最終話 「世界一素敵なゴリラ」
その後、安全が確認され、隠密隊の女性隊員に家へ送ると言われたが、私は抵抗した。
「彼のそばにいさせてもらえませんか? 彼が目覚めたとき、そばにいたいんです」
無理を承知で願い出た。
女性隊員は驚いた顔をしたが、「ぜひお願いします」と言って、話は驚くほどすんなり通った。気づけば、ウィンターガルド公爵家のタウンハウスに連れていかれていた。
さらに、治療が終わって寝ているという彼の私室に入れられた。
勝手に入っていいのか、何度も、複数の使用人に確認したが、「いいです、いいです」「むしろ、入ってあげてください」と皆が口を揃えて言った。
公爵家のセキュリティは大丈夫なのか気になった。
彼は、ベッドの上で静かに寝ていた。
治療を終えた医師たちの話では、深い傷ではなく致命傷にはならないだろうとのこと。
筋肉がナイフの侵入を防いだという。
ナイフには毒が塗られておらず、汚れもなかったため、感染症の心配も、今のところはなさそうだった。
不幸中の幸いだ。
今の医療では、これ以上ひどい傷だと施しようがなかった。
何かが違えば、彼が死んでもおかしくなかった。
そういえば、最初に出会った時はひょろ男と思っていたのに、いつの間にか、筋肉がついてたくましくなっていた。
毎日一緒にいたから、その変化に気づかなかった。
私は彼の寝顔を見つめた。
彼の顔を、ずっと見ていたかった。
カーテン越しに月明かりが差し込む静かな部屋。
魔道具ランプの灯りが小さく揺れている。
看病の途中、グレゴリオスは時々うなされていた。
眠れずにいた私は、彼の額に手を伸ばしてそっと触れる。
その瞬間、微かに彼が呻いて、ゆっくり目を開けた。
「……ナタリー……?」
「起きたのね? 体は、辛くない?」
まだ寝ぼけているのか、彼の手がゆっくり持ち上がり、私の頬を撫でた。
私は両手で、彼の手を包んだ。
そのぬくもりに甘えるように、頬を押し当てた。
それを見た彼の目が瞬き、諦めに変わった。
「……なんだ、夢か」
彼は苦笑した。
「え?」
「ナタリーが俺の手を握ることなんてない」
そんなことないだろう。今までだってエスコートの時とか、何度も手を繋いだじゃないか。
なんだか少し腹が立った。
「夢じゃないわよ」
「今日のはえらくリアルだな。どうせなら、結婚後の夢だったら良かったのに」
「ゆ、夢じゃないったら! 夢じゃなくて……本当に、結婚すればいいじゃない……」
勇気を出して言ってみた。
だが、その勇気は一蹴された。
「ははっ、夢の中のナタリーは、そんなことも知らないのか」
「え?」
「彼女は、俺に興味ないんだよ。結婚なんかしない」
彼は言い捨てるように言葉を放った。
衝撃を受けた。
まさか、彼がそんなふうに思ってたなんて、夢にも思わなかった。
いつも、何でもないように受け流しているんだと思ってた。
「興味、あるわよ。結婚だって……」
「やめてくれ。都合のいい夢は、目が覚めたときに辛いんだ。頼む、早く覚めてくれ」
彼は手を離して、右手で顔を覆った。
彼の方から手を離されたのは初めてだった。
寂しかった。
「……夢じゃないって、どうしたら信じてくれるの?」
「……じゃあ、キスしてくれ」
「え!?」
「キスしてくれたら信じる」
「ええ!? そ、そそそんなの無理よっ!」
「はは、夢でも、してくれないんだな」
彼は右腕で目元を隠してしまった。その仕草が、諦めや絶望を思わせて、胸が痛くなった。
私はベッドに手をかけた。
静かな夜に、小さな軋み音が響く。
そっと、彼に近づく。
彼は目元だけ腕を外し、私を見る。
心臓が、早鐘のように大きな音を立てて鳴った。
見つめ合ったまま、言葉はもうなかった。
心臓の音の響きが遠のく気がした。
私はそっと目を閉じた。
彼と私の間を、阻むものは何もなかった。
しばらくの沈黙のあとに私は座り直した。
彼は腕を外し、驚いた顔をしていた。
「え? ……夢、だよな……?」
「なんでよ!! ちゃんとしたじゃない!!」
私は顔が熱くなって、半分以上を手で隠しながら怒る。うそつき!
