534話 藪蛇
フェンリル。
暗号聖本には古語で別の言葉が書いてあったのだが、現代語に翻訳するにあたってペイスが意訳したものでもある。
暗号聖本に曰く「巨大なる白銀の狼。狡猾にして慎重ながら、勇猛にして強靭。群れをもって狩りを行う習性を狼から引き継ぐも、食性は魔力を糧とし、縄張りをつくる。弱きものを餌とみなし、人を好んで襲う」とある。
魔法を使い、人を襲い、タダでさえ狼の凶暴さを持っているのに、頭が良くて群れを作る。単体でも凶悪な魔物が、群れで居るという訳だ。それも、統率された状態で。
はっきり、危険である。生み出した人間さえ手に負えず、何処かに放たれたと書かれていたもの。
それが、迷った先で出会った狼らしきものの正体である。
「とんでもねえもんを見つけちまってまあ」
「僕が悪い訳では無いでしょう。ピー助とルミとマルクがしでかしたことです」
「三匹とも、坊の手下でしょうが」
「三人とも、大事な仲間ですね」
「お優しいこって」
ペイスにとってみれば、ピー助は大事な家族であり、マルクとルミは大事な友人である。
そこは揶揄われても胸を張って断言するところがペイスがモルテールン家の血筋が色濃く出ていると言われる所以だ。
「それに、とんでもないと言っても、南海で見つけた亀や、魔の森からまろび出てきた大龍ほどではないでしょう」
「あんなのがゴロゴロしてりゃ、それこそ人間絶滅まっしぐらですぜ」
「確かに」
「しかし、なんでまたそんなもんが、今まで知られずにいたんですかね。不自然でしょうよ」
シイツは、とても疑問に思っていた。
幾ら何でも、そんな珍しい生き物が今まで見つからずに、知られずにいる訳が無いと。
しかし、ペイスはそれこそ不自然とまでは言えないと断言する。
「恐らく、あの土地は特別なのだと思います」
「特別?」
特別と言えば特別なのだろう。何せ魔獣の住みかになってるのだから。
「魔力的なものなのか何なのか。原因までは分かりません。しかし、禁則地になっていた理由ははっきりしました。危険だったからです」
「ですね。それは分かりますぜ」
「過去、立ち入った人間が数多く犠牲になったことでしょう。結果として、足を踏み入れてはいけない土地とされた」
「ふむ。その理由が、例の狼だと?」
「はい」
王家直轄の禁則地。人が入ってはいけないとされていた場所。
何故そのような場所に指定されたかは、今回の件で明らかになった。行った人間が、戻ってこなかったからだ。
ルミとマルクも、もう少し助けるのが遅ければ間違いなく餌になっていた。
無事だった理由を推測するのなら、大龍の臭いが染みついていたから。或いは、大龍から落とされて空からやってきた異物だったからだと思われる。
慎重さを持っている生き物だと、ものの本には書いてあった。ならば、得体のしれないものであり、凶悪な生物の臭いのついたものは、警戒しても不思議は無いだろう。
しかし、過去にあの場所に踏み入った人間は、間違いなく餌にされている。
群れで狩りをする生き物は、逃げる獲物を捉えるのが滅法うまいものなのだ。逃がさないよう囲んでから、骨までしゃぶりつくす勢いで食われたことだろう。
どれだけ数を揃えようと、武装を良くしようと、あの狼は人間が何とかできるレベルではなかった。
送り込んだ人間がことごとく消息を絶ったとなれば、立ち入ることまかりならずと禁則地になるのも当然の判断だったろう。
何にせよ、禁則地の原因はあの狼たちであり、禁則地になっていたが故にそこに何があるかも分かっていなかったに違いない。
「そして、特殊な環境で、かつ完全に陸の孤島となって隔離されていて、しかも空からは鬱蒼と生い茂る原生林があって覆い隠されている」
「それが、何百年と“実験体”が見つからずに生き残ってた理由であると」
「そうなります。例の大亀が実在した以上、他の実験体も生き残っている可能性を失念していました」
「やべえ話で」
過去に“作られた”という魔獣。魔法を使える生き物。
仮にあれらを自由に生み出せる技術が有って、それらを完璧に支配する方法が有れば、今頃世界は覇権国家の下で一つになっていたかもしれない。
或いは、聖国は過去にそれに近しいところまでいったのかもしれない。
益々もって、暗号聖本を表ざたには出来なくなった。失われたものとして、徹底的に隠さねばなるまい。
「暗号聖本によれば、フェンリルの毛は魔法を強く出来るらしいですよ」
「ほほう。つまり?」
「父様が、より遠くに、より多くを運べるようになるかもしれません」
