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底無しの沼



 杖や貴族の勤め、というロンルカストの言葉により、私が決定的に薬屋のみんなや常連さん達と違う立場にいるという事実を、鼻先に突きつけられた。


 いくら貴族として生きる覚悟を決めて白門を超えたとはいえ、その覚悟は数日前に強制的に作らざるを得なかっただけの、付け焼き刃だ。

 平民から貴族への急激な変化に、私の心は全く追いついていない。


 私は数ヶ月前、突然この世界に落とされた。

 そこから、訳もわからず一から必死で作り上げてきた私の精神的支柱は、平民街に置き去りになったままだ。


 それなのに今の状況は、あなただけはこっち側ね、と私を支えてくれた皆んなとの間に大きな一線を引かれ、自分だけが違う方の陣地に取り残されてしまっている。

 生きることに必死なフリをして、わざと目を背けてきた、私の存在が不安定にぐらつく。

 クラリと目眩がした。たまらず目を瞑る。真っ暗闇に、心まで侵されていく。



 ……私、何でここにいるんだろう。

 どうして、ここにいなきゃ、いけないの? 何のために? 

 貴族になる意味なんて、何にもないのに。


 ありあわせのガラクタ達を無理やりくっつけて出来たような、脆弱な私自身の核が、揺れる。


 ……要らないんじゃない?

 だって、もともといなかったんだもん。

 私、この世界にいなくたって、いいんじゃない?


 それを壊すのに、もはやハンマーなど大層なものは要らなかった。軽く指先で弾いただけで、簡単にバラバラになってしまうだろう。

 

 暗闇のまぶたの奥に、明るく陽が差す場所が見えた。皆んながいる平民街だ。線を引かれたこちら側に届く光はない。

 一人、闇の中に取り残された私は、みんなのいる方へ行きたいと駆け出すも、踏み出した足は、足元の泥に絡まれ、呆気なく転んだ。



「わっ! なにこれ!? やだっ!」



 慌てて立ち上がろうとするが、粘度の高い泥は私の足と泥の中へ沈んだ右半身を離さない。

 もがけばもがくほど、体はズブズブと真っ黒な底無しの沼の中へと引き込まれていった。



「 ……ハッハッハッ! 全くお前はー…… 」


「 ……そりゃないっすよー、兄貴ー…… 」



 常連さん達と先輩達が、楽しそうに話をしている。

 ハッハッハ!と、声を上げるパルクスさんとアトバスさんに、サルト先輩が笑いながら頷いた。

 

 隣で在庫をチェックしていたミグライン店長が、何かに気づいたように私とは逆方向の、強く陽が差す彼方を指差した。

 指し示された方向を見て、コクリと頷いたロランさんは、笑顔の店長と共に、揃って向こうへと歩き出す。



「 ……ふふふっ、 そういえば、この前ギルド長がねー」



 ロランさんのオレンジ色の長髪が、ふわふわと風に揺れる。

 先輩達や常連さんも、2人に続いて私に背を向けた。

 遠ざかっていく皆んなの背中に向かって、泥に沈んで動けない私は、声を振り絞り必死で叫ぶ。



「ま、待って! みんな待って! 私を、置いていかないで!」



 楽しそうに笑い合いながら歩く皆んなは、私の声に気づく様子はない。

 もう一度声をあげようとすると、顎先まで沼に沈みこんだ私の口の中へ、待ってましたと言わんばかりに勢いよく泥がなだれ込んだ。



「みんな待って! あっ……うぐぅっ! うぅっ……んっ、んん――」



 泥は私の口から喉を通り、あっという間に胃を埋め尽くした。

 血管に入り込み、全身を駆け巡る。

 泥で埋め尽くされた私の体は、もうピクリとも動かすことが出来なかった。



 ドクンッ……ドクンッ……ドクンッ……

 自分の心臓の音だけがやけに大きく響く中、何の抵抗もできない私は、ゆっくりと沼に沈んでいく自分の鼻先を見つめた。


 沼に沈んだ皮膚から、冷たい泥が体中に染み込んでいく。

 染み込んだ泥は、私の細胞一つ一つを占拠すると、ぐずぐずの灰に変えていった。


 次第に温度を奪われ、感覚の無くなっていく自分の体に、なす術をなくした私はどうすることもできない。

 豆粒ほどに小さくなったみんなの背中を、灰色の涙で滲む視界の端で見つめた。


 やがて頭の先まで沼に沈み込む。

 視界も聴覚も、何もかもが奪われた。


 もう、なにも考えたくないや。

 このまま、なんにも……



 そう、思考を手放しそうになった時、何かがそっと私の右手に触れる。

 その暖かいものは、遠慮がちに私の右手に触れては離れ、また触れては離れた。



 あ、暖かい……

 何度か同じことが繰り返されて、徐々に右手の自分の体温が感じられるようになる。同時にハッと、意識が戻った。



「んんっ!? はぁっ はぁっ ……あれ?」



 冷たい底無し沼から、昼食を取っていた部屋へと意識を戻した私は、混乱した頭のまま、まだ暖かさを感じる右手に目を向ける。

 そこには、ツンツンと私の右手をつつくティーポットがいた。

 目が合うと、「もう一杯どう?」とでもいいたげに、小さく左右に揺れる。

 


