……どう、なんでしょうか?」
異世界に召喚されたとか、勇者として呼び出されたとか、魔王や竜を倒す為に呼ばれたとか――何でもいいが、とにかく。
「……いいえ」
その言葉に、浩太はそう返答し……自己紹介としては不都合と考え、そこに言葉をつけたす。
「住越銀行総合企画部の松代浩太と申します。勇者の基準が曖昧で、何を持って勇者と指すかによると思いますが……」
――どこかで、蓋をした筈の感情が、涙を流しながら爆笑をしている。
期待して、喜んで、嬉しがったら――これだよ?
だから、言っただろう、と。期待した分、反動も大きいだろう、と。
――ほら、やっぱり。
――――松代浩太は、『欲しがって』は、いけないんだ。
「……少なくとも、今の私は『普通の』銀行員です」
涙は出なかった。




