第五十二話 魔王の魔法がとける時
ファンタジーにお引越ししました、どうも疎陀です。ええ、ファンタジーですので多少『え?』って思ってもスルーして下さい。ファンタジーですから。ファンタジーですから! 幻想的で空想的なお話ですから! あんな銀行員いねーよ! とか言わないで。ファンタジーですから!
……免罪符だな、ファンタジー。
冗談はともかく、今回はちょっと長いです。どれくらい長いかというと、いつもの倍です。ですので若干読みにくいかもしれませんが、宜しくお願いします。
大川綾乃という人間は、自分の事を『普通の人とは少し違う』と思っている。
大川綾乃は父、大川修二、母、大川梢の長女としてアメリカ・シアトルで生を受ける。東大三年中退、外交官試験突破の父と東大卒業外交官試験合格のエリート夫婦の間で生まれた子供である。
サークルで先輩後輩の間柄であった二人だが、一目で梢に骨抜きにされた修二は一念発起、『先輩と同期になるには今しかない!』という理由で三年中退で外交官試験に受かったという、今ならストーカーで訴えられても可笑しくない程の……良く言えば情熱的な人間だった。少なくとも、キャリアウーマンとして今後世界を股にかける仕事をするであろう梢に対し、『先輩の外交官人生を俺にくれ。その代り、普通の主婦として、最高の人生を約束するから!』とプロポーズした辺り、修二が情熱的な人間であった事は間違いない。
そんな二人の愛情をたっぷり受けた綾乃はすくすくと成長する。外では英語、家の中では日本語、父の趣味で中国語、母の趣味でフランス語、とまるで臨界期仮説を証明するかのように、綾乃はわずか五歳でその四言語を日常会話レベルではあるが、と注釈がつくもマスターした。
『人種のるつぼ』と呼ばれる多民族国家アメリカで、綾乃の『四か国語が喋れる』という能力は子供社会において重宝された。惚れた女の為に無茶をするほど意志の強い父の影響もあってか、近所の悪ガキ共と毎日真っ暗になるまで時に泣き、時に怒り、時に喧嘩をし、それでもいつも笑って過ごす綾乃は、いつの間にか純然たるガキ大将の地位を築いていった。
綾乃に転機が訪れたのは十一歳、小学五年生の時である。父の仕事の都合で日本へ帰国する事になったからだ。
慣れない土地、慣れない環境、馴染めない生活環境。
幼いころからアメリカで暮らした綾乃にとって、『黙っている事が美徳』『本音と建て前を巧く使い分ける』という、日本人独特の風習にどうも馴染めなかった。事あるごとにクラスの皆と衝突し、事あるごとに皆と対立し――そして、最終的に孤立した。異物を嫌う日本の学校は綾乃を排除したがり、綾乃はイジメの標的になった。
靴を隠される、教科書を捨てられる、体操着に牛乳をかけられる、机に落書きされる。ありとあらゆるイジメのスタンダードを受けた綾乃。
イジメの根深い問題は、イジメの加害者側が『恰好悪い』という意識がない事よりも、『イジメられている』被害者側がイジメられている自分を格好悪い事だと思う、という点にあると私見ながら思う。『早く先生や親に相談すれば良いのに』と有識者諸兄はそう言うが、それを告白する事はいじめっ子に立ち向かうよりも勇気のいる事であり、『死ぬ気になれば何でもできる』なんて言うのは所詮机上の空論に過ぎない。死んだ方が楽だと思う事は、世の中にはたくさんあるのだ。
御多分に漏れず、綾乃も両親や先生にその事を相談出来なかった。四か国語を操る才女で、アメリカでは仲間の中心人物だった自負もあるし、何より綾乃は気が強い。悩み、環境のせいにし、皆を憎んだ所で、綾乃は気付いた。何とも簡単な解決策がある、その事実に。
――綾乃は反撃したのだ。しかも、口で反論などの生易しさではなく――拳で。
下駄箱に靴が無い事に気付いた時は近くにいたクラスメイトを殴った。教科書を捨てられた時は、隣の席の生徒を殴った。体操着に牛乳をかけられた時は、給食当番を殴った。机に落書きをされた時は、クラスで一番綾乃をイジメた人間を殴った。殴って殴って殴り続けたのである。終いには話しかけられただけで殴る、目があっただけで殴ると、まるで暴風の様な綾乃の所業はとどまる所を知らなかった。ついたあだ名が『狂犬』である事から、綾乃の悪行が知れるというモノであろう。
女の子が毎日痣だらけで帰ってくる事に幾ばくかの不信感を持ちながらも、アメリカ時代は毎日泥んこになって帰って来ていた綾乃である。まあ、そう言う事もあるのだろうと、ある程度達観していた修二に、綾乃の『悪行』が耳に入る。修二は娘である綾乃をしこたま殴り一言。
『仮にも外交官の娘が最初から拳骨で解決しようとするな! 別に、お前がどう思って、どう行動したかまでは問わない! 暴力が不要だとも言わない! でも、まずは対話だ!』
イジメた人間を罵るでも、イジメられた事を詰るでも無い。暴力で解決するそのスタンスを怒鳴られた。考えてみれば相当酷い話ではあるが……流石にもう、六年生。今後の事も考えれば、あまり派手な行動を避けるべきと判断した綾乃の『暴走』はすっかりナリを顰めた。尤も、その頃には誰も綾乃に近寄ろうとはしない、最早腫物扱いであったが。
小学校を卒業した綾乃はそのまま私立のお嬢様学校に通う事になる。内申点で鑑みれば狂犬が良く受かったものではあるが……その辺りは色々と大人の事情的な事も絡む。純粋に、綾乃の成績が良かった事もプラスに働いた。
旧華族のお嬢様や政治家の娘が通うようなその学校は、良くも悪くも非常に『我』が強い学校であった。誰もが『私が一番!』と思いながら生活をするその環境の中では、綾乃の性格は大して目立つことも無く、ばかりか流暢に外国語を操り、テストで上位に名を連ねる綾乃は次第にクラスの中心人物になっていった。ちなみに、小学校まではクラスで一番背が高かったが、そこで成長期が反抗期を迎えた綾乃の身長が中高六年で二センチしか伸びず、『綾乃は本当にちっちゃくて可愛いね~』などと、殆どマスコット並の扱いを受けた事も特記しておく。
数人の親友と、数十人の友人が出来た綾乃は涙を流しながら高校を卒業、ストレートで日本の最高学府に合格を果たす。両親の、所謂『宮仕え』の辛さを間近で見て来た綾乃にとって、キャリア官僚になるなんて頭は最初からなく、大学三年の冬から始めた就職活動で初めに内定を貰った会社にあっさり就職を決めたのであった。
◇◆◇◆◇◆
綾乃が就職を決めた住越銀行に限らず、銀行業界には所謂『名門店舗』と呼ばれる支店が幾つかある。別に、都内の店舗だけが名門の訳では無い。政令指定都市にある中核店舗であったり、或いは旧財閥系銀行であれば銀行のみならず財閥本社の創業の地にある店舗だったり、所縁のある店舗だったりがそう呼ばれる。無論、都内の店舗でも『過去に頭取を輩出した』などという店舗は名門店舗と呼ばれたりする。
綾乃が配属された店舗はその『名門店舗』の一つ、住越銀行丸の内支店だった。四か国語を操る帰国子女、東大卒、父親が外務キャリアという家柄も考えれば、当然と言えば当然である。
「本日より丸の内支店でお世話になる事になりました、大川綾乃です。宜しくお願いします」
