第五十五話 松代浩太 Ⅰ
結局、月曜日になってしまいました。どうも疎陀です。本当は前後編にするつもりは無かったのですが……長くなったので。
ちょっとプライベートがバタバタしています。ですので今年最後の投稿になるかと思います。皆さん、今年もありがとうございます。来年も宜しくお願いします。
さて、それでは第五十五話『松代浩太・前編』です。ようやく、物語が主人公に追いつきました。
松代浩太は、中堅商社で働く父・松代優作と、専業主婦であった母・松代香澄の間に生まれた松代家の長男である。
松代優作は高校を卒業後、そのまま地元の国立大学に進む。高校・大学とずっと地元暮らしの優作が、初めて東京に出てきたのは商社入社後。元々、掃除も洗濯も料理も苦手……というより、家事全般が嫌いな、一人暮らし不適合な優作の生活は破滅の一途を辿った。食事は全部外食かコンビニ弁当で、それも食べたり食べなかったりと不定期。衣類は全部クリーニングで、部屋にはホコリが積りっ放し。
見るに見かねた上司が、優作に物申したのは入社一年が過ぎた六月。のらりくらりと躱す優作に対し、上司は今年入ったばかりの新入社員に『松代優作係』を任命する。職権乱用も甚だしいその哀れな子羊の役に選ばれたのは、浩太の母である香澄だった。
『先輩! 何ですか、この洗濯物の山は! え? 全部クリーニングに出す? 何バカな事言ってるんですか、先輩! 洗濯機! 洗濯機を買いに行きますよ!』
『先輩! なんでこの家は炊飯器すら無いんですか! え? 家で食事を作るのが面倒臭い? 栄養バランスも少しは考えて下さい! もう! お肉ばっかり食べずに野菜も食べる!』
『き、きゃあーーー! せ、先輩! こ、ここ! ご、ゴキブリの墓場です! どんな適当な掃除をしたらこんな大惨事になるんですか! もう! 先輩のバカ!』
最初はイヤイヤであったが、優作のあまりの社会不適合者っぷりに、香澄は心を入れ替える。
――この人は、私が居ないとダメになる、と。
毎週毎週、通い妻よろしく休日の度に優作の部屋に入り浸り、時には洗濯、時には掃除、時には料理と、香澄は献身的に世話を焼いた。『ダメな男の面倒を見る』のが好きだった母性本能の強い香澄としては、世話のやきがいのある、それでも仕事面では割合しっかりし、優しい柔和な笑顔をみせる優作は色んな意味で『理想の男性』であったと言う理由もある。優作にしたって、毎週自分の部屋に来て甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる……とびっきりの美人では無いも、まあ可愛いらしい顔立ちの後輩だ。お互いが惹かれあうのにさして時間は掛からなかったし、むしろこれで恋愛関係に発展しなかったら、それこそ嘘であろう。
『先輩! 先輩はこのまま一人だったら多分、死んでしまいます!』
『ほら、この紙にサインして下さい! 書きました? はい、それじゃ此処にハンコ、押して下さい!』
『……自分で書かせておいて何ですけど、ちゃんと書類は見ましょうよ! これ、婚姻届ですよ! 『え? そうなの? ……ま、いっか』じゃないです! もう、先輩!』
紆余曲折ありながら、それでも二人は結婚。結婚と同時に香澄は退社し、ほどなくして香澄は浩太を出産した。両親の愛情を一心に受け、浩太はすくすくと成長する。
……今でこそ自分の事を『平凡』と自称する浩太だが、そんな浩太だって『本当に幼い頃』からそうであった訳では無い。就園前の児童が多く集う公園の、その中で年齢が一番上であった浩太は自然に皆のリーダーの様な立場になっていった。
『こうちゃんだ!』
『こうちゃんが来た!』
『こうちゃん、今日は鬼ごっこしよう!』
『ダメだよ! 今日はこうちゃん、私達とおままごとしてくれるって言ってたもん!』
公園に浩太が訪れると、あっちこっちでバラバラに遊んでいた子供たちが浩太の元に集まってくる。浩太を中心とした輪ができ、浩太を中心にバラバラになっていた皆が一つの遊びをはじめる。ガキ大将、というのは少し違うのであろうが、疑う余地のない程、浩太はその小さなコミュニティのボスであった。
――楽しかった。
小さな、小さな公園。だが、その公園が浩太の『世界』そのものであり、自らの意のままに動くその世界は、ぬるま湯の様に浩太を優しく包み込む。
何でも出来る。
何でもやれる。
浩太の一言で、世界はどの様にも色を変えるのだ。世界は浩太の味方であり、世界は浩太に優しくあり、世界は浩太を溺愛しており――
世界は、浩太の為にあった。
やがて、浩太は近所の幼稚園に入園する。最初の十月、園内で運動会があった。日曜日と言う事もあり、両親揃って応援に駆け付けてくれた徒競走で、浩太は六人中五位という結果に終わった。
――ショック、だった。
近所の公園と言う、狭いコミュニティの中でトップを張っていた浩太の、初めての挫折。初めて、自らの意のままに動かなかった『世界』に絶望し、浩太は泣いた。泣き疲れて眠るまで延々と泣き続けた。
翌朝、目覚めた浩太は蒲団の中で一人考え込んだ。運動会の前日まで、浩太は世界に確かに愛されていたのだ。そんな世界が、いきなり浩太を嫌うであろうか?
