第五十七話 松代浩太 Ⅲ
ちょっと短いです。
「そ、その……せ、先生! 松代先生!」
翌週の講義が始まる前。廊下を歩く浩太の前に、一人の女性が待ち構えていた。肩口で切り揃えた髪にナチュラルメイクを施した、結構な美人さんが。
「えっと……先生、とは私の事でしょうか?」
「そ、そうに決まってるでしょ! そ、その……」
もじもじと、顔を真っ赤に染めて浩太の前で言いよどむ女性。隣では綾乃が面白そうにその様子を眺めていた。
「そ、その! せ、先週は申し訳ありませんでした!」
バシっと音が鳴りそうな勢いで最敬礼して見せる女性。その姿に、思わず面食らった様に浩太は視線を左右に揺らす。と、その視線の先に、面白そうにニヤニヤとした笑みを浮かべる綾乃の顔が入った。
「さ、松代先生? 許してあげるの? それともあげないの?」
「いや、許すも許さないも……」
困惑しつつ、それでも言葉を選び。
「……そもそも、貴方は誰ですか? 私、何処かで貴方に謝られる事をしましたっけ?」
「「……は?」」
期せずして、女性陣二人の声がハモる。心底分らないと言う表情を浮かべる浩太を唖然とした表情で見つめ、黒髪の女性は救いを求める様、口をパクパクさせながら綾乃に向き直った。
「……ねえ、この人……マジ?」
「残念ながら、多分大マジ。ちょっと、浩太? 覚えてないの?」
「いえ、覚えてないのと言われても……済みません、ちょっと記憶に……」
首を捻る浩太に盛大に溜息一つ。綾乃は浩太の肩をポンポンと叩きながら左右に首を振って見せた。
「あのね、浩太? この子、松葉さんでしょ?」
「……松葉さん?」
「……幾ら貴方が健忘症気味だって分かるでしょう? 先週の講義で私にボロクソに言われて半泣きになってた、あの松葉梢さん」
「ちょ、ちょっと! 別にウチ、半泣き何てなってないし!」
「ああ、全泣きだっけ?」
「違うし!」
「……え? え、っていうか……え、えええ!」
綾乃と女性の漫才を横目に、浩太が大声を上げる。その声に、何事かと振り返る学生たちに頭を下げながら、綾乃が短く叱責した。
「こら! うるさい!」
「ご、ごめん、いや、でも……」
そう言ってもう一度まじまじと女性を……不躾と承知しながらも、上から下までマジマジと見つめる。何と言う事でしょう、と思わず人気番組のナレーションが頭に浮かぶ程の劇的ビフォアー・アフターだ。
「いや……済みません。あまりの変わりようで……」
「そ、その……きちんと、誠意のある対応しようと思ったら、頭丸めるぐらいしか思い浮かばなかったし……で、でも、女の子としては流石に丸坊主ってちょっと……って、思って」
肩口の毛を弄びながら、照れた様にチラチラと浩太を見てそう言う女性に、浩太の口元が苦笑に歪む。
「……改めまして松葉さん、ですね。わざわざ謝罪の為に髪まで切って下さった貴方を許さないなんて事はありません。どうぞ、お気になさらず」
「で、でも、ウチ……その、凄い失礼な事言ったって……い、言い訳になるけど、パパが、東桜女子とも取引が出来たらいいなって言ってて、そ、それで、住越の、その」
「ええ、分ります。貴方はお父様の為に頑張った。それは理解しておりますし、貴方の様な娘さんを持って、お父様も誇らしいでしょう」
「やり方は超不味かったけどね」
「綾乃! ……と、そうですね。大川の言ってることも一理あります。貴方がお父様の事を考えて行動した気持ちは素晴らしいと思いますが、それでも言って良い事と悪い事の区別は付けないといけませんよ?」
「あ……は、はい! 本当に、申し訳ございませんでした!」
「うん、良い返事です。先生、嬉しいですよ?」
茶目っ気たっぷり。某金曜八時の先生の様な展開に、少しだけの照れもあり、浩太は綾乃にするよう、ポンポンと二、三度、松葉梢の頭を撫でて。
「……あ、あう」
