第10話 鱗の意味と、言えない言葉
嵐が去った牧場は、思ったより傷ついていなかった。
東側の柵が三本ほど折れて、小屋の屋根板が一枚飛んだ。干し草の貯蔵庫に雨水が染みた。それだけで済んだのは、シロの聖炎のおかげだ。
「よいしょっ……と」
新しい柵の杭を地面に打ち込む。フランが反対側を支えて、私が石で叩く。腕が痺れるけれど、こういう単純な作業は頭を空っぽにしてくれるからありがたい。
ありがたいのだけれど。
「メルルさん、手ぇ止まってますよ」
「……ごめん」
エプロンのポケットに手を入れる。指先に触れる、薄くて硬い感触。
小さな銀色の鱗。
昨夜からずっと持ち歩いている。意味なんてない。なんとなく。なんとなくだ。
牧場の向こうで、ナシェルさんが屋根板の修理をしている。慣れない手つきで釘を打って、一度外して、打ち直している。学者の手は大工仕事に向いていないのに、黙々とやっている。
目が合った。
ナシェルさんが小さく会釈した。私も会釈を返した。
それだけ。
昨日の夜、暖炉の前で手を握られたことが、まだ指先に残っている。あの低い声が耳に貼りついている。なのに、朝になったら二人とも何事もなかったみたいに作業を始めて、必要なことしか話さない。
ぎこちない。
明らかにぎこちない。
「……あの二人、なんかありました?」
フランが小声で雲羊に話しかけていた。雲羊はめぇと答えた。答えになっていない。
昼前、雲羊たちが牧場の南側の斜面に集まっていた。嵐で濡れた毛が乾いて、陽射しの中でふわふわに膨らんでいる。白い綿菓子が斜面に並んでいるみたいだった。
「ぴぃー!」
シロが斜面の上から全速力で走ってきて、雲羊の群れに突っ込んだ。
もふ、と音がした気がする。
白い毛の中にシロが沈んで、青い目だけがきょろきょろ動いている。雲羊たちは迷惑そうにめぇめぇ鳴きながら、でも避けない。そのまま全員でゆっくり斜面を転がり始めた。
白いもふもふの雪崩だ。
ぴくんが柵の上から、半目でそれを眺めていた。角がぴくりとも動かない。「やれやれ」と言いたげな顔。
笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ楽になった。
午後、私はルーナおばあちゃんの家を訪ねた。
「おやおや、珍しいね。一人で来るなんて」
小さな石造りの家。窓辺に薬草の鉢が並んで、いい匂いがする。ルーナおばあちゃんは揺り椅子に座ったまま、湯気の立つお茶を差し出してくれた。
「あの、聞きたいことがあって」
「ふむ」
「竜族のこと、なんですけど」
お茶を一口飲んだ。甘い。蜂蜜が入っている。
「竜族が……鱗を落とすことって、あるんですか」
ルーナおばあちゃんの目が、すっと細くなった。
「あるよ」
「どういう時に?」
「そうさねぇ」
揺り椅子がきぃ、ときしんだ。
「竜族の鱗は魔力の結晶でね。普通は剥がれない。爪や髪と違って、意図的に剥がそうとしても痛みが走るくらい体の一部なんだよ」
「じゃあ、勝手に落ちることは」
「ある。ごく稀にね」
ルーナおばあちゃんはお茶を啜った。
「自分の意思で制御できないほどの感情が溢れた時だけ、鱗は勝手に剥がれる。怒りでも、悲しみでも、あるいは──」
言葉を切って、私の顔をじっと見た。
「──別の感情でも、ね」
頬が熱くなった。
「べ、別にそういう意味で聞いたわけじゃ」
「聞いてないよ。あたしは一般的な知識を話しただけさ」
にやり、と笑った。皺だらけの顔が、とんでもなく意地悪に見えた。
帰り道、エプロンのポケットの鱗がやけに重く感じた。
制御できないほどの感情。
あの人が、あの暖炉の前で。
考えるな。今はシロのことと牧場のことを優先しろ。
そう言い聞かせたのに、心臓は言うことを聞かなかった。
小屋に戻ると、テーブルの上に封書が置かれていた。