――答えは『否』
たまたま、世界がそっぽを向いていたに過ぎない。機嫌が悪かったか、運が悪かったか、単によそ見をしていたか。兎にも角にも、世界が浩太を嫌うはずがない。
それから浩太は毎朝六時に起き、幼稚園に行くまで走った。何にもしなくても、愛してくれた世界だ。頑張れば頑張るほど、世界はもっと浩太を愛してくれると、そう思ったから。最初は近場の公園、慣れてきたら河川敷まで、終いには一キロ離れた幼稚園まで、毎朝往復した。父である優作は、そんな息子の『負けず嫌い』に苦笑しながらも、それでも律儀に毎朝浩太に付き合った。幼い息子が一キロ先の幼稚園まで一人で走るのが心配だった事もあるが、努力する姿は好意的に映ったからというのもある。
雪の舞う道を走った。
綺麗に咲かせた桜並木を走った。
蝉の鳴く小道を走った。
すっかり紅葉がその葉を茜色に染め上げる頃、浩太にリベンジの機会が訪れる。入園して二年目、運動会のシーズンが巡って来たのだ。『そんなに肩に力を入れずに、緊張せずに行っておいで』という父の言葉を右から左に聞き流し、破裂しそうなほど煩く騒ぐ心臓を抑えながら、石灰によって引かれたスタートラインに立って。
――結果は、二位だった。
浩太は泣いた。夜中にひっそり涙を流す様な去年の様なそんな泣き方ではなく、運動会の会場でわんわんと泣いた。幼稚園の先生が心配するほど泣き続ける浩太を、優作は優しく抱き上げ、人目を避けるように幼稚園に立つ大木まで連れて行った。
「どうした、浩太?」
「ひっく……ま、負けた……二位、だった……」
「凄いじゃないか、浩太。去年は五位だったんだぞ? それが、一年で二位までなったんだ」
「嫌だ! 僕は一番が良かったんだ! だって、頑張ったんだよ! 僕、毎朝早起きしてずっと走ってたんだよ! それなのに……あんなに、頑張ったのに!」
「……ああ、そうだね。浩太の頑張りはお父さんが良く知ってるよ」
「一番になった子、毎日遅刻してくるんだよ! 夜も遅くまでテレビ見てるってこないだ言ってたもん! 起きるのは八時くらいって言ってたもん! なんで! ねえ、お父さん、僕、頑張ったのに! 物凄く頑張ったのに! なんで一位になれなかったの!」
父にしがみ付き、わんわんと泣く浩太の頭を優しく撫でながら苦笑を浮かべる。
「そうだね。浩太は沢山、努力をしてきた。お父さんもそれは知ってるけど……」
優作はそこで言い淀む。当時の優作はまだ三十に手が届くか届かない程度の年齢だ。子育て自体も初めてだし、自分が子供の頃、どういう接し方を親がしてくれたかすら思い出せない。迷いに迷った挙句、優作は結局自分の言葉で語り掛ける事を選択する。
「あのね、浩太。頑張っても、頑張っても、どうにもならない事もあるんだよ?」
「ひっぐ……どうにも……ならない事?」
「運動はね、ある程度『生まれつき』で決まる所があるんだよ。浩太が物凄く頑張ったのも知ってるし、凄い事だとも思うけど」
――仕方ないよ、と。
「じゃ、じゃあ! 僕が頑張ったのは意味が無かったって事?」
「意味が無かったとは言わないよ」
「だって、そうじゃん! 僕だって遅くまで起きてテレビ見たかった! 毎朝早起きなんてせずに、ゆっくり布団で寝たかった! それでも、僕は頑張ったのに!」
優作の胸をドンドンと叩きながら、絶叫に近い声を漏らす浩太の頭を一撫でし、しゃがみ込んで浩太に視線をあわせた。
「あのね、浩太?」
「ひっく……なに……?」
「努力は君を裏切るけど、それは君が努力を裏切っていい理由にはならないんだよ?」
「ひっく……ひっく……」
「自分の思い通りにならなくても拗ねちゃだめだよ? 今回浩太は頑張った。お父さんはそれ、良く知ってるから。だから浩太、泣かないで?」
「ひっく……わーーーーーーーー!」
「ああ、よしよし」
一年前と同じよう、泣き疲れて眠るまで浩太は泣き、その背を優作は優しく撫で続けた。
◇◆◇◆◇◆
幼稚園を終え、浩太は小学校へ進んだ。幼稚園の頃に園内で一番足が速かった子が、小学校のかけっこで三番に沈んだその姿を見た時、浩太は父の言葉を真に理解し、そして自分の立ち位置を理解した。
――即ち、自分は『凡人』だ、と。
世界は浩太に優しくもなく、世界は浩太を愛してもなく、ましてや世界は浩太だけを特別扱いなどしてくれない。何処まで行っても自分は『その他大勢』の中の一人であり、結局の所、自分はこの『世界』に取って『大した価値のある人間では無い』という、その事実に。
考えてみれば当然の話である。中堅商社に勤める父と、専業主婦である母。その間に生まれた子供である自分が、大した人間である筈が無い。蛙の子は蛙、珍しいから『トンビが鷹を産む』と言われる訳であり、浩太は自身が鷹であるとはどうしても思えなかった。誰しも長ずれば気付くであろう事を、浩太は小学校二年生の段階で正確に理解し、『自分は普通の人間である』というその事実に拗ねる事もめげる事もなく、『普通の人として精一杯生きる』事を選択したのだ。大して才能の無い自分が、努力すら怠ったらどうなるか。全うに生きようと思ったら、浩太に残された選択は『努力』しかない。別に、浩太は努力が好きだった訳では無く、他に選ぶものが無かったから努力を選んだだけの話だ。
努力を裏切らないと決めた浩太は、必死に勉学に励んだ。運動や絵画、音楽などは生まれ持った才能や環境が非常に重要になってくる。天性のバネを持つ黒人に、日本人が短距離走で勝つことが叶わないのと理屈は一緒。
――だが、『勉強』はどうか?