瞬間、ポン! と言う音がしそうな程に松葉梢の顔が真っ赤に染まる。まあ……アレである。蓮っ葉な喋り方をしているものの、松葉女史にしたって幼稚園から東桜女子に通う純粋培養なお嬢様だ。青春期の多感な時期を女性だけの中で過ごし、あんなメイクやあんな髪の色に染めてみたところで、根っ子の所は真面目なのだ。合コン経験などもほぼ皆無に等しく――言ってみれば、『ポンポン』なんて、お父さんと浩太にしかされた事がないのだ。
「……松葉さん? セクハラで訴えても良いのよ? 何なら私が優秀な弁護士を紹介してあげる。心配しないで、絶対勝つから」
「ちょ、綾乃! おま、何言ってるんだよ!」
半眼で浩太を睨みつけながら、そんな物騒な事を言う綾乃に思わず浩太が声を大にして抗議。その声に驚いたかのようにビクリと体を震わせると、松葉梢はその場でもう一度頭を下げ、講義室に向かって走り出した。
「……おい」
「なによ?」
「折角和解出来そうだったのに、お前のせいで台無し何だが?」
「……おっけー。アンタが本気でそれを言っているのなら、私はアンタが泣いても殴るのを辞めないわよ?」
「どういう意味だよ、それ!」
「もういい、このバカ!」
◇◆◇◆◇
最初こそ一悶着があったものの、浩太の講義はその後順調に回を重ねていき……気が付けば、大学で一番の人気講義になっていた。
基本、大学の講義とは難解なものである。考えてみれば当然の話で、あらかたの講義が前後期に分けられ、僅か半年間で学び、テストをし、点数を付けるのである。学問は深くなれば深くなる程、俄然面白味を増すものであるが、大学講義は取っ掛かりの部分で終わってしまう為、真の意味での『学問の楽しさ』など学びようがない。
教える側の教授にしてもそうだ。彼らは『研究』のプロではあっても、『教育』のプロでは無い。昨今の大学事情で、ある程度教員側のレベルアップを図ったとしても、所詮は付け焼刃、結局『人気講義』とは単位の取り易い講義になりがちだ。無論、これを指して大学教授を否定している訳では無い。彼ら、或いは彼女らは『研究』のプロであり、自らの築き上げた業績の一端を学生に示す義務はあっても、学生全てのレベルに合わせたカリキュラムを組む必要などはさらさらなく、義務教育でない以上、ついて来れない方が悪いのである。
だからと言って学生側も悪い訳では無い。彼らは学問の入り口で放り出された迷い子の様なものだ。現行の大学制度において、『知の探究府』の役割は大学には求められておらず、精々が就職予備校に過ぎない。それが『大学』という組織としてどうかという意見はあるだろうが、余程学ぶ意欲のある学生で無い限り自ら難解な学問に取り組もうと思う人間は……まあ、少数派であろう。
その点、『松代先生』の講義は違った。
まず、浩太は若い。教授連中よりも学生に近い立場であり、学生の苦悩……と言うより、『講義が面白くない』と言う事をまだまだ良く理解できる年齢にある。さらに、浩太は心情的には大学を『知の探究府』と『就職予備校』のどちらかと言えば、後者として捉えていた方であり、学生側の立場が近い。加えて、浩太は要領の悪い『分らない』という事が分かる人間だ。何処で躓き、何処で立ち止まっているか、自身が経験した事であり、解決策も提示できる。綾乃だったらこうはいかない。彼女は『分らない』が分らない人間で、ある程度の事はあらっと聞いただけで理解出来る為、躓いた経験がない。俗にいう『なんでこんなのが分らないの?』というタイプだ。優秀なプレイヤーが優秀な指導者に慣れない事がある様に、優秀でなかったプレイヤーが、優秀な指導者になる事はままある話である。
そして極めつけ、浩太が『努力の人』であった事が大きい。講義の予習・復習は欠かさないのは当然、手製のレジュメを作り、分りにくい所には解説を入れ、講義に飽きが来ない様にコーヒーブレイクで小ネタを挟み、質問があれば質問者が納得するまで講義終了後に懇切丁寧に教える。講義を成功させる為には、惜しげも無く時間と労力を割いた。
