第五十四話 『月が、とても綺麗ですね』
遅くなりましたが第五十四話です。来週はもしかしたら月曜日かも。
「……よ」
「……ああ」
テラ公爵屋敷の敷地内にある、小さな中庭。お義理程度に置かれた鉄製の円卓と、鉄製の椅子が、三脚。そのテーブルの上には紅茶の入ったポットと、ティーカップがあった。
「な~にこんな所で黄昏てるんだか。探したじゃないの」
月明かりが優しい光を落とすその中庭で、後ろ手に手を組んでかがみ込む様に浩太の顔を覗き込み、ニヤニヤとした笑いを見せる綾乃。その仕草に苦笑を一つ、浩太は自身の目の前の椅子を指す。その仕草に『ありがとう』と嬉しそうに笑い、綾乃は黙って腰を降ろした。
「紅茶……ああ、カップが無いか。持ってこようか?」
「良いわよ、貴方の飲んでたので」
浩太の前のポットとカップを自身の手元に手繰り寄せ、手自ら注いだカップに口をつける。たった二人、それも月明かりの落ちる夜中のお茶会という、少しだけ神秘的なそんな情景の中、一つのカップを回し飲む姿が何とも言えず可笑しく、浩太は苦笑を笑みに変えた。
「シチュエーションも雰囲気も良いのに、カップ一つを回し飲みか?」
「いいじゃん、別に。フランス料理より居酒屋で焼き鳥、夜景の見える綺麗なレストランでワイングラスを傾けるより、テレビでお笑い番組見ながら缶ビールをあおるのが私達にはあってるわよ」
「身も蓋もない事を……まあ、そりゃそうだけどな。あ、ちなみにお前が今口つけてるの、俺が飲んでた場所だからな?」
「きゃ、きゃあ、間接キス! 松代君と間接キスしちゃったぁ……は、恥ずかしい――な~んて時代はもう十年以上前に通り過ぎたわよ。大体、缶ビールだって回し飲みしてるのに、今更カップぐらいできゃあきゃあ言わないわよ」
そう言って一息、カップの中の紅茶を飲み干す。若干猫舌気味の綾乃には少し温度が高すぎたか、舌をだして『あつひ、あつひ』なんて言っている。
「ったく、お前は……気を付けろよな」
「ある程度冷えてると思ったんだもん。舌、いたひ……」
今度は気を付けて飲む、とカップに注いだ紅茶をおっかなびっくり、ゆっくりと口をつける。味自体は一級品のその紅茶に、思わず『ほぅ』という吐息とも感嘆ともつかない言葉が綾乃の口から漏れた。
「……悪かったな」
ホクホク顔で紅茶を堪能している綾乃に、小さな、それでも確かな声で浩太が話しかける。が、言葉を受けた綾乃は両手でカップを持ったまま、きょとんとした表情を浮かべた。
「なにがよ?」
「その……お前を、こっちの世界に召喚しちゃった事」
「……ああ」
両手に持ったカップを円卓の上に置く。かちん、と音を奏でてカップは円卓の上に舞い降り、カップを満たす紅茶と円卓を少しだけ、揺らした。
「……ま、別に良いわよ」
「良いのかよ?」
「正確には全然良くないけど……そもそも、アンタが本当に召喚したかどうかだってわかんないし、それにアンタを責めてもどうしようも無いもん」
「……話は変わるけど、俺の頭がガンガン痛いのはなんでだと思う?」
「アレは八つ当たり。状況証拠で十分有罪クラスなんだから、アレぐらいは甘んじて受け入れなさいよね?」
一切悪びれる事もなくそう言い切る綾乃に、浩太は肩を竦めて溜息をつく。無論、殴られた事に対する非難の意味では無い。状況証拠で有罪クラスの自分を『八つ当たり』と評して許してくれようとする、この同期の人の好さへの呆れと――それ以上の、感謝で。
