第十一話 セリーヌ・エルバート伯爵令嬢視点
青髪の伯爵令嬢、セリーヌ・エルバートの視点です。
柔らかなグレージュの壁紙に、磨き上げられた木製の家具が整然と並ぶ部屋。
装飾は最小限だが、漂う重厚な静けさが、軽々しい言い訳を拒むかのようだった。
ここは学園監察室――学園における規律・秩序の維持を担う内部監察機関の一室である。
応接セットのソファに腰掛け、低いテーブルを挟んで向かい合っているのは、一人の少女と監察官の男だった。
「では、あなたは水をかけていないと?」
「かけておりませんわ」
「ヴァネッサ・ルゼリック侯爵令嬢とミレイユ・デルタ子爵令嬢が計画的に、ナタリー・エーベル男爵令嬢に水をかけた場面を、ご覧になったのですね?」
「……はい。水かけに加担したくないと言ったら、ヴァネッサ様に窓の外を見張るように命じられましたもの」
「……わかりました。セリーヌ・エルバート伯爵令嬢、ご協力感謝いたします」
青い髪をなびかせながら、廊下を歩く。まさか伯爵令嬢である私が、こんなところに呼び出されるとは思ってもみなかった。
ヴァネッサとミレイユは、反省の色がないため十日間の謹慎処分を受けることになるそうだ。どうやら、手元が狂っただけと証言していたらしい。
私は処分こそ免れたが、こんなことに巻き込まれただけで汚点になる。
(あの二人……なんてことをしてくれたの。どれほど愚かなのでしょう)
学園で二人の令嬢と仲良くなった。一人は、ヴァネッサ・ルゼリック侯爵令嬢だ。
もちろん、打算も含めて近づいた。
侯爵令嬢と仲良くなっておいて損はない。この学年には公爵家の令嬢はいない。ゆえに、ヴァネッサがこの学年で最も高位の女性ということになる。
同じように考えていたのか、二年生になってからは、淑女科の上位クラスに所属するミレイユ・デルタ子爵令嬢も私たちに加わった。
その頃から、私たち三人でいることが自然になっていた。
ある日、ミレイユが話題にしたのは、公爵令息グレゴリウス・ウィンターガルドの噂だった。
一年生の終わりごろから社交界で噂になっていた、身分違いの恋人がいるという話だった。
ヴァネッサは、その話にいつになく興味を示した。
ミレイユの前のクラスには寮生がいて、実際にグレゴリウスがその娘を寮まで送り届けるのを見たという。
しかも、わざわざ三頭立ての豪奢な馬車で、堂々と正面玄関までエスコートしたのだとか。二人の様子は、誰が見ても恋人そのもの。まるで恋愛小説の一幕のようだったらしい。
確かに、そうした話題は、他の令嬢たちにとっても十分に刺激的だった。
やがて、淑女科の他の令嬢たちもその話題に加わり、噂は広がっていった。
身分違いの恋人とは、ナタリー・エーベル男爵令嬢であるということ。
彼女は学園でも人目をはばからず、公爵令息と毎日一緒に行動しているという。
さらに、公爵令息以外にも複数の男性と親しくしているという噂もあった。
夜な夜な仮面舞踏会に出入りし、相手をとっかえひっかえしているのだとか。
そんな悪女に騙され、純情な公爵令息は貢ぎ続けている――そう語る者もいた。
いつしかそんな話が事実のように語られるようになった。
だが私は、半信半疑だった。
実際の男爵令嬢を見かけたとき、彼女は化粧もせず、髪もただ下ろしているだけだった。
歩き方や話し方も……雑……品がない……いや、無邪気だった。
少なくとも私には、男性ウケを考えているようには見えなかった。
でも顔立ちは美人で、そういうところも女性たちから反感を買っているのかもしれない。
私も表面上は噂に興じるふりをした。
