北の領地へ
北のウィンターガルド領は、寒冷地だ。
夏でも涼しく、冬は極寒で雪が積もる。
冬季は積雪のせいで移動が難しくなるため、私とリオスは秋のうちに北へ向かった。
ちょうど北の領地では、作物の収穫を終えて人々が一息つく時期でもあった。
昼過ぎに領主屋敷に到着した。
日中だというのに空は厚い雲に覆われ、どんよりとした寒さが肌を刺す。陽光に満ちた南の領地とはまるで別世界のようだ。
叔父の一家はこの領主屋敷で暮らしている。
特殊な歴史から、この国ではウィンターガルド公爵領だけが南北に分かれた二つの領地を持つ。その距離は遠く、公爵が両方を直接治めるのは現実的ではない。
そのため北の地では、叔父が領主代行を務めている。
領主屋敷は広々としていたが、飾り気のない造りで質実剛健という言葉がよく似合う佇まいだった。
「やあ、いらっしゃい。グレゴリオス、ナタリーさん、結婚式以来だね」
リオスの叔父――ヴィオス・ウィンターガルドは、家族とともに穏やかな笑みで出迎えてくれた。
驚いたことに、その顔立ちは義父の猛々しさとはまるで違い、柔らかい印象だった。
義父とは十歳以上離れているせいか、思っていたよりも若々しい。
それにしても、名前がかっこいい。「ゴリオス」はどこへ行ったんだろう。
ヴィオスさんの妻であるヘレナさんは、少し緊張していた。
ヘレナさんは平民出身で、きっと「どんな高飛車な貴族夫人が来るのか」と戦々恐々としていたのだろう。
私は一応男爵家の生まれだけど、ほとんど平民のように育った。だから、そんなに気負う必要はないのに。
ヘレナさんは緊張のあまり、ときどき声が裏返っていたけれど、その素朴な姿にむしろ親近感を覚えた。
あえて堅苦しい礼を省き、いつも通りの調子で話すと、空気がふっと和らいだ気がした。
気取らずに過ごせそうで、私もほっとした。
初代公爵夫妻――リオスの祖父母も、隠居してからこちらで一緒に暮らしている。
温かく出迎えてくれた二人に会うのは、結婚式以来だった。あのときは人の多さに圧倒されて、正直ほとんど記憶にない。
祖父は、イケおじだった。年齢はもう六十歳を過ぎているはずだが、肌が驚くほど綺麗で若く見えた。元王弟らしい気品と、溢れるオーラにひれ伏したくなるのを必死で耐えた。
祖母は、めちゃくちゃカッコよかった。元騎士だけあって姿勢が良く、凛とした立ち姿。寡黙でも、すべてを受け止めるような深い度量を感じた。
そして、ヘレナさんの腕に抱かれていたのが一歳のノラン君。
その隣には、きちんとした姿勢で立つ十歳のアラン君。
その日は難しい話はせず、長旅の労いと自己紹介を交わし、皆で夕食を囲んで早めに休んだ。
でも私は、どうしても眠れなかった。
もしかしたら、ノラン君がうちの子になるかもしれない。そう思うと胸が高鳴って仕方がなかった。
リオスはそんな私の気持ちを察していたのだろう。
何も言わずに、私が眠りに落ちるまで、ずっと髪を撫でてくれていた。
翌日、北の領地を案内してもらった。
私は次期公爵夫人として、それなりに北の領地のことも知っておかなければならない。
領民たちは穏やかで、親しみやすい人々だった。
なぜ今まで来なかったのかと冗談まじりに聞かれてしまった。
そのときは、ヴィオスさんがうまく取り繕ってくれた。
……今さらだけど、私はもっと早くにここに来るべきだったんじゃないだろうか。
病弱設定だったから、南の領地ですら結婚式以降は正式に顔を見せていなかった。
侍女や平民としては出かけたり店の人と話していたけれど、公爵夫人の務めとして領民と向き合ったことは一度もなかった。
それは、とんでもなく不義理なことだったのかもしれない。
リオスも私に社交を望んでいないことは分かっている。
でも、やっぱりこれからはもう少し、リオスの妻としての務めを果たしていこう。
立場が人を作るという言葉は、本当かもしれない。
そう自覚するまでに、三年もかかってしまったけれど。
空いた時間に、ノラン君の子守をさせてもらった。
まだ一歳なので、よちよち歩くのを見守るだけだ。
ノラン君は人見知りをしないのか、すぐになついてくれて、私に向かって歩いてきては膝にダイブするという謎の遊びを延々と続けた。
おもしろい効果音をつけるとキャッキャと笑って何度も繰り返した。
弟にもこんな時があったな、と懐かしく思いながら相手をしていた。
その夜、ヴィオスさん夫婦と私たちで話をした。
ヘレナさんは穏やかに話し始めた。
「ノランは、いつもは人見知りが激しいんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。でも、ナタリーさんには人見知りしないみたいです」
「えへへ。だとしたら嬉しいです」
「……少し、失礼なことを伺ってもいいでしょうか?」
「……はい」
