斬新な提案
足の治療を終えて、リオスが用意させたのはいつもの紅茶とは違う甘い香りが漂うお茶だった。すぐに使用人が下がり、私たちはソファに並んで座った。
「喉が渇いているだろう。飲もう」
そう言って彼が差し出した湯気の立つカップには、はちみつが一匙垂らされていた。ほんのり甘い香りが鼻をくすぐり、怒りの熱でこわばっていた胸の奥が、少しだけ緩むのを感じた。
さっきまで彼の周りに漂っていた冷たい空気は、もうすっかり消えていた。
「まず、愛人の噂についてだが」
「う、うん」
「三年ほど前から、俺には愛人がいるという噂があった」
「三年も前から!?」
全く気が付かなかった。新婚の頃からだったの!? 最低!
「紫髪で、平民や侍女の格好をした愛人と遊び歩いているという噂だ」
「……え? それって……」
「そう。君だよ、アリィー」
「ええっ!? でもお茶会では、没落貴族令嬢のナントカって人だって……」
「誰だ、そんなデマを流したのは」
「愛称で呼び合って、親しそうにしていたって!」
「……なるほど。不幸にも偶然が重なったのか」
彼は長い溜息をつき、再び口を開いた。
「4年前、俺は学園の同級生である没落した伯爵令嬢を保護した。彼女の名前は『レアリィーナ』で、髪色はライラック――薄紫色だ。不運にも、君の変装時の髪色と同系色だった。しかも君の『アリィー』という愛称が偶然に名前と合致し、社交界での噂に繋がったんだろうな」
「ええ? でも、本当にただの噂? みんなすっごい自信満々で言ってきたんだよ?」
「社交界の噂なんて、そんなものだ。大抵、根拠もなく適当なんだよ」
「じゃあその『レアリィーナ』さんは、今どうしているの?」
「……ウィンターガルド領で、今は平民として暮らしている」
「うーん……でも結局、それだけじゃあなたが彼女と浮気してないって証拠にはならなくない?」
「アリィー……。それは、悪魔の証明というやつだ」
「ええ? でも、他にも違和感があったんだよね。……そうだ! 最近会いに来る頻度が明らかに減ってたじゃん! それを聞いたら隠したじゃない! だから、てっきり結婚記念日に離縁を言い渡されると思ったの。それで、愛人と結婚するんだって……」
思い出した途端、胸の奥に押し込めていた感情が蘇り、じわりと涙が溢れた。
「ああ、そのことか……」
「それに私、子どももできないし……」
「アリィー」
抑えようとしても、涙は次々にあふれて止まらなかった。リオスがハンカチで涙を拭ってくれても、涙はとめどなく流れた。
「子ども一人でも難しいのに、十人なんて、到底、無理だしっ、ぐすっ」
「……」
「だからっ、離縁されても仕方ないかなってぇ……。ずびっ」
涙と一緒に鼻水まで溢れ、盛大にかんでしまった。しかも、リオスが差し出してくれたハンカチで。
彼は私の鼻水など気にも留めず、ただ苦悩の表情で打ちひしがれていた。
「……俺が、悪かった……。アリィー、実は……君に嘘をついていた」
「やっぱり浮気してたのね!?」
「違う! 浮気はしていない! だが……」
そうして、彼は話し始めた。
***
「ええ!? じゃあ、十人も子どもを産む必要はないの!?」
「ああ。あれは俺の嘘……いや、願望だ」
「若い夫婦は、毎晩子作りするのが当たり前っていうのは?」
「それも……俺の願望で……すまない。一般的な貴族夫婦は、それぞれの寝室で眠る。子をなす時だけ夫婦の寝室を使用する」
「だからお茶会で、変な空気になったのね!? 半分はリオスのせいじゃないの!」
「申し訳ない。……実は、母上にも口止めしていた」
「な、なんですって!?」
礼儀に厳しいお義母様が、お茶会の件では模範解答を説明するにとどめ、妙に優しかったのも……そういうこと?