「召喚されちゃった以上、どうしようも無いわよ。諦めるしかないでしょ?」
「一応、帰る方法も無い訳じゃない……と、思うけど?」
最低でも、無事に綾乃だけは返したい。そう思い、あまり期待を持たせるのもどうかとも思いながら、それでも気丈に浩太は綾乃を見つめ……小馬鹿にしたような綾乃の視線とぶつかった。
「……なんだよ?」
「アンタね? 私がこっちに来てどれくらい経ったと思ってるの? 一か月、一か月よ? アンタに至っては一年よ?」
「……だから?」
「私もそうだけど、アンタだって出勤途中に急にいなくなったんでしょ? 言っておくけどね、結構大事件になったのよ? 週刊誌だって取り上げたし。笑うわよ? 『エリート銀行員、謎の失踪! 神隠しか!』なんて題名ついてたもん。アンタがエリートって……へそで茶を沸かすわよ」
「おま、笑うなよ! 同期が失踪したんだから心配位しろよ!」
そんな浩太の非難に、『バカね』と冷たい視線を向けて。
「……心配、したに決まってるでしょ?」
「……」
「――私がどれだけ貴方を探し回ったか分ってる? 東京だけじゃなく、この一年の間、日本全国回ったわよ。インターネットでオカルト掲示板も見たし、大学の先輩に頼んで、過去に似たような事例が無いか調べて貰うようにも頼んだ。警察庁に入った大学のゼミの同期に頼んで、内緒で情報だって回して貰った。私の使えるネットワーク全部使って、貴方を探したわよ。それでも貴方の行方は一向に分らない。本当に、もう死んじゃったかと思ったんだから」
「……悪い。それと……ありがとう」
「別に、お礼を言われたくてした訳じゃないわ。私がしたいからしただけ。だから、そんなに神妙な顔しないでよ、辛気臭い」
「辛気臭いって……」
「ま、まあ、とにかく! アンタがそうやって失踪したのよ? 総合企画部なんて上へ下への大騒ぎよ! 総合企画部長なんて、責任取らされて左遷させられたのよ? 査察部の連中は総合企画部だけじゃなく丸の内支店にも臨店して、毎日毎日行員を取調していたし……そんな中でね? アンタがひょっこり『戻ってきました~』なんて言って、アンタの席が銀行にあると思っているの? まさかアンタ、ウチの銀行が一年間も無断欠勤した人間を暖かく迎え入れてくれる様な優しい会社だと思ってるわけじゃないでしょうね?」
綾乃にジト目で見つめられ、浩太は思わず視線を逸らす。
お客様のお金を預かり、お客様にお金を貸出し、場合によってはお客様から鬼だ、悪魔だ、と罵られながら焦げ付いた貸金を回収して回る。銀行員の一番の素質は賢さでも、計算能力でも、几帳面さでもなく、『メンタルの強さ』と言われる所以である。そんな銀行業界では『向いていない』、つまりメンタルの弱い銀行員の失踪、と言うのは別段珍しいモノでは無い……と言うと誤解を招きそうであるが、実は案外多い。一年に一度という頻度ではないが、それでも三年から五年に一度ぐらいは何処かしらの銀行の、何処かしらの支店から人が逃げ出している。
「……ああ……それじゃ皆に随分迷惑かけたよな」
人が失踪した場合、当然警察に届ける事になる。学生、或いは市井の主婦や老人であればそれで対外的に終了になるが、銀行ではそうではない。査察部という部署が、警察とは別の視点で独自に取調べをするのだ。
失踪した原因は何か? 上司によるパワハラや、セクハラは無かったか? 失踪した銀行員にギャンブル癖や、浪費癖は無かったのか? 勤務態度は? 一体、どれほどのお客様に関わり、その情報を持っているのか?
