閑話14 ある貴族の平穏
「彼には、謝らなければいけないな」
私のもとへ伸ばされた、嫋やかな君の手を取る。
この権利を得るために私が払った代償など、手に入れた物の大きさを考えれば、本当に取るに足らないものだ。
「ふふっ、急に深妙な顔をなさるから、何を仰るのかと思いましたわ」
「恥ずかしいことさ。今になって、やっと彼の気持ちがわかったんだ」
「わたくしには、まだ分かりかねますわ」
私の手を優しく握り返す、君の掌の心地よい温度を感じた。
なんて愛おしい。この温もりも、流れる時間も、君が紡ぐ言の葉の一枚だって取りこぼしたくはない。全てすくって大切な箱の中に入れて、固く鍵をかけなければ。
私は、私を見る君を見上げた。
今日はベールを被っているのか。見覚えのある布地だ。美しい君の顔を遮り、私の前から隠すとは、無粋極まりない。
側近達め、余計なことをしてくれたなという忌々しい思いが、じわりと胸に広がった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、君は私を覗き込む。顔にかかったベールが、目の前でふわりと揺れた。
私はわざと口の右端だけを上げる。
「ふむ、ザラーセット産の布を使っているのか、君の髪色とも相性がいい。なかなか、いい趣味をしている。これを贈ったものの顔が見てみたいものだな」
「うふふっ。ご自分のお顔を、お忘れですか?」
「まさかベールに仕立てるとはな。あいつのやり口は、いつもこうだ」
「本当ですわね。憎らしい側近の、主の顔を拝見したいものですわ」
「どうやら、私にもベールが必要なようだな。もしくはまた、自分の顔を忘れなければならないようだ」
「ベルセを責めないでくださいませ。貴方のことを慮ってのことですわ」
「分かっている。これで、私をやり込められると思っているのだろう。あぁ、完敗だ。この刺繍に使われている藍色の糸など、君の気品を引き立てるために生まれてきたのだろう」
握っていた手の片方を優しく解き、その右手をベールに当て、刺繍部分をなぞりながらクスクスと君が笑う。
シャラリと、君の頭の傾きに合わせて、首元の守りのアクセサリーが音を立てた。
人生とは、なんと美しい。
君と共に枝葉を広げることのできた幸せを、私は深く噛み締めた。
歩んできた道、目の前で笑う君、君と共に作り上げてきたもの、君と共に作ることのできなかったもの。君と出会えてから感じたこと全てが愛おしい。
願わくば、君も私と同じ想いを、感じてくれているならば。
ふと、最近新たにやってきた蕾のことを思い出した。
「あぁ、シャトネット。僕たちの小さな恵みは」
「心配なさらないで、私たちの蕾はイリスフォーシアの光とともに」
「君はそうやって、いつも一人で抱え込む」
「一人じゃありませんわ。貴方が残してくれる、ベルセがいますもの」
「たしかにあいつは有能だ。ボクと君にとってはね」
「お厚い信頼で羨ましいこと」
「あぁ、君の関心をかうものがいるとは、妬ましく耐えがたいよ。まさかあいつに羨望を抱く日がくるとはな。どうやら私はもう、エーダフィオンの蔓に掴まれているようだ」
「 ……。わたくしの隣は、いつだって、貴方だけのものですわ」
か細く切なさを押し込めた声が、ベール越しに響く。
「分かってるさ。ねぇ、顔を見せてはくれないか?」
「でも、それは」
「お願いだ、私の愛しいシャトネット」
少しの沈黙の後、私を覗き込んでいた君がゆっくりと動く。ベールを撫でていた右手を離し、再び両の掌で私の手を包み込んだ。
そのまま僅かに上がっていた私の手をベッドに戻す。今度は両手を解き、私から離れたその手で被っていたベールを外した。君の顔が私を見つめる。
しかし、現実は残酷だ。せっかく君を遮るものがなくなったというのに、機能しなくなった私の瞳は、美しい君の姿を映すことができなかった。
