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婚約破棄されたので辺境でのんびり魔法牧場はじめます!  作者: 九葉(くずは)


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第11話 竜王の使者と、この子の名前

 三日が経った。


 朝、鏡の前で髪を梳かした。特別なことをするつもりはなかったのに、手が勝手に念入りに動く。


 普段は適当に束ねるだけの髪を、きちんと編み込んだ。辺境に来てから一度も袖を通していない、唯一のよそゆきの白いブラウスに着替えた。


「ぴ?」


 シロが寝台の上から首をかしげている。


「今日、大事なお客さんが来るの」


「ぴぃ」


「あんたのことを見に来るんだよ」


 シロを抱き上げた。手のひらに収まっていた頃が嘘みたいに、もう両腕でしっかり抱えないといけない大きさだ。温かくて、ふわふわで、翼の芽がぱたぱた動く。


 この子を、連れていかれるかもしれない。


 お腹の底が冷たくなった。三日間、何度振り払っても戻ってくる恐怖だった。


「メルル様」


 階下からナシェルさんの声がした。


 降りると、ナシェルさんが小屋の入口に立っていた。いつもの白い外套ではなく、深い藍色の上着を着ている。襟元に小さな竜の意匠のブローチ。竜王家の分家筋であることを示す正装なのだと、すぐにわかった。


「今日の審査には、僕が同席します」


「ナシェルさん」


「約束しましたから」


 あの夜の言葉だ。僕がいる限り、と言ったあの声。


 静かだけれど、揺るがない。


「メルルさーん! おはようございまーす!」


 フランが柵の向こうから手を振っている。隣にルーナおばあちゃんが杖をついて立っていた。


「ルーナおばあちゃんまで」


「こんな面白いこと、見逃すわけないだろう」


 面白いこと、という表現はどうかと思ったけれど、おばあちゃんの目は笑っていなかった。真剣だった。


 昼前。


 牧場の門前に、白い馬車が止まった。


 馬車ではない。正確には、翼のある白い獣が引く車だった。天馬、とナシェルさんが小声で教えてくれた。竜王家の正式な使者だけが使う移動手段。


 扉が開いて、一人の女性が降り立った。


 長い銀髪。切れ長の碧眼。背筋が刃物のように真っ直ぐで、頬の鱗は磨いた銀のように光っている。竜族の女性だった。年齢は読めない。三十にも五十にも見える、不思議な貫禄。


「竜王家直属使者、リーゼロッテと申します」


 低い声。感情の色がない。


「メルル・グリーンフィールド様ですね」


「は、はい」


「こちらが──」


 リーゼロッテの視線がシロに落ちた。


 私の腕の中で、シロがぴぃと小さく鳴いた。


 リーゼロッテの目が見開かれた。


 一瞬だけ。本当に一瞬だけ、厳格な表情が崩れた。


 そして。


 片膝をついた。


 牧場の土の上に、あの銀の鱗の竜族が膝をついた。


「──アルビオン殿下」


 声が震えていた。あの無感情に見えた声が。


「お探ししておりました」


 空気が変わった。


 フランが息を呑む音が聞こえた。ルーナおばあちゃんは黙ったまま杖を握り直した。


 アルビオン。


 竜王陛下の末子の名前。


 腕の中のシロが──アルビオン殿下が、きょとんとした顔でリーゼロッテを見つめていた。


「ぴ?」


 その間の抜けた返事に、リーゼロッテの肩がかすかに揺れた。笑ったのかもしれない。


「メルル様。ご安心ください」


 リーゼロッテが立ち上がり、外套の土を払った。厳格な表情が戻っている。


「本日の目的は、殿下の引き渡しではございません。養育環境の確認と、養育者の適格審査です」


 引き渡しではない。


 膝の力が抜けそうになった。


「竜王陛下は、殿下が安定した環境にあると判断された場合、現在の養育者に正式に養育権を委託する意向です。その審査のために参りました」


 連れていかれるわけじゃない。


 この子は、ここにいられるかもしれない。


 シロが私の顎の下にもぐりこんだ。温かい頭が喉に触れる。


 審査は、牧場の中を歩きながら行われた。


 リーゼロッテは一言も無駄なことを言わなかった。牧場の広さ、柵の状態、飼育している雲羊の頭数、角兎のぴくんとの共生関係、水源、薬草の備蓄。すべてを目で確かめ、手帳に書きつけていく。