東京証券取引所、という市場がある。株式会社の内、『上場会社』と呼ばれる会社の株式が取引される市場であり、その『一部上場』と呼ばれる企業は日本を代表する大きな会社が多い。一部上場企業に入れば、少なくとも誰に恥じる事の無い人生は送れるはずだと、浩太はそう思った。
「お父さん!」
「ん? どうした、浩太」
「僕、将来は一部上場会社のサラリーマンになりたい!」
「…………は?」
「一部上企業のサラリーマンになって、お金の心配をしなくてすむ生活がしたいんだ!」
「……浩太、もしかして我が家の家計の事心配してる? あ、あれかい? もしかしてこないだお母さんが言ってた『不景気だからボーナスが下がった』って言ったの、聞いてた? 大丈夫だよ? 浩太が食うや食わずの生活をする事は――」
「そうじゃないよ! あのね、プロ野球選手とか、サッカー選手、歌手とか漫画家になるのは無理だけど、勉強なら僕だって頑張れば出来る気がするんだ! お医者さんとか、弁護士はちょっと難しいけど……その、『一部上場企業』なら、入れそうな気がするんだ!」
浩太、小学校四年生の時の父との会話である。およそ、小学校四年生が言う言葉ではなく、優作も初めこそ面食らったものの、それもそうかと思い直し優しく浩太の頭を撫でた。
「……そうだね。人と違う道を進む人は格好いいけど、人と違う生き方をするのは辛いからね。浩太が一部上場企業に入れれば、浩太の人生は……少なくとも、金銭的には楽になるよ」
商社勤務の父からすれば、一部上場企業と言えども決して悠悠自適な生活が送れる訳ではなく、その生活はその生活で十分に辛い事もある事は重々承知していたが、それでも息子の意思を尊重した。
「うん! 僕、頑張るよ! 頑張って……努力して、勉強する! 努力が裏切っても、僕は努力を裏切らないよ!」
小学校四年生の時に父と交わした会話を、浩太はバカ正直に守り続けた。もしかしたら、『自らの可能性を閉ざしてしまった』と言われるかも知れないが、それでも折角、レールが引かれているのだ。ならば、その引かれたレールの上を走れば良い。『才能』なんて不確かなモノにかけて、自分からわざわざそのレールをドロップアウトしてまで、茨の道を進むことは無い。浩太に取って、努力に裏切れる恐怖よりも、茨の道を自ら切り開く恐怖の方がよっぽど怖かった。
努力の甲斐もあって、浩太はそこそこ有名な大学に入学・卒業し、住越銀行に入行する。小学校四年生の時の夢であった『一部上場企業』に無事入社を果たした訳であり、ある意味で『夢をかなえた』と言っても差支えない結果であろう事に、浩太は満足していた。
◇◆◇◆◇◆
住越銀行に入行を果たした浩太は、初任店として丸の内支店への配属を命じられた。国内外併せておよそ八百店舗ある住越銀行の中でも指折りの店舗であり、『丸の内支店経験者』というのが一つのステータスになる様な名門店舗。自らの人生を顧みても、およそ過分なまでの高評価だが、浩太は全く動じなかった。たいした才能も無い自分が、まさか天下の住越銀行から『特別扱い』される訳がない。
「本日より丸の内支店でお世話になる事になりました、大川綾乃です。宜しくお願いします」
銀行において同一店舗に同期が二人いる場合、概ね一人は幹部候補で一人はオミソ。東大卒、四か国語を操る帰国子女、父親が外務官僚の同期がいれば、明らかにどちらがオミソか、浩太自身が一番理解していた。
「松代」
「はい!」
外交課に配属になった浩太を課長は自席に呼んだ。最初から挫ける様な事を言うのはどうかとも思ったが、どうせいつかは分る事である。ならば最初に分っていた方が傷が浅くて済む。そう判断した課長は、言い難そうにしながら口を開いた。
「……入行したばっかりのお前に言うのは少し酷かも知れんがな。銀行的にはお前より、大川の方に期待している。でもな? だからって言ってめげるなよ? 環境が悪いってくさるなよ? いいか? 新入行員と言えども、お前はお金を貰って働く、いわばプロの銀行員だ。プロであるのなら、与えられた環境で最高の結果を出せ」
そんな課長の不器用な気遣いに、浩太は胸中で苦笑する。そんな事、課長に言われなくても自身が一番理解している。『与えられた環境で、最高の結果を出せ』という言葉も気に入った。要は、文句を言わずに努力しろ、と言う事だ。浩太の今までの生き方同様のその言葉に、浩太は素直に頷く。
「はい! 頑張って働きます! 努力が裏切っても、僕が努力を裏切る事はありません!」
「良い返事だ! それじゃ松代、銀行を見返してやる! ぐらいの気持ちで業務に励め!」
「はい! 頑張ります!」
「よし、それじゃまず最初の仕事だ!」
「はい!」
「……その『僕』っていう一人称、止めろ。社会人なら『私』って言え」
「……はい」
外交課に配属になった浩太は毎日怒られた。それでも浩太はめげる事無く毎日愚直に業務に励む。遅くまで残って先輩の書いた本部への報告書を読み込み、毎日規定集を持ち帰り勉強する。ある種、才能と言っても良い程のその『愚直』さは、他人だけではなく自分にも厳しい事で有名な外交課長には好意的に映り、それ故に、課長は浩太に目をかけ、より一層の過酷な指導を受けた。
「松代!」
「はい!」
「協立電機工業さんの稟議書、いつ回ってくるんだ!」
「今日中には必ず回します!」
「お前、一体あの案件いつから握りこんでやがる!」
