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世界一素敵なゴリラと結婚します  作者: 志岐咲香
番外編:夫婦編

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41/71

初めての社交

 夏の熱気がようやく落ち着き始めた九月の下旬、王都郊外の森に若手貴族たちが集っていた。


 私は焦っていた。来月で結婚三年になるというのに、まだ子どもは授かっていない。三年も子ができないうえに、夫人としての務めを疎かにしていては肩身が狭い。気のせいかもしれないが、最近は侍女たちがよそよそしい。世話に来る回数や時間も減り、いよいよ呆れられているのではと不安になる。

 そこで、私はリオスに頼み込み、少しずつでも社交を始めさせてもらうことにした。

 意外にもリオスは渋った。確かに私の礼儀作法はいまだ完璧ではない。反対されるのは当然かもしれない。でも、ちょっぴり悲しかった。その気持ちが表情に出ていたのだろう、最終的にリオスは折れてくれた。


 そして今日。私はついに、公爵家の夫人として初めて社交の場に立つ。遅すぎるのは大目に見てほしい。

 リオスの若手仲間による猟会で、規模も小さく、慣れるにはちょうど良いと判断された。夫人たちも同席しており、狩りに出ている間は待ちながら親しく語らうのだという。


 狩猟前、集まった中で最も地位の高いリオスが挨拶を始めた。私は黙ってその隣に立ち、緊張で引きつりそうになる頬に、お義母様に仕込まれた淑女の微笑みを浮かべた。


「本日はお集まりいただき感謝する。狩りが実り多きものとなることを祈る。夫人方には狩猟の間、どうぞ楽しく語らうひと時をお過ごし願いたい。我が妻はまだ社交に不慣れだ。温かく迎えていただければ、私にとってこれ以上の喜びはない。皆の協力に感謝する。さあ、出発しよう」


 猟に向かう直前、リオスは私に微笑みかけた。


「ナタリー。出来るだけ早く戻る。菓子でも食べて待っていてくれ」

「は、はい。いってらっしゃいませ、グレゴリオス様」


 公の場なので、今日はリオスに対しても敬語だ。社交もしないくせに横柄な妻だと思われては困る。いや、普段からリオスに横柄にしているつもりはないのだけれど、私の口調が貴族社会では浮いてしまうことは自覚している。どちらかといえば平民寄りなのだ。うっかりいつもの話し方が出ないよう気をつけなければ。もちろん、愛称呼びも禁止である。


 男性陣を猟に送り出すと、その場がしんと静まり返った。


(え? なぜこんな沈黙が……?)


 周囲を見渡すと、夫人たちが目配せし合い、気まずげにしている。


(まさか――私が一番高位だから、何か声を掛けなければならないの!?)


 元々、社交性など皆無の私だ。気の利いた言葉など出てくるはずもない。臨機応変に場を繕うことこそ、私の最も苦手とすることだった。今考えていることを無意識に垂れ流していないだけで、私にしてみれば十分な進歩なのだ。そんな私が、ほとんど年上の夫人たちを前に仕切れるはずもない。

 気まずい沈黙は、永遠にも思えるほど重くのしかかっていた。

 そんな時、場の空気を一新するように、明るい男性の声が響いた。


「遅刻してごめんねェ。あれ、みんなもう狩りに行っちゃった?」


 ミルクベージュの髪に翡翠色の瞳を持つ、色気を漂わせた垂れ目の男性が、杖を手に軽やかに歩み寄ってきた。


「ヴィンセント様!」

「バリウス侯爵令息だわ」

「昨日、足を痛めてしまってねェ。狩りには出られないけど、ご婦人方にお会いしたくて参ったんだ。最近王都で大人気の菓子を持ってきたから、ぜひあちらのテーブルで召し上がって」


 女性陣へ向けたウインクは、妙に慣れていた。

 「きゃあ」と声が上がり、先ほどまでの重苦しい沈黙は嘘のように消えて、夫人たちは一斉に笑顔を浮かべ、楽しげにぞろぞろと隣室へ移動していった。私を残して。

 あっけにとられた私は、ただその場に立ち尽くしていた。


(この人、誰なんだろう? 垂れ目に泣きぼくろ……新しい登場人物のモデルにできそう!)


 これまで家庭教師から習った貴族名簿を思い返す。社交に出てはいなかったが、淑女教育は続けてきた。その課題には、高位貴族の名と特徴を暗記することも含まれていた。彼の立ち居振る舞いは、まさしく高位のものに見える。記憶をたどれば、分かるかもしれない。社交性の向上は苦手でも、暗記だけならそこそこ得意なのだ。


(ミルクベージュの髪に翡翠色の瞳……若手の会だから、おそらく同世代だよね)


 導き出した答えは、ヴィンセント・バリウス侯爵令息。代々宰相を輩出する家系だった。そして代々、人たらしで女たらしでもあったという。彼自身も既婚者ながら、割り切った政略結婚で浮気三昧。三年前にセリーヌ・エルバート伯爵令嬢と結婚し、今では子どももいるはずだ。


 そんな中、バリウス侯爵令息が口を開いた。


「あれ? 君は行かないのかい? 見かけない貴婦人だねェ。これほど美しい女性は初めてだ。お名前をうかがっても?」


 その一言で悟った。この人は女たらしだ。

 笑顔を保ちながら、お義母様直伝のカーテシーで挨拶をした。


「お初にお目にかかります。ナタリー・ウィンターガルドでございます」

「え! ウィンターガルド公爵家?」


 彼はたいそう驚いた様子だった。それも無理はない。社交界に顔を出すのは今日が初めて。次期公爵家の夫人が姿を見せぬことは、きっと有名だったのだろう。胸の奥がしゅんと縮むのを、私はどうにも抑えられなかった。


「君がグレゴリオス公爵令息の奥方かァ。なんだ、十分に美しいじゃないか。こんなに麗しい夫人を裏切るなんて、公爵令息はひどい方だなァ」


 彼の口から出たのは、そんな言葉だった。


(リオスが裏切った? 何のこと?)