「聖炎の発現は」


「は、はい。嵐の夜に初めて意図的に──」


「意図的に?」


 リーゼロッテの筆が止まった。


「牧場を守るように、風除けの壁を作りました」


「幼体が意図的に聖炎を制御した、と」


「はい」


 リーゼロッテが初めて、長い沈黙を置いた。


「……これほど安定した幼体を見るのは、初めてです」


 その声には、感嘆とも安堵ともつかない色がにじんでいた。


「ナシェル殿。獣医魔導の記録を」


「こちらに」


 ナシェルさんが革表紙の帳簿を差し出した。シロの体温、食事量、成長記録、魔力の推移。あの几帳面な文字でびっしり書き込まれた記録。毎日欠かさずつけていたのだと、初めて知った。


 リーゼロッテが帳簿をめくる手が止まった。


「この庇護申請書の写しですが」


「はい」


「共同管理者の欄に、メルル・グリーンフィールドの名が記載されていますね」


 え。


「ナシェルさん」


 振り向いた。ナシェルさんは正面を向いたまま、表情を変えなかった。でも耳の後ろの鱗を、指先でそっと押さえていた。


「……必要な手続きでしたので」


 共同管理者。


 シロの庇護だけじゃなく、私の名前を一緒に書いた。


 この牧場を、私ごと守ろうとしてくれた。


 リーゼロッテが帳簿を閉じた。


「審査結果を申し上げます」


 牧場の広場に立ち、リーゼロッテは正式な姿勢を取った。


「養育環境は極めて良好。幼体の心身の発育は月齢を上回り、聖炎の制御能力は異例の早さです。獣医魔導による管理体制も万全と認めます」


 風が草原を渡った。雲羊がめぇと鳴いた。


「よって、竜王家第七王子アルビオン殿下の養育権を、メルル・グリーンフィールドに正式に委託いたします」


 シロが私の腕の中で身じろぎした。


 リーゼロッテの言葉を理解したのかどうかはわからない。でもこの子は、この子なりに何かを感じたのだと思う。


「ぴぃぃ!」


 シロが跳ねた。腕の中で暴れるように体を起こして、私の顔にすりすりと頬を押しつけた。翼の芽がばたばた動いて、尻尾が振り回されて、ぴぃぴぃぴぃと止まらない。


「──シロ」


 声が詰まった。


 抱きしめた。


 目の奥が熱くなって、何か言おうとしたのに言葉にならなかった。


 ぴくんが足元に来て、角で私のふくらはぎをつんつん突いた。雲羊が一頭、二頭と寄ってきて、気づいたら白いもふもふに囲まれていた。


 泣いた。


 辺境に来てから一度も泣かなかったのに。あの夜も、実家を追い出された時も、レクトに脅された時も泣かなかったのに。


 今、泣いている。


 白いハンカチが、目の前に差し出された。


 ナシェルさんだった。何も言わずに、ただ差し出している。


 受け取ろうとして、指が触れた。


 長くて温かい指。


 ナシェルさんは、手を引かなかった。


 涙でぼやけた視界の中で、耳の後ろの鱗が見えた。銀ではない。淡いピンクでもない。もう少し濃い。赤に近い、けれどまだ赤とは呼べない色。


 リーゼロッテがその鱗を一瞬だけ見て、すっと目を細めたことに、私は気づいていた。


「ありがとう、ございます」


 声がかすれた。ハンカチで目元を押さえた。ナシェルさんの匂いがした。薬草と、紙と、少しだけ甘い何か。


「メルル様」


 リーゼロッテが馬車に乗り込む前に、こちらを振り返った。


「殿下を、よろしくお願いいたします」


「はい」


「──それから」


 視線がナシェルさんに移った。


「ナシェル殿。竜王陛下がお呼びです。秋の大祭までにお戻りください」


 風が止まった気がした。


 ナシェルさんの表情が、一瞬だけ曇った。本当に一瞬。すぐにいつもの平坦な顔に戻ったけれど、私はそれを見逃さなかった。


「……承知しました」


 白い天馬の車が、草原の向こうに消えていく。


 戻る。


 秋の大祭までに戻る。


 それはつまり、ナシェルさんがこの牧場からいなくなるということだ。


「ナシェルさん」


「秋の大祭は、竜族にとって重要な儀式です。分家筋として出席の義務があります」


 淡々と説明する声。いつもの学者の口調。


「……いつ、出発するんですか」


「まだ少し、時間はあります」


 少し。


 その「少し」が、どのくらいなのか。


 聞けなかった。


 シロが私の肩の上で、ぴぃと小さく鳴いた。


 夕日が草原を染めている。雲羊の群れが金色に光って、風がゆっくりと吹いている。


 この景色の中に、この人がいない日が来る。


 ポケットの中の鱗に触れた。薄くて硬くて、ほんのわずかに温かい。


 まだ少し時間がある、とナシェルさんは言った。


 なら、その「少し」の間に。


 丘の上で飲み込まれた言葉の続きを、私はまだ聞いていない。

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