「同じく、本日よりお世話になります、松代浩太です。宜しくお願いします」
配属初日。
全員の拍手の中で迎え入れられた綾乃の隣には、スーツを着ていると言うよりスーツに『着られている』と言った方が良い様な、見るからにどん臭そうな男。
名門店舗に二人以上配属される、と言う事は、明らかに一人は『オミソ』である。名門は人員も多く、新入行員という箸にも棒にも掛からないお荷物を抱えても、十分回る体制になっているから、『優秀な子を一人やるから、良く分からない奴も一緒に面倒見てくれ』と、こうなる事が多い。
「本日から当丸の内支店も新入行員を二名迎えての新体制になる。大川君?」
白髪を綺麗に七三に分けた支店長が二人を皆に紹介した後、顔に笑みを浮かべながら綾乃に振り返った。
「はい」
「確か君は英語と中国語、それにフランス語も話せたね?」
「はい。日常会話レベルですが」
「それだけ話せれば十分だ。何時かは君にも融資の方に行って貰う事になると思うが……取りあえず、為替からスタートしてくれ」
「はい」
「当行は今、女性の管理職の登用に非常に前向きだ。私が何を言いたいかわかるな?」
「わかります」
「よろしい。それでは大川君、頑張ってくれ! それで……そうだな、松代君には……おい、外交課長。君の所で面倒見てやってくれ」
「ウチで、ですか……はあ、まあ……よし、それじゃ松代! お前は外交課だ! しっかりやれよ!」
「は、はい!」
上司の言葉に、ガチガチになりながら頷く浩太を横目で見ながら、綾乃は胸中で溜息を洩らした。
『何だか、チョロそうな奴』
初めて浩太を見たとき、綾乃が抱いたのはそんな失礼と言えば、これ以上ない程失礼で――それでいて、あながち間違いでも無い感想だった。
浩太は毎日、何かしら先輩や上司に怒鳴られていた。
やれ、仕事の手が遅い、やれ、そんな仕事に何時まで時間をかけている、やれ、それだけ時間をかけるのなら小学生でも出来る。
毎日、ノイローゼになりそうな程怒られながら『出来ないんだったら最初からそう言え!』『やります! 全部、自分でやります!』なんて言いながらパソコンに噛り付いて毎晩毎晩残業。夜には銀行の規定集を両手いっぱいに抱えて持って帰り、翌朝には明らかに寝不足気味な顔のまま、出勤しまた怒られる。その姿は最早哀れを通り越して滑稽ですらあった。
「……はい、松代君」
入行して三か月ほどたったある日の事。こっぴどく上司に叱られ、『頭を冷やしてこい!』と怒られてトボトボと営業室を後にする浩太の背を追って、綾乃は銀行の屋上にやってきていた。
「大川さん……って、缶コーヒー?」
「そ。私の奢りよ。有難く飲んで」
「その……ありがとう?」
食堂の自販機で買った缶コーヒーをぐいっと綾乃に押し付けられ、頭に『なんで?』という疑問符を浮かべる浩太に、綾乃は溜息でもって応えた。
「目の下のクマ、酷い事になってるわよ? 銀行だってサービス業なんだからさ。そんな顔でお客様の所回っちゃダメでしょ?」
両手の人差し指で自らの目の下をなぞって見せ、綾乃はポーチから手鏡を取り出し浩太の前に鏡面を差し出す。鏡面に映った自分の顔に、思わず顔を顰める浩太。
「……男前が台無しだな」
「……うわ。面白くないよ、その冗談?」
「……大川さんって結構キツイよね? 普通そう言う事、思っても言う?」
溜息を吐いて肩を落として見せる浩太に、思わず綾乃は苦笑を噛みしめる。そんな綾乃の姿に、浩太の顔は更に情けないモノになっていた。
「……あの、さ」
「うん?」
「松代君、ちょっと頑張り過ぎじゃない? 昨日だって十時まで残業してたんでしょ?」
「ああ……まあ、ね。いや、分ってんだよ? これだけ経費削減、経費削減って言われてるのに無駄に人件費かけちゃいけな――」
「そうじゃなくて」
浩太の言葉をやんわりと遮り。
「……知ってる? 小林君の事」
「……辞めたらしいね。この間、中野が電話かけて来たよ」
「彼、大森支店だったでしょ? 回収業務が随分辛かったみたいで」
大森支店は住越でも繁忙支店の一つだ。上場企業とは資本の厚みが格段に違う中小零細企業をメインに相手にしているだけあり、風向きがちょっと変わっただけで一気に会社の屋台骨が傾く様な企業がザラにある。業況の悪くなった会社は当然現金がなくなり、決められた期日に貸出金の返済が出来なくなる。この貸出金を『延滞債権』と呼び、返済が三か月以上滞る、或いは『リスケ』と呼ばれる条件変更を行うと回収困難な債権、つまり『不良債権』と呼ぶのだ。この不良債権を回収するのも銀行の立派な仕事の一つであり……叶うなら、銀行員がやりたくない仕事の最たる物であろう。
「同期が辞めちゃうのは寂しいしさ。あんまり根を詰め過ぎずにやろうよ?」
「まあ、そうなんだけど……ほら俺、要領悪いから」
「要領が悪いって……」
「容量も少ないし」
「だから、面白くないって」
「ごめんごめん。でもさ……俺、本当に一から覚えなきゃダメなタイプなんだよ」
「だからって毎日毎日規定集持って帰る? しかもアレ、全部読んでるんでしょ?」
「一応。まあ、殆ど読んでるだけ、だけどさ」
「ちなみに昨日、何持って帰ったの?」
「為替規定集」
「……それ、意味なくない? だって松代君、外交でしょ? こんなの言ったらダメかも知れないけど……為替係の私だって読んだこと無いよ、そんなの」
「むしろ凄いよね、それ。逆に感心するよ」
「そう? 一か月ほど仕事してれば自然に覚えるわよ」
「……凄すぎて参考にならないよ、大川さん」
苦笑を浮かべながら、残った缶コーヒーを一気に煽る。丁度その時、階下から『松代! 何時までサボってる!』という上司の声が聞こえて来た。
「と、やべ! そろそろ戻らないと! コーヒーありがとう、大川さん!」
「空き缶! そんなの持って行ったらまた怒られちゃう! ほら!」
「サンキュ! それじゃ大川さん、また!」
「あ、松代君! 私の言ったこと――」
「分かった! 気を付け「松代ぉ!」いま行きます! それじゃ大川さん!」
慌てて階段を駆け下りる浩太に『危ないよ!』と声をかけ、綾乃はその背を見送って。
「……頑張りすぎるなよ、サラリーマン」
ポーチの中に、自らの缶コーヒーを入れっ放しだった事を思い出した綾乃はそれを黙って取り出し、手摺に置いた空き缶にそれを合わせる。カチンという乾いた音だけが、屋上に木霊していた。
◇◆◇◆◇
入行から半年、綾乃は外交係に異動になった。担当地区は浩太の後で、銀行的に全く魅力の無い土地である。それでも誰かが回らなければならない地区であり、幾ら期待をされていると言っても新入行員である綾乃を回らせて置くのが最もベターな地区ではある。
「よ、大川さん」
三連休明けの火曜日。友達との予定も入れず、家でのんびり読書などを嗜んだ綾乃は、眠い目を擦りながら出社していた。悪いのはハリーだ。
「ああ、松代君。何か久しぶりだね、同じ店なのに」
「ま、外交と為替は階も違うしな。それで、どうよ? 外交楽しいか?」
「普通……かな?」
「普通って……何ていうか、流石大川さんだよね。俺はもうヘロヘロだよ。為替って緊張するよな」
「そう?」