時には深夜まで及ぶ取調べを受け、本部に呼び出しを受け、顛末書と意見書に提出をし、失踪行員の顧客に引継ぎを伝える。当然、その取調べを受けている間に店が閉まっている訳ではない。通常業務と並行して、それらの仕事をこなすのだ。店の成績にも影響する、しかも確実にマイナス評価にしかならないそれを、毎日、毎日。
査察部の取調べは警察ほど優しくは無い。なんせ『身内』、怒号も飛ぶし、書類だって飛んでくる。少しでも間違った情報を伝えようものなら隠蔽を疑われ、それについての取調べを受ける。如何に銀行員の素質が『メンタルの強さ』と言っても、これは確実に精神を蝕むのである。
「……流石に、どの面下げて戻れるか、って感じだよな?」
「面の皮が厚ければ戻れるんじゃない? それこそ、死んだ方がマシぐらいな取調べは受けると思うけど」
「異世界に行っていました! じゃ、納得してくれないよな?」
「銀行の前に病院に入れられるわね。頭の」
綾乃の言葉に、浩太は大きく溜息をつく。銀行員である浩太にしてみれば、召喚された時からある程度は覚悟していた事態ではあるが……それでも、クルものはある。
「……まあ、アンタが帰ってきたら喜ぶ人もいるわよ」
「喜ぶ人?」
「アンタのお父さん、お母さん、それに妹ちゃん」
凄く……泣いてたわよ、と。
「……ああ」
「社会的にはアンタも私も死んだようなモノだけど……それでも、喜んでくれると思うわよ?」
そう言って、置いたカップに口をつける。話をしている間にすっかり冷めたか、その紅茶は随分ぬるくなり、綾乃の舌を火傷に導く惨事は起きなかった。
「その人達の為に、帰ってあげるのも一つの手かもね。仕事は……まあ、なんとかなるでしょう。別に銀行だけが仕事じゃないし、何でも出来るわよ」
飲む? と浩太にカップを差し出しながらそう言う綾乃。その言葉に、浩太は黙って首を振って応え、背もたれに体を預けながら天頂に輝く玉響の月を見つめる。
「……本当に、不思議な話だよな」
浩太にならうよう、綾乃も背もたれに身を預け、目だけで『なにが?』と問いただす。その視線を受けて、浩太は言葉を続けた。
「だって召喚だぜ、召喚。どんだけファンタジーだよ、って話だよな。言葉だって通じるし、文字だって読めるんだぜ? お前だってそうだろう?」
「まあね」
「なんていうか……まだ、魔法とかだったら納得が行くんだけどさ。さっき、シオンさんが言ってただろう、アレイアの遺産って。あれなんて本当、物凄い『科学』って感じでさ。あの装置で召喚されました~なんて、もう出来の悪いSF映画見てるみたいでさ」
そう言って苦笑して見せる浩太に、綾乃は顎に手を置いて何かを考え込む。その仕草に、少しだけ訝しそうな顔をして見せる浩太。
「……ねえ、浩太。アレ知ってる?」
「アレでわかると思うか?」
「頭がテカテカで、冴えてピカピカな某有名猫型ロボット」
「……ああ」
少し不思議なあの先生の奴である。
「……仔狸が青狸を語る、か」
「なるほど、ブッ飛ばされたい様ね?」
拳骨を握りしめる綾乃に、ぶんぶんと首よもげよとばかりに左右に振る浩太。その姿をジトーっとした目で見つめながら、綾乃はふんっと鼻を鳴らして拳を解いた。
「……あのアニメで出てくるワープ装置、あるでしょ?」
「ワープ装置って……どこでも窓?」
「サイズが小さい」
「どこかなドア?」
「アバウト過ぎるでしょうよ」
「どこまでもドア?」
「エンドレスか。まあ、いいわ。とにかく、あの辺のワープ装置って原理上は可能よね?」
「……そうか?」
