25. 花南と最後のエデン
「本当に流星なんか降ってくるのかしらって思うくらい、暇だねぇ」
クラスメイトの浜松花南が、少し鼻にかかったような声でぼやいた。わたしたちは、教室の窓辺に座り、窓枠にもたれかかって、空を見上げていた。
いつもなら午後の授業が始まっている時刻だが、教室にはわたしたち以外に生徒の姿はほとんどなく開店休業状態。もちろん、先生たちもいない。新学年のはじまりに購入した教科書は、折り目もついておらず、ただ空しく、窓から吹き込む暖かな春風にあおられていた。
学校に着いたわたしは、図書室に向かうつもりだった。しかし、昇降口で花南に呼び止められて、こうして教室で「暇だ、暇だ」とぼやきながら、グラウンドを眺めている。そんなグラウンドでは、運動部が自主トレに励んでいた。もう、大会なんて開催されることはないと分かっていても、がむしゃらに走り続けたいのだろう。そこまでの熱意は、わたしにも花南にもない。
花南は吹奏楽部に所属している。フルート担当で、その才能は音楽の先生も太鼓判を押すくらい、校内でも一番と評判で、ゆくゆくは音楽大学へ進学するつもりだったと言う。
そんな花南と知り合ったのは、ほんの数ヶ月前のこと。それまで、花南とは一度も話したことがない、クラスメイトの一人に過ぎなかった。別に、お互いを嫌っていたわけじゃなくて、クラスメイトでもそのタイミングがなかっただけ。つまり、タイミングさえあれば、いつだってわたしたちは友達になれたのだ。
そのタイミングは、奇しくもわたしが有里香たちと疎遠になってしまった後のことだ。
「北上さんって、そんな暗い顔する人だったっけ?」
と、花南がわたしに言ったのが、最初のきっかけ。初めは、デリカシーのないことを言う人だと思ったけれど、花南は悪気があったわけじゃない。いつも不機嫌そうなわたしとは違い、その誰からも好かれそうな愛らしい瞳には、多少のわたしへの心配も含まれており、なにより、一度も言葉を交わしたことのない相手のことを気遣ってくれる優しさが、花南にはあった。
その時は、「人生にはいろいろあるのよ」と素っ気無く返したのだけど、その会話だけで、わたしたちは何となくつるむようになった。わたしとしては、有里香、数馬という友達を失った寂しさを埋めたかったのかもしれない。
人間関係っていうのは、本当によく分からないものだ。些細なことで壊れるものもあれば、くだらないことで結びつくものもある。きっと、恋愛というのもそういうものなのかもしれない、と思うのだが、それでもわたしには、恋愛の二文字は荷がかち過ぎていた。
それでも、ヒロ先輩に岡崎先輩という恋人がいるにもかかわらず、わたしはまだヒロ先輩のことが好きだ。あの雨の日に、ヒロ先輩が岡崎先輩に見せた、恋人の笑顔をわたしに向けてほしいと思う。それは、たぶん嫉妬なんだと思う。未練がましいことだけど、やっぱりわたしはヒロ先輩が好きなんだ。
そういう行ったり来たりする感情を、花南は心配してくれたのかもしれない。それまで、友達でもなんでもなかった相手だからこそ、気になったのだろう。そういった意味では、わたしの隣で春の陽気と怠惰に過ぎていく時間に、呆けた顔を見せるこの新しい友人には、感謝しなくちゃいけない。
「そう言えば、天文部は部活やらないの? ほら、地球を滅ぼす流星なんて、まさに一大イベントじゃない」
不意に、花南がわたしに尋ねた。地球を滅ぼすなんて、そんな禁句のようなワードを平然と言ってのける花南も、わたしたち家族と同様に、この未曾有の状況に意外と落ち着いている。
「国木田部長は、やる気まんまんだと思うよ。去年の夏休み前からずっと、あの人は流星のことが気になって仕方ないみたいだったから」
「マニアって怖いね……」
「うん。でも、それを部長に言ったら多分、説教されるわよ。あ、でも、部長の説教を受ければ、暇は潰せるかもね」