稟議書、というのは支店決裁を越えた案件に対して本部の決裁を取るために回す書類の事だ。支店の決裁枠を越える案件、と言う事は、何かしら『難しい』問題がある場合が往々にして多い。金額が大きかったり、担保が割れていたり、或いは純粋に会社の業況が悪かったり。今まで支店決裁で出来ていた案件が前述の事情で本部決裁、つまり『稟議書』扱いになった場合、稟議書を本部に承認して貰うのは非常に難しい……というより、手間がかかる。営業店はその会社の事を十分理解していても、本部からして見れば海のモノとも山のモノともつかない、全く知らない会社なのだ。何をしている会社か、会社の沿革はどうなっているのか、主な販売先と仕入先は何処か、世間での評判は良いか、社長の人柄はどうか、といった会社や経営者の基本情報から、この資金は何に使う資金なのか、金利は適正な金利なのか、担保は取れるのか、取れないのであれば理由は何か、といった個別の案件についてを微に入り細に渡って書くのである。ただ長く書けばいいという訳では無い。抑えるべき要点をおさえ、図やグラフを使って『分りやすく』説明しなければならないのだ。
「大して難しくも無い案件だ! 写経でいいんだよ、写経で!」
これが二回目以降、恒常的に発生する案件であればその難易度はぐんと下がる。新しい商品を開発したり、社長の交代があったりなどの余程大きな変動が無い限り、精々資金の必要な理由と業況だけを新規に作り直せば良く、後は丸写しでも構いはしない。まるでお経を写す様な稟議書だから『写経』と呼び、『先輩の書いた稟議書を見て、何が重要なのか、その要点を掴め』という意味合いからか、新人時代はこの『写経』が大きな仕事の一つになる。
「写経に三日も四日もかける奴があるか! もういい! 俺が代わりにやる!」
「で、ですがかちょ――」
「いいって言ってるだろ! 取りあえず、屋上でも行って頭を冷やしてこい!」
課長に怒鳴られ、それでも仕事を渡そうとしない浩太に『いいから早く行け!』ともう一度怒鳴られ、浩太は肩を落として屋上への階段をあがる。気圧の関係か、ドアを開けた屋上からは店内に風が流れ込んだ。
「……はー」
手摺に組んだ両手を置いて、浩太は大きく溜息を吐く。入行して三か月、毎日毎日怒られ続けた。別段『特別』では無い自分、こうなる事も想定の範囲内であるが……流石に、少しだけ感傷的にもなる。
「……はい、松代君」
そんな浩太のほっぺたに、ひんやりとした感触。慌ててそちらに視線を向ければ、笑みを浮かべる綾乃の姿が目に入った。
「大川さん……って、缶コーヒー?」
「そ。私の奢りよ。有難く飲んで」
「その……ありがとう?」
なぜ綾乃が此処に? という疑問符を頭に浮かべる浩太。そんな浩太に苦笑をして見せ、綾乃は口を開いた。
「目の下のクマ、酷い事になってるわよ? 銀行だってサービス業なんだからさ。そんな顔でお客様の所回っちゃダメでしょ?」
両手の人差し指で自らの目の下をなぞって見せ、綾乃はポーチから手鏡を取り出し浩太の前に鏡面を差し出す。鏡面に映った自分の『酷い』顔に、浩太は顔を顰めた。
「……男前が台無しだな」
「……うわ。面白くないよ、その冗談?」
「……大川さんって結構キツイよね? 普通そう言う事、思っても言う?」
溜息を吐いて肩を落として見せる浩太に、思わず綾乃は苦笑を噛みしめる。そんな綾乃の姿に、浩太の顔は更に情けないモノになっていた。
「……あの、さ」
「うん?」
「松代君、ちょっと頑張り過ぎじゃない? 昨日だって十時まで残業してたんでしょ?」
「ああ……まあ、ね。いや、分ってんだよ? これだけ経費削減、経費削減って言われてるのに無駄に人件費かけちゃいけな――」
「そうじゃなくて」
浩太の言葉をやんわりと遮り。
「……知ってる? 小林君の事」
「……辞めたらしいね。この間、中野が電話かけて来たよ」
「彼、大森支店だったでしょ? 回収業務が随分辛かったみたいで……同期が辞めちゃうのは寂しいしさ。あんまり根を詰め過ぎずにやろうよ?」
「まあ、そうなんだけど……ほら俺、要領悪いから」
「要領が悪いって……」
「容量も少ないし」
「だから、面白くないって」
「ごめんごめん。でもさ……俺、本当に一から覚えなきゃダメなタイプなんだよ」
「だからって毎日毎日規定集持って帰る? しかもアレ、全部読んでるんでしょ?」
「一応。まあ、殆ど読んでるだけ、だけどさ」
「ちなみに昨日、何持って帰ったの?」
「為替規定集」
「……それ、意味なくない? だって松代君、外交でしょ?」
顔を顰めて、『意味が無いわよ』という綾乃に苦笑を浮かべ、口を開こうとして。
「こんなの言ったらダメかも知れないけど……為替係の私だって読んだこと無いよ、そんなの」
その口を閉じる。
――ああ、なるほど、と。
四か国語を操る帰国子女、東大卒、外交官の父を持つ、そんな才女。浩太が世界から愛されていた時代を、そのままこの年まで維持して生きて来た、そんな女性。
「むしろ凄いよね、それ。逆に感心するよ」
「そう? 一か月ほど仕事してれば自然に覚えるわよ」
「……凄すぎて参考にならないよ、大川さん」
最早、苦笑しか浮かべられない。彼我のそのスペックの違いに、嫉妬の感情など持ちようがなく、出てくる感情は『大川さん、凄いな』というぐらいのもの。憧れすら抱きようがない。
「と、やべ! そろそろ戻らないと! コーヒーありがとう、大川さん!」
「空き缶! そんなの持って行ったらまた怒られちゃう! ほら!」
「サンキュ! それじゃ大川さん、また!」
「あ、松代君! 私の言ったこと――」
「分かった! 気を付け「松代ぉ!」いま行きます! それじゃ大川さん!」
綾乃にお礼を言って、浩太は階段を駆け下りた。
◇◆◇◆◇◆