住越銀行のエリートで、とっても面白くて、分りやすい講義をしてくれて、分らない所があれば一緒に考えてくれる先生。加えて、『松葉梢が暴言を吐いたにも関わらず除籍処分にならないのは、松代先生が松葉さんを庇って理事長に直談判したからだ』と言う噂が流れたのも浩太の評判に拍車をかけた。松葉梢がその噂を否定せず、ばかりか、桜女関係者ですら眉を顰める『あの』メイクと茶髪を辞めた大和撫子の様な姿で、頬を赤らめてこくんと頷いて見せるなんていう可愛らしい仕草を見せた辺りで、浩太の株はストップ高を記録した。ただ、優秀なだけではなく、優しく、度量が大きく、甘やかすだけではなく、年少者を正しい道へ導いてくれる人。
……これで浩太に人気が出なかったら、それこそ嘘であろう。
人の口に戸は立てられぬモノ、人伝に噂を聞いた人間も浩太の講義を聴講する様になる。聴講して見れば、なるほど噂通りに講義は面白い。ならば、先ほどの噂も本当だろう……と、三か月の講義が終了する頃、浩太の講義には単位を取っていない、所謂聴講生を含めたおよそ二百人の学生が集まる人気講義になっていた。
「……私、今回の事で良く分かったわ」
講義最終日。学生側から『来期も先生の講義、ありますよね!』なんて詰め寄られてタジタジになる浩太、という不愉快この上ない光景を見せつけられ、それでも『お疲れ様会、やる?』なんていう浩太の言葉にのこのことついて来た綾乃は、芋焼酎のロックをちびちび飲みながら浩太にそう話かけた。
「なにが?」
「人が宗教に嵌る瞬間って、ああいうのを言うのね」
「……おい。何だかそれだと物凄い不穏に聞こえるんだが。それに、別に宗教って訳じゃないだろう?」
「楽しい講義と、優しい口調、顔は…………まあ、そこそこ」
「タメが長い! いや、別にイケメンだとは思ってないけど……」
「学生の為に本当に一生懸命に講義に取り組む立派な先生、か。アンタ、銀行員辞めたら? 大学教授とかの方がいいんじゃない? それか、新興宗教の教祖。むいてそうだけど?」
「宗教から離れろ! 何でそうなるんだよ」
不満そうに芋ロックをもう一煽り。ぷはーっと酒臭い息を吐く綾乃に、思わず浩太も顔をしかめる。
「……お前な」
「大体、アンタは良いわよ。何よ、『住越の騎士様』って。ファンクラブが出来そうな勢いだったじゃない、アレ」
「いや……まあ、それは……」
「それに比べて私はなぁに? 『聖ヘレナの狂犬』とか『祟らない祟り神』とか『泣きっ面を蹴る女』とか『死人の上でタップを踊る鬼』とか……あと、『仔狸の皮を被った悪魔』ってのは絶対、アンタ発信の情報よね?」
ジト目の綾乃に、浩太はそっぽを向いて口笛を吹く事で返答する。
浩太の株がドンドン高騰する反面、綾乃株は下降線の一途を辿っていた。最初の一件もあり、元々『恐怖』の対象であったにも関わらず、綾乃は学生たちに――主に、浩太に色目を使う人間に厳しかった。学生も学生で、『素敵な素敵な松代先生』の隣におり、いつも目を光らせる綾乃を煙たく思っており、学生と綾乃の間では、それこそ一冊の本になる程の激しい水面下のバトルが繰り広げられていたのだが……詳細は省く。綾乃が語った程度の『悪評』が立つほどのバトルはあった、とだけ言っておこう。
「ふーんだ! 私と違って、女子大生に大人気の松代先生は良いですね~。理事長にも『宜しければ今後も寄付講座は是非、松代様に』なんて言われてたし! ふんだ! 浩太なんて大学教授になっちゃえばいいんだ!」
「大学教授になっちゃえばって……お前な」
段々と目が座りだした綾乃に溜息一つ。浩太は手元のカシスオレンジに手を付ける。飲み会の雰囲気は嫌いではないが、お酒が好きでは無い浩太に取って、明日も仕事の状況では過度なアルコール摂取は即、死亡遊戯である。
「ま、大学教授にはならない……と言うよりなれないよ、俺は。頭悪いし」
「そう? 大学教授……と言うより、研究者って浩太向きだと思うわよ? ほら、アンタバカみたいに努力するじゃん」
「……せめて愚直って言ってくれる?」
「何でもいいわよ。研究者ってのはホラ、そういう……何ていうの? コツコツと努力するのが大切じゃない? こう、『知の探究者!』みたいな感じで」
「まあ、大体言ってることは分るけど……」
そう言って鰹のタタキを一口、口の中に放り込み咀嚼する。不景気からか、若干タレの味が薄い気がする。