「……ま、大川さんだもんな。楽勝でしょ? 為替も外交も」
「別に楽勝って訳じゃ……あ、でも金曜日が嫌い」
「金曜日が嫌いって……ああ、春風堂さん?」
「そう。毎週毎週、金曜日に集金。大した預金も、貸金だって無いのにいっつもいっつも一時間も二時間も拘束されて延々と同じ話を……大体、戦時中の話なんてされても興味湧かないわよ? 『今の若いモノは本当に恵まれている』なんて、別に、今の若者に産まれたのは私のせいじゃないし」
住越銀行丸の内支店の取引先には、創業二百年を越える老舗の和菓子屋、『春風堂』がある。幕末、住越財閥の祖が伊豆の片田舎から一旗揚げるために江戸に出て来た際、信用も金もない若僧に黙って軒先を貸してくれた縁が連綿と続いている……言ってみれば、義理と人情だけで取引が続いている、全くお金にならないお客様である。
「まあそう言うなよ。あの和菓子屋が無かったら、住越グループは無かったんだからさ。そうなると俺らもこうやって銀行員なんてしてないんだし」
「別に良いわよ。住越が無かったら私、東京総和銀行に行くもん」
「……まあ、大川さんはそうだろうけど……で、でも! 良く話を聞くと面白いぞ、あのお爺さんの話。ほら、長田常務の話」
「ああ……長田常務が新入行員の時に、お茶会に付き合って足を痺らせてこけて、当時の支店長のカツラをずらした話?」
「そう! 長田常務が真っ青になってあのお爺ちゃんに『お願いします、助けて下さい!』って言って!」
「興味ないわよ、そんな話。大体長田常務なんて逢った事も無いしさ」
「何と言うか……本当に一刀両断だよね、大川さん」
「そりゃそうでしょ? 大体、百年以上も前の恩義を後生大事に抱えてどうするのよ? 人間が月どころか火星にまで行く時代よ?」
「……火星なんて行ってたっけ?」
「言葉のアヤよ! とにかく、それだけ時代は流れてるって事! そんな時代に恩だの義理だの……」
阿呆らしいと頬を膨らませる綾乃に対し、宥めるような苦笑を浮かべる浩太。気持ちは分らないでも無いが……まあ、怒り過ぎだ。
「まあ、そう言わずに。とにかく仕事、頑張ろうぜ? あ、そうだ! 今週辺り久々に同期で飲みにでも行こうか? 俺、幹事するし」
「あ、それいい! よし、それじゃそれを楽しみに金曜日の苦行を乗り切りましょうか!」
「苦行って……ま、とにかく頑張って仕事しようか」
「おっけー。それじゃまたメール頂戴ね!」
浩太と別れて、綾乃は足取りも軽やかに二階の外交席に向かう。上司に挨拶をし、『なんだ? 休み明けなのにご機嫌だな』なんて言われて『分ります?』と笑顔で返し、デスクに座りパソコンを立ち上げる。一週間の予定がずらりと表示され、『朝十時、和菓子屋』と書かれたスケジュールにうんざりしながら、それでもその上に『同期会』と新たなスケジュールを加えることで少しだけ溜飲を下げ――
「――大川さん。春風堂様からお電話です」
金曜日。
時計の針が四時半を回り、終業まであと三十分ちょっと。上司に『今日は定時であがりますから!』と宣言し、意気揚々とさて、帰り支度に取り掛かろうか! とした矢先の事である。内心うんざりしながらも、電話交換の女性に内線に繋いで下さいと告げ、保留ボタンを押した。
「お電話変わりました、大川です」
「ああ、大川さん? 春風堂です」
「いつもお世話になっております」
「こちらこそお世話になっております。あの、大川さん? 今日預かって帰って貰った振り込みなんだけどね? 確かに処理してくれたんだよね? 先方さんからまだ入金になってないって、電話がかかって来てるんだけど」
「振込?」
「そう、振り込み。通帳と伝票と一緒に渡したでしょ?」
何の事ですか、と尋ね返そうとして。
『それでは失礼します、社長』
『それでは……ああ、すっかり忘れていました。今日、大事な振込があるんです』
『振込、ですか? 今日はもう物件もしめてしまいましたし、当行にお持ち頂く、或いは来週の金曜日ではいけませんか?』
『申し訳ございません。今日は少しバタバタしておりまして……それに、今日中に振込むと先方さんにお約束していまして……無理、でしょうか?』
『いえ……はあ、わかりました。それではお預かりして帰ります』
綾乃の頭に、今朝の春風堂との会話がフラッシュバックする。
「……ふ、振込、ですね。か、確認してお電話折り返しでも構いませんか?」
言葉に詰まりながら、何とかそう返す。手は震え、喉の奥がカラカラに乾く。振込? ああ、そうだ、確かに預かった。だが、集金と一緒に回して――
――――本当に?
預金係に現金と伝票は持って行った。でも、為替の伝票は? 振込の領収書、帰って来た? 通帳と一緒に、預かる物件の袋に放り込んだ? いや、確かに回し――
「そりゃ構いませんが……先方さん、この入金が無いと手形が不渡りになるってカンカンでして……出来れば早めにお願いしますね?」
――綾乃の顔から、血の気が引いた。『先方様からかかってきた電話は相手が切るのを待ってから受話器を置くように』と、最初の研修で教えて貰ったビジネスマナーのイロハのイを忘れたかの様にガチャンと音を立てて受話器を置き、綾乃は巧く動かない足を必死に動かし、三か月前までの職場である為替係へ走る。
「松代君!」
「ああ、大川さん? どうしたの、血相変えて? 定時までもうちょっとあるよ? あ、もしかしてまた俺が残業するって思った? 大丈夫! 今日はもう――」
「振込!」
「――仕事終わった……って、え?」
「春風堂の振込! 今日、春風堂の振込回って来てるかな!」
「しゅ、春風堂さん? いや、今日は処理した記憶ないけ――って、大川さん!」
先ほど駆け下りた階段を、全力疾走で逆走。何度か躓きながら、ようやく二階に上がった綾乃は、そのままの勢いで外交鞄の置いてあるラックに辿り着き、外交鞄を開けて。
「……あった」
外交鞄の奥。ちらりと見える払出用紙と振込伝票に、綾乃は目の前が暗くなる。
「お、大川さん? どうしたの、そんなに慌て――」
鬼気迫る綾乃の態度に異変を感じ、綾乃の後を追って二階に上がってきた浩太が、綾乃の握りしめる伝票と振込用紙――その日付を見て、思わず息を飲んだ。
「お、大川さん……そ、それって……」
事の重大さに気付き、掠れた声を出す浩太。銀行員なら誰でも気付く、単純で……でも、絶対にやってはいけない、とんでもない、ミス。
「……未送信、だよね?」
銀行という職場は基本的にミスは絶対に許されない職場である。お客様は銀行を信じ、信頼して金銭を預け入れている以上、それを誠実に履行する義務が銀行にはあるからだ。
とはいえ、それは理想論である事は容易に想像できよう。銀行員だって人間、間違いだって当然ある。言ってみれば銀行は『ミスを起こさない様にする事』と『ミスが起こった後のリカバー』という二律背反する規制を同時並行で行っている訳だ。
「ふ、振込先! 振込先は!」
「と、東都東海銀行の広島支店……」
「他行で、しかも広島って……最悪」
そんな中で一番、『やってはいけない』事、それがこの『内国為替の未送信』である。