「あ、ありがとう。えーっと、じゃぁ、もう一杯だけ、もらおうかな?」



 私の言葉を聞いたティーポットは嬉しそうに頷くと、フワリと浮き上がって、カップに二杯目の紅茶を注いだ。

 役目を終えコンッコンッと、元の位置に戻るティーポットを見送りながら紅茶を口に含む。



「 ……美味しい 」



 暖かい紅茶に、全身の強張りが解けていく。

 ふぅーっと長い息を吐き、気持ちを落ち着かせた。

 そして、私を深淵からこの部屋へ連れ戻してくれたティーポットに「ありがとう」と、心の中でお礼を言い、顔を正面に戻す。

 こちらを見つめるロンルカストと目があった。



「 ……ロンルカスト?」


「 ……ミアーレア様。全てを照らそうとするイリスフォーシアさえも、未だにスコダーティオの影を捕まえることができません。光の行き届かぬ場所がございましたら、お一人ではなく、どうか私も連れて行ってくださいませ」


「あ、ロンルカスト…… 」



 ロンルカストは優しい口調で、ゆっくりと諭すように話す。


「1人で悩みを抱え込まず、辛い時は思いを打ち明けてください」そう、言われたように感じた。

 私を刺激しないように、直接的な言葉ではなく、わざと遠回しな貴族の言い回しを使ってくれたんだ。



「 …………。 」



 どこまでも優しいロンルカストの気遣いに、私はなんと答えていいのか分からない。

 前みたいに泣きついて、弱音を吐き慰めてもらいたいが、私自身、今の自分の気持ちに整理がついていなかった。

 消化しきれない思いだけが、胸の中でグルグルと回る。

 私の言葉を待つロンルカストと、うまく言葉が出てこない私、部屋には無言の時間が流れた。


 そんな私たちの気まずい沈黙を破る声は、唐突に開かれた、調理場の扉の奥からやってきた。

 


「ミアーレア様! その、ミアーレア様は、どの茶葉がお口に合いますでしょうか!? 一度、お伺いしたいと思っていたのですっ!」



 静寂を破り、パーンと開かれた扉の方に目をむける。

 沢山のティーポットを引き連れた、セルーニが扉の前に立っていた。


 ティーポット達は踊るように、セルーニの周りをクルクルと回っていたが、セルーニが杖を振ると一斉にこちらを向き、我先にと私が持つティーカップを目掛けて飛んでくる。

 

 あっという間にティーポットまみれになった私がポカンとしていると、まだカップに中身が残っていると気がついたティーポット達は、早く飲み切れと私をつついてきた。



「わっ! ふふふっ、くすぐったい! こんなに沢山、飲めないですよ、セルーニ」


「も、申し訳ございません! 少々、張り切り過ぎてしまいました!」


「少々ですか? ふふふっ、可愛い。まるで、子犬みたいですね? 皆んな、ちょっとずつ注いで下さいませ」

 


 わちゃわちゃとポット達と戯れながら、「んー、これはちょっと渋いかな? こっちは、少し酸っぱい?」と、飲み比べていると、笑顔のロンルカストが近づいてきた。



「お元気になられたようで、何よりでございます。折角ですので、このまま茶葉のお勉強を致しましょう」


「え? 午後は、ポメラを摘みに行くのでは……?」


「茶葉の種類を正しく理解することは、社交において必要になる知識です」


「 …………。」



 「もうお勉強は嫌です」という私の無言の訴えは、「折角、セルーニが淹れてくれたのですから」というロンルカストの流し目により、あっさりと却下された。


 ペット達との楽しい心の癒しタイムは、そのまま精霊並に長くややこしい、茶葉の名前と産地を覚える小難しいお勉強タイムへと移行したのだった。



 底無し沼に沈んだミアの精神を助けてくれた白馬の王子様は、ティーポットでした。


 ・・・え? 50話を超えてなお、恋愛フラグが出てこないって!? なんだって? そんなこと、あるわけないじゃないですかぁ、全く、、 あれ?



お読みいただきありがとうございます。

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