81:港町の異変
数日の馬車の旅を経て、私たちはついに港町シートンマスにたどり着いた。
磯の香りが鼻をくすぐる。ミュウ、ミュウとカモメが鳴いている。
目の前に広がるのは、キラキラと輝くエメラルドグリーンの海。
活気あふれる市場には、新鮮な魚が所狭しと並べられていて……。
という光景を、私は想像していたのだが。
「なんか変だね……?」
馬車止まりに馬車を停めて、辺りを見回した。
ここは中央広場に近い場所。
それなのに人通りは少なく、市場が開かれているはずの方角さえも静かなままだ。
異変は海の方へ近づくにつれて、はっきりとしていった。
「くさい」
鼻の良いミアが、最初に顔をしかめた。
潮の香りというよりも、生臭いような妙な臭いがする。
少し遠くに見える海も、鉛色に濁っていた。
「とにかく、市場まで行ってみよう」
私たちは食材を仕入れに来た。市場の新鮮なシーフードを見ないことには、話が始まらない。
市場に近づくと、異臭はますます濃くなった。
そうして目に入ったのは。
「これは……」
人のまばらな市場、木箱に並べられていたのは、痩せこけて干からびた小魚ばかり。目は白く濁り鱗は剥げかけていて、とても鮮度が良いようには見えない。
鮮度以前に、これを食べても大丈夫か? という不安が襲ってくるようなものが多かった。
「そこの店主さん。この魚、いくらだい?」
ギルが近くの店の人に声をかけた。彼は無気力な目でこちらを見ると、呟くように言う。
「銅貨十枚」
「はぁ!? こんな小魚が?」
私は思わず叫んでしまった。その値段なら、王都の方がよっぽど安い。
しかもこの生命力の感じられない魚。こんなんじゃあ、美味しいシーフードラーメンなんて作れない。黄金色のスープどころか、濁った泥水のようになるのがオチだ。
「高すぎませんか? 他の魚はないんですか?」
食い下がると、店主は苛立ち混じりのため息とついた。
「ねえもんはねぇよ! 買わないんなら、さっさと帰れ!」
取り付く島もない。一体どうしたというのだろう、この町は。
困り果てた私が、仲間たちを振り返った時。
「おい! そこで何をしている!」
敵意と警戒心のこもった大声が響いた。乱雑な口調で低めの声だが、女性のものだ。
見れば通りの向こうから、一人の女性がずんずんと歩いてくる。
女としてはかなりの長身に、しっかりとついた筋肉。日に焼けた小麦色の肌。年の頃は二十代後半くらいか。迫力のある美女で、紅色の髪を一括りにしてなびかせている。
「組合長!」
周囲にいた漁師たちが、慌てたように道を開けた。
彼女は私たちの前までやって来ると、品定めするようにジロジロと眺めた。
「見ない顔だな。なんだい、あんたら」
「失礼、お嬢さん。相手の素性を尋ねる時は、自分から名乗ったらどうかな?」
ギルが愛想よく笑って答えた。彼女は怒りに顔を歪ませる。
「ふざけやがって。……あたしはこの町の漁師組合長、バーバラだ。ほら、名乗ってやったぞ! 次はてめえらだ!」
「私たちは、王都から来た料理店の者です。ルシルといいます。新鮮な魚を仕入れに来ました」
私が頑張って笑顔で答えると、バーバラは鼻を鳴らした。
「料理店? 仕入れだぁ? てめぇら、また性懲りもなくあたしらをスパイをしに来たのか。二度も同じ手に引っかかるものかよ。ぶちのめされる前に、帰りやがれ!」
「へ? スパイ? 違います、私たちは本当にただ魚を買いに来ただけで……」
「うるせえ! 得体のしれないよそ者に売る魚はねえよ!」
バーバラが怒鳴り声を上げる。さすが海の女、すごい迫力だ。
彼女の後ろにいた漁師たちも声を上げた。
「帰れ、帰れ!」
「お前らのせいで、お頭がひでえ目に遭ったんだ!」
みんな殺気立っている。何か勘違いされているのは確実だが、話を聞いてもらえる雰囲気ではない。
気の立った漁師の一人が一歩踏み出した。一触即発の空気になりかけて。
クラウスがすいと前に出た。ギロリと漁師たちを睨めば、彼らはギクリとする。荒くれ者の漁師たちだが、S級冒険者の強さが伝わったらしい。少し腰が引けている。
「待って、クラウスさん。喧嘩は駄目ですよ。ここで揉めたら、仕入れどころじゃなくなっちゃう」
「……はっ! いい度胸じゃねえか。お望み通りその喧嘩、買ってやるぜ!」
バーバラが気勢を吐く。いやいやいや、私、喧嘩駄目だって言ったでしょ! 聞いてよ!
私が乱闘を覚悟した時。
市場の向こう側から、別の集団がやって来た。
質の良さそうな服を着た小男と、武装した数人の男たちだった。
彼らの姿を見た瞬間、漁師たちの怒りの矛先が変わった。怒りと憎しみ、少しの怯えが混ざったような息苦しい空気が流れる。
「チッ。代官の手下か」
バーバラが舌打ちした。あの小男が代官の手下とやららしい。
彼はニヤニヤと笑いながら、漁師の一人に近づいた。
「おい、今日の漁獲量はどうだ? 税の徴収に来てやったぞ」
「税を払えるほど獲れちゃいねえよ。分かってんだろ」
バーバラが吐き捨てる。
「あん? 魚や金で払えないなら、別のもので払ってもらわんとな。とりあえず、お前んとこの漁網にするか」
「ま、待ってくだせえ! 網が無けりゃ漁に出れない! 食い詰めちまいますよ!」
漁師の一人が焦って叫んだ。
「うるさい! 不漁はお前らの努力が足りないせいだろ。税は代官バルダス様が決めた。耳を揃えて払ってもらおうか」
「そ、そんな」
抵抗しようとした漁師を、武装した男たちが蹴り倒した。漁師が地面に転がる。
「クソッ、てめぇら! これを持っていきやがれ!」
バーバラが懐から取り出した小袋を投げつける。チャリンと音がした。コインが入っているようだ。
小男は中身を確かめて肩をすくめた。
「ちょいと足りんな。おい、そこの船から漁網を取っ払って来い」
「はい」
止めようとする漁師を、武装した男が突き飛ばす。
バーバラが顔を真っ赤にして殴りかかろうとしたが、他の漁師たちが必死になって止めていた。
「お頭、こらえて! お役人を殴ったら、何をされるか分からんでしょ!」
「ただでさえ、この前のことがあるのに!」
「だからってよぉ……!」
ここで、黙って見ていたアルフォンスが動いた。彼の緑の瞳は冷たい光を湛えている。護衛の人に目線で合図をして、一歩踏み出そうとした。