わたしは、国木田部長の怒り顔を想像しながら言った。そんな部長の顔も、文化祭から以降、一度も見ていない。何度か部長から召集命令はあった。だけど、わたしは顔を出さなかった。理由は簡単だ。天文部の部室へ行けば、今、会いたくない人たちと顔をあわせることになってしまう。有里香に、数馬に、ヒロ先輩と顔をつき合わせて、わたしはどんな表情をすればいいのか分からない。そうして、ぎくしゃくしながら部活動なんてできるほど、わたしは心に余裕のあるような人間じゃない。
わかってる……要するに、わたしは逃げてるんだ。友情からも、恋愛からも、世界の終わりからも。だけど、花南は知らない。わたしがどうして落ち込んだりしているのか、その理由を、わたしは話していない。「人生いろいろ」なんて誤魔化してるわたしは、ひどいヤツだよ。
「そう言う、花南は吹奏楽部に出なくていいの? みんな練習してるんじゃない?」
長閑な春の風に乗って、運動部の掛け声に混じるように、どこかからトランペットやフルートの音が聞こえてくる。
「練習してるのは、ごく一部の部員だけよ。他は、わたしと同じくサボり。まあ、今更練習したって、無駄なだけなんだけどね」
花南は、半分眠そうに、窓の桟に首を据えた。どちらかと言えば諦めのように聞こえる。一見わたしたち家族と同じように、花南も「世界の終わり」に対して、冷静に落ち着いているように見える。だけど、根本として、わたしと花南は違う。音楽が好きで吹奏楽部に入った花南と、恋愛のために天文部に入ったわたしでは、情熱の方向が違うのだ。わたしは目的を見失い、花南は情熱の前に立ちはだかる「世界の終わり」に落胆している。わたしは、心のどこかで「世界なんか終わってしまえ」と思っているのだ。
現に、彼女の鞄の底には、今日もフルートが眠っている。もしも、世界の終わりが来なかったら、いつでもフルートが吹けるようにと願いをかけて……。
「それより、自習しよう」
花南はそう言ってくっつけあった机に向き直ると、ペンを執った。しかし、その後が続かない。お昼のお弁当を食べてからずっと、それを繰り返している。ペンを執って、教科書の一ページ目を開いては、やる気がうせて、窓の外を眺め「暇だ」とぼやく。
今日はきっとこのまま一日中この調子なんだろう。と、思っていると、突然、花南がわたしのほうに、ペン先を向けた。
「前々から、っていうか一年のときからずっと、訊きたかったんだけど……河瀬くんと何かあったの?」
唐突な質問。この際だから訊く、というよりは、暇つぶしのつもりだったのかもしれない。花南のペンはまっすぐわたしの鼻先を捉えていた。ちょうど、ヒステリスト三河先生の使う教鞭のように。
「どうして?」
そんなことを訊くのかと尋ね返すと、花南は少しだけ意味深に笑った。
「だって、一年の秋くらいまで、キミたちってすごく仲良かったじゃん」
花南は、人のことを指して呼ぶとき、いつも「キミ」と言う。
「そりゃ、幼馴染……腐れ縁だもの」
と、わたしが答えると、再び花南は意味深に笑う。
「幼馴染ねぇ……でも、わたしから言わせれば、キミたちは恋人みたいだった」
「はぁ? わたしと、数馬が? そ、そんなわけないじゃん!」
花南の爆弾発言に、わたしは半ばうろたえた。ふと、脳裏にあの日の数馬がよみがえる。真剣な数馬のまなざし。熱を帯び、力強くわたしを引き止める数馬の手。
『俺、有里香ちゃんに言ったんだ。今理沙と付き合ってるから、有里香ちゃんとは付き合えないって……そう言えば、有里香ちゃん諦めてくれると思ったんだ』
『でも、いつかそうなれたらって思ってるのは嘘じゃない。俺は、理沙のことが好きだ』
確かに、わたしと数馬はただの幼馴染というには、仲がいい。それというのも、ずっと一緒に育ってきたからだ。小中学校の入学式も、遠足も、修学旅行も、高校受験も、あらゆる人生のシーンでわたしの隣には数馬がいた。わたしは、ずっと数馬のことを兄か弟のように思っていた。そう、タケルと同じ。だけど、数馬は私のことを、姉や妹のようには思っていなかった。それは、周りから見ても、「恋人」に見えるような、わたしの接し方がまずかったのかもしれない。だから、数馬を勘違いさせた。そして、数馬がついた嘘は、有里香を傷つけ、わたしを戸惑わせた。
わたしが悪いやつなら、数馬も悪いやつなんだ……。
