第12話 ただいまの場所
ナシェルさんが発つ前日、私はいつもより丁寧に牧場の仕事をした。
雲羊の毛を梳いて、水場の苔を取って、薬草乳を仕込んで、柵の緩みを確かめて。一つひとつ、手を抜かずにやった。
手を動かしていれば、考えずに済むから。
「ぴぃ」
シロが朝からずっと足元にいる。どこに行っても着いてくる。薬草乳を温めている間は膝の上、柵を直している間は肩の上、水場にいる時は長靴の上。
この子は、空気を読む。
「大丈夫だよ、シロ」
「ぴ」
信じていない目だった。青い瞳がじっと私を見上げている。翼の芽がしおれたように垂れている。
中型犬ほどに育った体を抱き上げるのは、もうけっこう重い。でも抱いた。
「ナシェルさんは、戻ってくるって言ったでしょ」
言い聞かせているのが自分に対してなのか、シロに対してなのか、もうわからなかった。
昼過ぎ、ナシェルさんは小屋の居間で荷造りをしていた。
荷物は驚くほど少なかった。着替えが数着と、獣医魔導の道具と、革表紙の帳簿。あのシロの成長記録だけは、写しを作って原本を私に渡してくれた。
「続きは、メルル様が記録してください」
「……はい」
帳簿を受け取る。几帳面な文字がぎっしり並んでいる。体温、食事量、翼の芽の長さ、聖炎の記録。毎日、毎日、一日も欠かさず。
この文字を書いていた手が、明日からここにない。
「メルルさーん!」
フランが庭から叫んだ。
「シロちゃんとお散歩行ってきまーす! ルーナおばあちゃんと一緒に!」
「え、今から? もう夕方だよ」
「夕焼けの散歩もいいかなって! ねー、シロちゃん」
「ぴ」
シロがフランの腕に大人しく収まっている。ぴくんはルーナおばあちゃんの肩に乗って、こちらをちらりと見た。
なんだか妙に手際がいい。
「じゃ、行ってきますね! ゆっくりしてていいですからね!」
フランがばちんと片目をつぶった。
……あれは、明らかにわざとだ。
小屋に二人だけが残った。
暖炉の火がぱちぱち鳴っている。夕日が窓から差し込んで、居間を橙色に染めていた。
「メルル様」
「はい」
「少し、外に出ませんか」
丘に登った。
裏手の、あの丘。何度も二人で座った場所。
草の上に並んで腰を下ろす。肩と肩の間は拳ひとつ分。いつもと同じ距離。
草原の向こうで、雲羊の群れが夕日に染まっている。風が草を撫でて、さわさわと音がする。
しばらく、どちらも話さなかった。
「メルル様」
「はい」
「以前、伝えたいことがあると言いました」
心臓が跳ねた。
あの夕暮れ。シロに遮られた言葉。
「覚えて、います」
「今度は最後まで言わせてください」
ナシェルさんが私の方を向いた。
夕日が横顔を照らしている。耳の後ろの鱗が見えた。ピンクではなかった。赤、とも違う。もっと深い色。鮮やかで、濃くて、暖炉の火よりも夕日よりもはっきりとした──深紅。
鱗に触れる仕草は、しなかった。
感情を抑えていない。
「僕は、学者です。観察と記録と分析が仕事です」
声は低く、静かだった。いつもの淡々とした口調に似ているけれど、どこかが違う。言葉の一つひとつに重みがある。選んで、選んで、選び抜いた言葉を並べている。
「この牧場に来て、シロの観察を始めて、獣医魔導の記録をつけて。それが僕の役割でした」
「はい」
「でも、いつからか、記録をつける理由が変わりました」
風が止まった。
「シロのためだけではなく、この牧場のためだけでもなく」
長い指が、膝の上で握られた。
「あなたのそばにいるための理由を、探していました」
息が止まった。
「メルル様。僕は、あなたのそばにいたい。学者としてではなく」
それだけだった。
飾った言葉も、難しい言い回しもなかった。論文の注釈みたいな口調もなかった。ただ事実を述べるように、けれど声の奥が震えるのを隠さずに。
草原を渡る風の音だけが、しばらく聞こえていた。
頬が熱い。目の奥も熱い。でも泣かない。泣くのとは違う。
胸の中で、何かが静かにほどけていった。
シャンデリアの下で投げつけられた言葉。退屈な女。実家で居場所をなくしたこと。馬車の中で膝を抱えたこと。この牧場に来て、シロを拾って、フランが押しかけてきて、ルーナおばあちゃんに叱られて、雲羊の毛を刈って、嵐を乗り越えて。
全部が、今この瞬間に繋がっている。
「……待っています」
声が出た。思ったよりもずっと、まっすぐな声だった。
「秋の大祭が終わったら、ここに帰ってきてください。私、待っています」
ナシェルさんの目が、わずかに見開かれた。
「シロも、雲羊も、ぴくんも、フランも、みんないます。牧場は私が守ります。だから」
手を伸ばした。
ナシェルさんの手に、指先が触れた。
「──おかえりって、言わせてください」
大きな手が、私の手を包んだ。
温かかった。薬草と紙の匂いがした。長い指が、今度はそっとではなく、しっかりと握ってくれた。
「必ず、戻ります」
その声で呼ばれた。
「──メルル」
名前だけ。敬称も何もなく、ただ名前だけ。
呼ばれただけで、泣きそうになった。泣かなかったけど。
「ナシェル」
私も返した。初めて、呼び捨てで。
深紅の鱗が、夕日の中で光っていた。