内国為替とは、要は振込の事である。振込は自行のみならず北は北海道から、南は沖縄まで、全国津々浦々まで資金を届ける事の出来る決済システムであり、全国の銀行が加盟するシステムに則って各銀行は振込の処理をする。時間制限があり、その時間を越えると。
「と、とにかく春風堂さんに電話! この振込、月曜日で良いか確認を!」
「だ、ダメだよ! だってこの振込が入らないと、相手の会社の手形が落ちないって!」
こうなってしまう。時間を越えてしまうと泣いても拗ねてももう、どうしようもない。翌営業日の朝一に資金を振り込んでしまうしかないのだ。
「どうした、騒々しい……と、松代じゃないか。久しぶりだな。どうだ? 為替の水は少しは慣れたか?」
「か、課長!」
「なんだよ、そんなに慌てて。うん? それ振込用紙じゃないか? いいか、大川? お客様から預かった物件はきちんとパソコンに入力し――」
そこまで喋り、外交課長も気付く。
「――大川」
「は、はい」
「これ……何処にあったんだ?」
「そ、その……」
「何処にあったと聞いている!」
「ひぅ! か、鞄の……お、奥……です」
綾乃の、その答えに。
「この……大馬鹿モンがぁ!」
フロア中に響く、怒声。花の金曜日、帰り支度を始める行員が何事かと手を止め課長と綾乃、それに浩太のいる方を見やる。
「お前、何考えてるんだ! どこの世界に当日処理する物件を握りこむバカが居るんだ!」
「す、すみま――」
「謝罪は良い! それで! この資金は月曜日でも大丈夫なのか!」
「い、いえ、そ、その」
「ダメなのか!」
「は、はい! 今日中に振り込まないと……あ、相手先の手形が落ちないって……」
綾乃の言葉に、先ほどまで顔を真っ赤に染めていた課長の顔が真っ青に変わる。
「手形が落ちないって……お前、それ不渡りじゃないか! おい、大川! お前、自分のしでかしたミスの大きさが分っているのか!」
「は、はい!」
「お前、今日一日ずっと浮ついていたよな? いいか? 金貰って仕事をしているんだぞ、このバカ!」
目に涙を溜め、震える拳を握りしめる綾乃。そんな綾乃の姿すら目に入らないのか、課長は身近にあった椅子に殆ど崩れ落ちる様に座り込み、額に手を当てた。
「……どうするんだよ、これ」
誰に問う訳でもない、自らの心から漏れた言葉。その言葉が綾乃の耳朶を打ち、堪え切れなくなった涙が一筋、頬を伝ってフロアに落ちた。
「……課長」
「……なんだ、松代。まだいたのか?」
疲れ切った表情を浮かべ、精気の無い瞳を浮かべる課長。それはそうだろう、仮にも銀行が預かった振込を処理し忘れたのだ。しかも、今日中に振込まないと会社が潰れてしまう。どれ程の損害賠償を請求されても、何も言えない程の大きなミスなのだ。
「その……課長、広島支店に知り合いの方はおられないのですか?」
「知り合い? 俺は東都東海の広島に知り合いなんて――」
「いえ、当行の広島支店です」
「ウチの? ……ああ、一人いるな。融資の課長代理をしている奴が」
「ではその方に直ぐに連絡を取ってください! まだ四時四十五分! 今日の勘定は四時五十分まで開いています!」
「お、おいおい松代。お前、何言ってるんだ? そりゃ確かにウチの勘定は開いてるが、振込勘定システムは」
「だから! 現金を持っていくんですよ!」
「げ、現金? 広島までか? そんなの出来る……」
言いかけて、課長が、何かに気付く。
「わ……け?」
課長の顔に精気が浮かんだ。先ほどまで青かった顔に、少しずつ朱が戻り、その興奮のまま、叫ぶ。
「でかしたぁ、松代! なるほど、その手があるか!」
「はい!」
「直ぐに付替の伝票を切れ! 宮野!」
「はい! 検印ですね?」
「そうだ! 俺はこれから直ぐに広島に電話を入れる! 小山、支店長に報告して直ぐに広島の支店長から東都の支店長に連絡入れて貰え! ウチから直接東都さんに連絡入れるより、広島の支店長から電話一本入れて貰った方が良い! 会議かパーティーか、どっかで顔ぐらいは逢わせてるだろう!」
外交フロアが急に慌ただしく動く中、綾乃は一体このフロアで何が起こっているか理解できないまま、呆然と立ち尽くしていた。そんな綾乃に気付いた課長が、声を張り上げる。
「大川! お前、なにぼさっと突っ立てる! さっさっと払出の伝票打て!」
「へ? は、払出? え……え?」
「かああああ! もう良い! 長澤! お前が打ってやれ!」
「ちょ、か、課長! 待ってください! その、一体何が! 一体、何が起こってるんですか? せ、説明! せつめ――」
「お前に説明している時間はねえ! あと五分しかねえんだよ!」
慌ただしく受話器を持ち上げ、広島支店のダイヤルを押しながら。
「一個言えるのは、だ」
通話口に手を当て、ニヤリと笑って見せて。
「松代に救われたってことだよ。俺も、お前も」
◇◆◇◆◇◆
「……不様だな、大川君」
「……はい」
「お客様から預かった物件を一日握りこむなど、銀行員として最もあるまじき行為だ。いいや、銀行員として、ではなく、依頼事項を完遂出来ないなどビジネスパーソンとしてもどうかと思う」
『無事に手形が決済出来ました。ですが、この様な事は今回限りにして下さい』と、東都東海銀行の広島支店より支店長宛に電話がかかってきたのは午後七時を少し回った所。支店長席の前に立たされ、唇を噛みしめて俯く綾乃の頭の上を、支店長の言葉が滑る。悔しくて、情けなくて、言い訳する気すら起きない。
「……もういい。それより春風堂さんだ。直ぐに謝りに行って来るんだ」
支店長の言葉に、綾乃は思わず顔を上げる。
「あ、謝りに、ですか?」
「……なんだね? 君は、自分のミスを自分で謝る事も出来ないのかね?」
「い、いえ! そ、そうではありませんが……その……一人で、でしょうか?」
この言葉は綾乃の責任逃れの言葉では無い。綾乃とて、自分のしでかしたミスの大きさも、そのミスの拙さも十分理解している。だが、綾乃のミスは、綾乃『だけ』のミスではない。銀行的には綾乃のミスだが、顧客から見れば『住越銀行丸の内支店』のミスだ。支店の長である支店長が頭を下げに行くのがむしろ当然であり、その旨を支店長に伝えたに過ぎないが。
「――君はこれ以上、私に頭を下げろと言うのか!」
支店長の怒声が飛ぶ。広島の支店長、東都東海の支店長、本部の為替担当と一日で下げ慣れない頭を随分下げた支店長。『名門店舗の支店長』という、その高いプライドをズタズタにされた怒りそのまま、綾乃に怒鳴り散らして席を立ち。
「……君には失望したよ、大川君」
捨て台詞の様にそう残し、乱暴にドアを閉めて営業室を後にした。その背をただ、呆然と見つめた綾乃は振り返り――気付く。
「――あ」
言葉は悪いが、支店長が『逃げ出した』案件である。敢えて自ら火中の栗を拾おう等というバカは。
「……大川さん、行こう。俺も前任担当だし、大川さん一人で謝りに行くよりは……まあ、枯れ木も山の賑わい程度だけど、マシだと思うし」
居た。困った様な、情けない笑みを見せる綾乃の同期。浩太だ。
「ま……つしろ、君?」
「ほら、もう七時回ってるよ? 春風堂さん、きっと待ってるから」
