第427話 商談
「ハッ、ようやく行ったか」
マンチーニ薬品店の店主と思しき小男は、店先で冒険者たちを追い払うと、店内に戻ってきた。
彼は店の扉を閉めると、鍵をかけた──ようにカリンには見えた。
閉じられた店内に、男と二人だけの状態になったことに、カリンは今さらながらに気付いた。
カリンは急に、怖さを感じはじめた。
ダイチさんたちに帰ってもらって、本当によかったのだろうか。
自分は何か、途方もない過ちを犯したのではないか。
どうして鍵を閉めたのかとカリンが問う間もなく、男は喋りはじめる。
「お嬢ちゃんはこの薬──なんだ、ラクラータだったか。こいつが欲しいってわけだな? 妹さんの目が不自由で、それを治すためにこの薬が必要だと。そう言ったな」
「は、はい」
喋りながら移動し、カウンター向こうの席に腰掛けた男に対して、カリンは半ば反射的に応じる。
よかった、普通に薬を売ってくれる話のようだと、彼女は少しホッとしていた。
カリンは基本的に、人の善意を信用するタイプの人間だ。
他人との接し方は、よほどの場合を除いて素直の一択である。
男は懐から取り出した葉巻に火をつけ、口にくわえ、煙を吐いてからこう続けた。
「お嬢ちゃん、この街のもんじゃねぇな?」
「えっ……あ、はい。この薬──ラクラータが売られていると知って、海の向こう、トルネルクから船で来ました」
どうしてそんなことを聞かれるのか。
分からないままにカリンは正直に答える。
「つまりそれだけ、この薬が、何がなんでもほしかったってわけだ」
「はい。そのために頑張って働いてお金を貯めて、酒場のマスターと女将さんもお金を貸してくれて、ようやくこの金貨三十枚を持ってくることができたんです」
「そうかそうか。そりゃあ大変だったな」
少女の目が届かないところで、男の口元がニヤリとつり上がる。
男は再び葉巻を吸い、煙を吐く。
それからこう言った。
「だがお嬢ちゃん。残念な話だが、その薬──なんだったか、そう、ラクラータだ。その薬はな、今はもう金貨三十枚ぽっちじゃ売れねぇんだ。うちにもいろいろと事情があってな」
「えっ……」
カリンは、絶望の淵から突き落とされたような気分になった。
金貨三十枚。
それだけ貯めてくれば、薬がお店に残ってさえいれば買える。
そう思ってここまで来たのだ。
今になって、浅はかだったとカリンは後悔していた。
そうだ、薬の札には「時価」と書かれていたじゃないか。
「い、いくらなんですか!? 金貨三十枚じゃなければ──さ、三十一、三十二、いえ、三十五枚ぐらいですか……!?」
カリンの必死の問いに、男は再び葉巻を吸い、ゆっくりと煙を吐いてから答える。
「お嬢ちゃん。今いくら持ってる。全部出してみな」
「え、あ……は、はい」
カリンは布袋の中に残っていた貨幣を、すべてカウンターの上にぶちまけた。
銅貨も混ざったお金の全額は、カリンの把握では、金貨三十六枚ぶん以上はあるはずだ。
男もそれを見て「全部でざっと金貨三十五、いや、三十六枚ちょっとってところか」と口にした。
それから男は、カリンの顔をじっと見てきた。
次に視線を下に動かし、胸元や下半身に、値踏みするような目を向けてくる。
「ま、悪くはねぇな。ちぃとガキ臭ぇが、好きなやつもいる。それなりの値はつくか」
「あ、あの……」
小男からの不躾な眼差しを受け、カリンはどこか、寒気のようなものを感じていた。
男の言っていることは分からないが、居心地が悪い。
早くここから立ち去りたいという気持ちを、少女は意志の力で押さえつける。
男は次に、こう言ってきた。
「結論から言おう、お嬢ちゃん。お前さんの手持ちじゃあ、この薬を買うにゃあだいぶ足りねぇ。お嬢ちゃんの事情は痛いほどわかるが、負けに負けても、金貨で百枚はもらわねぇとうちとしてもやっていけねぇんだ」
「ひゃ、百枚……!? そんな大金は……無理、だよ……」
カリンはその場でへたり込み、膝をついてしまった。
金貨百枚。
店主が提示したその金額は、今の彼女を絶望させるに十分な額だった。
「今からまた、戻って、貯めて……何ヶ月かかるの……?」
カリンはほとんど生気を失った顔になり、震える手で指折り数える。
船でこのリモーネに渡ってきた往復の船賃だけでも、金貨二枚が無為に消費されてしまったことになる。
その分を貯めなおすだけでも、自分の日々の食事を削りながら、何日かかるだろう。
カリンの胸のうちにわずかに残っていた希望が、脆くも崩れ去ろうとしていた。
ようやく目標にたどり着けたと思ったのに──目の前に目的の薬があるのに、それを持って帰ることができないなんて。
またトルネルクまで戻って、酒場のマスターや女将さんに、お金をもっと貸してくれと頼む?