数秒、彼と目が合ったあと――。
ガバッと、すごい勢いで彼が身を起こした。
「は? え? は!? 待て、これ……現実……?」
「だから何回も言ってるでしょ!」
彼は、ずさっと、ベットの上で後ずさった。
そして頭を抱えながら言った。
「早く出ていってくれ」
信じられない言葉だった。
「ひどいっ! き、キスまでさせておいて!」
「ダメだダメだ! ダメなんだ、俺は。早く俺から離れたほうがいい」
「え?」
「俺は、おかしいんだ。君のことを考えると……頭がおかしくなるんだ……。今のうちに、俺が君を解放できるうちに、逃げてくれ。頼む……君を、傷つけたくないんだ」
彼は真っ青な顔色で、切羽詰まった様子で独白のように呟いた。
(……いやいや、こんなの、無理じゃない?)
必死に自分を抑えようとしている彼を見つめる。
(……ねえ、こんなの、無理だよ)
頭を抱えている彼。
(無理無理無理無理)
逃げてくれと言いながら、心細そうな目で、見てくる彼。
もう、無理ーっ!!!
「こんなの! 好きにならないの、無理でしょー!!!」
「え?」
彼は事態をよく飲みこめないような顔で、ぽかんと私を見ていた。
「小説家になりたかったのにーーー! なりたかったけどーーー! でも、どうせなれないなら、あなたの奥さんになりたかったって、死ぬって思ったときに、後悔したの……!」
「え? 小説家……?」
「そう! ずっと夢だったの。はあ。そのためだったら引退した貴族の後妻になる覚悟だってあったのに!」
「年上が好きなんじゃなかったのか……?」
「違う! あなたが好きなの! 好きになっちゃったの! こんな予定じゃなかったのに……! 友達なら問題なかったけど、結婚は、身分差が大きすぎるのよ。私、敬語すら危ういのに……!」
私は思わず、頭を抱えた。
今まで、小説家になるつもりだったから、学園の授業は真面目に受けていなかった。
特にマナーは興味がなかったから、ギリギリだ。後妻なら及第点でも、公爵夫人なら完全にアウトだ。
こんなことなら、途中からでも真面目に受けておけばよかった。
「ああああああ……!」
どうしよう。好意を向けられただけで誘拐されて、殺されかけたのに。そりゃあ、肩書きだけは貴族でも、中身はほぼ平民の私を、次期公爵夫人として認めたくない人もいるだろう。
それなのに、結婚なんかしたら、王国中の令嬢に暗殺者を差し向けられるんじゃないだろうか。
「もしかして……小説家になりたいから、今まで結婚を断ってたのか……?」
「そうだよ。働かずにずっと小説を書いていたかったの。あと、公爵夫人をする自信もなかった……今もない!」
「……なんだ……俺が嫌なんじゃなかったのか……」
「ええ!? そんな風に思ってたの? ……あなたが平民だったら、わりとすぐに受けてたと思うよ」
「……」
彼は目を瞬いた後、頭を抱えた。
「だ、大丈夫? まだ寝てた方がいいんじゃ……」
「……本当に、嫌じゃないのか? 俺と……結婚してくれる……?」
窺うような目で、そっと問いかけてくる。
「公爵夫人になるのは嫌。でもあなたと結婚したい。ていうか、他の人と結婚するとか言わないで!」
「君が……結婚してくれないと思って……」
「公爵夫人としては上手くやれないけど……あなたの子供を産むことはできるから! それでなんとか及第点にして!!」
「……こんな、俺だけが幸せなんて……」
彼はぼそりと呟き、しばらく思案して――そして、顔を上げた。
「……なればいいじゃないか。小説家に」
「え? 無理よ。小説を書くのってすごく時間がかかるのよ。片手間に書けるほど器用でもないし……」
「だったら、病弱ってことにすればいい。社交は免除できる。本当に必要なときだけ、顔を出してくれれば」
「学園で回し蹴りを決めたのに、病弱設定とか通ると思う?」
「……まあ、なんとかなるだろう」
彼は、苦い顔でそう言った。
「結婚してくれるなら、それでいい。君は好きなだけ小説を書けばいいし、社交もしたくないならしなくていい」
「いいの? ……ほんとにいいんだ……」
「しかし、なぜ今までそのことを隠していたんだ? 言ってくれれば、話し合えたのに」
「……言いたくなかったの」
「どうして? 夢を持つのは悪いことじゃない。俺が君の夢を笑うとでも?」
「そうじゃないけど……だって……私の小説、見せてって言うでしょう?」
「ああ、もちろん」
「私が最近書いてる恋愛小説……全部あなたがモデルなんだもの。……恥ずかしくていやだったの……」
恥ずかしくて泣きそうになった。
「は? ……いや、これ、俺に都合よすぎるだろう……やっぱり夢じゃ……」
「もう! しつこいよ!!」