「……エジソンっているだろ?」
「エジソンって……トーマス・エジソン? 電球発明した人?」
「そう。エジソンがさ、『天才とは九十九%の努力と、一%の才能だ』って言ってるよな? あれって結局、裏を返せば『百%の努力』じゃ絶対に『天才』にはなれないって事だろ? 一%ぐらい、何かの才能が無いとダメだってことじゃん」
「そりゃ……まあ、そうだろうけど」
「研究者、ってのは大なり小なり何かの『実績』を残さないとダメな訳だろ? 詳しくは知らないけど……多分、『閃き』みたいなモンが必要なんじゃないかな、って思う。そんな創造的な仕事、俺には出来ないよ」
自嘲気味に笑い、カシスオレンジをもう一口。気を取り直す様に何か飲む? と問いかけ掛けて。
「なんか……気に喰わないわね」
ジト目の綾乃と目があった。
「なにが?」
「その、アンタの自己評価の低い所。私、昔っから気に喰わないのよね」
「いや、そんな事言われても」
「いや、自己評価が低いってのはちょっと……うーん……何ていうか……」
両手を組み、うんうんと唸る綾乃。口に加えた爪楊枝が、綾乃の頭の動きにリンクする様に上下に揺れた。はたから見たらおっさんである。
「……ああ、そっか。アンタは自己評価が低いって言うか、『諦め』が良すぎるのか」
やがて、『うんうん』を止めた綾乃は、ポンッと一つ掌を打ってみせた。
「諦めが良すぎる? そうか? 俺、どっちかって言うと結構あがくタイプだぞ?」
「いや、それはそうなんだけど……例えば、目の前に壁があったとするじゃん? たかーい壁があったとしたら、アンタは無我夢中で登るタイプでは無いと思うのよね」
「……そうか? それは――」
「人の話は最後まで聞く。アンタはさ? 『自分が登れる高さ』の壁は必死に登ろうとするのよ。その為には体も鍛えるし、ザイルだって買ってくるし、ロッククライミングの講習だって受けるタイプ。でもね? 自分の力じゃどうしようも無いな、っていう高さの壁だったら、登るの辞めちゃうタイプなのよ」
「それは……」
否定をしようと言葉を吐き掛け、その的確な指摘に浩太は口を噤む。確かに、『自分でも出来る事』を探して来た結果、浩太は銀行員になったに過ぎない。
「……でも、それは皆そうじゃないのか?」
「ちなみに私は、その壁が自分の力で越えられない程の高さなら、ヘリでもチャーターするタイプよ」
「……」
「別に、アンタのその努力を否定している訳じゃなくて……あのさ? アンタ『自分には努力しかない』ってよく言うじゃん?」
「ええっと……まあ、うん。努力ぐらいしか出来ないからさ」
「それよ」
「どれだよ?」
「『努力ぐらい』って言うけど、普通はその『努力』が出来る人、結構少ないのよ」
「そうか? そんなもん、気の持ちようだろう? やろうと思えば誰だって出来るよ、努力ぐらい」
「違うわよ。その、何だか自慢っぽくて嫌なんだけど……私、小さい時から結構何でも出来たのよね。国語も数学も英語も、一回聞けば大体分ったし、多分、要領は良い方だと思う」
「自慢に聞こえるんだが?」
「茶化さない。だからさ、ほら……何ていうのかな? 要領の良い私は、その『努力』ってやつの遣り方が分んないのよ。どう頑張って良いのか、何を頑張ったら良いのか、何処まで頑張ったら良いのか、それが分んない。だから、『これぐらいでいいや』って、つい楽な風に考えちゃうのよ。まあ、それで大体巧く行くんだけどね」
「訂正。自慢にしか聞こえない」
「大体って言ったでしょ?」
そう言って、綾乃は手に持った芋焼酎を置き、浩太の瞳を覗き込む。
「今回の講義だって、浩太だから巧く行ったんだと思うのよね」
「……んな事ねえよ。綾乃がやったらもっと――」
「もっと良い講義は出来たかも知れない。密度の濃い、本当に社会に出ても役立つような、『理論』は教えてあげられたかも知れない。でも、私じゃきっと学生たちに『来期もお願いします!』なんて言われる様な講義は出来なかったと思うわ」
「……」