大川綾乃とのスペックの違いに気付いた浩太だが、それでも挫ける事は無かった。そもそも、『その他大勢の一人』でしか無い自分、別段それに痛痒を覚える必要はない。与えられた環境で、最高の結果を出す。浩太を支えるのはただその一事であり、与えられた環境である担当先に『最高の結果』を出す為、精力的に会社を回った。
喧嘩もした。
言い合いもした。
それでも浩太はその会社の為に必死で努力をした。その会社の専門的な所、例えば和菓子屋であればお菓子であったり、建設会社であれば施工方法であったり、そういった事は分らない。ただ、自分は『銀行員』だ。銀行員は『お金を貸す』プロでなければならず、円滑な資金の供給の為には……言い方は悪いが、『お金を貸しやすい業況』になって貰わなければならない。ならば、その為には財務を改善しなければならない。
「……最初は、『なんだ、こいつは?』って思ったけどよ」
「はい?」
東西建設工業という、建設会社の事務所。熊の様な体格をした『社長』にそう言われ、浩太は電卓を打ち込んでいた手を止めた。
「社長なんて言ってるけど、俺はどっちかって言えば技術屋だろ? こまけぇ数字の事とかよくわかんねんだよ。カカアだって経理部長なんて言ってるけど、家計簿つける程度の感覚で経理してるしよ。松代君が居なかったらウチの会社、潰れてたかも知れねえな」
「……社長の会社には特殊な工法があるんですよ? それを活かさない手は無いでしょう?」
「おう! 技術にはちいーとばかし自信があるぞ!」
「その自信のある技術を安売りしないで下さいよ。社長、この工法は世界的に視ても珍しいんですよ? 強度だって十分規定値を満たしますし、価格も安い」
「でも、皆喜んでくれるぞ?」
「そりゃ喜びますよ、この値段で出来れば。でもそのせいで社長の会社はいっつもピーピー言ってるじゃないですか。銀行員がこんな事言ったらダメなんでしょうけど、銀行に金利払ってお金借りてちゃダメでしょ?」
「ちげーねーな。でもな? 銀行員が言うなよ、そんな事」
「はい。ですから上司には内緒にしていて下さいね?」
「おう、黙っとく! 上司に言って『けしからん!』ってなって担当変えられても困るからな」
「……社長」
「分ってるって。『銀行員は転勤が多いから、直ぐに担当は変わる。社長と奥様が自分で財務をする体制作りが重要です』だろ? 耳にタコが出来たってーの!」
そう言って社長は笑い、その後『でもな?』と言葉を続けた。
「出来ればおめーには、ずっとウチの会社を担当していて欲しいな」
曖昧にその言葉に返事を返しながら――それでも、浩太は嬉しかった。
会社は、浩太を必要としてくれる。
会社は、浩太を欲してくれる。
『自分はその他大勢の一人でしかない』と、そう思っていた浩太に取って『誰でも無い、自分』を必要とされる事は、言葉で言い表せない程嬉しい事だった。
入行から半年。ようやく外交課に慣れて来た浩太は、為替課に配属替えになる。後任は綾乃であり、引継ぎで回るたびに『本当に担当替えするのかよ?』と各取引先で言って貰えた。『なんなら、俺が支店長に担当を変えない様に言ってやる!』とも言って貰えた。
「……何してたのよ、松代君。物凄く、やりにくいんだけど」
「いや、別に大した事はしてないよ? ほら、『良かった! やっと担当変わってくれる!』なんて、普通は引継ぎで言わないじゃん。お世辞だよ、お世辞」
そう言いながらも、浩太の頬は緩む。自らが為して来た事が間違いなく芽吹き、根付いている。自分が回った所は、自分以外は担当できないと、そんな、浩太らしくない、思い上がりとも言える自負すら芽生えかけて。
「浩太ちゃん!」
為替課に配属になって、四か月ほど過ぎた頃。『綾乃ちゃんは直ぐに仕事を覚えたのに……松代君、手が遅い!』と為替のおばさま方に笑いながら怒られていた頃も過去の話、ようやく仕事を覚え始めていた浩太に、窓口で手を振る恰幅の良いご婦人の姿が目に入った。
「あれ? 奥さん?」
見覚えのあるその姿に、浩太も笑顔を返す。『ちょっと済みません』と為替課長に断り、浩太は窓口に歩みを進めた。
「お久しぶりです、奥さん。御無沙汰していて済みません」
「本当に久しぶりね! どう? 元気にしていた?」
元気の良い笑顔を見せる奥さん――東西建設工業の社長夫人に浩太も笑顔を返す。為替課に配属になって四か月。振込などは綾乃が集金と一緒に持って帰って来る為、わざわざ奥さんが窓口に来る機会は殆ど無い。浩太も会うのは四か月ぶりだ。
「社長もお元気にされていますか?」
「あの人は何時でも元気よ。浩太ちゃんに『たまにはコーヒーでも飲みに来いって言っとけ!』って言ってたわよ? 俺手自ら淹れてやる! って」
「社長のコーヒーは……泥の様に濃いですから」
「本当にそうよね。あの人、バカみたいに豆入れるから」
社長オリジナルの、そのバカみたいに濃いコーヒーを思い出し、浩太は苦笑を浮かべる。そんな浩太に奥様も苦笑を浮かべ、その後思い出したように手をポンッと打った。
「あ、そうだ! 聞いてよ、浩太ちゃん! この間、支店長さんがウチに来たのよ!」
「……支店長が? その、失礼ですが業況の方は……」
支店長が督励訪問する先、というのはある程度相場が決まっている。本来であれば各社に回るのが筋ではあるが、支店長も人間だ。ある程度規模の大きい先や、優良取引先、地元で影響力が大きかったり……或いは、業況が悪かったりする先を重点的に回る事になる。
「逆よ、逆! 支店長が『お金を借りて下さい』って頭下げに来たの! 住越銀行さんと三十年以上取引あるけど、こんなの初めてだ! ってあの人舞い上がっちゃって!」
