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 働き方改革なんて聞いたこともないような顔をして定時前に仕事を寄越してくる先輩には逆らえず、女性社員が全員の湯呑を洗えとかいう時代錯誤な風習に異を唱えることもできず、二十一時なんて非常識な終業時刻にタイムカード(打刻式)を押してトボトボ歩いていた。

 残業代を付けられるだけまだマシと思わなければならないらしい。

 ほんの数年前まではね、定時にタイムカード押してから残業やれ、って先輩に言われてたから。だそうだ。ありえない。

 夜中な時刻ではあるが、大学時代から住んでいる沿線は人通りが少なくない。街灯が少なく寂しさを感じる道は、アパート到着前二分ばかりのことだ。それも大抵は同じアパートの女性や近所の一戸建て住みのパパさんと帰宅時刻がかぶることが多いから、事件被害者になる心配は少ない。


 だがその日、今から数時間前のその日は違った。

 トラブルに遭遇してしまった。

 否、あれはトラブル、という言葉で片付けていいものではない。

 普通に、いつも通りトボトボ歩いていただけだ。心の中で何が全員野球じゃボケ、その腹でバット振ったらつっかえるだろが、と毒づきながらなのも日常だ。

 歩きながら、生きている人間として当たり前の動きとして、意識することなく目を閉じて、そして同じく無意識のうちに目を開けた。普通のまばたきである。

 ところが、その再び開かれた視界に映った光景は、当たり前のものではなかった。

「……………………」

 人間驚いたときには、咄嗟に動けないものだ。

 真希も脳が現状を把握するまでそのまま二、三歩歩いてしまった後は、動けなくなってしまった。

 ここはどこだ。こいつらは誰だ。


 夜道を歩いていた。突然石壁に囲まれるのは変だ。

「……え。変だよね?」

 薄暗くはあるが、夜道よりはいくぶんか明るい。窓はない。ひとつだけ見える木製の扉は閉まっている。光源は、なんだあれ。豆電球? 壁に埋め込まれた小石サイズの何かがいくつか光っている。


「変だね」

「梶原くんが言うならやっぱり変なんだよね」

「僕の名前知ってるってことは、君やっぱり北村さんだよね」


「ここはどこだ」

 不機嫌そうにつぶやいたのは、同年代に見える男だった。

 日本人女性の平均身長ほぼぴったりの真希よりもほんの少しだけ背が高い。つまり成人男性にしては小粒。

 そんな一般的な特徴より先に、髪型に強い違和感を覚える。なんだその重いウルフカット。真っ黒のまま、毛先を遊ばせることもないスタイルはオシャレ男子なら絶対に選ばない。

 身嗜みに気を遣わない引き篭もりタイプというには、表情や雰囲気がいかつ過ぎる。

 これはアレだ。たまにテレビで観る懐かし映像に出てくる昭和男。これをオシャレだと認識してやっている時代の雰囲気。

(たまにいるよね。ちょっと感性が変わってるひと)

 そこまで考えてから、真希は咄嗟に目を逸らした人物に視線を戻した。


「おぬしらは、伴天連(ばてれん)の者か」

 なんだこの武士。

 なぜ武士。月代(さかやき)っていうんだったか、頭頂部を剃り上げた丁髷頭も、袴の腰に差した大小の刀も、どこから見ても武士だ。喋り方も武士だ。武士言葉。どこの方言かは分からないが、聞き取りづらい発音。

 コスプレ? その刀、リアルに見えるが、まさか真剣じゃないだろうな。


 コスプレというにはリアル過ぎる異様な風体の男から咄嗟に距離を取って、真希はその場で唯一見知った顔の近くに寄った。

「……梶原くん。対応よろしく」

 小声で言うと、同じようにボソボソと返された。

「僕の記憶が確かなら、北村さんと会うのは高校卒業以来なんだけど。他に言うことはない?」

「無駄に冷静なツッコミ。さては君も動揺してるな」

「そりゃするに決まってるだろ。ひさしぶり」

「おひさしぶり!」

 梶原寿明(かじわらとしあき)