「あと、平民の恋人同士は密着するのが常識という話だが……」
「うん。それは街でもよく見かけたから本当よね?」
「……あれは、嘘だ」
「うそぉ!?」
「男女の護衛に密着したカップルを演じさせて、君を欺いた」
全く気付かなかった。
何が本当で、何が嘘なのか、もう分からなくなった。
どこから嘘をつかれていたのだろう。
「え、あなたがグレゴリオス・ウィンターガルドで、ここがウィンターガルド公爵領なのは本当よね……?」
「あ、ああ……もちろんだ。混乱させてすまない」
それは本当のようで、胸をなでおろした。
「他についている嘘はないの?」
「嘘は……ない」
なんだか怪しいけど、それよりも気になっていることを尋ねた。
「なぜそんな嘘をついたの?」
彼は俯いて沈黙した。
「私、たいした理由もなく嘘をつく夫は嫌――」
「……君に触れたかったんだ」
リオスは俯いたまま、苦しげに言葉を絞り出した。
「君は人前で触れるのを嫌がるが、公爵家では人払いできない時もある。俺たちの周りには、常に使用人がいる。そんな時でも……どうしても、君に触れたかった。だから、慣れてもらおうと汚い手を使ってしまった。触れることが当たり前になればいいと思ったんだ。浅はかに嘘をついてしまった。本当にすまない」
彼は一息にまくしたてた。
「その他の嘘というか誇張も、結局は同じ理由だ。ただ君と一緒に過ごしたかった。だが、それで君に負担をかけてしまったかもしれない。すまなかった。取るに足らない理由でも、俺にとっては死活問題だった。……執務に追われる日々の唯一の楽しみだったんだ。それだけは分かってほしい」
こんなに喋る彼を見るのは、初めてかもしれない。圧倒されて、咎めることはできなかった。
「そ、そう……。あなたなりの理由があったのね」
「ああ」
彼は神妙な顔で頷いた。
「えーっと、じゃあまとめると……あなたには愛人はいなくて、噂されている愛人は変装した私ってことなのね?」
「そうだ」
「……でも、まだおかしいわ。あなた最近、よそよそしかったじゃない。聞いても『まだ言えない』って……。それで私、あなたから離縁されると思ったんだから。 あれは一体、何だったの?」
「ああ、それか。……一日早いが、君に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
彼に抱き上げられ、辿り着いたのは執務室の隣の部屋だった。
扉を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
そこは、空を思わせる部屋だった。壁も床も淡い水色で統一され、天井には雲を模した白いレースがゆったりと揺れている。天井からは、太陽を模した球体の照明が、柔らかな光を放っていた。おそらく、魔鉱石を使用しているのだろう。これだけで相当の価値があるはずだ。
中央には猫足のような曲線を描いた白い丸テーブルと椅子が二脚。正面の壁には大きく「結婚三周年」と書かれ、ガーランドや天使の可愛らしい装飾が壁一面を彩っていた。
この光景にタイトルを付けるなら「空の上のサロン」だろう。
「わあぁぁ!! なにこれ……!」
「今年は君がパーティーをしないと言うから、俺が準備したんだ。……君はサプライズが好きだろう?」
元の部屋は確か資料室だったはずだが、面影は完全になく、幻想的な可愛い部屋になっていた。私は中央の白い椅子に座らせてもらい、彼もその隣に座った。
「ふえぇ……素敵すぎる……! わざわざ改装したの? 全然気付かなかった」
「君を驚かせたくて、使用人たちにも君には知らせないよう徹底させていたんだ。それがまさか、こんな誤解に繋がるとはな」
そうか。使用人たちが最近よそよそしかったのは、皆がこの秘密を守っていたからだったのだ。嫌われていたわけじゃなかったことに、胸をなでおろした。
「じゃあ、たまに何か言いたそうにしていたのもこれのこと?」
「……君に早く言いたくて仕方がなかった。だが、当日に驚かせたくて我慢していたんだ。結局、前日に打ち明けることになってしまったが」
「紛らわしいよ! でも……嬉しい。ありがとう」
お礼を言うと、彼はようやく笑顔を見せた。
「そして、これは俺からのプレゼントだ」
扉の反対側の壁際に、布をかけられた大きな物体が置かれていた。
彼が合図をすると、使用人たちが丁寧に布を取り払った。
そこに現れたのは、白い大理石を削り出した、等身大の少女像だった。
本を胸に抱き寄せ、呼びかけられたかのように振り返る姿。石でありながら、流れる髪は風を孕むように揺らめき、その指先の柔らかさまでもが伝わるほど繊細に彫り込まれていた。優しく微笑み、目元には穏やかな光が宿っている。
その少女の顔は――紛れもなく私だった。
「こ、これは……」
「見事な出来だろう? 彫刻家と何度も打ち合わせを重ねて作らせたんだ。これを公爵家のエントランスに飾ろう」
「えんとらんす……」
嫌だ。恥ずかしすぎる。
少女像の小指がなぜかかすかに立っていた。妙に乙女っぽい表情としぐさに、気恥ずかしさが全身を駆け巡った。
(私、小指立てる癖なんかあったっけ? ないよね?? 彼の目にはこう見えてるってこと?)
「嫌だ……」
「エントランスは嫌か? なら庭園にしよう。花に囲まれた君の像は、さぞ映えるはずだ」
もう、何も言う気力がなかった。まだ庭園ならば、目にする者も限られるからいいかと諦めた。
「……うん、そうだな。俺の執務室から見えるように配置すれば、いつでも君を見られる。そう考えると、庭園という君のアイデアは素晴らしいな」
勝手に私のアイデアとして話が進み、彼は満足げに微笑んだ。
(私たち……なんで揉めていたんだっけ? こんなに私を愛してくれるリオスが浮気とか、あり得なくない?)
なんだか、バカバカしくなってきた。結局、愛人問題は私の勘違いだったようだ。
もしかしたら、私が思っていた以上に、彼から愛されていたのかもしれない。
じんわりと胸の奥が温かくなる気がした。
彼の顔を覗き込んで尋ねた。
「ねえ、リオスってもしかして、私のことめちゃくちゃ好きじゃない?」
「ああ。『めちゃくちゃ』好きだが。知らなかったのか?」
「ふふっ。私も、めちゃくちゃ好き。じゃあ、離縁はしない?」
「どんなことがあっても、離縁することはない」
(そっか。どんなことがあっても離縁はしないのね)
嬉しくなって、隣に座る彼の腕に抱きついた。
彼は一瞬驚いてから、嬉しそうに微笑んだ。
この数時間、公爵家全体を覆っていた緊張感が緩んだ気がした。
安堵と、幸せな気持ちで満たされていく。
だから、私は良かれと思って、次の言葉を口にしたのだ。
私たち夫婦の絆が盤石だったら、こういう方法もありかもなんて。
むしろ素晴らしい提案になると思って――。
「じゃあリオス。私以外の女性にあなたの子供を産んでもらって、養子にするのはどうかしら?」
「……は?」
その時の、リオスの怒りとも絶望ともつかぬ恐ろしい表情を、私は一生忘れないだろう。