けれど、すでに婚約者のいる身としては、それほど熱を上げる話題でもなかった。
もっとも、噂話というものは、ただ楽しいからするのではない。
情報を収集し、その力を誇示するため。そして、女性同士の潤滑な関係を保つため。
噂話には、そうした役割がある。
女性が政治の話をするのは小賢しいと思う男性も多い。
だからこそ、彼らの領域を侵さず、私たちは私たちなりのやり方で情報をやり取りする。
そのひとつが、こうした噂話なのだ。
実際、始まったばかりの淑女科の上位クラスで、皆が打ち解けるきっかけになったのも、この話題だったのかもしれない。
てっきり、ヴァネッサもミレイユも、ただ噂をうまく利用しているだけなのだと思っていた。
けれど、それが違うと感じ始めたのは――いつからだっただろう。
ヴァネッサは私たちを連れて、あの男爵令嬢への嫌がらせを始めた。
最初は、遠くから噂話をする程度だった。
そのうち、もう少し近い場所から、聞こえそうな声量で噂し笑うようになった。
そのあたりから、事態が悪い方へ進みそうな予感はしていた。
なぜなら、男爵令嬢には、まるで効いていなかったからだ。
彼女も彼女だ。
少しは空気を読んで、傷ついたふりでもすればいいものを。
そうすれば、ヴァネッサの溜飲も下がったかもしれないのに。
案の定、男爵令嬢の余裕ある態度が、ヴァネッサの癇に障った。
次は放課後に待ち伏せして、水をかけると言い出した。
ミレイユも乗り気で、でも私はやんわりと拒んだ。
すると、男爵令嬢が来たら知らせろと、見張り役を押しつけられた。
しぶしぶ従いながらも、内心では震えていた。
(こんなことをして、本当に大丈夫なのか……)
彼女たちは知らないのだろうか?
現ウィンターガルド公爵の恐ろしさを。
私は、学園に入学する前に両親からこう言い聞かされていた。
「公爵令息には近づくな。関わるな。逆らうな」
その理由も、はっきりと教えられた。
かつて、ウィンターガルド公爵夫人が平民に暴行された事件があった。
その報復として、公爵家は実行犯とその家族、親族、協力者、関係者――すべてを根絶やしにしたという。
さらには、関係があると噂された伯爵家が、夜明け前に屋敷ごと燃やされた。
王は沈黙を守り、誰も、口を開かなかった。
ただ一つ言えるのは――ウィンターガルドの家族に手を出せば、地獄の果てまで追われるということだ。
平民が断罪されるのはまだわかる。
だが、貴族にまで容赦なく手を下すその権力と残虐さに、私は戦慄した。
そんな公爵家の嫡男が寵愛する男爵令嬢に水をかけるという行為が、最悪の結果を招く可能性を、彼女たちは少しも考えなかったのだろうか。
彼女たちが男爵令嬢に水をかけたあとも、その場に留まってしまったことを、私は心底後悔した。
すぐに公爵令息が現れ、顔を見られてしまった。
いやそもそも、ヴァネッサがいじめ始めた時点で離れるべきだった。
私は帰宅するなり、両親にすべてを話した。二人は顔を真っ青にして、烈火のごとく私を叱った。
本当に私自身が手を下していないのか、何度も何度も問い詰められた。
その日のうちに、ウィンターガルド公爵家のタウンハウスに手紙を出した。
事件の経緯と、自分は手を下していないこと。だが二人を止められなかった責任は痛感していること。そして、今後は全面的に公爵家に協力する旨を記した。
私がしたのは噂話と、彼女が来たことを知らせただけ。なんとかなるだろうと両親は言ったが、その顔は最後まで青ざめていた。
私は冷静なつもりだったが、結果的には、危害が及ぶ寸前まで加担していた。その事実に、私は愕然とした。