 私は首をかしげるしかなかった。


「夫人はご存じないよねェ。仕方のないことですよ」


 哀れみを含んだ視線で、彼は近くの椅子を指す。促されるまま腰を下ろすと、当然のように隣へ腰掛け、途端にぶつぶつと呟き始めた。


「こんな綺麗な夫人を放っておいて浮気するなんて、信じられないなァ。……うん、ありだ。全然あり」


(う、浮気? リオスが??)


 目をぱちぱちと瞬かせ、思わず彼を見返した。言葉の意味は理解できても、信じることなどできなかった。

 やがて彼は、うっとりとした表情で口を開いた。


「ナタリー夫人。僕は一目で君の虜になったんだァ」


(……うん? この前、リオスが教えてくれた口説き文句と、同じ……?)


 バリウス侯爵令息はそのまま続けた。


「この出会いを、ただの偶然にしたくないなァ。次にお会いするときも、貴女の笑顔に会えると思いたい」


(また、同じ文言……。もしかして、リオスが参考にしていた貴族って、この人? でも、全然魅力的じゃないんだけど。軽薄過ぎない?)


 バリウス侯爵令息がすっと手を伸ばし、私の手を取ろうとした。

 思わず、握っていた扇子でその手をはじく。鋭い音が響いた。


 バシッ。


「いてっ!」

「あっ、申し訳ありません、つい……」

「ああ……いや全然大丈夫だよォ。……いてて。いや、何でもない。君の笑顔ひとつで、僕の一日は光に満ちる。それ以上の理由が必要かい?」


 再び伸ばされた手を、今度は突いて払いのける。扇子がこんなに役立つとは思わなかった。


「いてっ」


(同じ言葉でも、言う人が変わるとこうも響かないものなのね……)


 キャラクターというのは大事だと痛感した。リオスの口説き文句なら胸を打ったのに、この侯爵令息ではただ不快でしかない。まだ隙あらば触れようとする気配が漂う。嫌悪感が限界に達し、先制攻撃を仕掛けようと扇子を振り上げた――その瞬間。


「俺の妻に何をしているんだ」


 凄まじい殺気と圧が場を貫いた。

 次の瞬間、侯爵令息の身体は椅子から弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。床に転げ落ち、「いてぇ……」とうめく声が響いた。この人、足を痛めているはずなのに大丈夫だろうか。

 そばに立っていたのは、リオスだった。


「リオス?」

「アリィー、大丈夫か」

「え、ええ」


 私は大丈夫だけど、侯爵令息は大丈夫ではなさそうだ。かなり痛そうな落ち方をしていた。


「まったく、見境のない獣は困るな。……もう帰ろう」

「え? でも……」

「心配いらない。さあ、行こう」


 ……心配しかない。狩りはどうなったのだろう。中断して帰ってしまっていいの?

 侯爵令息は呆然と目を見開き、床に座り込んだままこちらを見ていた。

 リオスから溢れる怒気はなおも収まらない。


「え……『アリィー』? どういうことォ?」

「二度と俺の妻に近づくな。俺の妻の名前を呼ぶな。次はないと思え」


 吐き捨てるように言い放ち、リオスは私の手を取って馬車へと連れ出した。侯爵令息は目を見開いたまま、床に座り込んで動かなかった。……やっぱり大丈夫じゃない気がする。頭でも打ったんじゃないだろうか。


 帰りの馬車では、私が社交に出る必要はないことや、社交界がいかに腐敗と危険に満ちているかを、リオスは途切れることなく説いた。

 私はその間ずっと、こんなに早く切り上げてしまってよかったのか、結局どの夫人とも社交できなかったこと、そしてあの侯爵令息が怪我をしていなければいいなと、少しだけ気を揉んでいた。初めての社交は、失敗に終わった。


 後日、リオスから侯爵令息に怪我はなかったと聞き、私は胸をなでおろした。だがその直後、不服そうに顔を曇らせたリオスに「侯爵令息が好きなのか」と何度も問い詰められ、困り果てることになった。

 なぜそんな風に思うのか、私には最後まで分からなかった。むしろ気持ち悪かったと告げると、彼は満足そうに笑った。

 でも、侯爵令息が言った「リオスが浮気している」という言葉は、抜けないとげのように私の心に残り続けた。聞き間違いかもしれないし、なんとなく、リオスには尋ねられなかった。

 

 彼が浮気なんてするはずはないと、自分の心に押し込めてしまった。



 ……それが、いけなかったのだと思う。


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