第1話 さよなら王都、こんにちは大草原
シャンデリアの魔導灯が、百合の花束のように白い光を会場に降らせている。
初夏の社交パーティー。王都の貴族たちが季節の挨拶を交わすだけの、穏やかな夜のはずだった。
「──君のような退屈な女とは、婚約破棄だ」
レクト・バルドウィンの声はよく通った。
彼はいつもそうだ。声量の調整がうまくて、ここぞという時に、会場の端まで届く声を出す。商会の若旦那として鍛えた話術。私はそれを、三年間ずっと隣で聞いてきた。
今夜は、その話術が私に向けられた。
「退屈?」
思わず繰り返してしまった。
周囲がざわつく。シャンパングラスを持つ手が止まり、扇で口元を隠した令嬢たちの視線が、刺すように集まってくる。
「ああ。社交の場で華やかに振る舞えない、話題に乏しい、魔力も平凡。正直に言って、バルドウィン商会の未来を共に歩むには物足りない」
レクトは腕を組み、金色の髪をさらりと揺らした。絵に描いたような美青年の顔に、同情めいた笑みが浮かんでいる。
その背後に、淡い桃色のドレスをまとった男爵令嬢がそっと控えているのが見えた。──ああ、次の相手はもう決まっているのね。
喉の奥がきゅっと締まる。
退屈。
その一言が、まっすぐ胸の真ん中に刺さって、抜けない。
反論しようと思った。でも、何を言えばいいのかわからなかった。だって──私自身、どこかでそう思っていたから。社交の場が苦手で、大勢の前で気の利いた冗談を言えなくて、いつもレクトの隣で曖昧に笑っているだけの自分。
退屈な女。
否定できない自分が、一番つらかった。
だから、泣かなかった。
涙を見せたら、この人に最後の一滴まで搾り取られる気がした。
私はドレスの裾をそっと摘み、パーティーの作法通り、完璧な角度でカーテシーを取った。
「三年間、お世話になりました。お元気で、レクト様」
頭を上げた時、レクトの目がほんの一瞬だけ揺れたのを見た。──何を驚いているの。あなたが切り捨てたのに。
背を向けて、まっすぐ出口に歩いた。背中に刺さる視線が、火のように熱い。足が震えていたのは、きっと誰にも気づかれていない。ヒールの音だけが、やけに硬く響いた。
◇
実家に戻ったのは翌朝のことだった。
屋敷の応接間は、三年前に父が再婚してから、どこかよそよそしい匂いがする。新しい母上──義母が選んだという百合の香水が、クッションにまで染みついていた。
「辺境のグリーンフィールド旧領に、小さな家がある」
父はそう言って、私の目を見なかった。茶器を弄る指先ばかりを見つめている。
「お前の母方の祖父が遺したものだ。しばらく、そこで暮らしてみてはどうだ」
しばらく、ではなく、ずっと。
父の言葉の裏にあるものは、社交界で揉まれてきた私にもわかる。婚約破棄された娘を抱えていては、義母の実家との付き合いに差し障るのだろう。
「──わかりました」
不思議と、怒りはなかった。
ああ、やっぱり。ここにも、私の場所はなかったんだ。
それだけが、静かに沈んでいった。
◇
王都から辺境へ向かう馬車は、片道三日の旅だった。
揺れる幌の中で、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。石畳の街道が、いつしか土の道になり、建物が減り、代わりに草原が広がっていく。
──退屈な女。
レクトの声が頭の中で繰り返される。振り払おうとするのに、棘みたいに引っかかって取れない。
……でも。
視線を落とした膝の上、旅鞄の中に入れた一冊のノートが目に入る。
前世の記憶。
過労死した前の人生で、唯一の楽しみだった牧場経営ゲーム。
毎晩、仕事で疲れ切った体をベッドに投げ出して、画面の中の小さな牧場で羊の毛を刈り、畑に水をやり、出荷して少しずつお金を貯めた。あの頃の私──いや、あたしは、あのゲームの中でだけ息をしていた。
目を閉じると、ドット絵の牧場が瞼の裏に浮かぶ。朝日の中で走り回る動物たち。収穫祭の音楽。村人たちの笑顔。
──あれ。