「貴方が学生たちの立場に真摯に立って、学生の事を考えた講義内容を選び、自分自身が納得するまで咀嚼して、それを更にかみ砕いて教えたからこそ、学生たちに人気のある講義が出来たのよ。そんな『努力』、私には出来ないわよ」
「……仕事だからな。手を抜かずに一生懸命やるさ。当たり前だろう?」
「本気で言ってるなら、いっそ抱きしめたいほど清々しいバカね。周り、見渡してみなさいよ? 徹頭徹尾仕事に全力投球してるような人間、居ると思う? 皆何処かしらで手を抜いてるわよ。私だってそう。今日はこれぐらいで良いか、って思っちゃうもん。だから、水が低きに流れるように『楽』な方向に行かないアンタは結構レアキャラだし、だったらもうちょっと諦めが悪くても良いのかな、って思うのよね。勝手に自分の限界決めないで、やってみてもいいんじゃない?」
そこまで言って、少しだけ照れた様にグラスを手に取り煽る。
「まあ、何が言いたいかって言うと……その、私はアンタのその『愚直なまでの努力』ってやつを尊敬してるし、いつか辿り着きたい目標だって思ってるってワケ。だから、そんな風に……こう、自分を卑下する様な事は辞めなさいよね。私の目標を不当に貶めないの!」
一気で残りの芋焼酎を煽り、『お代わり!』と言ってにししと笑う綾乃の横顔に。
――蓋を閉めた筈の感情が、蠢きだす。
「……お前な? 明日も仕事だぞ?」
辞めろ、止めろ、ヤメロ。
欲しがるな、大事だと思うな、傍にいて欲しいと思うな。
……手に入ると、思うな。
辛い思いをするのは自分だ、悲しい思いをするのは自分だ、傷つくのは自分だ。
「へーん。私は浩太と違ってお酒、つよいもーん!」
そんな風に冷静に考える自分とは裏腹に、動き出した感情を、抑えきれない。
「俺だって別に弱い訳じゃないんだぞ? お前が飲ませすぎるから」
嬉しかった。
自らが為して来た努力は、無駄では無いと、そう言って貰えるのが嬉しかった。
『何も無い』と思っていた自分に、『素晴らしいモノがある』と、そういって貰えるのは嬉しかった。
誰でも無い、『大川綾乃』がそう言ってくれるのが――堪らなく、嬉しかった。
◇◆◇◆◇◆
「……なあ、煙草一本くれる?」
「え? コータ、煙草なんて吸ったっけ?」
シーツ一枚に裸体を包んだ女性は、コータの言葉に訝しげに眉を顰めながらも、『はい』と言って自らのシガレットケースから一本、煙草を差し出す。礼を言いながら受け取った浩太は、繁々とその煙草を見つめ匂いを嗅ぐ。
「おーい、コータくーん? 煙草ってのは火をつけて吸うもんだよ~?」
「……なんか……ミント? そんな感じの匂いがする」
「メンソールだからね。はい、ライター」
「さんきゅ……百円ライター? なんか意外だな。お前、こういう小物系はもっと凝ったの選ぶのかと思ってた。アンティークっぽいジッポとか」
「ジッポとかマッチとか色々試したけど、メンソールにはガスライターが一番合うのよ」
「それは経済的な事で」
ライターを受け取り、浩太は煙草を口に加えて一息に吸い込む。口腔と肺を満たす異物と匂いに思わず噎せ返った浩太を苦笑で見つめ、その背を彼女はトントンと叩く。
「素人さんか! はいはい、コータ君にはまだ煙草は早かったでちゅね~。ほら、ゆっくり吸ってみなよ」
言われるがまま、瞳に涙を溜めてゆっくり煙草の煙を燻らす。紫煙が一本、浩太の口から漏れた。
「……うーん」
「変?」
「思いっきり、金魚だね」
「金魚?」
「煙を肺の中に入れずに、口の中だけに入れて吐き出す事を『金魚』って言うのよ。私もこう――おっと、煙草は二十歳になってから、だね?」
「……お前な」
「いや、私は二十歳になってからだよ? ちょっと興味が出て吸ってみただけ」
ふーん、と気の無い返事を返し、浩太は吸っていた煙草を彼女に差し出す。悪戯っぽい笑顔を浮かべて、『間接キス?』なんて言いながら受け取った彼女は美味しそうに煙草を一口。その姿は浩太から見ても堂に入っていた。
「なあ、真紀?」
「ん~? なに?」
「お前さ……俺の何処が好き?」
「経済的に安定している所」