――え、と言う言葉が、浩太の口から漏れた。
「綾乃ちゃん、凄いわね~。支店長を連れて来て、あの人と私の前で延々と演説してくれたわよ。『この会社は此処が凄い』って、そう言ってくれて」
嬉しそうに喋る奥様の姿に、自身の体が少しずつ固くなるのを浩太は感じた。まるでバラバラになりそうな心を必死に繋ぎ止め、無理やりに顔に笑顔を浮かべて見せる。
「……凄いじゃないですか! 良かったですね!」
「ええ! 今まではお願いするばっかりだったけど、これで一安心よ」
――辞めてくれ、と。
「でも、まだ油断したらダメですよ?」
「ええ、分ってるわよ! きちんと原価の計算もするようにしたの! 綾乃ちゃんが教えてくれたし!」
――頼むから、と。
「それは良かったです。折角独自の工法があるんですから、それを活かして下さい」
「ええ。浩太ちゃんが担当じゃなくなって、どうなる事かと思ったけど」
――お願い、だから。
「綾乃ちゃんが居れば、安心ね!」
――『松代浩太』じゃなくても、良いとは、言わないでくれ、と。
「……そうですね。大川は優秀ですから奥さん、ちゃんと大川の言う事聞いて下さいよ?」
泣きだしそうな感情を押し殺し、浩太は笑顔を浮かべて見せる。分っていた事だ。どんなに頑張っても、どんなに苦労しても、銀行員は二、三年で転勤、或いは担当替えになる事が常。過去の担当を何時までも引きずるのは決して良い事ではなく、新しい担当に慣れて貰う事がお客様にとっても、銀行にとっても一番幸せな事なのだ。そして、後任者がその会社を大きくする、その手助けが出来た事を、銀行員としては喜ばなければいけない、そんな事だって浩太は十分承知している、その筈、だったのに。
「……松代」
「……はい」
一頻り喋り終え、『また来るわ!』と言って去っていた奥さんの背中を頭を下げて見送った浩太に、一連の流れを見ていた為替課長がその背中をポンっと叩いた。
「……お前が苦労してたのは聞いてる。だから、そんなに落ち込むな。むしろ喜べ。お取引様の業況が良くなったんだから」
「……はい」
そんな事、分っていた。
所詮、銀行員なんて会社からしてみれば『余所者』だ。どんなに頑張っても、『唯一無二』の人になんてなれないと、そう、そんな事は分っていた。
「分っています」
そんな事、分っている。
「ただ……ちょっとだけ」
ちょっとだけ、期待しただけ、ですから、と。
自らが『必要』とされると、そう思ってしまっただけですから、と。
笑いながらそういう浩太の肩をもう一度ポンッと叩き、為替課長は自らの自席に帰っていった。
◇◆◇◆◇◆
「ねえ、コータ君。私と付き合ってみない?」
先輩に誘われて行った合コンで知り合った女性に、浩太がそう告げられたのはグループで二回、一対一で一回飲みに行った、その帰り道の事。
「…………え?」
「『え?』って酷いな~。なに? 私、そんなに意外な事言ってる?」
苦笑しながら、浩太の鼻をつん、と突いて見せる女性。年は浩太より二つ上、都内にある電機メーカーの受付を務める、背の高い美人だった。
「い、いや、でも凛さん、永山さん狙いかと思ってましたので……」
「永山さん? ううん、永山さんはちょっと……イケメンだとは思うけど、私の事、『胸が無い』って言ってたもん」
「永山さん……そんなに酷い事言ってました?」
「『大丈夫、凛ちゃん! ステータスだから!』って。胸見ながらそんな事言われたら、流石の私も傷つくってものよ?」
気にしてるのに! と憤慨したように頬を膨らませて見せ、その後笑顔を浮かべた。
「その時コータ君、『凛さんはスレンダー美女ですよ。憧れます』って言ってくれたの」
覚えてる? と悪戯っ子の様な笑顔を浮かべる凛に、浩太は首を左右に振って見せる。正直、全く覚えていない。
「済みません、覚えてません……あの、ごめんなさい」
「なんで謝るの? 私はコータ君のそういう所が『いいな~』って思ったんだよ?」
「……そうなんです? だってそれ、心にもない事を言ってるって――あ」
失言だ、と浩太が気付いても、時既に遅し。
「……あれ~、コータ君? 私の事スレンダー美女って言ってくれたの、あれ、嘘だったの?」
じとーっとした目で浩太を見やる凛に、先ほどよりも勢いよく浩太は首を左右に振る。そんな浩太の姿が可笑しかったか、先ほどまでの神妙な顔つきにニヤニヤした笑みが浮かぶ。
「ほら、皆で二回、今日を合わせたら三回。その間コータ君の事、結構気にして見てたけど……何ていうのかな? こう、皆に気を使うって言うか、皆が楽しめる様に細々動いてたじゃん? 誰のコップにお酒が無いとか、皆のタクシー手配したりとか、酔っぱらった真実の介抱をしてみたりとか」
「それは……ほら、僕、一番年下だし。当たり前ですよ」
「最近の若い子……っていうと、私も人の事偉そうに言える年齢じゃない! って言われるけど、ウチの若い子もあそこまでやらないわよ? っていうか正直、私も一年目の時にコータ君ぐらい動いてたかって言われたら自信を持って『動いてない!』って言えるもん」
「そりゃ、凛さんは女の人ですから。こういうのってそもそも男が――」
「ストップ」
「――うごく、むぐ!」
尚も喋り続けようとするコータの口を、優しく凛は人差し指で制す。そのままの体制で、笑みかけ、コータの耳元に口を寄せて――そのまま、コータの耳にがぶっと噛みついた。
「痛っ! ちょ、り、凛さん!」
「なんとなく『いらっ!』っとしたから噛んでみた。さっきからあーでもない、こーでもないって……男の子でしょ? イエスかノー、はっきりしなさい」