なんだろう、この気持ち。
辺境に向かう馬車の中で、胸の奥に小さな火が灯るような感覚。
だって、思い出してみれば。
牧場ゲームの冒頭って、いつも「都会の暮らしに疲れた主人公が、田舎に移住する」ところから始まるんだ。
……これ、完全にあたしじゃん。
笑ってしまった。声に出して。御者のおじさんが怪訝そうに振り返ったけど、構わなかった。
そうだ。王都で退屈な女だったなら、退屈じゃない場所に行けばいい。私は社交パーティーの才能はないけれど、動物の世話と畑仕事なら、前世で一万時間くらいやった。画面越しだけど。
◇
馬車が辺境の村に着いたのは、三日目の夕暮れ時だった。
幌から顔を出した瞬間、風が変わった。
王都の、人と石と魔導灯の匂いではない。草と土と、どこか甘い花の香りが混じった風。髪を巻き上げるほど強くて、でも温かい。
そして、目の前に広がる景色に、息が止まった。
大草原だった。
地平線まで続く、初夏の緑。夕日がそのすべてを金色に染めている。空は紫と橙のグラデーションで、遠くに小さな山脈のシルエットが浮かんでいた。
「──あ」
声にならなかった。
王都のシャンデリアより、ずっときれいだ。
そのとき、草原の向こうを何かが横切った。
白い。もこもこしている。十数頭の群れ。綿菓子みたいにまるくて、短い脚でとことこ走っている。
「あの……御者さん、あれ、何ですか」
「ああ、雲羊だよ。辺境じゃ珍しくもない」
雲羊。
もこもこの白い毛に覆われた、羊のような魔獣。夕日を受けて、毛先がほんのり金色に光っている。一頭がこちらを振り向いて、まんまるの黒い目でじっと見つめてきた。
──かわいい。
かわいすぎる。
あのもこもこに顔をうずめたい。あの丸い目に見つめられたまま昼寝したい。
気づいたら馬車から身を乗り出していて、御者のおじさんに「危ないですよ!」と引っ張り戻された。
◇
祖父が遺したという家は、村のはずれにぽつんと建っていた。
石造りの小さな平屋。屋根の一部が苔むしていて、窓枠は歪んでいる。扉は軋んだけれど、中に入ると、意外と広かった。暖炉と、小さな台所と、寝室がひとつ。ほこりは積もっているけど、壁も床もしっかりしている。
窓を開けた。
夕暮れの風が吹き込んで、ほこりを巻き上げる。その向こうに、さっきの大草原が見えた。空が薄紫に変わり、最初の星がひとつ瞬いている。
「……最高じゃん」
前世の口調が漏れた。でも、いい。ここには聞いている人なんていない。
退屈な女でも、この景色の前では胸がいっぱいになる。それだけで十分だ。
旅鞄から前世の知識を書き留めたノートを取り出し、最初のページを開く。「牧場の始め方」。あのゲームで何百回とやった手順が、びっしり書いてある。
──まずは家の掃除。次に畑。それから家畜小屋。
明日から忙しくなる。でも今夜は、この夕焼けをもう少しだけ見ていたかった。
暖炉に薪をくべて火を起こし、旅の間に買っておいた干し肉と固いパンをかじる。贅沢とは程遠い夕食。でも、口の中で干し肉の塩気が広がった瞬間、「ああ、おいしい」と思えた。不思議だった。王都では何を食べても味がしなかったのに。
ベッドに潜り込もうとして、ふと窓の外を見た。
裏手の森──昼間はただの暗い木立にしか見えなかったそこに、何かが光っている。
淡い虹色。ほんの一瞬、木々の隙間からちらりと見えて、すぐに消えた。
「……蛍?」
いや、初夏にしては光の色が違う。もっと深くて、七色が混じっている。
目を擦る。──もう見えない。
三日間の馬車旅で疲れた目の、錯覚だろう。
首を振って、毛布をかぶる。
明日は朝から家の掃除だ。まずは窓を全部開けて風を通すところから。
目を閉じると、レクトの声がまた遠くで聞こえた気がした。退屈な女。
……うるさいな。
私はもう、あなたの隣にいない。
明日からは、私の牧場を作る。あのもこもこの雲羊を、いつか自分の手で撫でるんだ。
そう決めて、眠りに落ちた。
辺境の夜は、王都よりもずっと静かで、星が近かった。