ノータイム。打ち返された言葉に、思わず呆気に取られる浩太に、可笑しそうに彼女――真紀は、くつくつと自らの喉を鳴らした。
「ダメかな?」
「いや……ダメじゃないけど……何と言うか、もうちょっと、ない?」
「経済的に安定している、って、男として魅力的だと思うよ? 顔が良いとか、頭が良いとか、スポーツが出来るとかと一緒でしょ? それじゃ納得できないって言うなら『優しい』所も好きよ?」
「……もういいよ」
「あれ? 怒った? もっかい、する?」
「どういう化学変化が起きたらその感想に行きつくのか、本気で教えてくれ!」
少しだけ焦った様にそういう浩太を面白そうに眺め、真紀はシーツを手繰り寄せる。
「でも……もう、させてあーげない」
「……お預けですか?」
「そうじゃないわよ」
だってコータ、もう私の事好きじゃないもん、と。
まるで、明日の天気を言うように簡単にそう言う真紀に、思わず浩太の体が固まる。その浩太の反応を見て、真紀が少しだけ残念そうに溜息を吐いた。
「あー、やっぱりそうか~。なんとなく、そんな気がしたんだよね~。もう、コータ! こんなに簡単にカマかけたぐらいで引っ掛からない! 『なななななに言ってんだよ、そんな事無いよ』ぐらいの演技でも私、騙されてあげたのに!」
ぷんぷん、と擬音が付きそうな怒り方をして見せる真紀に、浩太の罪悪感が募る。ごめん、と謝りかけた浩太を、真紀は優しく押しとどめた。
「ごめん、は無し。惨めになるから。でも、ちょっと興味はあるし、聞く権利ぐらいはあると思うから聞かせてよ? どんな子?」
「どんな子って……顔は……まあ、普通。ちょっと小動物系……というか、仔狸みたい。そんで、真紀みたいにスタイルがいいわけじゃない、どっちかって言うとちんちくりん――って、痛っ! 何でシガレットケース投げるんだよ!」
「バッカじゃないの? あのね? 『欲しがりません、勝つまでは』を地で行ってる様なコータが――」
「……ストップ。何だ、その戦時中のスローガンみたいなの」
「だってコータ、無欲……と言うのはちょっと違うかな? 『どうせ自分には手に入らないから』とか思って、手も伸ばさずに諦めちゃうイタイ子じゃん」
「……イタイ子って言われて怒る前に、ちょっとびっくりした。お前、結構俺の事良く見てんな。経済的安定が一番好きな癖に」
「最初のデート」
「は?」
「浦安にあるネズミ・キングダムにいったじゃん。アレ、楽しかった?」
「楽しかった、って……なに? お前、楽しくなかったのか?」
「ほら、それ」
「なんか最近もした気がするぞ、このやり取り。えっと……どれだよ?」
「アンタはね? ずーっと『私』の事ばっかりなのよ。『真紀がしたい事を』『真紀が欲しいモノを』『真紀が食べたいモノを』……まあ、お姫様扱いは純粋に嬉しかったけど。もうちょっと我儘言ってくれてもいいかな~? とは思ってました」
「……本当に良く見てるな、お前」
「一応、アンタの彼女ですから。とにかく! そんなコータが珍しくも『欲しい』と思った子でしょ? 顔なんてどうでも良いの! 性格よ、性格! どんな子なのよ、その子」
「どんな子って……」
『私はアンタのその『愚直なまでの努力』ってやつを尊敬してるし、何時か辿り着きたい目標だって思ってるってワケ』
「……『結果』じゃなくて、『過程』を見てくれる子、かな?」
「なにそれ?」
「お前が言ってた『経済的安定』ってやつを手に入れるためにした努力を評価してくれる子、って感じかな? ごめん、正直良く分かんねえ」
「良く分かんないのに、なんとなく『欲しい』の?」
「欲しいって言うとアレだけど……何だろう、一緒に居たいって言うか……」
「……何それ。がっつり恋愛してるじゃん。コータの癖に」
「……おい」
「仙人みたいなコータが、本気で欲しい女の子か~。ま、こういうのは理屈じゃないからね。そっか……そんな『イイ女』な訳か。それで? その『イイ女』はちゃんとフリーなの?」
「……そう言えば、聞いたこと無い。彼氏、いるのかな?」
「……ヲイ。流石に横恋慕の為に振られたら私もちょっち立つ瀬が無いと言いましょうか……ちなみに、勝算はあんの?」
