其の二
斉福寺を辞去してオレは帰路を行く。慣れた道なので何通りかの経路を知っているが、その中でも必ず帰路の途中に差し掛かる三条川の桜並木を歩いて行った。
桜は春の象徴であり、人々はそれを満喫するために花見などを催す。
三条川も御多分に漏れることなく、あちこちで花見と称した酒盛りが開かれていた。周囲に漂う匂いだけでも酔いそうな程酒気が充満し、互いに言い交わす声が混じり合いわいわいがやがやと猥雑としている。
どうにもオレは賑やかなのは嫌いなので坂を下り、外れた通りに足を向ける。その通りはオレの本来の通学路で緑があって心安らがせるものの、わざわざ足を止めてまで鑑賞するような眺めではない。
しばらく歩いて喧騒が聞こえなくなってやっと一息ついた。
視線を転ずると三条川の水面が煌き、中洲にぼうぼうに生えている黄金色のススキが風になびいている。
「……平和だな~」
オレは平穏無事をこよなく愛する。
若い割には覇気が無いと言われそうだが、オレは波乱万丈な人生経験と、堅実を旨とする祖父に育てられたことで平凡なことがどれだけ幸せか身に染みて知っている。オレはこれから先も突出することはなくともごく普通に人間に埋もれて生き、世を去りたい。死んだ後に一人二人オレの死を悼んでくれる人がいたら言うことはない。
それがこのオレ仁野士郎の偽らざる本心であり人生の目標だ。
しかしその堅実な人生観、および人生設計を覆す人がオレの同居人だったりするから人生はわからないものだ。
「……帰るか……」
再び歩き出すと目の前をはらりと桜の花びらが舞った。頭上を見上げると坂の上に咲き誇る桜が今いる通りの並木を飛び越えて花びらを送り届けていた。
「……へぇ……」
オレは思わず足を止める。大分高低差がある上に並木に邪魔されて、ここからでも桜が見えることに今まで気づかなかった。
「大したもんだな……」
感心しているとクスリと笑われた。あわてて視線を向けると知っている女だった。
「あっ、雪藤さん」
「久し振りね、士郎君」
女性の名前は雪藤咲蘭といって先日知り合ったばかりだ。
春らしい薄桃色の着物に若草色の半衿を差し込み、羽織は控え目な淡い山吹色だ。艶やかで豊かな黒髪を肩にかかる程度に伸ばし、滲むような笑みを浮かべる様子は春の女神である佐保姫もかくやといった美しさだ。
「ごめんなさいね。楽しそうに見えたものだから」
「そうですか?」
「ええ。ウキウキした顔をしていたわよ」
オレは笑われたのとはまた違った恥ずかしさに襲われた。
自分の幼少時を知る相手の前では素の部分が晒け出される。オレもついさっきまで昔馴染みの住職といて、祖父ちゃんとの甘やかな記憶を思い出して子供っぽくなっていたようだ。
「ちょうど良かったわ。士郎君、甘い物は好きかしら」
「はい」
雪藤さんは抱えていた風呂敷をするりと解くと竹の皮で包まれたものを取り出した。
「知り合いの方に頂いたものなのだけど、たくさんあって食べきれそうにないの」
「ありがとうございます」
目上の方の好意を遠慮するのはかえって失礼なことなので素直にいただくことにした。
「でも、いい天気ね。お花見でもしたいくらいだわ」
雪藤さんは頭上の桜の花びらを見上げ、眩しそうに目を細める。
「良かったら今度一緒にしませんか?旦那を引き摺ってでもつれて来ますから」
冗談めかしつつも言うと雪藤さんはそっと微笑んだ。
微笑んではいるが柳眉がわずかに下がり、瞳には翳りを帯びている。それなのに美しさは決して損なわれることはない。
余計な気を回してしまったと痛む胸をそのままにオレは言い繕う。
「ま、旦那はあの通りひねくれ者ですからね。人様と同じく花見と洒落込むわけもありませんけど」
「……そう?昔百鬼夜行に混じって夜桜をしたそうよ」
思わず目元を手で塞いだ。
「………あの人は何をやっているんですか………」
「何でもお父さんがぬらりひょんと意気投合して…」
「あ、いいです」
どうせ何か無茶苦茶な武勇伝なんだろう。そういうのはオレが出会った時、同居するようになってからというもの目の当たりにし続け、もう食傷気味だ。
かのナポレオンは「余の辞書に不可能の文字はない」と言ったそうだが、旦那の辞書には〝平穏無事〟と〝常識〟の二文字は紛れもなく無いだろう。まだ他にもいくつか記載されていない言葉があるだろうが、少なくともこの二つは間違いない。
頭が痛いオレに雪藤さんは慈愛に満ちた笑顔を向ける。
「ありがとうね、士郎君」
気遣ったつもりで労られるとは話にならない。大体たかだか十三、それもつい先日にその事情の一端を知っただけにすぎない若造が口出しできるようなことじゃない。
いたたまれない気持ちで一杯だったが、耳は正常に働いたようで、ある鳴き声を聞き取った。
「ニャ~」
「……猫?」
猫の鳴き声が聞こえてきた気がしたが、どこにも姿が無い。
周囲には猫が隠れるのに手頃な茂みは無いし、眼下の川の中洲にいたとしてもここまで鳴き声が聞こえるはずもない。
雪藤さんは中洲に目をやっていたが、フイと視線を逸らす。見ると柳眉をひそめて不快そうな顔をしていた。
どんな時も朗らかに微笑む女という印象だったので意外に思い、改めて中洲を見直そうとするとオレの前に立った。まるでオレに中洲を見せないようにする為に。
「気のせいよ」
「……え……」
「これから先も、もし聞いても気にしたら駄目。わかった?」
「……はい……」
真剣な顔をしていたし、そもそも猫好きでもないので頷いた。すると打って変わって柔らかく微笑む。
「ごめんなさいね。訳も教えないでお節介を」
「いいえぇ。何も教えずに厄介事に放り込む旦那に比べれば」
「あらあら。愛想を尽かさないであげてね」
「……………ええ……」
オレは雪藤さんと別れ、今度こそ家に戻った。