外交鞄と、お義理程度の粗品を掲げて見せる浩太。『はら、早く行くよ』という浩太の声に、綾乃はそのままその背を追った。
春風堂は住越銀行丸の内支店から徒歩で十五分ほど行ったところにある。決して豪華では無いが、関東大震災や東京大空襲を乗り切った古めかしい建物には歴史を感じさせる静寂さと、凛とした雰囲気が漂い、玄関先でのんびり煙草を燻らせる御年七十六歳に達する社長も合わせて、まるで一枚の絵画の様な印象をもたらしていた。
「社長!」
「うん? ……ああ、これはこれは松代君じゃないですか! 久しぶりだね、元気にしていましたか?」
「お蔭様で。社長は? お変わりありませんか?」
「この年ですからね。残暑は中々にきついですが――」
そこまで喋り、訝しんだような表情を浮かべる。浩太の後ろに、まるで隠れるように身を縮こまらせた綾乃の姿をみとめたからだ。
「おや、大川さんじゃないですか。どうしたんですか、そんな所で」
何時もの様に柔和な笑みを浮かべる社長。何か言おうとして、口を開閉し、それでも何も言えずに口を閉じた綾乃に、社長の表情が険しくなる。
「何ですか? 松代君まで来るという事は、あまり良からぬ話ですね。どうぞ、上がっていってください」
「宜しいのですか? その、こんな時間ですが……」
「玄関先でする話でも無いでしょう。おい、ばーさんや。お茶を三つ出してくれるかい」
入り口に顔を突っ込み、『はーい』と奥からの返事を聞いて満足そうに一つ頷きさあ、どうぞと浩太と綾乃を店内に通す。明りの消えた店内は、どことなく寒々しく、古さも相まって中々怖い。
「さあ、座って下さい」
店内で少しだけ飲食が出来る様に作られたスペースに腰を降ろした途端、浩太は勢いよく頭を下げる。
「大変申し訳ございませんでした、社長!」
「も、申し訳ございませんでした!」
浩太に続くように綾乃もテーブルにぶつける勢いで頭を下げる。急なそんな二人の態度に、社長は眼を丸くして驚いていた。
「ど、どうしたんですか、二人して。と、取りあえず、頭! 頭を上げてください!」
丁度、お茶を持ってきた奥さんが『あらあらお爺さん、こんな可愛いらしい子たちを虐めて……』などと声をかけ、尚も慌てる社長。
「い、一体何があったんですか?」
良いから奥に引っ込んでいなさいと、自らの奥方を返しそう問いかける社長。やがて頭を上げた綾乃はポツポツと、事の経緯を話し始めた。
「……」
綾乃の話を聞き終え、腕を組んだまま黙考を続ける社長。一体、その口からどの様な罵詈雑言が浴びせられるのか、その恐怖と羞恥で、綾乃は体を固くしていた。
「それで……先方さんにはご迷惑をかけないんだね?」
「は、はい! 無事に手形は決済できたと東都東海銀行さんから連絡頂きました」
「……ふむ」
組んだ手を解き、テーブルの上に乗ったお茶をゆっくり啜る。ズズーと音を立て啜った後、春風堂の社長はゆっくりと茶碗をテーブルに戻し口を開いた。
「……長田君の話をした事がありましたよね?」
「……はい」
「あの時の長田君も、今の大川さんの様に、殆ど泣きそうになりながら頭を下げて私にとりなしをお願いしてきました。幸い、当時の支店長は度量の大きな方でしたし、笑って長田君の非礼を許して下さいましたが……」
さて、大川さん、と。
「なぜ、私が長田君を助けてあげようと思ったか分かりますか?」
諭すようにそう問いかける春風堂社長に、綾乃は黙って頭を左右に振る。
「……わかりません」
「長田君は良く回って来て下さったんですよ。毎週金曜日、特に取引の多い客でも無いこんな小さな会社を回るだけでも面倒臭いでしょうに、『ちょっと近くを通ったから』とか『社長の作った饅頭、お客様の所に持って行ったら評判良くって! 十個ほど包んで!』とか……きっと、彼の仕事には何の助けにもならない事だったでしょうね」
そう言って、小さく笑い。
「住越さんは大きな銀行さんだ。日本を代表する様な企業さんだけではなく、世界を相手に御商売為されている。そんな貴方達から見たら……私の会社など、木端でしょう」
「そ、そんなこ――」
「事実でしょう、大川さん? 貴方は私共の所に来てもいつも面倒臭そうな顔をされていましたよね? 『こんな小さな会社、なんで私が回らないといけないんだろう』と、そう思っておられませんでしたか?」
「――っ!」
「気付かれない様に巧く誤魔化されていたのかも知れない。ですがね? 私が話し始めると『また始まった』と『毎回、長い話ばかりして』と、そう思っておられると顔に出るのですよ、貴方は。そして、私は貴方達より随分年齢が上です。そういうのは分ります」
そこまで喋って、社長は席を立つ。急なその社長の態度に『しゃ、社長!』と浩太は慌てて呼び止めようとするが、綾乃は動けなかった。
――気付かれていた。
――見透かされていた。
巧く誤魔化したつもりでも、年齢を重ねた人から見れば余りに拙い、そんな演技。情けなさに、思わず穴が有ったら入りたいそんな衝動にかられる。本当に、自分が消えてしまいたいと、居なくなってしまいたいと、そう思って――
「――かわさん? 大川さん?」
頭上にかかる言葉に、はっと顔を上げる。そこには柔和な笑顔を浮かべた社長の姿があった。手にはお饅頭を一つ、慌てて左右を見渡せば、浩太の掌にも同じ形のお饅頭が乗っていた。
「……これ……は?」
「どうぞ食べて見てください、大川さん。さあ、松代君も」
社長の行動に怪訝な表情を浮かべながらも、促されるまま綾乃はおずおずと社長の掌から饅頭を取り、口に運んで。
「しゃ、社長! こ、これ!」
声が上がったのは、隣の浩太から。綾乃はその饅頭を口に入れたまま、言葉を発せずにいた。
――甘い。
確かに甘いのだ。だが、この甘さは餡子の甘さではない。口の中で蕩ける様なこの感触は。
「やっと完成したんですよ。松代君の言っていった、『生クリーム饅頭』来週から店に出そうと思ってね? 試作品ですが……どうです?」
「う、美味いで――じゃなかった、美味しいです!」
「そうですか、それは良かった」
皺の多い顔を更にしわくちゃにしながら嬉しそうに微笑む社長は、笑みをそのままに綾乃に振り返り、まるで悪戯した孫を慈しむ祖父の様に優しく声をかけた。
「これはね、大川さん? 松代君が考えてくれたんですよ」
「松代君、が?」
「『周りに立派な百貨店もある。インターネットで各地のスイーツお取り寄せも出来る。このままじゃ社長、ジリ貧ですよ!』って。自分の孫程の年齢の子が、挨拶の初日にそんな事を言うのです。何て失礼な子だ、住越さんは何て行員を採用したんだと思いましたが……」
――でも、嬉しかった、と。
「松代君は口だけでは無かった。全国各地の売れ筋の甘味をグラフにして示してくれたり、余所の会社さんがどういう販売の作戦を立てているか調べてくれたり……金曜日だけじゃなく毎日通ってくれたり、ね」
「……」
「どれだけ大きな会社でも、どれだけ小さな会社であっても、会社と会社がお付き合いをする訳ではありません。結局、最終的にお付き合いをするのは人と人です。今回、大川さん。貴方は非常に大きなミスをした。それが、分りますか?」
「……はい」