深い紺色の封蝋。竜の紋章。
ナシェルさんが居間の椅子に座っていた。表情がいつもより硬い。
「竜王家から正式な書簡が届きました」
「庇護申請の……」
「はい。受理されました」
一瞬、安堵が広がった。庇護が受理された。レクトの商会はもう手出しできない。
「ただし」
ナシェルさんの声が低くなった。
「庇護の条件として、シロの身柄確認が必要です。竜王家から使者が派遣されます。三日後に到着予定です」
身柄確認。
その言葉が、胸の奥に冷たく刺さった。
「確認って……シロを、連れていくってことですか」
「いえ、確認は──」
「あの子を、ここから連れ出すんですか」
声が震えた。自分でも驚くほど。
シロは私の足元で眠っていた。小さな寝息。温かい体。翼の芽がぴくぴく動いている。
この子を抱きしめた。あの嵐の夜に聖炎で牧場を守ってくれた、この子を。
「メルル様」
ナシェルさんが立ち上がった。
まっすぐ、私を見た。
「僕がいる限り、シロをこの牧場から引き離すことは誰にもさせません」
学者の口調ではなかった。
論文の注釈でも、事実の羅列でもなかった。
声の奥に熱があった。耳の後ろの鱗に手を添えることすら忘れて、ただまっすぐに。
「それは──」
ナシェルさんの唇が動いた。何か、続きがあるように見えた。
でも。
言葉は、飲み込まれた。
長い指が拳を握り、ゆっくり開いた。
「……書簡の詳細を確認します。準備すべきことを整理しましょう」
いつもの声に戻っていた。
けれど耳の後ろの鱗は、暖炉の光なんか関係なく、はっきりと桃色に染まっていた。
夕暮れ。
修復作業を終えて、牧場の裏手の丘に登った。ここから見る草原が好きだ。雲羊たちが点々と白く散らばって、空の色がゆっくり変わっていく。
隣に、ナシェルさんがいた。
どちらから誘ったわけでもない。気づいたら二人とも同じ場所にいた。
草の上に並んで座る。肩と肩の間は、拳ひとつ分くらい。
風が吹いて、草の匂いがした。
しばらく、何も話さなかった。
「メルル様」
「はい」
「伝えたいことが、あります」
心臓が跳ねた。
ナシェルさんが私の方を向いた。夕日が横顔を照らして、鱗が光っている。銀ではなく、桃色でもなく、もう少し濃い──赤みがかった色。
「それは──」
「ぴぃぃぃぃっ!」
白い弾丸が丘の上を駆け抜けた。
シロだ。
翼の芽を全開にして、ぱたぱたと走り回っている。何かに興奮しているらしい。夕日を追いかけているのか、虫を追いかけているのか、とにかく全力で丘を往復している。
そして私とナシェルさんの間に、どすんと座った。
「ぴ」
得意げな顔で尻尾を振る。
ナシェルさんが口を開けたまま固まった。
「……シロ」
「ぴぃ」
にこにこしている。場の空気が読めない竜王の末子。
ナシェルさんが目を閉じた。長い息を吐いた。学者の顔に戻っていく。
「……日を改めます」
「え」
「いえ。なんでもありません」
シロを抱え上げて、丘を降りていく背中。耳の後ろの鱗を、指先でそっと押さえていた。
あの仕草。感情を抑えるときの癖。
聞きたかった。
何を伝えようとしたのか、聞きたかった。
でもシロが私の膝に戻ってきて、「ぴ」と甘えた声を出して、その温かさに言葉が溶けた。
夜。
寝台の上でシロを抱いて、天井を見つめる。
三日後に使者が来る。シロのことが明らかになるかもしれない。ナシェルさんは守ると言ってくれた。あの声は本気だった。
でも、それとは別の言葉があったはずだ。
あの丘で、夕日の中で、飲み込まれた言葉。
ポケットの中の鱗に触れる。薄くて硬い、小さな欠片。
制御できないほどの感情が溢れた時に落ちる鱗。
「……ナシェルさん」
暗い天井に向かって呟いた。シロの寝息だけが返事をくれた。
三日後。
この牧場に、竜王家の使者が来る。
眠れない夜が、静かに更けていった。