そんな図々しいことができるわけがない。
どうしよう、どうしよう──
カリンの瞳から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。
希望から絶望への落差で、今や少女の心は折れかかっていた。
そんなカリンの視界の外で、男がほくそ笑む。
獲物が釣れたと言わんばかりの表情に、少女が気付くことはない。
男は次に、カリンに向かってこう伝えた。
「だがお嬢ちゃん、お前さんの気持ちはよぉ~く分かる。そこでだ、これはお嬢ちゃんさえよければってことでの『提案』なんだがな。俺のほうでお嬢ちゃんに、稼ぎのいい働き口を紹介してやってもいいんだ」
「えっ……?」
絶望の底に、一筋の光が落とされたようにカリンには思えた。
へたり込んだ少女は、涙が残る瞳で小男を見上げ、半ば無意識に問い返す。
「働き口って、この街で、ですか……?」
「ああ。まあお嬢ちゃんにゃあ、ちぃと酷な仕事かもしれねぇがな。それでもよければって話だ。その仕事なら、頑張れば一日に金貨五枚は稼げるはずだ」
「一日に、金貨五枚……!? ──や、やります! 紹介してください! 私、トルネルクでは港で力仕事だってやっていたんです! キツくてもやれますから!」
すがるような声色の、必死で懸命な少女の言葉。
男は立ち上がり、再び店の入り口へと歩いていく。
「じゃあ紹介するから、ついてきな。薬は金が貯まるまで取り置いといてやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる少女の姿を見て、男はほくそ笑む。
それから店の扉を開き、周囲を警戒するように見回してから、店を閉め少女を先導して貧民窟を歩き始めた。
カリンが素直についていくと、やがていかがわしい店が立ち並ぶ一帯にやってきた。
小男のあとを歩きながら、カリンは周囲の店を見回して、ごくりと唾を呑む。
この頃になると、カリンにもさすがに、どういうことなのかが分かりはじめていた。
「あの……働き口って、もしかして……」
「今から行く店は、本来なら紹介がないと働けない店なんだがな。俺なら顔をきかせてやれる」
「で、でも……」
「うん? どうしたお嬢ちゃん。キツい仕事でもやれると言っていたが、怖気たならやめておくか? 悪いがその場合は、薬は売ってやれないが。やめるなら今決めてくれ。俺も紹介しておいて途中で逃げられたんじゃあ、先方に申し訳が立たねぇ」
男は一度立ち止まり、カリンを路地裏に連れ込んでから、少女を問い詰めてきた。
「そ、それは……」
詰められたカリンは、うつむいてしまう。
男女の営みを売り物にするお店の存在自体は、カリンも知っている。
自分がそこで働くという選択肢も、これまでにまったく考えなかったわけではない。
だがその一線を、カリンはこれまで踏み越えずにいた。
一般の日雇いの仕事よりも、稼ぎがいいらしいことも知っている。
それでも、自分の体を売るという選択肢だけは、半ば無意識的に避け続けてきていた。
安易に踏み込んでいい領域ではないという感覚があった。
今はまだいないが、カリンにもいずれ好きな人ができるかもしれない。
そのときに相手の人はどう思うだろうか。
カリンの脳裏には今、三人の若い冒険者たちの姿が思い浮かんでいた。
マンチーニ薬品店まで護衛してくれたあの三人は、すごく幸せそうだった。
ホタルさんもカザネさんもダイチさんのことが好きで、実際にもそういう関係のようだ。
羨ましいと思った。
自分もあんな風に好きな人と幸せな時間が過ごせたら、どんなに満たされるだろう。
自分のすべては、いずれ現れるかもしれないその人に捧げたい。
好きでもない見ず知らずの男の人に、自分の大切なものを奪われたくはない。
それに──具体的にどういったお店に連れていかれるのかは分からないが、その内容によっては、重篤な病気をもらう危険性もあると聞く。
まともでない客にあたってしまえば、密室でその男と二人きりになり、何をされるか分からない恐怖もあるという。
しかし一方では、今お金を稼がないと、妹のリタの目を治すための薬は一生手に入らないかもしれない。
金貨百枚──残り六十五枚などという金額は、手段を選んでいて手の届く額ではない。
自分だけでなく、リタにも幸せになってもらいたい。
それがカリンの偽らざる想いだ。
でも、それでも──怖い、嫌だ。
カリンはあらためて迷い、悩んだ。
うつむいた少女の額には、脂汗が浮かぶ。
その瞳は、恐怖と戸惑いで揺らいでいた。
カリンは思う。
自分は妹の幸せのために、本気になってきたつもりだった。
でも自分のその本気は、嘘だったのかもしれない、と。
少し考えると、決意は定まった。
ここで退いたら、自分はこれまで何のために頑張ってきたのか。
自分の覚悟はその程度のものだったのか。
少しの間──たった数日の間、体を使って見知らぬ男たちの相手をすればいいだけだ。
それだけのことで、妹のための薬が手に入る。
悪いほうに考えるな。
カリンは一度、大きく深呼吸をする。
それから小男に視線を向け、震える声で、自らの意志を口にしようとした。
「だ、大丈夫です。やれま──」
「待った。そこまでだ」
カリンの決意表明を遮るようにして、聞き及んだ青年の声が、どこかから聞こえてきた。
以後、週1回の更新に切り替えます。
作者の脳の働きが異常に悪くなり(原因不明)、執筆コンディションがおそろしく悪化していて、今の週2回更新すら追いつかない見込みであるためです。
状態が改善すれば週2回に戻すかもしれないですし、週1回でもダメなら不定期更新になるかもしれません。