機会があったら男爵令嬢に謝罪したかったが、その後届いた公爵令息からの手紙には、二度と近づくなと書いてあった。
手紙からにじみ出る怒気に、家族全員が震え上がった。
二人の謹慎処分が明けても、私はヴァネッサとミレイユに一切近づかなかった。顔も向けず、視線さえ交わさなかった。
プライドの高いヴァネッサは授業も受けずに教室を後にした。
その後を追った伯爵令嬢がいたが、しばらくして戻ってきた。
そして――信じがたい事件が起きた。
ヴァネッサが、学園内で男爵令嬢を男たちに襲わせようとしたのだ。
愚かにも、ほどがある。
本当に、関わったことを後悔した。
公爵令息は秘密裏に男爵令嬢に護衛をつけていたらしく、襲撃犯たちはあっけなく捕縛された。
襲撃現場は本館の裏手だったそうで、一年生の数人が目撃していた。
情報は錯綜し、「男爵令嬢が男たちを蹴り倒した」だの、「魔法でなぎ倒した」だの、突飛な噂が飛び交った。
貴族令嬢がそんなことをできるわけない。
やはり、噂話など当てにはならない。
そして私は、王国の犯罪を取り締まる行政機関、王国治安院に呼び出された。事情聴取を受けることになり、生きた心地がしなかった。
最初は、通常通りの聞き取り。
その後は、闇属性の自白魔法をかけられた。
私には魔力があるためか、魔法が効きにくかったようで、緊迫した空気の中、取り調べは続いた。
取り調べの末、ようやく私への疑いは晴れたらしい。
それを聞いたとき、安堵で思わず涙がこぼれた。
帰り道の馬車の中で、私は考え込んでいた。
自白魔法の最中、自分が話した内容を何度も頭の中で反芻していた。
「彼女と話をした後、ヴァネッサもミレイユも、様子がおかしかったんです。言葉をかみ砕くように繰り返したり、根拠のない噂話なのにまるで事実のように信じたり。その時は分かりませんでしたが……今なら分かります。この自白魔法と同じ魔力の感じがしました。きっと彼女は、闇魔法を使っていたんだと思います」
私は、そんなことをぺらぺらと、口にしてしまっていた。
証拠はない。根拠も感じた魔力と違和感だけ。
そんな曖昧なこと、普段の私なら決して言わなかったはずだ。
自白魔法――それは理性すら無力化する、魔法の名を借りた尋問だった。
自白魔法をかけられるのは初めての経験だった。
だが、あの魔力を受けた瞬間、私は奇妙な既視感を覚えていた。
そう――
いつも、公爵令息の噂をしていると、いつの間にか話の輪に加わってきた伯爵令嬢。
モスグリーンの髪に、黄緑の瞳。
控えめで、目立たない令嬢だった。
彼女が話したとき、ほんの少しだけ、感じていた違和感。
言葉に、何かが乗って流れ込んでくるような感覚。
それは、自白魔法の魔力と似ていた。
地味で目立たない彼女が話し始めると、なぜか皆が静まり返り、その声に聞き入っていた。
『ウィンターガルド公爵令息と恋仲のエーベル男爵令嬢は、身持ちが悪くていろんな男を侍らす悪女ですわ』
『夜な夜な仮面舞踏会に出かけては、男漁りをしているとか』
『公爵令息は、騙されているのですわ。お可哀想に』
彼女は、そんな噂を――まるで読み聞かせるように、ゆっくりと語っていた。
ヴァネッサも、一年生の頃はあそこまで愚かではなかった。
そうだ。私はずっと、あの伯爵令嬢に、どこか言い表せない違和感を抱いていたのだ。
治安官に、彼女の名前を尋ねられた。
「……カミラ・グレイン伯爵令嬢です」
そう、私は答えたのだった。
次回は、ひとまずいつものナタリー視点に戻って、日常ラブコメ回です。
ほっと一息つける内容になっていますので、よろしければ一緒に笑ってやってください。
……そのあとは、また嵐の予感です。