「原理自体は簡単でしょ? 人間だって、動物だって、木だって石だって水だって、突き詰めれば原子の集合体な訳よ。A地点からB地点まで移動しようと思ったら、Aで一旦人間を構成する原子をバラバラにして、Bでもう一遍組み立てるってだけ」
プラモデルを思い浮かべて欲しい。一度作ったプラモデルを分解して――それに何の意味があるか甚だ疑問ではあるが――再度、組み立てなおす。材料と設計図が一緒であれば、同じものが出来る道理だ。
「言葉が通じたり、文字が読めたりするのはその原子の組み立てを、少しだけいじれば良いでしょう? むしろ魔法よりそっちの方が納得いくわよ、私は」
「……」
「……なによ?」
「綾乃、理系だっけ?」
「法学部よ」
「たまに理系みたいな事言うよな、お前」
そんな浩太の言葉に、綾乃は心底嫌そうな顔をして見せる。
「辞めてよね。私、理系、あんまり好きじゃないの」
「全世界の理系を敵に回す様な発言だな。今流行りじゃん、理系女子」
「そんな流行りに軽々と迎合する様な安い女じゃないのよ、私は」
そう言って、綾乃は乱暴にポットを掴み、カップに紅茶を注ぐ。一体何が綾乃の琴線に触れたのか、浩太は首を捻りながらその姿を見つめる。
「……良く分からない話をしても仕方ないわよ」
「そういうもんか?」
「そういうモノよ。下手な考え休むに似たり、って言ってね」
そう言って、綾乃はカップの紅茶を静かに口腔に流し込む。暖かい液体が綾乃の喉を通り、その熱を保ったまま胃に落ちた。
「……その……悪かったわね」
「なにが?」
「さっきの……あの、テラ公爵に言ったこと」
「……ああ」
先ほどの情景を思い浮かべ、浩太は苦笑を浮かべる。
「……別に、謝るほどの事じゃないよ。というか、謝るぐらいなら最初から言うなよ?」
「だって……なんとなく、浩太をバカにされてる気がして……つい、かっとなってやった。今は反省しています、はい」
口を尖らせながら、それでも殊勝に頭を下げて見せる綾乃に、苦笑を浮かべたまま浩太はポンポンとその頭を撫でる。黒曜石を思わせる綺麗な黒髪が浩太の指の隙間を滑って抜けた。
「……あながち、お前の言ったことも間違いじゃないから」
「……ホント?」
「まあ、ある程度気を張って生きて来たのは嘘じゃないから、さ。少しずつ良くなってくる街が嬉しくて、それで頑張って……」
「あの公爵様が言っていた『コータを苦しめた』って言うのは、それ?」
「……まさか」
街が発展していくのは、嬉しかった。ドンドン大きくなり、豊かになり、生活に張りが出てくるような、そんな生活は確かに、確実に楽しかった。
「……怒鳴り散らしたんだよ、俺」
え? という声が、浩太の眼前から聞こえた。
「……ラルキアとライムの間で戦争が起きてさ。テラは色んな国の色んな商会を誘致した、一種アメリカみたいな感じになっていたから。アメリカは『アメリカ人』っていう括りがあるけど、テラではアイデンティティはそれぞれ祖国に残したまま、箱だけ作ってそこに無理やり押し込んだ様なものだから……」
――だから、壊れた。
感情という、人間に起因する最も大事なモノを忘れ――見ないフリを続けて、無理やり作り上げた、歪なテラという街のシステムは呆気なく崩壊して。
「『何とかして下さい』って言われたんだよ。『貴方なら、何か方法があるでしょう?』って、そう言われて」
苦笑。
「……お前ならわかるよな、綾乃。俺さ、そんなに能力高い訳じゃないんだよ。出来る事を一生懸命する事しか出来ないんだよ。知ってることなら良いよ。出来る事なら良いよ。でもな? 知らない事を解決する事なんて――」