 約六年前、顔を忘れるには近過ぎる過去に、同じ教室で机を並べていたひとだ。

 なぜここに、なんて台詞はお互いさまだから口にする必要はない。むしろその言葉は自分に向けたい。

 自分はなぜこんなところにいるのだ。

 暗い住宅街を歩いていたのに、なぜ石壁に囲まれた室内に立っている。それも男ばかり四人と共に。

 突然放り込まれた異空間に、恐怖より先に混乱に陥ってしまった真希は、さして仲が良かったわけでもない元同級生に縋りついた。

 仲良くなくても、話が通じなさそうな知らないひとよりはずっとマシだ。

 梶原寿明。

 漢字まで記憶しているのは、成績トップとしてよく名前を貼りだされていたからだ。ややガリ勉タイプではあるものの、決して感じが悪いひとではなかったように記憶している。

 他人の趣味にとやかく言うつもりはないが、感性がかけ離れている人間とは、緊急事態にお近付きにはなりたくない。

 悪いひとではない、という記憶は、元同級生に縋るだけの充分な理由になった。

 寿明も同じように考えたのか、もしくは漢気(おとこぎ)を発揮してみたのか、左腕にしがみつく真希の肩に右手を添えた。

 そのまま長身の彼の背後に押しやられた。庇われているのだ。何これ素敵。ときめきそうだよ、元同級生くん。


「おふたりさんは夫婦なのかい?」

 最後のひとりが口を開いた。こいつも変な格好だ。胸元を緩めに来た着物の下に白シャツ、袴。着物だが月代はなく、寿明よりは長く昭和男よりは短い、その服装に合わせた表現をするなら、ザンギリ頭。

 ストレートに突っ込むなら、明治か、だ。


「違います」

「そうです」

 真希と寿明は、同時に答えた。

「どっちだよ」

 至極もっともなツッコミが、昭和男から投げられる。

 ふたりは高校時代にはありえなかった近距離で視線を交わし、無言で意思疎通を図った。

 なんで?

 とりあえず僕に任せてくれない?

 なんか分からんが任せた。学年トップの頭脳を信じる。

「……正確には、まだ違います、です」

「許婚か」

「ここはどこなのでしょうか?」


 寿明は自分たちへの質問を強制終了させて、三人の男の注意を四方に散らした。

 思い出したように全員で四方の石壁をぐるりと見渡す。

 ほぼ正方形の部屋。一辺は約五メートルといったところか。天井の高さは低い。長身の寿明の頭上数十センチ程度しかない。親しくもない大人五人でいるには、いささか狭苦しい。

「さあ。誰か知ってる奴はいるか? あんたらのどっちかの家か?」

 家って感じじゃなくない? と昭和男の発言を聞いた真希は思った。

 三人は時代がかったコスプレをしているが、どう見ても日本人の顔で、日本語を喋っている。

 コンクリートならともかく、角石を積んだ壁の部屋があるような家に住んでいる人種ではない。

 これは、日本とは違う気候に適した建築様式だ。外国の城の、言いたくはないが地下牢を連想させる部屋。


「拙者の屋敷ではござらん」

「私も違うかな。見覚えのない場所だ」

 武士も明治男も冷静を装ってはいるが、未知の場所と人に警戒し、不安な気持ちがきょろきょろする視線に表れている。

 見知らぬ場所。見知らぬ人々。

「どうしよう梶原くん。あたし昔観た映画思い出しちゃった」

「そういう不吉なこと言うのやめて。誰も拘束はされてないでしょ」

 拘束はされていない。それはいいことなのだろうか。


 この場での最弱は、どう見ても真希だ。その次は、背だけは一番高いが、喧嘩なんかしたことがなさそうな細身の寿明。

 武士、身長は真希とどっこいだが、武士である。

 明治男、無意識なのか見せつけているのか、たまに懐手(ふところで)にして懐剣的な物の存在を確認している。

 昭和男、こいつ絶対に喧嘩上等タイプだ。睨むような目付きがクセになっている。

 なんの枷もない状態では、真希と寿明は真っ先にゲームオーバーになる。

「同じやつ観てるじゃん」

「映画としては面白かったよな」

「意外と趣味が合うんだ。知らなかった。高校時代にもっと話しとけばよかったね」

「そのセリフ早すぎ。死なないから。まだ何も起こってないから」

 わっと泣き出してしまいそうになる真希に、ややしらけた顔で見下ろして突っ込む寿明。

「仲の良いご夫婦だねえ」

 小声で遣り合うふたりに厭味を投げてきたのは明治男だ。

「てめえら、ちちくり合う前に周りをよく見ろ」

「……さいってー」

 ぼそ、とつぶやいた真希を、昭和男が睨む。

「ぁあ?」

「どなたもこの場所に覚えはないんですね」

 昭和男の威嚇から、真希をさっと庇って寿明が話を戻す。

 いちいちときめかさないで欲しい。こちとら大学卒業以来、同年代男子との接触は皆無なのだ。

「ないみたいだねえ」

アサイン 業務や役割を誰かに割り当てること

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