翌朝。
門前に、ナシェルの荷物が置かれていた。
秋風の匂いがもう混じっている。夏の終わりだ。
「忘れ物はありませんか」
「ありません」
「薬草の軟膏、予備を入れておきましたから。手が荒れたら自分で塗ってくださいね」
「……ありがとうございます」
真面目な顔で荷物を確認するナシェルの足元に、シロがちょこんと座った。
「ぴぃ」
小さな口が開いて、白銀の光がぽう、と灯った。
聖炎。拳ほどの大きさの、温かい光。ナシェルの足元を照らすように、ゆらゆらと揺れている。
送り火みたいだ、と思った。
ナシェルが膝をついて、シロの頭を撫でた。
「大きくなりましたね」
「ぴ」
「次に会う時は、もっと大きくなっているでしょう。楽しみにしています」
シロが鼻先をナシェルの掌に押しつけた。ぴくんが柵の上から「ぴくん」と一声鳴いた。雲羊たちが柵越しに顔を並べて、めぇめぇと合唱した。
騒がしい見送りだ。
ナシェルが立ち上がって、私を見た。
「必ず戻ります」
「はい」
泣かなかった。笑った。
手を振った。
長い背中が草原の道を歩いていく。朝靄の中に、藍色の上着がだんだん小さくなる。
一度だけ振り返った。
遠くて表情は見えなかったけれど、手を上げたのはわかった。
シロが「ぴぃ」と鳴いた。
私は手を振り続けた。影が靄に溶けて見えなくなるまで。
秋。
牧場は収穫の季節を迎えていた。
雲羊の毛は秋口が一番密度が高くて、月光糸の品質も上がる。紡ぎ車の前に座る時間が増えた。指はもうすっかり慣れて、糸の太さを揃えるのに苦労しなくなった。
各地から月光糸の注文が届くようになっていた。辺境の小さな牧場が、少しずつ知られ始めている。
シロは中型犬を超えて、大きめの犬くらいのサイズになった。翼が伸びて、時々ばさりと開く。まだ飛べないけれど、丘の上から滑空のまねごとをしては、草むらに突っ込んでいる。
「メルルさーん! 新聞きましたよー!」
フランが王都発行の新聞を振りながら走ってきた。辺境に届くのは二週間遅れだけれど、読めるだけありがたい。
「なんか面白い記事あった?」
「えっと……あ、これ」
フランが紙面を指差した。
「『バルドウィン商会、不正取引の発覚により王都商業組合から除名処分。当主レクト・バルドウィンは弁明の機会を与えられたが出頭せず、商会の信用格付は最低に引き下げられた』……だって」
風が吹いて、新聞の端がぱたぱたと鳴った。
「そう」
それだけ言った。
胸に何かが去来するかと思ったけれど、何も湧かなかった。怒りも、哀れみも、ざまあみろという気持ちも。ただ、遠い話だった。
私には牧場がある。シロがいる。フランがいて、ルーナおばあちゃんがいて、雲羊とぴくんがいて。
そして、帰ってくる人がいる。
「メルルさん」
「ん?」
「あれ」
フランが草原の向こうを指差した。
夕日に染まった道の上に、長い影が伸びていた。
背が高い。歩幅が大きい。藍色の上着。
シロが弾かれたように走り出した。翼を全開にして、ぱたぱたと全力で駆けていく。
「ぴぃぃぃぃぃっ!」
今まで聞いた中で一番大きな声だった。
長身の影がしゃがんで、飛びついてきた白い塊を受け止めた。シロが顔中をすりすりしている。尻尾が千切れそうなほど振り回されている。
私は走らなかった。
歩いた。ゆっくり、一歩ずつ。
近づくにつれて、顔が見えてくる。旅の埃で少し汚れた外套。変わらない切れ長の目。そして耳の後ろの鱗が、夕日なんか関係なく──深紅に光っている。
シロを片腕に抱えたまま、ナシェルが私の前に立った。
「ただいま戻りました、メルル」
笑っていた。
この人が笑うのを、ちゃんと見たのは初めてかもしれない。不器用で、少しぎこちなくて、でも温かい笑顔だった。
「おかえりなさい、ナシェル」
声は震えなかった。
ちゃんと笑えた。
シロが二人の間で「ぴぃ」と鳴いて、ぴくんが遠くの柵の上で角をぴくりと動かして、雲羊がめぇと合唱して。
夕日が牧場を金色に染めている。
「あ、そうだ。一つ伝え忘れていました」
「何ですか」
「竜王陛下が、この牧場を見たいとおっしゃっています」
「……は?」
「秋の大祭で報告したところ、大変興味を持たれたようで」
「竜王陛下が、うちに?」
「はい」
シロが「ぴ」と鳴いた。翼が、ばさりと開いた。
今までで一番大きく。初めて、完全に。
白銀の翼が夕日を受けて虹色に光った。あの森で拾った卵と同じ、虹色の光。
「……シロ、あんたそれ」
「ぴぃ」
澄まし顔。
竜王の末子は得意げに翼を広げたまま、私の腕にもぐりこんだ。
ナシェルが隣にいる。シロが腕の中にいる。フランが後ろで「えー! 竜王陛下!?」と叫んでいる。ルーナおばあちゃんの笑い声が聞こえる。
三ヶ月前、馬車の窓から見た大草原。あの時は何もなかった。ボロ小屋と、夕焼けと、「最高じゃん」と漏れた前世の口調だけ。
今は全部ある。
ここが、私のただいまの場所だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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