「……どうだろう? あんま無いかも……って、こんな事言っていいのか? こう、俺、今お前を振る感じの流れなんだけど?」
「もうちょっと私が若かったら、アンタの足元に縋り付いて『捨てないで!』って泣いても良いんだけどね。それされたらアンタも困るでしょ?」
「……はい、困ります」
「……まあ、貰ってばっかりだった私が、最後にコータにあげるプレゼントだ! よし、別れてやろう!」
「……男前すぎるだろう、お前」
「別れ際は格好よく、が信条ですから」
「うわ。マジで男前な台詞が飛び出したんだけど」
「基本、男の方が女々しいのよ。よく言うでしょ? 男の恋愛はフォルダ別保存だ、って」
「……よく言うか? 初耳なんだけど?」
「そう? よく聞くと思うけど……あのね、男っていつまでも思うのよ。『元カノ、実はまだ俺の事好きなんじゃね?』って。アホかと。バカかと。女の恋愛は何時だって上書き保存なの。別れた彼氏の事なんか、何時までも引きずってる訳ないでしょうに」
「そう言われると、まあ、何と言うか……そこはかとなく、悲しい様な」
「ほら、女々しい。そうやってアンタは後生大事に何時までもデスクトップの上に『真紀』って名前のフォルダを置いておくのよ。そして、『去り際の格好良かった彼女』として永久に残る事になるでしょう。どうだ、ざまあみろ。ご心配なく。もっとイケメンで、もっと経済的に安定していて、もっと優しくて、もっとスポーツマンなカレシを見つけて、さっさっとコータのフォルダなんて上書きしてあげるから」
悪戯っ子の様に、そう笑って。
「だから……アンタがそんなに私の心配しなくても大丈夫。そうね、アンタに罪悪感が残らない様にするなら……『私は、貴方じゃなくても大丈夫』だよ? だから」
そんな悲しそうな顔するな、と。
「泣きたいのは私の方だ、っつうの」
「……」
「……ま、正直コータは自分が思ってる以上にイイ男だよ。元カノの私が証明してあげる」
「経済的に安定しているから?」
「ドアホ。それだけなら、もっと早く死にそうな年寄りでも捕まえてますー」
「……わりぃ」
「ま、それが分ったらさっさっと帰った帰った。もう『彼女の真紀』は店じまいだよ」
「……ここ、俺の家なんだけど」
「あ、そっか。それじゃ三時間ぐらい、ネットカフェで時間つぶしてきなよ。シャワー浴びてメイクして着替えて私の荷物纏めたら、私が出て行くから」
「……もう遅いし、泊まって――」
「本気で言ってるならかなりバカ。あのね? 捨てられたカレシの家に泊まるって、どんだけギャグよ。そこまで体張った芸風は出来ないわよ、私」
「……その、真紀」
「『お前の事、本気で好きだった』みたいなやっすい台詞は要らないわよ? つうか言うな。私の好きなコータはそんな事言わない。アンタは何時だって身の丈に合った人間を見つけて、その身の丈に合った中で最大限努力する」
愛しい程の……バカ、と。
「……そういう訳でアンタが家を出て、準備が済んだら私は帰る。おっけー?」
「……おっけー」
「ま、精々頑張りなさい。そうね、もしどうしようもない程、こっぴどく振られたりなんかしたら連絡しておいで」
「……なんで?」
「思いっきり笑ってあげるから」
「鬼かよ!」
「じょーだんよ、じょーだん。そん時はまた、私が付き合ったげるわよ。一度自らを捨てた彼氏を優しく迎え入れる私、ああ、何て優しいんでしょう! 全米が惚れるわね!」
大袈裟の手振りでそう言って見せる。その激しい動きに、体に巻き付いたシーツが取れかけ、大慌ててでそれを自らの体に手繰り寄せると『見た?』とジト目で浩太に問いかける。
そんな、いつもと変わらない、真紀の姿。
「……その、真紀。俺」
「言うな。分ってるわよ、アンタはそんな器用な事出来ない奴だって」
「……」
「……夢ぐらい見させろ、このバカ」
少しだけ、聞き取りにくい、その声に。
「……ありがとう、真紀」
謝罪の代わりに感謝を述べて、浩太は手早く着替えを済ませ、玄関のドアを開けた。