――そんな能力は、無い、と。
「……」
「だから、怒鳴った。机をたたき、声を荒げ、出来る事しか出来ないと……そう言ったんだ」
「……」
「……苦しめた、なんて、そんな事無いさ。ただ単に期待され、それに応えられないから感情的に怒っただけだよ」
格好悪い話だけどな、とそう言って、苦笑そのまま綾乃を見やり。
「ちょ、あ、綾乃! な、なんでお前が泣くんだよ!」
その後、焦る。言われた綾乃は『え?』という表情を浮かべ、自らの目元をゆっくりと拭い。
「あれ? 私、泣いてる?」
心底不思議そうに、綾乃が首を傾げた。
「泣いてるよ! がっつり泣いてる! 今の話、何処に泣く要素があるんだよ!」
笑い飛ばされるであろうと想像した、浩太の想像とは真逆の目の前の情景にイメージがついていかない。立ち上がり、綾乃の傍に駆け寄ろうとした浩太を綾乃は手で制す。歩みを止めた浩太をみとめ、両の手でぐしぐしと自らの眼を拭った後、綾乃は笑顔を浩太に向けた。
「……ねえ、浩太?」
「なんだよ! っていうか、お前、涙――」
「大丈夫、もう止まったか――」
「――が零れて、しかもそんな拭き方したから、化粧が酷い事になってる。綾乃さん、マジタヌキ」
目の下に黒々とした化粧後を残し、まるで歌舞伎の隈取の様な姿になっている綾乃の姿は、正にタヌキそのもの。シリアスは裸足で、しかも全速力で逃げ去った。
「……」
「……」
「……ブッ飛ばされるか、頭を下げて赦しを乞うか、好きな方を選びなさい?」
綾乃のその台詞に、浩太は何も言わずに後者を選ぶ。『良いって言うまで頭を上げるな!』という綾乃の命令を愚直なまでに守り続け。
「……もう良いわよ」
やがて上げた視線の先には、すっかり元の顔に戻った綾乃の姿があった。くしゃくしゃになったハンカチがポケットから覗いている所を見る限り、必死の修復作業が行われたのであろうが……それを突っ込む程浩太は野暮ではなく、また命知らずではない。
「……こほん。何だか変な雰囲気になったけど……ま、これも私達らしくて良いかな?」
「明らかにお前の一人相撲だけどな」
「言うな! こ、こほん! えっと……ねえ、浩太?」
「なんだよ?」
「そ、その……」
何時になく歯切れの悪い綾乃の仕草。その仕草を訝しみ、声をかけようと口を開きかけて。
「……私と一緒に、ラルキア王国に来ない?」
「――っ」
喋りかけた口を、思わず噤む。その姿を視界に入れて、綾乃は言葉を続けた。
「ラルキア王国に来てくれるのであれば、相応の待遇は約束する。仕事をしなくても、暮らせるだけのお金を支給して貰う事も約束できる。家だって用意するし、ある程度の希望は叶えてあげられる。怒る事も、怒鳴る事も、机を叩き付ける様な行為をしなくても暮らせる生活を約束できる」
「……ははは。すげーな、それ。超好待遇じゃん」
「『ラルキアの聖女』だもん。それぐらいの権限はあるわよ。大体、私達二人が別々の所で暮らすのって、効率が悪いと思わない?」
「効率?」
「良く知らない土地で、良く分からない風習よ? 元の世界に帰ろうと思ったとしても、一人で頑張るより、二人で頑張った方が良いでしょう? 支え合うことだって出来るし、相談だってし易い。たまには和食だって食べたくない?」
「そりゃ……まあ」
「浩太、どうせ料理苦手でしょ? 私だったら和食ぐらい作れるわよ? 何せ醤油だってあるんだもん、ここ。何だって作れるわよ」
「……」
「そうやって、二人で暮らした方が絶対効率が良いわよ。だから――」