「で、どうなのよ。キミたちの喧嘩の原因は何?」
「喧嘩? そんなのしてないわよ」
「嘘ばっかり。キミたち、あんなに仲良かったのに、ちっとも口利いてないみたいだし。喧嘩したんでしょ? だったら、世界が終わる前に仲直りしなきゃ。キミほうから謝れば、河瀬くんは許してくれると思うよ」
「あのね、花南。わたしたちは喧嘩してないし、そもそもあいつとわたしはただの他人なの!」
これ以上余計な詮索はされたくない。わたしは、少しだけ語気を強めて、花南の口を封じた。だけど、花南は最後に「河瀬くんは他人だと思ってないんじゃないかな」と呟き、再び窓の外をぼんやりと眺める。彼女の視線の先には、ベイカーがあるのだろうか。
わたしは、花南の言いたいことがよく分からないまま、花南が机の上に放り出したペンを拾い上げた。そして、ノートの隅に小さく落書きをする。昔、数馬がわたしにくれた、誕生日カードの隅に描かれていた、猫がサンタクロースの衣装を纏ったような、なんだかよく分からないキャラクター。きっと、数馬は十二月生まれのわたしに合わせて、そんなキャラクターの書かれたカードを選んだのだろう。
あのころから、数馬はわたしのことが好きだったんだろうか……。
うろ覚えのキャラクターをノートの隅に書き終えると、わたしも花南に倣って、窓の外を見る。数馬は、世界が終わることをどう思っているんだろうか……。
それからまもなく経ってのことだった。ひとつの噂が日本中を駆け巡った。総理が約束していた「五月末」を迎えても、日本政府がメテオストライクへの対処をまとめられないことに、業を煮やしたのか、ネットはその話題で沸騰した。
世界にはいくつか、被害を受けないところがある。たとえば、世界一の標高を誇る山岳地帯、エベレストの頂上とか、ヨーロッパに横たわる名峰アルプス山脈とか、広大な大地を有する中国の内陸とか。まことしやかに、さもそれば権威ある研究者が調べ上げた結果であるかのように、伝えられた。
そんな、メテオストライクの被害を受けない場所の候補地のひとつが、比較的海から距離があり、長野県の山中だった。周囲を険しい山岳に囲まれているここなら、山々が盾となって、津波や衝撃波から守ってくれると言うのだ。もちろん、それには科学的な根拠も、被害への危険予測の確証もない。
わたしの父いわく、月ほどの大きさがある流星が、時速一万四千四百キロで、地球に衝突した際の膨大なエネルギーによって生まれる津波も、衝撃波の威力も、地震の振動も、ケタ違いに大きい。だから、決して高いところに行けば助かるとか、内陸部にいれば助かるとか、まして、標高千メートルくらいが関の山の山岳では、防ぎきれるものではないらしい。そもそも、それで助かったとしても、世界を待ち受けているのは、文明の崩壊と核の冬によって気候変動した、超氷河期だ。まず、その絶望的な環境を人間は生き延びることができないことは明白だった。
だけど、絶望的であればあるほど、人は希望を求めたがるもので、噂規模だったネットから躍進し、信頼あるメディアやマスコミが「長野は最後のエデン」などと報じれば、すぐさま人々は長野県に押し寄せた。今や、長野県の人口密度は、世界一だろう。
連日のように、テレビはその模様を伝える。甲州街道は、一般道路も高速道路も、鉄道も飛行機も大渋滞。あらゆるインフラが暴発寸前である様子を何度も伝えた。その段階になっても、日本政府はおろか、世界は危機に対して対処ができない。呆然と静観するほかないのだ。
「どうか、国民の皆様には、冷静な行動をしていただきたい」
と、総理も官房長官も、苦言というよりは、まるで他人人事のような一言しか言わないのだ。そうなれば、ますます国民の不安は募っていく。世界の終わりがもう目前まで迫っているという恐怖は、人々に混乱を生み、冷静さなんて言葉はなくなってしまうのも無理はないことだった。
日がたつにつれ、近所の人たちも、一人また一人と長野へと旅立っていく。このままじゃ、街から人っ子一人いなくなるのも時間の問題のように思えた。
そんなある日、弟が言った。
「ウチは、長野へは逃げないの?」