「どんなに優秀な人でも、ミスは起きてしまいます。そのミスを起こした時、許そうと思うか、許せないと憤るかは今までの付き合いです。私は立派な人間ではありません。立派な人間では無い私は、私の事を蔑ろにし、軽く見ている貴方の事を、許す事は出来ません」
――絶望。
社長の言っている事は、びっくりするぐらいの正論である。優しくされたから、人は人に優しく出来る。自らを蔑ろにし、小馬鹿にし、『こんな小さな会社』と影口を叩いた人間を、どうして許す事が出来るだろうか。出来る訳ない、当たり前だ。
「ほ、本当に、申し訳――」
衝動的に頭を下げ、謝る綾乃の言葉を遮るよう。
「……ですが」
にっこり微笑み、浩太に視線を向けて。
「このお饅頭を考えてくれた松代君に免じて、今回の事は『忘れ』ましょう」
社長の、その言葉に。
弾かれた様に綾乃は顔を上げる。視線の先には、先ほどと変わらずニコニコと笑顔を浮かべる社長の姿があった。
「え……あ……わす……れる?」
「許す事は出来ません。ですが私は年寄りです、大川さん。最近物忘れも激しいですので、どうせ月曜日になればコロッと忘れていますよ。ですから、今週の金曜日には」
どうか、笑顔でお越し下さい。待ってますよ? と。
「ご……めんなさ……い」
……その優しい笑顔に、綾乃の涙腺は崩壊した。
「ええ、ええ。人間ですもの。ミスはありますよ」
「そ、そうじゃないです! そうじゃないんです! 私……私!」
「分っています。分っていますよ」
「ごめんなさい! 本当に、本当にごめんなさい! 謝って済む事じゃないのに、でも、その、本当に、あの……ごめんなさい!」
「ああ、ああ……泣かない、泣かない。ほら、折角甘いお饅頭がしょっぱくなります。それに、別嬪さんが台無しですよ?」
おずおずと、皺くちゃな掌で綾乃の頭をゆっくり撫でる。頭上に乗っかる暖かさと、少しの重みを感じながら、綾乃は夢中で饅頭を食べた。折角の社長の忠告も虚しく、饅頭は既にしょっぱくなってしまったが。
確かな暖かさを、綾乃は感じていた。
◇◆◇◆◇◆
「グス……ねえ」
「うん?」
春風堂からの帰り道。泣き崩れた綾乃に、『すげー顔』とボソッと呟いた浩太に反射的にぐーを操出し社長に大笑いされ、先ほどとは違う意味で穴が有ったら入りたいイベントがあったりしたが……最終的には『生クリーム饅頭』のお土産まで持たせてくれた。
「その……ありがとう、ね」
「俺は別に何にもしてないよ。春風堂の社長、良い人でしょ?」
何でも無い様にそう言って笑う浩太。その言をやんわり否定するように、綾乃は首を左右に振った。
「……私、春風堂なんて、ただ集金して話を聞いて帰るような、そんな会社だと思っていたわ。何の意味も無い、何の価値も無い会社だって……そう、思っていた」
「……まあ、ほら。確かに春風堂さんはお金が要る様な案件も無いし、そう思っても仕方ないよ」
「でも、貴方は違ったわ。春風堂さんに対してアイデアを出し、販売戦略を教え、新たな商品を生み出させた」
同じように集金に回り、同じように話を聞き……でも導き出した結論は真逆。
「ねえ……どうして? どうしてそこまで、春風堂さんに力を貸したの?」
純粋な疑問。その綾乃の疑問に対し、少しだけ照れた様に頬をかき、あーとかうーとか誤魔化そうとして……綾乃の真剣な表情に諦めたかのように溜息、一つ。
「……笑わない?」
「笑うわよ」
「そっか、じゃあ――って、笑う? 笑うのかよ!」
「笑わない? って聞くって事は面白い話でしょ? そんなの笑うに決まってるじゃない」
「お、大川さんって……やっぱり大物だよね」
はーっと、先ほどよりも大きく溜息。
「……俺は、さ。全然要領よくないんだよ」
「……」
「銀行業務なんて一遍しただけじゃ全然覚えられないし、規定集読んでもさっぱりわからない。一個ずつこなして行かなきゃ何にも出来ないんだ」
情けない話だけどと、自嘲気味に笑って。
「対お客様にしたってそう。こう、『それは凄いですね!』ってお客様に驚かれるようなアイデアは無いし、誰もが息を飲むような大きな案件を取ってくる事は出来ない。自分に出来ることなんてたかが知れてるから……だから、出来る事はちゃんとやろうと思ってるだけだよ」
「その……貴方に出来る事って、何?」
「お客様に、誠実に応対する事」
コーヒーでも飲まない? と、自販機を指さし、綾乃の返事も聞かずに缶コーヒーを二つ購入。はい、っと綾乃に一本手渡し浩太はプルタブを開けた。
「……何にも出来ないから、せめてお客様に対して一番良い銀行員になりたいんだ。自分がその会社を経営しているつもりで、一生懸命その会社に尽くしたい」
内緒だけど、実は春風堂さんとも喧嘩した事あるんだ、と笑って見せて。
「最初は社長も強情でさ。『ウチは和菓子一筋で二百年やって来たんです。今更洋菓子の真似事は出来ません』なんて。折角、良い経営資源だってあるのに、それを活かさないのは勿体ないじゃん? それを言ったら若いのに生意気だ! って……」
「……」
「俺も別に、甘いモノがそんなに好きな訳じゃないからさ。『じゃあもう良いです! 勝手にして下さい! 一生和菓子だけ作っておけば良いでしょう! 言っておきますけどね? 『作らない』と『作れない』は訳が違いますから!』って捨て台詞残して」
そう言って、何かを思い出したかの様に喉の奥をくつくつと鳴らす。訝しむ綾乃に、悪いと頭を下げて浩太は言葉を続けた。
「……次の金曜日、さ。何時もの様に集金に行ったら『ちょっと上がってください』って社長が言うんだよ。先週が先週だから、密室でボコボコにでもされるのかと思って上がったら……くっくくく!」
「溜めないでよ。なに?」
「テーブルの上に、ケーキ、ケーキ、ケーキ。苺ショート、チョコ、モンブランにチーズケーキ……どうしたんですか、これ? って聞いたらさ。『貴方が作れないと言っていたから、作ってみました。案外簡単ですね、洋菓子なんて』ってそっぽ向いて言うんだよ。社長温厚だけど、ああ見えてやっぱり江戸っ子だなって思って、孫ぐらいの人間にちょっと煽られたから作って見せるなんてどんだけ負けず嫌いなんだよって……もう、そう考えたら可笑しくって! つい吹き出したら、社長も一緒に笑い出して。二人でゲラゲラ笑いながらケーキ、食べたんだよ。甘いモノそんなに好きじゃないのに、ケーキバイキングだぜ? もう、どんな拷問だよって」
本当に可笑しそうに、そう笑って。
「……それで、ようやく社長も俺の意見に耳を傾けてくれだした。二人で試行錯誤しながら、ああでもない、こうでもないって」
「……」
「まあ、アレが本当に巧く行くかどうかは分らないけどさ。それでも何かを前向きにするって言うのは、悪い事じゃないって思うんだ。だったら、それを助けるのが銀行員として俺が出来る最大限の事かな、って」
飲み終わった缶コーヒーを屑籠に捨て、『それじゃ帰ろうか』という浩太に対して。
「ねえ」
「ん?」
「もう一個、聞いても良い?」
「えっと……なに?」
「あの、振込の未送信の事。松代君が一言言ったらフロア中が何だか盛り上がって、私も訳が分らないまま、何だか巧く行っちゃったけど……」