ロングの黒髪の間から覗く、責めるような視線が浩太に突き刺さる。その視線に思わず一歩後ずさり――その動作を、抱擁によって封じられた。
「り、凛さん!」
「おっけー? だめ? さあ、どっち?」
「……」
「……」
「……その……何ていうか、俺、ですよ?」
「……どういう意味よ?」
「その……俺、仕事全然出来ないんすよ。いっつも上司に怒られてばかりだし、規定集を読んでも何書いてるか分かんないし、いい大学出てる訳でもないし、それにってめっちゃ痛い! 凛さん、足! ヒールの踵が思いっきり俺の足の甲を貫いてるんですが!」
「踏んでるのよ」
「それは使い方が違う! 痛い! マジで痛いって!」
「あーんまりしょうもない事、貴方が言ってるからでしょ? あのね? 私は別に仕事がめちゃくちゃ出来たり、規定集を一度で完璧に覚えたり、ましてやイイ大学出てる貴方が良いって言ってる訳じゃないの? あんだすたーん?」
「分りました! 分りましたから、足退けて下さい!」
最後に一睨み。浩太の、涙が溜まり潤んだ瞳に満足したように頷くと、凛はようやくヒールの踵を浩太の足から退けた。
「……分ったかしら?」
「…………取りあえず、凛さんが結構バイオレンスな人だってのは分りました。俺がそっちの世界に目覚めたらどうしてくれるんですか」
「責任取ってあげるわよ。さ、それで? 早く返事聞かせてくれない?」
未だに抱き着いたまま、そんな事をのたまう凛に溜息一つ。浩太はその体を引き離そうとして。
凛の体が、小刻みに震えている事に、ようやく気付く。
「……その、俺、本当にダメですよ?」
「まだ言うの?」
「そうじゃなくて……その」
……本当に、こんな『俺』で……良いんですか、と。
「俺じゃなくても、もっといい人、沢山いますよ?」
「……バカね」
困った様な顔を浮かべる浩太に、凛は苦笑を一つ。
「……誰でも良いんじゃないの。『貴方』がイイの」
――その時の浩太の気持ちを、一体どう表現したら良いのだろうか。
誰でも良いんじゃない、『浩太』が良い、と。
『その他大勢の中の一人』ではなく、『松代浩太』が良い、と。
才能も無い、矮小で取るに足らない自分が、他の誰かに『必要』とされる。
――その、なんと甘美で……そして、歓喜溢れる事か。
「……凛さん」
「はい」
「その……よろしく、お願いします」
「……えへへ。こちらこそ宜しくね、コータ」
潤んだ瞳を、凛はそっと閉じる。経験が無くとも、浩太とて二十三年生きてきている。その仕草の意味を正確に理解し、そして、凛が望む正解にその身を任せ。
――初めてのキスは、カンパリオレンジの味がした。
◇◆◇◆◇◆
熱愛に近い形で始まった凛と浩太は三か月付き合った末、破局を迎えた。理由は様々あるが、問題をごく単純化するのであれば、お互いがお互いを思いやり続けた事が要因であろう。浩太は『自らを必要』としてくれた初めての女性を大事にし過ぎ、凛は凛で、自分をまるでお姫様の様に大事にしてくれる浩太に気を使い続けた。決して嫌いではないが、徐々にすれ違いは生じ、やがてその溝が修復不可能になって破局を迎えたのだ。
『貴方の事は嫌いじゃないの。でも……ごめん、もう無理』
浩太は泣き笑いの様な表情を浮かべてそう言う凛の言葉に、黙って頷いた。浩太自身、今までに経験の無い感情に振り回されてすっかり疲弊し切っていた事もある。お互いの事を考えれば、この形が一番しっくり来る。そう思って別れ――
――浩太の『快進撃』は此処から始まる。
告白される度、浩太は片っ端から付き合っていった。別に、彼女と別れて自暴自棄になった訳では無い。『他人が自分を必要としてくれる』という、その感情をただただ、子供の様に欲したから。
「綾乃! 俺、彼女出来た!」
「あ、そう。前回は二か月だから……今度は一か月ぐらい?」
「おま、それは酷くない?」
「酷くないわよ。良い? 何度も言うけど、告白されたから即付き合うそのスタンス、やめなさいよ。何時か刺されるわよ」
「いや、でも……何か、断るの申し訳ないし」
「前言撤回。刺されてしまえ」
「……お見舞い、来てくれる?」
「いってあげる。傷口に塩を塗り込みに」
「鬼か!」
そんな軽口を叩きながら、浩太はそれでも幸せだった。彼女たちは『自分』を見てくれる。綾乃はよく、『アンタね? 言っとくけど、『銀行員』だからモテてるのよ? いい? アンタの彼女たちはアンタの後ろにある安定収入しか見てないんだからね?』といった。仮にそれがその通りだとしても、浩太はそれでも良かった。将来の安定を見て彼女たちが自分を選んでくれているとしても、そんなのは関係ない。だって、その『銀行員』だって、浩太が努力をして、浩太が掴んだ、浩太自身である事は変わりないのだから。
浩太は、それから一層努力に勤しんだ。頑張れば頑張るほど、『彼女』は浩太を見てくれる。浩太を必要としてくれる。仕事も恋愛も、一生懸命取り組んだ。
唯でさえ、仕事を『抱え込む』癖のあった浩太のその癖がより顕著になったのはその頃から。綾乃は良く、『自分で出来ない分まで抱え込まない!』と怒っていたが、それでも浩太はその仕事を人に頼る事を良しとしなかった。誰でも出来る事ではなく、『自分しか出来ない』と、そう思い、或いはそう『思い込みたかった』から。
「……松代君、ちょっと」
その日は金曜日。出勤して直ぐ、浩太は支店長室に呼び出された。十月に入っても残暑は厳しく、椅子にジャケットを掛けたまま支店長室に入ろうとした浩太は『おい』と言う外交課長の言葉にその動きを止めた。
「なんですか、課長」
「上着、脱ぎっぱなしだぞ? ちゃんと着ていけ」