霞がかり、ぼやけて見える輪郭を想像で補いながら君を見つめる。夕焼け色の髪色だけは、かろうじて認識することができた。
「ご無理を、なさらないでくださいませ」
「君を見るためならば、フォーティアーノの中さえも、飛び込む価値があるよ」
「テーレオ、わたくしは」
「約束を果たせなかった私を、君は許してくれるかい?」
私達が作り上げたものを守ろうと、一人奮闘する、君の幻が見えた。
本来であれば、私が受けるべきものにも関わらず、その小さな背中で君は、私がいなくとも、大きな風や嵐を受け止め続けるのだろう。
一人風に揺れる、君の小さな背中に許しを乞う。そんな君を残していかなければならない私を、どうか許してほしい。
もう君に、ポメラを捧げることのできない私を許してほしい。
口を開くことすら出来なくなった私の上に、震える君の声が落ちてくる。
「テーレ…… 」
あぁ、君の感情が、波のように伝わってくるよ。私の死期を感じて、悲しんでくれているんだね。
昂った感情で制御を外れた君の僅かな魔力でさえ、今の弱った私には受け止め切ることができない。
再びベールを被り、私にあたる魔力を抑えようとした君を、親指をピクリと動かし結んだ君の手に伝えることで制した。
君に見つめられながら、エーダフィオンの廻りに戻る贅沢を、どうか許してほしい。
とても静かだ。私の耳は、ついにその役目を放棄したようだ。
繋ぐ手からも、もう君の温もりを感じることはできない。瞳は色を映すことすら諦め、視界に映る灰色が、ゆっくりとその濃度を高めていく。目蓋が降りようとするのを、残った力で必死で抵抗した。
あぁ、今ならば、彼の気持ちがよく分かるよ。厭わしいなどと思ってしまったことを、謝らなければならない。
どんなにその腕を伸ばそうとも、イリスフォーシアには届かないと、彼も分かっているんだ。分かっていても、なおも求め続ける。
その距離を近づけたいがためだけに、闇を引き連れ毎夜やってくる。
巡りに戻る私は、もう君を守ることができない。
彼のように腕を伸ばし、その細い背中ごと君を包み込みたいとどれほど願っても、叶うことはない。
サワサワと、エーダフィオンの伸ばした蔓が、私の足元までやってきた。
君の周りに、鮮やかなポメラが花開いていく。エーダフィオンが私に最後の夢を見せてくれているのだろう。
ポメラの園に佇む君が見えた。懐かしい。これは、いつかの薬草園で見た光景だ。
君を一人、残していくことなどできない。しかし、抗わなければならないその蔓の誘いを、私は喜んで受け入れてしまう。
艶やかな髪色と同じ夕陽に照らされた君が、私の隣を選んでくれたあの素晴らしい日の光景を、誰が拒むことができるのだろうか。
蔓が私の体を包んでいく。
僅かな隙間から、最後の瞬間までと見つめ続けていた君のぼやけた輪郭が、一瞬色と輪郭を取り戻し、はっきりと認識できた。
君の宝石のような瞳、そしてその瞳に映る己の金色の瞳と目があう。手放しかけた自我が、洪水のように舞い戻った。
これはディミゴルセオスの計らいか、ピラフィティーリの悪戯なのか。まさか、敬虔な私からの懺悔を受け入れた、セリノーフォスの慈悲ということはないだろう。
私はエーダフィオンが伸ばした蔓に巻き取られる前に、最後の抵抗を見せた。
僅かに残った魔力の欠片全てを集め、無理やり自分から引き剥がす。
小さな光が抜けていくのが分かった。
その光に全ての望みを託す。愛おしい君を守るために。そうだ、私の全ては君の為に。
彼女を守る盾を残すことができた私は、腕を広げ口の右端だけをあげながら、その身をエーダフィオンに差し出したのだった。
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