「……ああ。ほら、余所の銀行に振込するのは今日、四時二十五分までだろ? でも、当行宛なら四時五十分まで行けるでしょ?」
「ええ。確かに当行宛なら四時五十分まで行けるけど……」
内国為替の未送信事故で一番大きな問題はコレ、自分の所の銀行だけで解決できない所にある。決済システムを日本のほぼ全ての銀行が共有している為、システムの稼働時間を過ぎるともう、にっちもさっちも行かないのだ。
しかしながら、自分の所の銀行の支店同士となると少し話が変わる。他行宛の振込時間が過ぎた後でも、自行宛なら多少延長されるのだ。
「で、でも、春風堂さん、広島支店に口座なんて持ってないよ? それじゃ送金できないじゃん」
振込は該当支店に口座が無いと振込めない。住所が無い人に郵便物を出せないのと、イメージとしては同じである。
「まず春風堂さんから振込金額を払出すでしょ? それで、それをウチの広島支店の別段預金に振込むんだよ」
別段預金とは、銀行の預金種類の一つである。詳細は省くが、一時的に資金を預かる保管場所だと思って頂ければ差し支えない。
「別段預金に振込んだ後、広島支店の代理さんに別段から払出した現金を持って東都東海銀行さんに持っていって貰う。その現金を相手先の口座に入れて手形を決済すれば」
ほら、無事完成、と。
「そ、そんな事……で、出来るの?」
「今回は金額が二百万だったから。これが一億とか二億だったら無理だっただろうけど……月末で、お金が広島支店にあった事も幸いしたよね。東都さんも手形を落とすことを優先してくれて勘定合わせるの待ってくれたし……ラッキーだよ、本当」
「ら、ラッキーって! で、でもそれ!」
「ん?」
「な、なんで? なんで松代君はそんな方法知ってるの? 私、そんな方法、聞いたことも見たことも無いよ!」
「いや……まあ、ほら。規定集に乗ってるし」
本当に、何でも無い様に。
気負うことなく、笑顔すら浮かべてそういう浩太に、思わず綾乃の腰が砕ける。『だ、大丈夫!』なんていう浩太を手で制し、震える足に力を入れて綾乃は立ち上がった。
「もう……何て言うか……松代君の方がよっぽど大物よ。あの短時間でよくそんなの思いついたわよね?」
「為替だったら自分も一度ぐらいは遣りそうなミスだしね。いや、やらない様に気を付けてはいるけど……一応、知識として持っておいても良いかな、って」
「本当に……何だか、もう、びっくりし過ぎて言葉も無いわよ」
パンパンと裾についた誇りを払い、姿勢を正した後。
「――ありがとう、ございました」
丁寧に腰を折り、綾乃は浩太に頭を下げる。その綾乃の姿に、驚いた様に浩太は声を上げた。
「ちょ、大川さん! や、やめてくれよ、そんなオーバーな!」
「オーバーじゃないわ。貴方は私を……ううん、私だけじゃなく、春風堂さんも、春風堂さんの取引先も……住越銀行をも救ってくれた。そんな貴方に、私は本当に感謝しています」
――だから。
「――本当に、ありがとうございました」
浩太の制止も聞かず、頭を下げ続ける綾乃に。
「……頭を上げてよ、大川さん」
溜息と苦笑の混じった浩太の声。その声につられる様、頭を上げた綾乃の目に。
「前に大川さん、言ってくれたじゃん? 『同期が辞めるのは寂しい』って。アレ、結構嬉しくてさ」
そう言って、屈託なく笑う浩太の姿に。
「……あ、あれ?」
――綾乃の胸が『とくん』と一つ、小さく鳴った。
「同期愛、ってことで一つ」
「で、でも! それじゃ私が納得しない!」
同期『愛』という、そんな言葉の端を捉えるだけで、鼓動がドンドン早くなる。トクン、トクンと五月蠅くなるその鼓動の正体に気付かないまま、綾乃は焦った様に言葉を紡ぐ。その、あまりの剣幕に『分った分かった』と苦笑を浮かべる浩太。
「うん、まあ……それじゃ、『貸し』にしとく」
「そうして」
「それで……早速その『貸し』を返して欲しいんだけど?」
「……え?」
真剣な、眼差し。その眼差しで見つめられて、綾乃の鼓動の速度が再度早くなる。
……え? あ、あれ? こ、これって、あれ? 『貸し』を返せって、そ、そういう事? あ、あの、も、もしかして『付き合ってくれ』とか、そ、そんな――い、いやいや綾乃、そんな訳ないじゃん! だ、大体、私は松代君の事……そ、その、嫌いじゃないけど……い、いやいや、そうじゃないって! そんな一時の気の迷いで簡単に……で、でも、そ、その、今日は松代君に助けて貰ったし、で、でも、そんな事で、そ、その、は、『初めて』を……で、でも松代君なら、そ、その――
「は、初めてなので優しくして下さい!」
「……何言ってるの、大川さん?」
「……へ?」
パニックになり、殆ど叫ぶ様にそう言った綾乃の目に、困った様な浩太の顔と携帯電話が映った。
「……って、携帯電話?」
「今日の飲み会、もうとっくに集合時間過ぎてる! さっきからガンガン携帯なってるんだよ! 大川さん、一緒にあやま――大川さん? 何、そんなに怖い顔して」
「……貴方という人は……」
「な、なに? ど、どうしたの? え? なんで拳を握るの? え? え? 手伝ってくれないの?」
「手伝うわよ! というか、私のせいじゃない! それの何処が『貸し』を返す事になるのよ、このバカ!」
「え、ええ! いや、だって俺、幹事だし……」
「人がよすぎるわよ! 何時か騙されるわよ、アンタ!」
「ちょ、理不尽す――いたっ! なんで殴るの!」
「五月蠅い五月蠅い! 良いから! さっさっと携帯貸す!」
月明かりが優しく照らす、街の中。
怒りと、それ以上の羞恥で頬を染めながら――それでも、綾乃のその顔に浮かんでいたのは笑顔だった。
◇◆◇◆◇◆
その一件以来、浩太の評判は鰻上りに上がって言った……なんて事はない。大きな事故を巧く回避出来たのは確かに浩太の手柄ではあるが、銀行業務は基本加点主義ではなく、減点主義だ。一つ良い所があっても、それ以上の失点があれば容赦なく怒られる。相変わらず浩太の処理速度は一向に早くならず、階下から『何時までやってんだ、松代! さっさと回せ!』『はい!』なんて声は途切れる事無く続いていた。
「まーた怒られてる、あのバカ」
『おい、これ! なんで印鑑が押してないんだよ! 何年為替やってるんだ!』『一か月です!』『口答えすんな!』なんて、理不尽な怒られ方をしながら、それでもめげず、拗ねず、いつも通りに愚直なまでに一つの事を懸命にこなしている浩太の姿を想い、綾乃の口の端には笑顔が浮かぶ。
「本当に、仕方ないな~。ま、今日の仕事終わったら、ちょっと手伝ってあげよっかな?」
あの一件以来、綾乃は今まで以上に業務に励んだ。春風堂のみならず、各会社を回り疑問点や問題点を徹底的に洗い出し、一緒に考え、解決策を見出す。
『何だか松代君みたいな事するね、大川さん。同期だっけ?』
『はい!』
『そっか。それじゃ今年の住越さんは大当たりの年だね。ああ、大当たりって言っても君たちはあんまり嬉しくないかも知れないけど……いやね、こんな小さな会社の事まで、真剣に考えてくれる行員さんなんてあんまり居なかったからさ。俺たち的には大当たりって意味なんだけど』
