第52話 救世主 後半
体が、沈む。
いくら手足を動かそうとも、まるで何かに引っ張られるかのように秋音は沈み続ける。
必死になって手を伸ばそうとも何もつかみ取る事が出来ず、滲んだ視界の先に見える水面は遠ざかり、暗く冷たい水の底へ落ちていく。
息が、出来ない。
苦しみから逃れるように口を開けるも、肺から空気をあっという間に吐き出してしまい、感じるのは不味い水の味だけだ。
酸欠に陥った頭では何も考えることが出来ずに、徐々に力が抜けていく。
水中を舞う水泡は小さくなっていき、次第に何も残らない。
体の底から冷えるような冷たい感覚が支配するこの空間で、秋音は落ちていく。
意識が、保てない。
抵抗をする力も残っていない秋音は、もはやどちらが上か下かも判断できない。
鈍る思考の片隅で、秋音は自身の死を予感する。
たかが水に落ちた程度で、自分の人生は終わりを迎えてしまう。
そんなことを受け入れてはいけないはずなのに、身体中に酸素が回らず、秋音は無機物のように何も抵抗することが出来なくなってしまう。
――あたし、死んじゃうかも。
ぼやける視界、無音の空間。
この世のものとは思えぬ静けさの中、身も心も凍えてしまいそうな感覚が支配する。
けれど、不思議と秋音はどこかこの感覚に既視感を覚えていた。
撃つ手がなく、希望など存在しない絶望の瞬間。
そんな絶体絶命な瞬間を経験していた。
例えば、自分よりも何倍も大きな男に囲まれ、今にも襲われそうになったあの時。
例えば、知らない人間に連れ去られ、人質として身柄を拘束されたあの時。
それこそ、今回の様に水に沈み溺死しかけたことなど、今思えば今回が初めてではない。
秋音は何度も不幸な目に遭ってきたが、不思議と、今までずっと生きてこられていた。
どうしてだろう、と。
重く閉ざした瞼の裏に、そんな言葉が浮かび上がる。
何度も自分は危機に陥り、その度に窮地脱している。
自分の力ではどうしようもない出来事を、どうして自分は無事に切り抜けられたのだろうと。
――あぁ、そうか。
脳裏によぎったその言葉の解答をかき消すように。
どこからか、大きな音が聞こえた。
自身が橋から落ちた時、いや、それ以上に大きな物が水面を叩きつけるような、すごく、大きな音。
その音が秋音の失いかけていた意識を呼び起こし、重い瞼が微かに開く。
濁る視界の中で微かに見えた物は、それは、それは大きな影だった。
クジラか、あるいはサメか。
まるで深海に住まう生物がこちらに向かって襲い掛かってくるように、とんでもない速度で迫ってくる。
恐怖を感じる余裕もない秋音はその影をぼんやりと眺めていると、
「――――ッ!!!」
誰かが、何かを言った気がした。
水中で霧散する音は声かすら分からないものだったが、秋音にはその声を知っている。
才川裕作。
そう、彼は秋音の危機的状況を何度も救ってきたのだ。
初めて会ったあの日も。
仲良くなり、親友と呼び合う間柄になってからも。
ずっと、彼は秋音のそばにいて、その身を賭して秋音を助けた。
裕作の姿を見た秋音は、助けを求めるように精一杯の力で右腕を出した。
助けて、と。
神様に懇願するように、秋音はその腕を伸ばす。
その気持ちに応えるように、裕作の大きな手が秋音の小さな手を掴み取る。
そして裕作は触れた手のひらを握り込み、離さないようにしっかりと抱き寄せる。
「――ッ!!」
酸欠で今にも気を失いそう秋音は、自分よりも何倍も大きな体に無我夢中でしがみつく。
それを確認した裕作は、焦りを募らせながら急いで浮上するために全力で泳ぎ始める。
必死に水面へ向かおうとする裕作に対し、当の本人は別のことで頭がいっぱいになっていた。
今にも水に溶けて消えてしまいそうな秋音の体と、岩のように固く、火傷しそうなくらい熱い裕作の体。
どんな状況でも、何処からか駆けつけ自分を救おうとしてくれるその行動力と、自分に対して好いてくれるそのまっすぐな気持ち。
昔は彼の事をそれほど意識はしていなかったけれど、最近は意識しない日の方が少ない。
同じ男でも、何もかも違う二人。
朦朧とする意識の中、秋音はその奇妙な感覚を、もう少し味わっていたいと、思ってしまっていた。