私がいい加減に怒ると、彼は黙った。
静かに私の手を取り、もう一度――夢じゃない証明をして、と言った。
今度は、夢じゃないと信じてくれた。
……だって、長かったもん。
***
しばらくして、私たちは一緒にウィンターガルド領へ移動した。
まだ正式に婚約者じゃないうちから、私はすでに次期公爵夫人という扱いで、若奥様と呼ばれていた。
マナーや常識を仕込まれつつ、他の時間は執筆にあてさせてもらっていた。
あの夜の誘拐犯は、すぐに捕まった。
モスグリーンの髪色の女子生徒は、伯爵令嬢だったらしい。
彼女はずっとゴリラのことが好きで結婚を望んだけど、ゴリラと噂になったのが私のような身分の低い山猿令嬢だったから許せなかったんだとか。
山猿は言い過ぎだと思う。せめて子猿くらいにしてほしい。
清掃員に変装して侵入していた男は伯爵家の庭師で、伯爵令嬢に懸想していたのが動機だとか。恋は人を狂わせるのだと思わずにはいられない。
私が拘束されていたのは伯爵家の庭師用の作業小屋だったらしい。清掃員の格好で小屋の外に立っていた庭師がすぐに見つかり、そのおかげで私の居場所も早々に突き止められたのだそうだ。
詳細は伏せられたが、その後、その伯爵令嬢の姿を見た者はいないという。
ゴリラの怪我は、一週間ほどの安静期間を経て、約一カ月で完治した。
私は公爵家に、ゴリラの看病という名目で滞在した。
使用人たちからの生暖かい視線は気になったが、皆、親切にしてくれた。
そして、ある日。
彼は、どこか申し訳なさそうに私のもとへやってきた。
「ナタリー、大変申し訳ないんだが」
「なに?」
「君が呼んでくれている愛称を、変えられないだろうか」
「え!?」
「……君がたまに俺をゴリラと呼んでいるのは知っている。君は考えていることが、口から漏れていることがよくあるからね」
「ええええ!?!?」
知らなかった。もっと早く言ってほしい。
いつから漏れていたのか、非常に気になる。
「それは可愛いからいいんだが、友人から南方の国に『ゴリラ』という乱暴なモンスターがいると聞いてね。博識な者の間では、有名らしいんだ。だから、できれば別の呼び方に変えてくれないか?」
「えー、慣れてたのに」
「す、すまない……」
私は少し考えた後で、笑顔で答えた。
「ゴリラでいいじゃない、だってあなたは、世界一素敵なゴリラなんだから」
その後、ナタリーは力作の『世界一素敵なゴリラ』という作品を小説コンテストに応募したが、一次選考で落ちたという。
それでも、彼女は諦めなかった。
グレゴリオスという一人のゴリラ――もとい、公爵夫をモデルに、恋愛小説をひたすら書き続け、幾度もの落選を経て、ようやく一つの賞を手にした。
それが、彼女をプロ作家の道へと導いた。
その時のタイトルは、彼女が命がけで恋に落ちた、あの修羅場の夜をモデルにした『恋は命がけ』だったという。
彼女は生涯、小説を書き続け、多くのファンに愛された。
だが、彼女の一番の理解者であり、
小説の一番のファンは、いつだって――夫だった。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
よろしければ、評価や感想をいただけますと、今後の励みになります。
本作はこれにて完結です。
ですが、番外編として「その後」の物語も執筆予定です。ブックマークはそのままにしていただけると嬉しいです。
少し時間はかかるかもしれませんが、ナタリーが禁断のBL本を執筆する話までは、どうしても書きたいと思っております。
そこに辿り着くまでに、少し時間がかかりそうなので、どうぞ気長にお付き合いください。
さて、お気づきになった方はいらっしゃるでしょうか?
実はこの物語の各話タイトルはすべて、ナタリー・エーベルが恋愛小説コンテストへ応募した際の自作タイトルなのです(笑)
本文と合っているようで、微妙にズレているタイトルもあるかもしれませんが、それはナタリーが創作の中で話を大いに膨らませた結果です。
なお、応募した順番と物語の話数は一致していません。
タイトルの傾向や作風も、応募時期によってかなりブレがあるようですが、本人いわく「全部、自信作」とのことです。
このあと、ナタリーが応募したタイトルと審査講評を活動報告に掲載いたします。
2025年06月20日の『「ゴリラ」完結&ナタリーの小説講評まとめ』というタイトルです。
ご興味のある方は、ぜひ覗いてみてください。
ナタリーの努力の軌跡として、お楽しみいただければ幸いです。
改めまして、本当にありがとうございました。
番外編でもまたお会いできるのを楽しみにしています!
2025/7/7 一部セリフを変更しました。