あるお客様の所でそう言われた事がある。浩太がその会社を担当した期間はたった半年。その半年で、そのお客様は浩太の事を覚え、浩太の行った事に感謝し、確かに浩太の意思が宿っている様に見えた。それがちょっとだけ悔しく……でも、それ以上に、とても嬉しかったのを綾乃は良く覚えている。
『いいえ! そう言って頂けるのは、銀行員としてとても嬉しいです!』
浩太の事を褒められる度、綾乃の心はとくんと五月蠅いぐらいに高鳴る。『病気?』なんて誤魔化すつもりも、とぼけるつもりも無い。その頃には、綾乃はその胸の高鳴りの意味を十分理解していたから。
即ち――自分は、『松代浩太』に恋をしている、と。
「おかえり」
「ただいま」
やがて、入行して一年が経った頃。浩太は為替係を無事に終了し、外交係に戻って来た。
「アンタが色々してるから、私のお客さん未だに『松代君、松代君』って言ってるわよ? 前任が優秀だと、後任が苦労するの。もうちょっと手、抜きなさいよ」
「良く言うよ。こないだ東西建設工業の奥さんが振込に来たけどさ。綾乃ちゃん、綾乃ちゃんってすげー褒めてたよ。『工事の原価計算とか色々教えて貰ったし、すごく助かったけど……やっぱり、今どきの女の子ね! メイクの仕方教えて貰ったんだけど、どう? 浩太ちゃん、私、十歳ぐらい若く見えるかしら?』って……どうしろって言うんだよ、俺に」
「あら? それってダメな事?」
「まさか。仕事の話だけする銀行員なんてつまんないじゃん。雑談できてナンボだし……『女の子』ってのも、大川さんのウリの一つだと思うよ。少なくとも俺じゃできないもん、メイクの仕方なんて」
「……ねえ」
「なに?」
「その、大川『さん』って言うの辞めてくれない? 同期なんだし、大川って呼び捨てで良いじゃん。私も松代って呼ぶからさ」
「ええー。女子を呼び捨てかよ」
「女子って……アンタね、二十歳越えた女捕まえて何言ってるのよ。さあ、今日は引継ぎに回るわよ。ちんたらしないの、松代!」
『松代君』『大川さん』と呼び合う間柄だった二人の呼称が、『松代』『大川』に変わり、その間柄が『浩太』『綾乃』に変わるまで、そう時間を要しなかった。毎日毎日、ぎゃーぎゃーと言い合いをする二人、諸先輩方に『お前ら、付き合ってんのかよ?』と、周りに冷やかされる事も常であった。
浩太に『彼女』が出来た事も、浩太本人から聞いた。むしろ、綾乃は相談まで受けた。自らの気持ちに気付いた綾乃にとって、その相談は身を引き裂かれる様な想いをしながら、それでも浩太の幸せを願って真摯にアドバイスし、やがて付き合う事になったという報告を受け、枕を濡らしたりもしたが……直ぐにそう感じる事もバカらしくなった。
『綾乃! 俺、彼女出来た!』
『あ、そう。前回は二か月だから……今度は一か月ぐらい?』
『おま、それは酷くない?』
『酷くないわよ。良い? 何度も言うけど、告白されたから即付き合うそのスタンス、やめなさいよ。何時か刺されるわよ』
『いや、でも……何か、断るの申し訳ないし』
『前言撤回。刺されてしまえ』
『……お見舞い、来てくれる?』
『いってあげる。傷口に塩を塗り込みに』
『鬼か!』
浩太の『女癖』の悪さに辟易しながらも、それでも綾乃は幸せに過ごしていた。どうせ、浩太の彼女になる女達は浩太の『肩書き』しか見ていない。そうだ。結局、浩太の事を、彼の本質を一番よく知ってるのは自分だ、と自負していたし、それが間違いでは無いと思っていた。自らが、浩太に一番近い『女性』だと、そう考えていた。
――だから。
『……月が、とても綺麗ですね』
持って回った様な、いつもの浩太らしくない、そんな古風な告白に、綾乃の体は震える。
嬉しくて。
嬉しくて、嬉しくて。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
喜びを謡いだし、跳ねだす感情の吐露そのまま、『もう、死んでもいいわ』とそう答えようとして。
『大川さんも段々、松代君に似て来たね』
答えかけたその自らの気持ちに、そっと蓋をする。
私はまだ、浩太に追いついていない。
私はまだ、浩太に並んでいない。
今、浩太の隣に、浩太の傍に、浩太の名実ともに一番近くにいる。誰よりも愛し、誰よりも愛される、そんな幸せな環境を認めてしまうと。
『……貴方には、役不足ね』
きっと、自分はダメになる、と。
浩太に勝てなくても、浩太に追いつけなくても、浩太の傍に入れるだけで、ただそれだけで満足してしまう。
――――そんなの、『大川綾乃』の矜持が許さない。
『アンタはそのままで良いの! 言ったでしょ、貴方には『役不足』だって!』
――私程度のカレシなんて役、貴方には軽すぎる。だから、待ってなさい浩太。貴方に釣り合うような、そんな女になってやるから。
『意味がわかんねえよ!』
言外のその言葉を悟る事をしてくれない自らの想い人に胸中で盛大に溜息を吐き、それでもまあ、その不器用な愛の告白に若干以上に高鳴る胸のその抑え方が分からず、でもその息苦しさすら甘美で、溜まらなく愛しくて、満足して。
――後、彼女は後悔する。格好なんてつけず、あの時浩太の告白を受け入れていればよかった、と。
◇◆◇◆◇◆
「貴方は……一体、誰なのよ?」
目の前で、綺麗な女性がそう言っている。
「だ、誰? え、エリカさん? 誰って……ほら、コータですよ」
目の前で、自分の想い人が、焦った様な、慌てたような顔をしている。
「こ、コータ? 本当に……本当に、コータ?」
「本当にって、エリカさん? ちょっと――」
一歩、彼女に近づく想い人。その想い人が近づいた、同じだけの距離を。
「ひぅ!」
綺麗な女性は、後ずさる事により、スペースをあける。
「――あ」
明確な、拒絶。あからさま過ぎるその態度に、浩太は伸ばしかけた手を引っ込め、悲しそうに、切なさそうに、何時ものあの苦情を浮かべ。
――この辺りが、限界だった。
「……ちょっと、良いかしら?」
ここが、講和の会場? ――知るか。
相手は王族? ――関係ない。
空気を読んで、何も言わないのが大人? ――あ、そう。じゃあ、子供で良い。
「ねえ、『本物』の浩太って……なに?」
愛して。
愛して、愛して。
愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して、愛してやまない、浩太を。
二度と逢えないと、そう絶望の淵に叩き落され、それでも再び逢い見える事が叶った、愛しい人に、こんな顔をさせた、そんな貴方を。
「ほ、本物のコータは……そ、その……や、優しくて、あんな言葉遣いなんてしなくて、それで――」
渦巻く、どす黒い感情。
「……へえ」
なーんだ、貴方も今までの『浩太』の彼女と一緒か、と。
浩太の、上っ面の、そんな表面をなぞるだけしか見てないのか、と、その気持ちを押し隠す事も、押し隠す意味も見いだせず。
「……そう言えば浩太ってさ」
なら……それなら。
「――確か『魔王』って呼ばれてたっけ」
――そんな悪い『魔王』がかけた『魔法』、さっさっと解いて上げるわ、と。
綾乃は口の端を歪めて、そう言った。