「逃げて、どうするのよ。逃げ場なんてないことくらい分かってるでしょ。それに、今頃どこも人でいっぱいよ。わたしもお父さんも人ごみがきらいなの」
とは母の言。肝が据わっているというか、覚悟がよろしいというか。
そんなわたしの家族は、いつもどおりに毎日を過ごしている。近隣の商店はコンビニでさえ閉店したけれど、別にこの世から食べ物がなくなったわけではない。電力会社や水道局は「生活基盤を司る公務」という自負のもとで、最後まで電気や水を送り続けるだろう。だから、生活が苦しい環境になっても、生きていけなくなるほどではなかった。
「あんたたちが、長野に逃げたいって言うなら、止めはしないわよ。どうなの? 理沙、タケル」
母はわたしたちに尋ねた。わたしと弟はそろって、首を横に振る。わたしも人ごみは苦手だし、確証もない噂を信じるより、せめて、奇跡でも起こらないかと願ってみるほうが、いくらかマシだと思う。
たぶん、わたしたち家族はこの国で一番変な一家なのかもしれない……。
やがて、学校に来る人の数も激減した。毎日、グラウンドで練習に励んでいた運動部の子たちも、不ぞろいな金管楽器の音を奏でていた吹奏楽部の子たちも、みんな学校から姿を消した。あのヒステリスト三河先生も、家族を連れて長野へと避難したらしい。もっとも、あのリアリズムの塊みたいな先生のことだから、流布する噂を鵜呑みにしたりなんかしていないと思う。それでも、先生には幼い息子と娘がいて、子どもたちのことを思えば、例え信じられないことでもすがりたくなったのだろう。もっとも、それはわたしの勝手な推測だ。
そして、花南も……。
「本当は、行きたくないんだよね。どうせどこにいたって、変わらないことくらい分かってる。むしろ、みんな死んでしまって、わたしだけ生き残るっていうのは、気分が悪いよ。でも、パパもママも、わたしに死んでほしくないんだって、泣きながら言うのよ。そう言われちゃったらさ、娘としては嫌だなんて言えないよ」
花南は笑って言ったけれど、心のどこかで寂しげにうつむいているようにも見えた。わたしは、そんな花南にかける言葉がなかった。せめて、花南の一家が長野へ出発するまで、わたしは花南の前だけでも、笑顔でいようと思った。
そして、三日後。花南も「最後のエデン」へと旅立ち、学校へ来なくなった。わたしはひとりぼっちで、教室にたたずむ。もう、何ヶ月も使われていない黒板は色あせて見える。生徒の机の上は、ホコリが積もり、まるで廃校のようだ。
本当に、世界が終わるんだ……。
誰もいない教室の隅で、たった一人で席に腰掛けて、ぼんやりして、窓の外を見上げていると、ようやくわたしにも、「世界の終わり」という実感がわいてきた。あれほど賑やかに、未来に何の不安も感じないで過ごしていた青春を刻む音も、色も、空気も、すべてが学校から消えうせた。残された、耳に痛いほどの静けさが、やけに寂しく感じる。
不意に机の上に投げ出した携帯電話が鳴る。
『わたし、最後に理沙と友達になれて、ホントによかったと思ってるよ。離れ離れになっても、ずっと、キミとは友達だからね! いつかまた、会おうね!』
花南からのメールだ。胸が思わず熱くなる。花南のメールは、今生の別れを伝えているはずなのに、どこか明るさに満ちていた。まるで、自分の不安を打ち消すためなのか、それともわたしを気遣ってのことなのか。だけど「いつかまた」なんて、もう絶対にありえない。流星がこの大地を穿てば、その瞬間にわたしたちの未来は永遠に来ることがない。世界の終わり、それは即ち、わたしたちが死ぬということだ。花南のめーるは、わたしにその事実を突きつけた。
『わたしも、花南と友達になれて楽しかった。いつかまた、絶対に会おう』
文字を打つ手が震える。死ぬ覚悟なんて出来ているわけがない。怖くて、怖くて仕方がない……。もう二度と、花南にも、誰にも会えないのかと思うと、それはあまりにも孤独で、辛いことだと、ようやくわたしは分かったのだ。
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