戦闘の終わり
「ミアがお寝坊さんだから、僕、待ちくたびれちゃった。だから、ちょっとだけ多めにもらっても、いいよね?」
耳元で、黒猫の言葉が響く。驚いて振り向くも、そこにはなにもいなかった。顔を前に戻すと、目の前に浮かんでいた光も消えている。
「黒猫ちゃん、どこ――」
どこに行っちゃったの?と、言い終わる前に、大木に手を触れてから、絶えず細く吸い取られ続けていた私の中の何かが、細いパイプに無理やり大量の水を押し込むように、急激に吸い取られていくのを感じた。緩く開けていた蛇口を、いきなり限界まで捻られたようだ。
今までの比ではない量が、ごそっと一気に奪われる。
くらりと、貧血のようなような目眩を感じた。目が回る、気持ちが悪い。立っていられなくなった私は、ガクリと崩れ落ち地面に手をついた。
「うっ…… あっ、手が!」
ピタリと大木に張り付き、どう足掻いても剥がれなかった手がやっと離れた。根元から金色の光が立ち上っていた大木からは光が消え、他の木々と変わらない姿になっている。
杖結びは失われた。私は直感的にそのことを理解する。
これでロンルカストは、大木を守る必要がなくなったはずだ。無理して魔力を伸ばさなくたっていい。杖なんかより、命の方が大切に決まっている。今すぐ、この危険な場所から逃げなきゃ!
力の入らない足を無理やり立たせてる。せり上がってきた胃液を、ぐっと飲み込んで押し込めた。嫌な匂いと、酸っぱい痛みが口の中に広がった。
ロンルカストの元へ走り出す。すぐに石につまずいた。よろめき地面に手をつきながら、ロンルカストのそばに駆け寄る。
「ロンルカスト!」
振り向いたロンルカストは、口からポタポタと血を流し続けていた。地面には血溜まりができている。
近づいてくる私を見て目を見開く。グイと肩で乱暴に口元を拭った。
膝をつきながらも、右腕は杖を前に構え続けている。だが、杖の先から出る光は弱々しく、途切れそうなほど細い。
障壁全体へ広がっていたヒビの一部が、パキンと音を立てた。掌ほどの大きさの一部が、ボロリと崩れ、私とロンルカストの間に落ちた。
それを皮切りに、唯一の柱を失い崩れる荒屋のように、バラバラと私たちを守る半球状の障壁が崩壊していく。
障壁のヒビに尾を鋭く突き刺し、アルトレックスから受けた斬撃の衝撃さえも利用して亀裂を押し広げていた魔が、ついにロンルカストの守りを突き破ったのだ。
障害物を壊した魔が、自身の足元の支えを失い、私達の頭上から落ちてくる。
巨大な長い腹が、体節をうねらせながら近づいてくる姿が、スローモーションのように見えた。殆どをアルトレックスに削ぎ落とされ、僅かに残った腕達が、胴体からまばらに生えうぞうぞと蠢いている。
逃げなきゃ! 破壊された障壁のかけらが、辺りに降り注ぐ。
さっきまでは障壁によって中まで届かなかったアルトレックスの斬撃の余波と、頭上から落ちてくる魔の巨体が生み出す風圧が、押し寄せてきた。思うように動けない。
押しつぶされそうな風の抵抗の中、なんとかロンルカストの元へとたどり着いた。膝をつくロンルカストの背中に抱きつく。ロンルカストは、素早く態勢を入れ替えると、私を守るように覆い被さった。
ロンルカストの肩越しから、目前まで迫った魔の赤黒い体節の細部と、その隙間から覗く皮筋が収縮する様がはっきりと見えた。
押し潰される! そう思った瞬間、目の前に迫っていた魔は、見えない何かにぶつかったかのように大きく吹き飛ばされ、宙へと跳ね返された。視界を覆い尽くしていた魔の体躯が、一瞬で消え、夜空へ高く高く飛ばされていく。
「遅くなっちゃった、ごめんね。でも間に合ったみたいだね?」
耳元で黒猫の声が響いた。
障壁のひび割れがみるみるうちに修復されていく。キンッと甲高い音が聞こえ、透明な一枚のガラスになった。その障壁を囲むように、新たな障壁が何重にも重ねられ、分厚い壁となる。
「なんだ、これは!?」
障壁の外から、アルトレックスが困惑して叫ぶ声が聞こえた。
跳ね飛ばされた後、重力に抗うことなく落ちてきた魔が、新たな障壁にガツンとぶつかる。
新しく作られた障壁は、魔の激突を受けても全く揺らぐことがなかった。強度が格段に上がっている。
数多の斬撃を受けた魔の胴体は、至るところが剥がれ落ち、ドロドロと体液を垂れ流していた。ぶつかった衝撃で飛び散った体液が、できたばかりの障壁を赤黒く汚す。
ギロリとアルトレックスを睨む体液と同じ色の瞳から、闘志が失われることはなかった。このまま逃げてくれる気配もない。
今ならば、いける! アルトレックスの攻撃に耐え、魔に致命傷を与えることができると、なぜか分かった。
「アルトレックス様! 最大火力の攻撃を!」
「なに!? だが、しかし…… いや、分かった!」
自身に迫りくる魔を前にして、アルトレックスがぐっと握り締めた炎の大剣が、滑るように宙を切り裂く。魔の頭部が、あっさりと胴体から離れ、斬撃の衝撃で、大きく体制をくずした。
頭を失ってもなお、アルトレックスに向かって突進する胴体を、本来であれば届かないはずの距離から、纏った炎を操り何倍にも広げ、刀身の面積と長さを広げた大剣が縦に切り裂く。
真っ二つになった体躯は、左右に分かれ、大きな衝突音をたてながら障壁に崩れ落ちた。上を向いた切断面から、大量の細い腕と赤黒いドロドロが噴水のように溢れだす。
切り裂かれた胴体から溢れ出した腕達は、うぞうぞと這い回り、しばらくすると障壁の上で力尽きるように動きを止めた。アルトレックスは、鈍い速度で逃げようとする頭部に、大剣を突き刺しとどめを指している。
終わった……。 庇うように私を覆うロンルカストごしに戦闘を見上げてきた私は、小さく呟く。
先ほどまでとは違い、どこか遠い場所で起こっている出来事のように思えた。
頭がふわふわしている。ロンルカストが私の背中に回した腕がきつく、少し痛い。障壁の上で、もう動かない魔の頭部を切り刻み始めたアルトレックスにも、大きな怪我はないようだ。
良かった。皆んな無事だ。誰も、死んでない。良かった、本当に良かった。プツンと、緊張の糸が切れる。グラグラと視界が大きく揺れた。
頭の中にブワッと広がり、思考を覆い尽くそうとする闇に抵抗することなく、私はかろうじて繋ぎ止めていた意識を手放した。
体から力が抜け、意識が深く暗い穴の中へゆっくりと落ちていく。
「あいつ、また、穴を開けっぱなしにしていったのか」
意識が途切れる間際、憎らしげな黒猫の声が耳元で聞こえた気がした。