そこまで喋って。
「……綾乃?」
不意に、綾乃はその口を閉じる。訝しむ浩太の視線と自分の視線が絡んだ事に気付き、苦笑を浮かべて。
「……ああ、もう! 本当に……私は、ダメダメだな~」
「……は?」
「ラルキア王国に来れば、相応の待遇は約束する? 仕事をしなくても、お金を支給して貰う? 二人でいる方が効率が良い? 支え合う事が出来る? 相談だって出来る? 和食が食べたい……は、ま、いいか。胃袋掴むのは基本だし」
「ちょ、綾乃? 本当にお前、何言ってんだよ?」
「あの時、決めた筈なのに。失いたくないって、きちんと答えておけば良かったのにって。いざ目の前にいるとこんな事しか言えないなんて……もう、本当に情けないわね、私」
不意に、綾乃はその口を閉じて静かに席を立つ。急なその綾乃の行動に、不審げな顔を浮かべる浩太の元まで一歩、また一歩と歩みを進め。
「あ、綾乃? そ、その……ち、近く――」
お互いの距離が、ほぼゼロに。手を伸ばせば、そのまま抱きしめれてしまうほどの近距離に、浩太は思わず制止しようと口を開きかけ。
「ちょっと、黙っていなさいよ。男が一々動揺しない」
その口を、人差し指で制される。浩太より頭一つ低い綾乃のその行動に、慌てた様に視線を下に向けて。
「――っ」
笑顔の綾乃と、目があった。吸い込まれる様なその視線を見つめていると、やがてゆっくりと綾乃の口が、開き。
「――月が、とても綺麗ですね」
紡ぐ、ワンセンテンスの、愛の詩。
「……貴方の傍に居たい。貴方と笑い合いたい。貴方と暮らしたい。この、異世界で私が望むのは貴方だけ」
私は――大川綾乃は、貴方の傍に、『松代浩太』の傍に、居たい、と。
「……私が願うのは、それだけ。それだけ叶えば、私はもう何もいらないわ」
純粋な、愛の言葉。
飾る事をよしとせず、愚直で、バカみたいに正直で、まっすぐで、だからこそ、浩太の心を震わせる、言の葉のラブレター。
「……役不足、って言ってなかったか?」
そんな真正面からの告白に、動揺した浩太が明後日の方向に答えを投げる。そんな浩太の動揺が可笑しく、可愛く――そして、少しだけ嬉しい綾乃はその投げ捨てられた会話のボールを律儀に拾いあげた。
「ちゃんと意味は調べた?」
「……ああ」
「私は『ラルキアの聖女』で、貴方は『ロンド・デ・テラの魔王』でしょ? 古来より、魔王は聖女を攫うのがお仕事じゃん」
「魔王が攫うのは聖女じゃなくてお姫様だと思うけど?」
「細かい事は良いのよ」
「それに、これはむしろ聖女に魔王が攫われている感じがするが」
浩太のその言葉に、くすりと笑い。
「それじゃ……『魔王』様? 私を――この、『聖女』を」
どうか、攫って下さいませ、と。
「私の体ではなく、心を。貴方を想い、思う、私の心を、貴方しか見えない程、貴方を慕う私の心を……どうか、攫って下さいませ」
月明かりに照らされる、中庭で。
スカートの端をちょんと摘まんで見せ、芝居がかった大袈裟な身振りで頭を下げて見せる、綾乃の姿の、なんと神秘的で――美しい事か。
「――あ」
――『ラルキアの聖女』
その言葉が相応しい、そんな綾乃のいつに無い姿に思わず浩太が息を飲む。
「……今すぐ、答えが欲しいって訳じゃないの。でも、考えておいて」
その仕草も、一瞬。照れた様に耳まで真っ赤に染めた綾乃は、まるで何事も無かったように頭を上げて、早口にそう言う。
「……綾乃」
「あーあー! 聞こえない! っていうか、恥ずかしくて死ぬ! 死んじゃうから、もう帰るね!」