「そりゃいい。是非ともうちで確保しときたいところですね」
「ええ。少なくとも、敵対勢力に渡らないようにはしておきたいところです」
偶然見つけたとはいえ、まだフェンリルの価値を知る人間は居ない。モルテールン家の上層部だけである。王家ですら知らないだろう。
今ならば、モルテールン家のものに出来るかもしれない。
最低限、禁則地の保有者である王家に対して、何がしかの働きかけをしておかねばなるまい。最悪のケースを考えるとして、モルテールン家に不利益を与えようとする人間が、魔法を強化する材料を得て、通常よりも強力な魔法を使うようになっては目も当てられない。
最も発現しやすいと言われている【発火】の魔法でも、強化されればそれこそ戦略兵器になりえる。
「問題は、どうやって手に入れるかですぜ」
「ええ。こうなってくると、褒美に王家直轄地を貰ったのが失態ですね」
先だって、モルテールン家は王家直轄地を拝領している。飛び地とはなるが、とても豊かで真っ当な農地の広がる、水利も完璧な超優良領地を、である。
この領地を得た目的は、魔力の含まれたカカオを育てること。魔力には作物のもつ効能の一部を強化する働きがあるらしく、抗酸化作用などを持つカカオが魔力を含んで育った場合、若返る効果があると分かったのだ。
若返り。これを欲しがらない人間はまずいまい。特に、若さと美貌が権力に直結する、高貴な女性は。
モルテールン家として、このカカオの安定的生産は間違いなく必須のことであった。ペイスはそう思っている。
しかし現状、他でも代替出来そうな領地より、絶対に代えの効かない禁則地の方が貰う領地としては適当であったと思えてならない。
「新しく褒美を追加しろってのは、無理ですかい?」
「無理でしょう。前の領地だって、傍から見れば何でモルテールンに与えられたのか不明なほど、良い領地ですよ? あそこを貰っておいて、もっと寄越せと言えば、流石に強欲すぎると謗られますよ」
「んじゃあ、前の土地を返上するんで、交換ってのは?」
「王妃様方を敵に回しますね。どう考えても悪手でしょう」
モルテールンにしか作れないからこそ、生産の為の土地を貰ったのだ。若返りのスイーツ。今更手を引こうとすれば、王妃たちを含めて目ぼしい上位貴族の女性全てを敵に回すことになりかねない。何なら、モルテールン家の最高権力者である母アニエスをも敵にしかねない。
ペイスとしては、母親を怒らせるような手段は出来るだけ取りたくないと思っている。第一、女性という世界の半分を敵にして、まともな生活を送れるとも思えない。
領地交換を申し出るのは避けるべきだろう。
「そもそも、ここでフェンリル達の生息地を欲しがると、尚更他所に取られかねません」
「ん?」
「今、ピー助の“事故”は無かったことにしようと動いている最中。ここで我々が活発に動いてしまうと、そもそも遭難自体が作り話。或いは演技であったと思われる危険性があります」
「……なるほど。そりゃ確かに」
目下、禁則地にフェンリルが住まうことを知っている人間は数えるほどしか居ない。ペイス、カセロール、シイツ、コアントロー、マルク、ルミ、あとピー助。精々がこれぐらいだ。
全員、モルテールンの身内である。
今ここで、仮に禁則地を欲しがる動きを見せたとする。すると、モルテールンの足を引っ張ろうと監視している連中は、なんでそんな土地を欲しがるのかと怪しがるに決まっている。
欲しがる理由を怪しいと疑って調べたとして、それが大龍の“事故”では無いかと調べる人間が出るかもしれない。禁則地付近の事故、無かったことにしようとする政治的配慮、事故の関係者はモルテールン家の身内で、そもそも訓練の全権はペイスが持っている。
疑うなら、簡単に疑えてしまう。
「こうなると、あの土地は手つかずで置いておく方が良いでしょうか」
「下手に手を出して、藪から蛇を出すような真似は御免でさぁ」
「なら、黙っていましょうか」
結局、触らぬ神に祟りなし。下手に藪をつついて蛇を出すよりは、警戒しつつ観察する程度が良いだろうという結論になる。
次の日。
今日こそは平穏で穏やかな一日が始まると思われた矢先のことだった。
「大変です」
モルテールン領の諜報部門を取りまとめているコアントローから、一件の報せが齎された。
「どうしました?」
「レーテシュ伯が、例の禁則地について嗅ぎ付けたっぽいです」
「はぁ?」
モルテールン家は、藪をつつく前に特大の蛇を出してしまったようだった。