「ナタリーさんはまだお若いですよね。これから子どもができる可能性は高いのに、どうして養子を選択肢に?」
「そ、そうですよね。そうなんですけど……その、プレッシャーを感じてしまって……」
「……公爵家の跡継ぎですものね……」
「そうなんです……」
私とヘレナさんが話していると、隣でリオスが補足してくれた。
「アリィーは、子どもができないことを他の貴族夫人に貶められたばかりなんです」
「なに? 公爵家にそんな無礼を働く者が?」
「はい、叔父上。その者たちには適切に報復しましたが、子どもができないことで、軽んじられているのは事実です」
いやでも、一度きりの出来事だし、私の心が弱いだけだという気がしてきた。
「ひどいことを言われたのは一度だけで、その前から不妊に悩んでいたから、私の心が弱いだけかも……。確かに、そのうち子どもができるかもしれません。でも、できないかもしれない……。結婚したらすぐにできると思ってたのもあって、自分に原因があるのではと責めてしまって……」
「原因は俺の可能性だってある。王家の分家は、子どもができにくいんだ」
「そうよ。私たちも、アランができるまで三年かかったし、ノランはそれからもしばらくできなかったの」
そうだったのか。
長年待ち続けた末に授かったノラン君を、簡単に養子になんて出せないだろう。
視線がだんだん下がる。いろいろと、甘かったかもしれない。
「……でもね、私も、ヴィオスと――公爵家の人と結婚したとき、覚悟はしていたの。こういうこともあるだろうって。それでも、私は、我が子の幸せを願わずにはいられないの」
「……はい」
「もし、ノランを養子に迎えたとして、その後にあなたたちに子供ができたら、どうなるのかしら? そのとき、ノランが要らない子として扱われるようなら、私は一生あなたたちを許せないわ」
「そんなことは……しません。絶対に。もし、ノラン君がうちに来てくれることがあれば、分け隔てなく、我が子として育てます」
「……そう。……分かりました。じゃあ……あと一年、あなたたちが子どもを授からなかったら、ノランを養子に出します」
「え……いいんですか?」
「ええ。だから、安心して過ごしてちょうだい。そしたら案外、授かるかもしれないわよ?」
そう言って、ヘレナさんは穏やかに笑った。
難航するかと思っていた話が、意外なほどあっさりと進み、拍子抜けした気分だった。
「ありがとうございます……!」
「感謝します」
リオスが、私の肩を抱き、静かに微笑んだ。
私はその胸に顔をうずめた。
(良かった……)
ようやく、重たかった心が軽くなるのを感じた。
みんなが温かく協力してくれる。
その優しさが、胸の奥まで染みわたった。
それから数日滞在して、私たちは南の領地へと戻った。
一年後に養子を迎えられることになり、義両親も心から喜んでくれた。
それ以降は、月のものがきても屋敷全体が落ち込んだ雰囲気になることはなかった。
たとえ子どもを授からなくても、一年後にはノラン君を迎えられる。
公爵家の屋敷は、希望の光に満ちていた。
季節が移り、冬が訪れ、社交シーズンが始まった。
私はリオスと一緒に参加できる社交場から、少しずつ慣れていった。
礼儀作法はまだ完璧とは言えないけれど、夜会ではリオスが、茶会ではセリーヌ様がさりげなく助けてくれた。
今まで疎かにしていた、南の領民への顔見せや慈善活動にも取り組み、私史上で最も忙しい数カ月を過ごした。
残念ながら小説はあまり書けなかったけれど、不思議と不満はなかった。
小説は、オフシーズンにゆっくり取り組めばいい。
むしろリアルな貴族社会を知ったことで、より深みのある物語が書けそうな気さえしている。
ノートには、次の作品のアイデアが少しずつ増えていった。
そうして、憂いもなく充実した日々を過ごしていた。
――すると、社交シーズンが終わりが近づいた頃。
驚くほどあっさりと、私は懐妊したのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
前回お願いした評価やブックマーク、リアクションなどを実際にいただけて、心から嬉しく思っています。
反応を見て、読んでくださる方がいることのありがたさを改めて感じました。
いつも支えてくださって、本当にありがとうございます。
現在、執筆ストックがなくなってしまったため、これからしばらくは週に一回更新の予定です。
少しゆっくりになりますが、今後も見守っていただけたら嬉しいです。
活動報告に、ときどき執筆にまつわる雑談を書いています。
お時間のあるときに覗いてみてください。
なお、本編終了後に掲載した「ナタリーの小説の講評」が埋もれないよう、雑談はしばらく経ったら削除しています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。