脱兎のごとく、という表現が似合う様な速度で浩太から距離を取り、来た道を早歩きで帰ろうとして、盛大にすっころぶ。『みぎゃ!』っという、先ほどまでの神々しいイメージとはおよそ遠くかけ離れた残念なその声に。
「……ぷ……くっくく……はははははは!」
浩太はたまらず、声を上げて笑う。立ち上がり、パンパンと服についた泥を払った後、綾乃は浩太を睨みつけた。
「……あのさ? 普通、笑う?」
「いや、ご、ごめ……くっくくく……」
「浩太!」
「わ、悪い悪い! で、でも……」
笑いを噛み殺し、それでも殺しきれない笑いが漏れる浩太を半眼で見やり、諦めた様に大きく溜息をつく。
「……なれない事、するモンじゃないわね。大恥かいたわよ」
「いや……でも、き、綺麗だったぞ?」
「笑いながら言わないの! もう……何か興がそがれたわよ」
「やり直すなら、付き合うけど?」
「私に恥ずか死ねと言うの? それに、あれは……私の本当の気持ちだから。やり直しなんていらないわ」
そう言って、もう一度綺麗な笑みを浮かべて。
「次いでだから言っておく。もし、『召喚したのは俺だから』なんて責任を感じているのなら、そんな責任感で答えを出すのは辞めてね? 同情で傍にいて欲しいんじゃない。私は、心の底から私を欲してくれる貴方と一緒に居たいの」
「……ん。わかった」
「そう。それじゃ――」
そう言って、背を向け歩き出し……その動きを止める。宙をみつめ、あーとか、うーとか、奇妙な声を上げだす綾乃。
「……宗教?」
「宙を見つめ奇声を上げるって、どんな宗教よ! そうじゃなくて……ああ、もう!」
そう叫び、人差し指をビシッ! と浩太に向ける。
「いい! 私は別にフェアプレイが大好きなんて殊勝な性格はしていないし、敵に塩を送って自らを追い込む様なドMな性癖は持ち合わせていないの! 正々堂々、後ろから音も出さずに不意打ちする方が性にあってるわ!」
「まさかのヒール宣言? なんで今それを言うんだよ」
「だ、だから……そんな殊勝な性格はしていないんだけど、それでも、その……貴方だけには『フェア』で居たいのよ。だから、本当はこんな事言う義理も、言う必要も無いんだけど」
言い淀み。
泣き笑いの様な、そんな表情を浮かべながら。
「私の知ってる『浩太』はお客様は勿論、同期にも声を荒げたり、怒鳴ったり、ましては机を叩き付けたり……そんな事、『感情的』にする人じゃなかった」
その表情に、思わず言葉に詰まり。
「……そんな事、ないさ。春風堂さんにだって――」
その浩太の力の無い反論に、黙って綾乃は首を横に振って。
「……全然、違うよ? 浩太だって、分ってるでしょう?」
そこまで喋り、パンと両の手を打ち鳴らす。
「――ああ、辞め辞め! この話はこれでおしまい! とにかく、貴方は貴方の気持ちのまま行動してくれて、その上で私を選んでくれたら嬉しいって事! おっけー?」
「あ、ああ」
捲し立てるように一気に早口でそういう綾乃に、気圧された様に浩太は思わず頷いた。その浩太の行動に満足したように一つこちらも頷き、『じゃあ!』と背中を向けて綾乃はもと来た道を、今度は転ぶことの無い様にゆっくりと歩んだ。
「……」
その背が角を曲がり、すっかり見えなくなるまで見つめ、浩太はポットに残った紅茶をカップにうつす。すっかり冷えた紅茶を一気に飲み干して。
「……にが」
気持ち同様、長時間置いた事によりすっかり苦くなってしまった紅茶を飲んだ浩太の感想が、優しく月明かりが落ちる中庭に零れ、誰に聞かれることもなく溶けて消えた。