「上着、ですか?」
そうそうと頷く上司と、外交課の先輩方。その仕草に浩太は疑問符を浮かべたまま、自身の椅子に戻りジャケットを引っ掴んだ。
「なに?」
「さあ?」
隣の席で浩太同様に疑問符を浮かべる綾乃に首を傾げる事で応え、浩太は支店長室の扉をノック。『入れ』という支店長の言葉に失礼しますと挨拶をして入室し、いつも仏頂面の支店長にしては珍しくニコニコとした笑顔を浮かべる姿を見た。
「松代君、ボタン」
言われるがまま、ボタンを留める。その姿に満足げに頷いた後、支店長はジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「――辞令。松代浩太、総合企画部勤務を命ず」
おめでとう栄転だ、という支店長の言葉をふわふわした気持ちで聞きながら、浩太は差し出された辞令書を受け取る。そこに書かれた自らの名前と、総合企画部勤務を命ずと言う文字を見つめ、浩太は自身の体が震えるのを感じた。
「あ、ありがとうございます!」
「君は良くやってくれているからね。三年目で総合企画部は紛れもなく、栄転だ。おめでとう、松代君」
その後、支店長は慌ただしく引継ぎの話をし、『ほら、皆に報告しておいで』と優しく浩太を送り出した。支店長室を一歩出た瞬間、営業時間前の店内の視線が浩太に注がれる。
「っ!」
集まる視線の多さに、一瞬浩太がたじろぐ。その浩太の仕草を、こちらも緊張した面持ちで眺めながら、直属の上司である外交課長が浩太に声を掛けた。
「……何処だった?」
「ど、何処って?」
「転勤先だ。何処の支店だ?」
「いえ、支店ではなく本部です」
「本部? おい、一体どこだ?」
「その……総合企画部、です」
「総合企画部だって!」
外交課長の大きな声が、フロアに響く。一瞬静まり返った後、営業室内がわっと湧いた。
「おい、松代! それ、マジの栄転じゃねえか!」
「そ、そうなんですか? 支店長にも栄転って言われたんですけど……そ、そうなんです?」
「かーっ! お前、何年住越で銀行員やってるんだよ! いいか? 総合企画だぞ、総合企画! 銀行の経営方針の全体を決める、銀行の司令塔みたいなもんだ! 役員の多くは総合企画の部長経験者だし、今の頭取も前の頭取も、総合企画出身者なんだよ! 銀行の本流、言ってみれば超出世コースなんだよ!」
三年目ですが、という浩太の言葉も聞こえなかったのか、課長は早口でまくし立て、浩太の首にその腕を回した。
「すげーよ、お前! 丸の内入行で二か店目が総合企画なんて、長田常務と同じコースだぞ? こりゃ役員コース一直線だな!」
「そ、そんな簡単なモノじゃ」
「当たり前だ! でもな? 言っとくけど、そこまで辿り着けない人間がどんだけいると思ってるんだよ? そんな中でそのコースに乗ったんだぞ? すげー事だよ、これは!」
おい、今日は早く仕舞って飲みに行くぞ! という課長の言葉に、先ほど以上に外交課の人間が湧く。殆ど揉みくちゃにされながら、その輪の中からどうにかこうにか抜け出し。
「……あれ?」
その中に、綾乃の姿がない事に気付く。尚も浩太の首に腕を回そうとする課長をやんわりと制し、開け放たれたままの営業室のドアに向かって浩太は駆けた。二階の食堂の自販機で缶コーヒーを二つ買い、そのまま屋上に続く階段を昇った。
「……よ」
「……よ」
銀行の屋上の手摺にその身を任せ、街の流れを見つめる綾乃。その後姿に浩太は声をかける。返事こそ返しこそすれ、こちらを振り向こうとしない綾乃に肩を竦め、浩太はその隣に並ぶように手摺に身を預け、下界を見下ろす。日本で一番忙しいこの街を象徴するかの様に多くの人が行ったり来たりするその姿を見つめ、着たままのジャケットから缶コーヒーを二つ取り出し、一本を綾乃に差し出した。
「奢り?」
「奢り」
「悪いわね。本当は栄転祝いに私が奢らなくちゃいけないのに」
「いいよ。それは別口でやって貰うから」
「それは怖いわね。主に、財布の方が。私も缶コーヒー一本で手を打ってくれないかしら?」
「マジで? いや、まあそれでも良いけど……」
冗談よ、と言いながら綾乃は缶コーヒーのプルタブを開け飲み口に口をつける。半分ほど一気飲みをする、その豪快な飲みっぷりに呆れが混じった笑みを浩太は浮かべた。
「……おめでとう」
「ありがとう、っていうべきなのかな? 何か実感が湧かないんだけど」
「転勤すれば嫌でも思うわよ。『俺は総合企画の人間だ!』って。それできっと浩太は言うのよ。『大川さん、ここ、間違ってます。直して下さい』って、電話で、本部のエリート臭をプンプン漂わせたいやーな感じで」
「……おい、イメージ悪すぎだろう。主に俺の」
「本部に行ったら人が変わるって皆言ってるもん。きっと浩太だって言うわよ」
綾乃の言葉に憮然とした表情を浮かべる浩太。その顔を苦笑で見やり、綾乃は残りのコーヒーを一気で飲み干した。
「……コーヒー、ありがとう。それと、おめでとう」
そう言って、綾乃は伏し目がちに浩太に背を向け階下に続くドアに向かって歩き出す。
「おい! ちょっと待てよ!」
その、余りと言えば余りの態度に、浩太は慌てて綾乃の姿を追ってその腕を掴み。
「――え?」
綾乃の眼から流れる、一筋の涙をそこに見つけた。
「あ……やの?」
「離して」
掴んだ浩太の腕を優しくそっと払いのけ、綾乃は再び背を向け歩き出し。
「ねえ、浩太。貴方は……変わらず、そのままで居てね?」
泣き声が交った様な綾乃のその言葉を聞き、浩太は呆然と立ち尽くし、その浩太を笑うよう、風が浩太の髪と頬を撫でた。




